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白石一文『ほかならぬ人へ』(祥伝社)
作品についてあらすじ  

あらすじ
 主人公宇都木明生(うつぎあきお)は、いわゆる名家の出である。彼の曾祖父宇都木正一郎は長州藩の出身で、東京に出て明治政府の重鎮の一人山田顕義の一族に連なる女性を妻にめとり、一代で巨財をなす大実業家となった人物であった。
 正一郎の興した宇都木財閥も戦後の財閥解体で分割を余儀なくされたが、彼が創業した製薬事業だけは宇都木本家が支配権を保ち、それが現在の宇都木製薬グループとなっている。その宇都木製薬の社長には、明生の父光生の兄、つまり明生の伯父にあたる輝生が就いている。
 宇都木家には、「惣領が家督のすべてを受け継ぐ」という絶対の家訓があり、次男である明生の父光生も、家業とは一切関わりをもたず、学問の道に進み、計量経済学を研究し、現在は大学教授となっている。もちろん、光生も宇都木グループの大株主の一人ではある。
 明生の実家は元麻布の高級住宅街の一角にあり、三百坪の敷地にひときわ目立つ三階建ての洋館が建っていて明生もそこで育った。明生は三兄弟の末っ子で、二人の兄とは歳もだいぶ離れていた。長兄の宣夫とは八つ、次兄の靖生とは六つ離れていて、長兄は東大の医科学研究所で基礎医学を、次兄は、京都の先端科学研究センターで分子生物工学をやっていた。
 二人の兄は、成績優秀で二人とも難関進学校に進み、それぞれ研究者としての道を歩んでいたが、そのなかで、明生だけは、勉強が得意ではなかった。彼がまがりなりにも、附属中・高から日大へと進むことができたのは、日本大学の前進である日本法律学校の創設者が曾祖母の縁戚であるという遠いつながりのおかげであった。元麻布で過ごした二十一年は明生にとっては、劣等感と悔しさ、無念さと不甲斐なさをつのらせるばかりの、まさに暗黒の時代でしかなかった。
 大学を卒業し、就職と同時に明生は、実家を出た。就職した会社はスポンツ用品メーカーのYAMATOだ。就職してから三年目に彼はキャバクラで働いているなずなと知り合い、結婚を決めた。明生の両親はなずなとの結婚には反対であった。
 特に母の藤子は神田にある大病院の創業者の娘でもあり、そうした宇津木家の家柄からみても、なずなは明生の嫁に相応しくないと考えていたうえ、そもそも藤子は、山内渚という娘こそ明生の許嫁だとずっと考えてきたのである。
 その山内渚は、明生の三つ年下で、彼女の母親山内久子は銀座の文具・輸入書籍の老舗山内泰西堂のオーナーであり、明生の母藤子とは学習院初等科時代からの親友であった。その母親同士の間で、ゆくゆくは明生が渚の婿となって山内家に入り、山内泰西堂を継ぐというのが当然の了解事項となっていた。
 明生も、この渚とは子供の頃から親しくしていたし、彼女のことは嫌いではなかったが、明生が大学二年、渚が高校二年の時に、渚から実は次兄の靖生のことがずっと好きだったと告白されたのだ。
 靖生はおそらく女性に興味のない男だった。ゲイなのかどうかは分からないが、彼にはいまだかつて恋人がいた形跡はない。そのことを明生は渚にも伝えたが、その後の彼女の気持にも変化は見られず、相変わらず次兄への思いをつのらせているようであった。
 なずなは池袋のキャバクラで働いていた。仕事の接待でよくキャバクラを使うことがあった。馴染みのキャバクラで最近入ったミキティそっくりの超美形がいると紹介されたのがなずなだった。「ブクロのミキティ」と呼ばれたその子をひと目見て明生も気に入った。そして、なずなも、明生をひと目見て、あ、この人は浮気しない人だ、「あっ、見っけ」とピンときた、と言う。
 こうして、二人は出会って一月半で結婚を決めた。明生の両親の了解は得られず、宇津木の親族抜きで二人は小さな披露宴をあげた。
 まさか、そんななずなが、結婚から二年足らずで自分を裏切るなんて明生には思いもしないことだった。

 明生は、YAMATOでスポーツシューズを担当していたが、そのシューズ部門の営業課長がまだ三十三歳のやり手の東海倫子(とうかいみちこ)で、明生の信頼する上司でもあり、相談相手でもあった。明生は、彼女を東海さん、と呼んでいるが、その東海さんの気風のよさ、果断さ、積極性、そして営業テクニックなど明生にとってはどれもみな学ぶべきものに思われ、彼女と一緒に仕事をすることで明生は営業の仕事にさらに一層の面白みを感ずるようになっていた。
 その東海さんの唯一の玉にキズが本人がよく口にする「ブス」「ブサイク」だった。しかし、明生は、東海さんのそうした外見はほとんど気にならなかった。上司の善し悪しはその人を信用できるかどうかで決まるものだと明生は思っていたから、明生にすれば、東海さんはまさに「理想の上司」と呼んでも過言ではなかった。
 東海さんは、今は独り身だが、数年前に離婚していた。二人に子供はいなかったらしい。明生は、ゴールデンウィークの谷間のその日、営業で新宿、池袋と二人で取引先を回ったその帰りに、東海さんに、飲んで行きませんか、と声をかけ、池袋西口の沖縄料理店に行った。
 そこで、明生は、東海さんに、なずなと最近うまくいっていないことを打ち明け、相談を持ちかけた。なずなは、元彼の根元真一が妻の小春と離婚したことを知ったのを機に、真一のことが頭から離れなくなってなにも手がつかない、このままじゃどうにかなりそうだからしばらく寝る場所は別にしてと言われ、二月から家庭内別居となり、さらに四月からは、赤羽のクラブに再び勤めるようになって、それからは家事もほとんどしなくなり、食事も別々にとるようになっていた。
 根元真一は、東浦和で妻の小春とともにパン屋をやっていた。子供が一人いたが、その小春が子供を置いて家を出たという。明生は、なずなに言われてから、まもなく根元真一を訪ね、彼とも話しをしたが、明生の話では彼も迷惑そうな感じで、妻に逃げられそれどころじゃないって感じだった、という。東海さんは、宇津木の奥さんって、すっごい美人なんでしょう、と言い、明生は、そうでもないですよ、と言ったがこんな時でも妻を美人だとほめられるのはまんざらでもない気がした。でもね、美人には一癖も二癖もある人が多いから、きれいなバラには棘があるって昔から言うでしょ、とも言った。
 どうすればいいんですか、と問う明生に、東海さんは、バラを扱う時には指に刺さっても平気にしてるか、それとも刺さされないように注意深く扱うか、そのどっちかしかないのよ、と言った。明生には、東海さんが何を言いたいのかわからなかった。要するに、美人の奥さんにそういうふうにされちゃったら、宇津木にはなす術なしってことよ、と素っ気ない。そんなあ、と明生はグラスに残っていた泡盛を一気に飲み干す。その様子を見て、東海さんは唇を引き締め上司の顔になって、宇津木、例の中国研修、応募しなよ、と言った。
 それからほどなく、根元真一と別れた坂本小春という女性から明生のところに電話があり、会いたと言ってきた。
 午後八時にメトロポリタンホテルのロビーで待ち合わせ、それからロビー横のカフェレストランに入った。小春は和服姿だった。彼女はさして美人ではないが、和風の顔立ちが和服につりあって大正レトロの美人画風のおもむきがあった。
 歳を訊くと、明夫と同じ八十一年生まれの二十七歳だった。学年は彼女の方が三月生まれだから一学年上になる。根本真一と結婚したのは二十二歳のときだそうだ。昨年の暮に三歳になる息子隆一を置いて家を出ていた。
 小春は、なずなと根本真一は少なくとも去年の十一月からは元の関係に戻っていたと思う、と言った。どうしてそう思うのかと、明夫は訊いてみる。
 去年の九月くらいから、根元がちょくちょく店を私に任せて飲みに出かけるようになったんです。それでおかしいなと思っていたんですが、それが十一月の七日の水曜日、とうとう一晩家に帰らなかったんです。戻って来たのは翌日の夕方でした。幾ら問い詰めても何も答えないので、私、失礼だと思ったんですけど「しばもと」に電話してみたんです。そしたらご主人が出られて、なずなさんも昨日は風邪気味でお店に来ていなくて、今日もお休みするってさっき電話があったって。それでもうこれは間違いないなって確信したんです。
 十一月の七日の日、もしかして奥さん、外泊されせんでしたか、小春に問われて、手帳で確認すると、十一月は七日は「なずな実家泊」と記されていた。なずなは平日はほぼ毎日父親の営む南浦和の小料理屋「しばもと」へ手伝いに出ている。十一月はその他五日、十八日、二十五日も「実家泊」とあった。この時期は明生も出張続きで、なずなが実家に泊まっても別段不審に思ったりしなかったが、言われてみればこれほど頻繁に彼女が家を空けたのは十一月だけだった。
 確かに、なずなはその日は実家に泊まっていますが、それで、あなたは、根元さんに、なずなと一緒にいたんじゃないかと、当然、問い詰めたわけでしょう、と訊くと、小春は、お前の妄想だって、もちろん取り合ってもくれませんでした、と吐き捨てるように言った。
 冷静に考えれば、夫が一日外泊しただけで、すぐになずなに目星をつけるというのが不自然だった。
 しかし、いまの小春さんのお話だけでは、二人が本当に元の関係に戻ったかどうかは証明できないと僕は思います。むろん、その七日の晩、彼らが一緒だった可能性もあるにはあると思いますが、という明生の慎重な言い回しに小春の顔が一瞬、失望の色に染まったのが分かる。
 小春は、すると、私、お腹に赤ちゃんがいるとき、なずなさんにひどく殴られたことがありました、と言った。
 明夫が、その言葉に驚いていると、彼女は、さらに、宇津木さんは、あの人がどうして水商売の世界に入ったか、本当の理由を聞いたことがありますか、と訊いた。
 いずれお店を持ちたいから、そのときのための準備だったと聞いている、と明生は答えた。
 なずなは、明生と付き合い始めるとすぐにキャバクラ勤めを辞めた。南浦和の店みたいな小さな割烹ではなくて、もっとちゃんとした料理屋をやるのが夢で水商売の道に飛び込んだと彼女は言っていた。キャバクラにしたのも、将来のお客さん作りが一番の狙いかな、と言っていたのだ。
 そんなの表向きの話です、と小春は冷たい口調で言い切った。
 そして彼女は、五年前、自分が根元真一と結婚する際に、なずながどんなとんでもないことをしでかしたかを事細かに話し始めたのだった。

 十二時を回るまでは、何も飲まずになずなの帰宅を待っていた。
 大切な話を酔った勢いでするわけにはいかないと思った。小春から聞いた話や、帰りしなに渡された物のことが、この川口のマンションに辿り着くまでのあいだ明生の頭の中を占領していた。しかし、顔を洗いスウェットに着替えてここに陣取ったとたん、それはまったく別の思いに取って代わられたのだった。
 いま、明生の脳裡にあるのは、二月七日に顔を合わせた根元真一の姿だった。
 男の明生の眼から見ても、根元はほれぼれするような好男子だった。初めて「しばもと」で会ったときも、なずなの昔の彼氏だとは知らなかったにもかかわらず、幼馴染と聞いただけで明生は根元の前で萎縮してしまう自分に気づいていた。妻の小春のことが印象に残らなかったのも、根元のその容姿に圧倒されてしまったからに違いなかった。
 根元真一は身長百八十センチを超える大男で、苦みばしった顔は野性味にあふれていた。高校、大学時代を振り返ってみれば、彼のようなタイプが女の子に一番モテた。小学生の時分から「若年寄」と揶揄されていた明生など足元にも及ばぬ相手だ。
 なずなと根元だったらずいぶん絵になるお似合いのカップルだっただろう。
 彼がかつての恋人だったと初めてなずなに告白されたときも、明生が真っ先に思ったのはそのことだった。一方で、明生は、あの根元ではなくこの自分を選んでくれたなずなに感謝し、幾分か誇らしい気持ちにさえなったのである。
 二月に会った根元はひどくやつれていた。
 ちょうど焼き上がったパンを店頭に並べているところだったので、十五分ほど外で時間を潰してから、店の奥で彼と短いやり取りを交わした。
 げっそりと頬のこけた根元は、目も血走り、濃い疲労の色を身にまとっていた。それがまた尚一層男ぶりを際立たせていたのだった。
 なずなの突然の行動について問い質すと、あいつ、馬鹿だな、と根元は呟くように独りごちた。
 宇津木さん、あいつはときどきそうやって突拍子もないことをするけど、麻疹と同じで時間が経つとケロッとしちまうんです。まあ、長い目で見てやって下さい。万が一俺のところへ来たときは、しつかり説教して、宇津木さんのもとへ送り届けますから。
 彼はそんなふうに言って会話を打ち切った。突拍子もないことをする、という言葉は、そういえば今夜の小春の話を裏付けているようでもある。
 明生には根元が嘘を語っているとは思えなかった。同時に、彼の方がなずなについて自分よりずっと深く理解しているような、そんな気分にさせられたのだった。
 明生の悪癖だが、こうして物思いに耽っていると、いつも気持ちが暗い方へと向いてしまうのだった。俺のような生まれそこないには、誰かと一緒に暮らせるだけの魅力なんてないんだ。
 自虐的になればなるほど、明生の頭は妙に冴えてくる。
 椅子から立ち上がって、冷凍庫からズブロッカを取り出してきた。小春の話を聞いたあとでは、この酒をいまだに愛飲しているなずなの神経を疑ってしまう。小春によれば、五年前、小春と真一が付き合っていると知ったなずなは、合鍵で真一のアパートの部屋に上がり込み、大量の睡眠薬をズブロッカで飲み下して自殺を図ったのだ。当時池袋のベーカリーで修業中だった真一が深夜に帰宅して昏睡状態のなずなを発見し、慌てて病院に担ぎ込んで何とか一命を取り留めたのだという。
 ボトルの表面にたっぷり霜のついたズブロッカと小さめのグラスを持ってテーブルに戻った。キャップを開け、とろりと凍った酒をグラスにめいっぱい注ぐ。半分ほどは喉に流し込んだ。空っぽの胃袋がぎゅうっと縮むのが分かり、強いアルコールが胃壁を焼く熱い感触がそのあとにつづいた。
 自殺未遂の後もなずなのいやがらせは止まなかったと小春は言っていた。入院している病室を抜け出したなずなは、小春が当時住んでいた目白のアパートを突き止め、ぐでんぐでんに酔った状態で乗り込んで来たという。彼女が顔や胸などをひどく殴られたのはその晩のことだ。このときも真一がほどなく駆けつけて、なずなを病院に連れ帰ったのだった。
 無言電話もすごかったし、あとをつけられたり、部屋のドアにラッカーで「死ね」って書かれたり、もう滅茶苦茶でした。
 小春からすると、そうしたなずなの異常な執着心にいまも真一は引きずられているということらしい。
 明生さんはあの人に騙されてるんです。明生さんみたいな素晴らしい家柄の人を見つけて、あの人、これで私や真一さんを見返してやれるって思ったんじゃないでしょうか。でも、結婚してみてもやっばり真一さんへの執着や私への恨みを消すことができなくて、結局、明生さんまで裏切ってしまうことになったんだと。明生さんも私も真一さんも、みんなあの人の犠牲者です。
 バッグから取り出した一枚の写真を差し出しながら、小春は言った。
 午前二時過ぎになずなは帰ってきた。
 その頃にはボトルに半分ほど残っていたズブロッカはほとんどなくなっていた。テーブルの上にはカップラーメンの容器や菓子の空き袋などが散乱している。
 だらしない姿勢で椅子に座っている赤ら顔の明生には目もくれず、なずなはキッチンカウンターの向こうの冷蔵庫からウーロン茶のぺットボトルを取り出すと、その場で封を切ってぐいぐいと飲んだ。派手なブルーのワンピースを着て、長かった髪もショートボブに変えてしまった彼女は相当酔っているようだったが、相変わらず美しかった。髪を切ったこともあって若返っている。今度の七夕で二十六になるが、まだ二十二、三でも十分通用するだろう。
 美人は一人目が駄目でも、二人目、三人目、とどんどん目の前に男が湧いて出てくる、と言ったのは東海さんだった。その言葉が頭をよぎる。
 座ったまま椅子を後ろに引きずり、明生は立ち上がった。大きな音が立って、なずながペットボトルを口から離してこちらを見る。
 一つだけ訊いていいか、と明生は立ったまま言った。なずなはきょとんとした顔を作る。
 お前、根元真一と会っているんだろ。カウンターに近づくと明生はできるだけ声を抑えて言う。なずなの眉間に小さな皺が寄った。
 お願い、頭が痛いの。込み入った話は明日にしてくれない。明生は酔いも手伝って思わず両腕の拳を握っていた。一度深呼吸して腹中に生まれた怒りの種をつぶす。
 お前、根元とできてるんだろ。なずなは残っていたウ一口ン茶をシンクに流すと、ペットボトルを足元のごみ箱に投げ込んだ。
 そんなはずないでしょう。あの人とは会っても話してもいないわよ。約束したでしょう。私は時間が欲しいだけだって。ほとんど喧嘩腰の口調だった。明生はスウェットの尻ポケットに入れていた写真を取り出した。
 だったら、これは何だよ。キッチンカウンターに逆さ向きにして置いた。なずなは怪訝な表情で写真を取り上げ、写真に見入っている。
 数秒後に顔を上げ、どうしたの、こんなもの、と蔑んだような目で明生を見据えながら言った。
 まさか、あなた誰かに私のことを調べさせたの?
 そんなことはどうでもいいだろ。それより俺は事実を訊いているんだ。明生もなずなの目を見返す。こんなことまともな夫婦のすることじゃない、という声が頭の隅で聴こえた。小春のことは最後まで伏せておくつもりだった。写真には、どこかの保育園の玄関前で小さな男の子と手をつなぐ笑顔のなずなが写っていた。そこには日付も入っている。08・4・25。わずか半月ほど前だ。
 その日は、真ちゃんが体調崩してしまって、どうしても隆一君の保育園のお迎えができないって言うから代わりに行っただけよ。
 だけど、根元とは絶対会わないと言っていたじゃないか。
 別に何があったわけでもないし、真ちゃんは私たちのことなんて何も知らないわよ。
 そんなはずはない、と明生は思う。真一とは二月に会って話もしているのだ。
 なずなが大きなため息をついた。写真をカウンターに戻し、ねえ、お願い。今日は寝させてくれないかな。明日は土曜日だからお店も休みだし、お昼まで眠らせてくれたらちゃんと説明するから。お願い。今夜は私、ほんとうにくたくたなのよ。
 鋭かった目つきが一転して、いまは弱々しげな光を滲ませていた。
 だったら、明日の午後、二人できちんと話し合おう。確かにお互い素面になって落ち着いて話した方がいいだろう。明生は穏やかな口調で同意した。
 分かったわ。約束する。なずなも素直に領いた。
 翌朝、明生が目覚めたのは午前九時頃だった。ベッドを降りてリビングに行くと、部屋全体が静まり返っていた。部屋はもぬけの殻だった。衣服や荷物一式なくなっている。
 なずなはとうとう出て行ってしまった。

 東海さんが、命の恩人だと言っていた大手靴専門商社「山大」の営業担当常務の榎田さんが肺がんの末期だと聞いて、東海さんと一緒に港北ニュータウンにある病院に見舞いに行った。
 病室に見舞ったあと、東海さんが、長くてあと三カ月くらいかな、と言った。
 明生も榎田さんを一目見て、これは助からないのではないかとは思った。だが、一カ月前に入院するまでは元気溌剌だった人が、いくら肺がんとはいえそんなに急に死んでしまうものだろうか。
 病室を出たあと榎田夫人とデイルームで十五分ばかり話して、病院をあとにした。
 もう両肺に広がっているんなら、これからは一気呵成だから、と東海さんは言った。
 東海さん、肺がん詳しいんですね、と言うと、彼女は、自分も七年前に肺がんをやったのよ、ちょうどいまの宇津木と同じくらいのとき、と言った。
 私の場合は幸い発見が早かったから、手術で一応取りきったんだけどね。
 そうだったんですか。
 それからしばらく二人とも無言だった。
 土曜の昼間とあって駅の出入口からは次から次へと人々が吐き出されてくる。病院から歩いて駅まで戻り、駅前広場を見渡せるスタバに入った。店内は満席で、外のテーブル席についたのだった。
 今日は七月上旬並みの陽気になるとのことだった。気温はとっくに二十五度を超えているだろう。明夫は取引先の役員を見舞うというのでスーツで来たのだが、東海さんの方はジーンズに半袖のシャツと軽装で、明生は何だか自分だけが割を食ったような気にさせられたのだった。
 スーツ姿以外の東海さんを目にするのは初めてだった。ジーンズがぴっちりフィットした両脚は思いのほか長く、シャツの袖から出た腕は思いのほか細かった。ウエストは引き締まり、それでいて胸はかなり大きめだった。正直なところ、東海さんがこれほどのプロポーションの持ち主だとは想像もしていなかった。
 コーヒーをストローで何度かすすったあと、どうしてちゃんとした人間から先に死んでいくんだろう、と東海さんがぽつんと言った。
 榎田さん、立派な方ですよね。明生は、頬骨が浮き出したさきほどの榎田の顔を思い出しながら言う。
 榎田福四郎は大手靴専門商社「山大」の営業担当常務だった。伝説の営業マンとしてシューズ業界では一目も二目も置かれる人物で、YAMATOのスポーツシューズの多くがこの榎田の手を介して全国のスーパーや靴全国チェーン、有力小売店に卸されていた。同時に「山大」は婦人靴を主力としたオリジナルブランドの開発にも早くから注力しており、YAMATOが三年前にシューズ生産の主力工場を中国に移転したときは、すでに自社ブランド商品の生産拠点を中国に構えていた「山大」に手厚い支援を仰いだのだった。その便宜をはかってくれたのもほかならぬ榎田であった。
 新入社員として現在の部署に配属された明生が榎田常務と会ったのは、先輩について販売店や問屋回りを始めて二カ月ほど過ぎてからだった。常務室で会うなり、きみが噂の宇津木君か、と彼は言って、いきなり明生の手を握ってきたのだった。それからは明夫は何かにつけて榎田常務に目をかけてもらった。
 私、短卒でYAMATOに入って、ずっと内勤だったのよ。でもどうしても営業がやりたくて何度も人事に掛け合って、やっとこさ三年目にシューズ営業に回されたの。二十四のときだった。当時は平取の営業局長だったけど、榎田さんには営業のイロハから教えて貰ったわ。でも、本当に助けられたのは、私が病気になって、離婚して途方に暮れてた頃ね。心も身体もボロボロで仕事なんて手につかなくて、会社の仲間もみんな私を見放してしまったのに、あの人だけはそうじゃなかった。ブサイクでバツイチで、おまけにがんで、これで仕事まで失くしたらお前は終わりやぞ、ってずっと励まし続けてくれたの。シューズの連中に愛想を尽かされてる私を、いまの会長と掛け合ってウェアに転属させてくれたのも榎田さんだった。その私が去年シューズに戻って来て、一番喜んでくれたのも彼だった。
 東海さんはふだんと変わらぬ淡々とした口調で喋っていた。
 明生は何も口にできずに黙ったままだった。東海さんの目線の先を見る。さきほどから広場中央の野外ステージの脇で小学校に入りたてくらいの子供たち数人が一緒になってふざけ合っていた。東海さんはその子供たちの様子をじっと眺めているのだった。
 冗談抜きで、あのとき榎田さんの支えがなかったら、たぶん自殺してただろうな、と東海さんが言った。
 自殺か、と明生は頭の中で独りごちた。なずなも五年前、根元の部屋で自殺を図ったのだと小春が言っていた。
 どうして人はそんなに死にたがるのだろうか。放っておいても榎田さんのように、ある日突然、不治の病にとりつかれて、ああやって無理やり死なされてしまうというのに。
 明生はいままで一度だって自殺したいと思ったことはなかった。
 自分みたいな生まれそこないが自分で自分の命を絶つなんておこがましいという気持ちがあった。また一方で、生まれそこないの意地のようなものもあった。
 人生は復讐だ。
 高校生の頃から明生はそう思うようになった。
 そうでも思わないと生きていられなかった。人は断りもなくこんな自分として生まれさせられ、断りもなくその自分を奪われてしまう。だとしたら、生きている間のわずかな時間だけでも自分を守り抜き、自分をこの世界に送り出した何者かに対して抗いつづけなければと明生は思っていた。
 なんか悔しい。すっごい悔しい。
 東海さんは空のカップを持って立ち上がった。明生も慌てて一緒に立ち上がる。
 宇津木、今日はこれからどうするの。
 腕時計の針は三時を回ったところだった。
 別に予定はないですけど。
 だったら、近所だし、うちにでも来る。すき焼きでも作って一緒に食べようか。
 まるで当たり前の顔で東海さんが言った。

 駅前のデパートで食材を仕入れて横浜市営地下鉄に乗った。新横浜から三つ目の駅で降りる。駅から五分くらい歩くとレンガ色のマンションが見えた。2LDKの部屋は一人暮らしには充分ゆとりのある住まいだった。
 東海さんが作ってくれすき焼きを食べ、ビールを飲みながらずいぶん喋った。
 東海さんの前の旦那は、中学の同級生だという。付き合ったのは、結婚する少し前で、彼は不動産屋の社員で、東海さんが家を出ようとあちこち物件を探している時に、たまたま入った不動産屋で働いていたのが彼だった。
 どんな人だったんですか、と明夫が訊くと、東海さんは、懐かしそうな表情を作り、鉄ちゃんだったけど、真面目でいい人だったな、結婚してるときは、休みが重なるたびに彼に連れられていろんなローカル線に乗ってた。私は最後まで鉄子にはなれなかったけどね。
 明生は昼間東海さんが、私が病気になって、離婚して途方に暮れてた頃、と言っていたのを思い出していた。彼女は、肺がんを患ったことで好きな旦那さんと別れざるを得なくなったのかもしれない。
 三年目にようやく子供ができたのよ。嬉しくてね。旦那もすごい喜んでくれて。そしたら私の肺がんが見つかったの。
 明生はグラスを持ち上げていた手を止めた。
 妊娠四カ月目に入ったばかりで、肺がんの初期だって分かったの。
 東海さんは、グラスに残っていたワインを飲み干した。
 全身麻酔の手術だし、術後は抗がん剤もやんなくちゃいけなかったし、お腹の赤ちゃん諦めるしかなかった。それでも私は産むまでは手術も抗がん剤もしないつもりだった。でも旦那も先生も、絶対、私の命の方が大事だって。子供だったらまたいつでもできるからって。結局、自分の命が惜しくなってしまったんだよね。お腹の赤ちゃんのおかげで早期発見できたのに、その命の恩人をさ、私は自分の命と引き換えに見殺しにしてしまったのよ。
 さきほど、束海さんが駅前の広場で子供たちの姿をじっと見つめていた理由もようやく分かった気がした。七年前ということは、もしその赤ちゃんが生まれていれば、ちょうどあの子たちと同じ年頃だったのだろう。
 それは違うんじゃないですか、と明生は言った。
 彼にしてはめずらしく語気が強かったので、東海さんもちょっとびっくりした顔になった。
 僕は、その赤ちゃんは本望だったと思いますよ。
 本望?東海さんが怪訝な表情で明生を見る。
 そうです。本望です。だってそうでしょう。東海さんはこうやって肺がんを克服していまも元気に生きているじゃないですか。もしその子がお腹に宿らなかったら、発見が遅れて死んでしまってたかもしれないんですよ。その子は、自分が生まれることでお母さんの命を立派に救ったんです。たとえたった四カ月の命だったとしたって、全然後悔なんてしてないし、本人はすごい本望だったと僕は思います。
 死んで本望、なんてあるのかな。東海さんがぽつりと呟く。
 私はね、あのとき産んだ方が本望だった気がする。たとえそれで自分が死んでも、それこそ死んで本望だったような気がする。
 東海さん。明生は椅子にきちんと座りなおした。
 生き残った東海さんがそんなこと言ったら、せっかくお母さんのために死んでいった赤ちゃんがすごい悲しみますよ。僕はいつも思ってます。人間はたとえ人のために死んでも、自分のために死んではいけないって。だから、生きさせてもらった東海さんが、自分の方が死ねばよかったなんて絶対に言っちゃいけないんです。だって、その子はもうどんなことをしたってこの世界に戻って来れないんですから。東海さんにできることは、その子の分まで一生懸命に生きること以外にないんじゃないですか。
 長広舌をふるう明生を東海さんは不思議そうな顔で見ていた。その目からはいましも涙がこぼれ落ちそうだった。見開かれた瞳はいつもの倍くらいの大きさになっている。
 そうかなあ。
 東海さんが震える声で言った。

 五月二十五日 日曜日。
 目覚めてみると雨だった。なずなが出て行ってから不思議とよく眠れるようになっていた。熟睡した感覚があって、それでも携帯アラームのセット時間より決まって十五分ほど早く目が開く。
 二月からの奇妙な家庭内別居状態のときは毎日イヤな夢が続いたが、それもぱったり見なくなった。半身を起こし、枕もとの携帯を掴む。時刻は十時半だった。昨夜は東海さんの家に午後十時過ぎまでいた。すっかり酔っ払って、最後は炊き立てのご飯でお茶漬けまで御馳走になってしまった。この部屋に戻ったのは十二時近くだ。
 ベッドから降りるとやや足元がふらついた。昨日の酒がまだ残っているのかもしれない。
 顔を洗って、キッチンでコーヒーを淹れた。一人暮らしになって、結婚前の習慣が少しずつ戻ってきている。独身時代、朝は決まってコーヒー一杯を飲むだけだった。
 コーヒーを飲みながら朝刊に目を通す。
 なずなは新聞はあまり読まなかったし、明生が一度目を通したものはすぐに納戸の新聞紙入れに片づけてしまった。独身のときは朝刊は終日部屋のどこかに置いて、気が向くたびに開いて読んでいた。そうした習慣もすぐに復活した。
 誰かと暮らすことは確かに楽しい。そこには一人暮らしでは到底想定できない華やぎがある。だが、こうして一人に戻ってみると、一人には一人きりの貴重な静寂というものがあることを思い出した。
 結婚は一度はしてみるものだと思う。でも、長く続けるかどうかは人それぞれでいいんじゃないかと私は思うよ。
 昨日、別れ際に東海さんが言ってくれた言葉を思い出す。
 新聞を読み終えた頃から下腹に絞るような痛みを感じ始めた。
 急いでトイレに駆け込むと、ものすごい下痢だった。出すだけ出しても、どうもすっきりしない。昨日の暴飲暴食のたたりに決まっていた。牛肉を一キロ近く食べ、ビールをおそらく五リットル以上は飲んだ。自分でも、これがまさしく鯨飲というやつだな、と思っていたのだ。絞り腹を抱えてベッドに横になった。
 それから夕方までに何度もトイレに行った。水っぽい下痢がとめどなく排泄される。ちょっと薄気味悪いくらいだった。
 脱水だけは警戒して、やかんにお湯を沸かし、その湯冷ましを頻繁に飲んだ。
 異変に気づいたのは、いつの間にか眠りに落ちて、ふと目覚めたときだった。
 携帯で時刻を確かめる。午後九時を回っていた。七時以降の記憶がなかったから二時間以上眠ったのだろうと思った。
 下腹部の違和感はどうやら消えてくれたようだった。
 明生はほっと一息ついて起き上がろうとした。
 そのときになって腰から下にまったく力が入らないことに気づいたのだった。
 こんなことはむろん初めてだった。下半身に感覚はある。それでも太腿の付け根から下が全然言うことをきいてくれない。
 背筋に冷たいものが走る。こういう身体の機能不全は重篤度が高い。体内の水分を短時間で奪われ、恒常性維持のために必要な希少成分のどれかが失われたのではないか。何かの小説でそういう話を読んだことがあった。いまは下半身に限定されている麻痺が上半身へと広がっていけば、心停止といった最悪の事態もあり得るのではなかろうか。
 救急車を呼ぶべきだろうか。幸い携帯は手元にある。
 だが、救急隊員が駆けつけてくれても肝心のドアが施錠されている。今の状態ではとても玄関まで歩いて隊員たちを迎えることなど不可能だ。どうすればいいだろう。少なくとも誰か鍵を持っている人間に外からドアを開けてもらう必要がある。救急車を呼ぶにしてもそれからだ。
 明生は押し寄せてくる不安を振り払い、努めて冷静になろうとした。
 仰向けのまま再び携帯を取り上げる。気のせいか麻痺がだんだん上がってきているような感じがする。
 こんなとき頼れるのは一人だけだった。
 やむを得ない。
 明生は登録している彼女の番号を選び出し、発信ボタンを押した。
 山内渚が入って来た頃には、だいぶ状態は改善していた。それでもベッドに身じろぎもせず横たわっていたから、渚は駆け寄ると真っ青な顔で明生を覗き込んだ。
 アキちゃん、大丈夫?
 まどろみから覚めた明生が瞬きで合図する。
 いま何時?
 渚は腕時計を見て、十時五分。
 早かったね。
 明生のしっかりとした反応に渚は幾分安堵したふうだった。
 慌てて飛び出して来たんだよ。
 そういえば渚はノーメークのようだ。鼻の頭に散ったそばかすがなぜか懐かしかった。
 救急車、呼ぶ?
 明生は首を振る。
 何だかもう大丈夫みたいだ。ポカリ買って来てくれた?
 渚がジュータンの上に置いていたレジ袋を持ち上げた。ポカリスエットのキャップを開けて差し出してくる。明生は腹筋の要領で上体を起こした。さきほどよりずっと両脚に力が入る。
 ペットボトルを受け取って、一気飲みする。胃袋に液体がなだれ込むのが分かる。また空腹を感じた。
 渚、悪かったな。完全に飲み干してから明生は言った。
 別にいいよ。今夜は予定なかったし。それにアキちゃんに鍵預かったときからホント大丈夫かなあって心配してたんだ。
 そうか。
 なずなが出て行って一週間が過ぎたところで、明生は渚に合鍵を渡したのである。渚は今年二十四歳。まだ上智大の院生だった。四谷にある上智と市ヶ谷のYAMATOとは近所ということもあって、彼女とは年に数回は顔を合わせていた。なずなと一緒になって以来、元麻布とは音信不通だったから、両親や兄たちの近況はすべて渚から教えてもらっていた。
 渚は何も言わないが、向こうも明生の状況を彼女から聞き出しているに違いない。
 渚は明生と宇津木家とを結ぶクーリエの役目をこの二年間務めてくれているのだった。
 三十分ほどベッドの上でじっとしていた。その間、渚は台所やリビングの片づけなどをしてくれているようだった。
 ベッドを降りて寝室を出た。キッチンカウンターの向こうの彼女に、なんか腹減ってきたんだけど、と言う。
 だったら外に食べに行こうよ。顔色も悪くないみたいだし、何か口に入れた方がいいかも。
 渚が笑顔になった。
 マンションの斜向かいにある「ジョナサン」に入った。明生は「本ずわい蟹と青海苔の雑炊」を、渚は「ローストビーフのクリームスパゲッティ」をオーダーする。
 ドリンクバーでアイスティーと明生用のウ一口ン茶を取って席に戻ってくると、アキちゃん、なずなさんと別れるの、と渚が訊いてきた。
 そうなるかもしれない、と返事する。いまのいままでそんなことは考えていなかったが、こうして面と向かって訊ねられると、そうするしかないような気がしたのだった。
 ちゃんと二人で話し合ったの?この前のアキちゃんの話だと、なずなさんがどうして出て行ったかも分かんないって言ってたじゃない。なずなさん、アキちゃんを試してるんじゃないかしら。アキちゃんのそういう煮え切らないところがイヤなんじゃないの。
 幼馴染みだけに発言に遠慮がない。明生はウーロン茶を一口すすった。
 俺が何もしないのは、どうしていいか分からないからもあるし、いまは何もしない方がいいような気もしてるからだよ。たとえ答えが一つだとしてもさ、その答えを見つけるのに時間をかけるか、かけないかは人それぞれだよ。
 だから、アキちゃんのその考え方が、いまの人たちには全然馴染めないんだよ。引き延ばしているうちに問題がさらに複雑化したり、難しくなることだってあるでしょ。
 逆に急ぎすぎて聞達った解決法を選択してしまうことだってあるよ。どちらにしろリスクは半々だし、俺はどんなことでも拙速はやめた方がいいと思ってるから。
 それって怖がってるだけじゃないの。手に持っていたグラスを置くと、明生の目を覗き込みながら渚が言う。
 なずなさんと直に対決して、もうあなたとは一緒にいたくない、ってはっきり言われてしまうのが怖いだけなんじゃないの?
 明生はまた沈黙した。自分自身もその点については何度も考えてきたのだった。なずなと別れるという現実を見たくないゆえに決着を先送りしているのではないか。それ以上に、なずなを引き止められない我が身の不甲斐なさを思い知るのが恐ろしくて何もしようとしないのではないか。だが、そうした自己保身のためばかりではないという気も強くするのだった。
 俺は、事を急ぎすぎてなずなに間違った選択をさせたくないんだ。ずいぶん間をおいてから明生は言った。渚はきょとんとした顔で彼を見た。
 じゃあ、なずなさんはアキちゃんと別れない方がいいってこと?彼女が「は」のところに力を込めた。
 明生は領いた。
 なずながやっていることは聞達ってると思う。本人も感情に任せて突っ走ってるだけで本物の自信はないんだと思う。渚の瞳に微妙な色が浮かぶ。
 自信なんて感情に任せて突っ走ってるうちについてくるんじゃないの。ちょうど筋肉みたいに。
 そんなの本物の自信じゃないよ。明生は薄く笑った。
 じゃあ、アキちゃんの言う本物の自信って何?
 自分のやってることは百パーセント正しいという確信。
 何、それ。渚が呆れたような声を出した。
 そんなもの誰にだってあるわけないじゃん。
 そうだとしたら、やっぱり時間が大切じゃないのか。本物の自信がない行動はそのうち破綻するし、やってる本人も冷静になってくれば自分の過ちに気づくようになる。
 渚は、なるほどね、と合点がいった表情をする。
 要するにアキちゃんは、全部なずなさん任せってわけだ。
 そういうわけでもないけど。
 だってそうでしょう。自分からは何もしないで相手が間違いに気づくのを待とうっていうんだから。
 料理が届いて、しばし会話は途切れた。
 渚はフォークでパスタを丸めながら、私は、そうやって待ってても何も始まらないと思うよ、と言った。もしなずなさんのやっていることが本当に間違っていると思うなら、アキちゃんがそのことを彼女に分からせてあげるべきじゃないの。
 そう簡単にはいかないよ。雑炊をすする手を止めて首を振る。
 突然に昔の男のことが忘れられないと言い出し、三カ月も寝室を別にしたあげく、きちんと話し合おうと約束した当日に勝手に家を出て行ったのだ。そんな相手を一体どうやって説得できるのか。自分にはとても自信など持てない。
 でも、アキちゃんはなずなさんに戻って来て欲しいんでしょ。
 渚はぱくぱく食べていた。小さい頃から明生なんかよりよほど大食いだった。今夜もこれが二度目の夕食に違いない。
 彼女が戻ってくるなら、それはそれでいいと思う。だけど、俺が無理やり連れ戻すなんてできないし、戻って来て欲しいとも思ってないよ。
 だったら別れてもいいってこと?
 明生は首を振った。
 じゃあ、アキちゃんはどうしたいのよ。
 渚がじれったそうな口振りになる。
 明生は箸を置いた。空腹感はあるのだが、いざ食べてみると食欲はまったく湧いてこなかった。考えてみれば、なずながいなくなってからずっとそうだった。昨日、東海さんの家であんなに暴飲暴食してしまったのは、なぜだか東海さんの前だとなずなのことを忘れることができるからだった。
 俺はさ……
 明生は鼻の奥がツンとしてくるのを感じた。
 なずなに俺のことを愛して欲しいだけだよ。俺がなずなのことをまだ愛しているみたいにさ。それが、いまのなずなにはきっとむずかしいのだ、と思う。
 そうなんだ……
 渚が低い声で呟いた。
 食事が終わってお互いコーヒーを飲んでいると、私、来年卒業したら京都に押しかけるつもりなんだ、と渚が言った。
 ふーん、と明生は返す。この前、鍵を渡したとき、渚から意外な話を聞かされていた。彼女はゴールデンウィークに京都まで次兄の靖生に会いに行ってきたのだという。一晩夕食を共にして、自分の長年の気持ちを告白し、相手の存念を探った。そして、その場で靖生は渚に驚くような話を打ち明けたのだった。
 靖生さんは麻里さんのことが好きなのね。だから元麻布には寄りつかないようにしているって言ってた。麻里さんのそばにいるのが苦しいからって。これで麻里さんがアキちゃんのことが好きだったら、まるで私たちジャンケンみたいだねって二人で笑ったの。
 この話に明生は心底びっくりした。まさかあの次兄が長兄の嫁である麻里さんを好きだったなんて思いもよらなかった。ただ、そう言われてみれば、靖生が京都に住み着いて元麻布にほとんど顔を見せなくなったのは宣生が結婚して以降のことだった。たまの休みに姿を見せても、あの愛想のいい次兄が兄嫁の麻里さんに対しては妙によそよそしかった印象もあった。
 渚はどうしてもうちの兄貴じゃないと駄目なのか?
 空のカップをテーブルに戻して訊く。コーヒーのおかげで頭がすっきりした気がする。腹具合もつい一時間前までが嘘のように何ともなくなっていた。
 渚が深々と頷く。
 だからいままでみたいに引っ込み思案のままじゃどうにもならないでしょ。私も今年で二十四だしね。
 渚の真剣な顔つきを見つめながら、まるでジャンケンみたい、というさきほどの彼女の言葉を思い出していた。確かにその通りかもしれない、という気がした。
 もしも渚が靖生でなく自分のことを好きになっていてくれたら、自分は案外あっさり山内泰西堂の婿養子におさまっていたかもしれない。もしも靖生が兄嫁の麻里ではなく渚を好きになってくれていれば、渚だってすんなり靖生と一緒になれたのかもしれない。
 この世界の問題の多くは、何が必要で何が不必要かではなく、単なる組み合わせや配分の誤りによって生まれているだけではないだろうか。これが必要な人にはあれが、あれが必要な人にはそれが、それが必要な人にはこれが渡されて、そのせいで世界はいつまでたってもガチャガチャで不均衡なままなのではないか。
 どうやったらそれぞれが「ちゃんとした組み合わせ」になれるのだろう。
 明生はそう自問してみる。
 だからさ……
 渚が笑みを作りながら自身に言い聞かせるように言う。私はアキちゃんみたいに待ちの姿勢でいるのはやめたの。
 その笑顔が、明生にはなずなの顔とだぶって見えた。

 明生の下痢は一週間経ってもおさまらなかった。初日のような激しい症状は出なかったものの、一日に何度となくトイレに駆け込まなければならない。会議や外回り、接待の最中に頻繁に席を立つわけにもいかず、食事は仕事帰りの一食だけという有様だった。あっという間に体重が三キロ近く減った。
 さすがに病院に行った。医者はいろいろ訊いたあげく、ストレス性の胃腸炎でしょうね、と言って、整腸剤と軽い安定剤を処方してくれた。あれ以来、渚からは毎日電話を貰っていた。
 それってアキちゃんの身体が、もう限界だよ、ってサインを出してるんだと思うよ。どんな結果が待っていても、なずなさんときちんと話し合うべきなんじゃないの。
 昔から明生に負けず劣らず消極的なタイプだった渚が、いまやポジティブなことばかり言う。何か決め手もないままにやり合うわけにもいくまいと明生は思っていたが、その考えが変わったのは、ちょうど一週間が過ぎた五月三十一日の土曜日のことである。
 六月一日 日曜日。
 起きたときには、なずなの部屋を訪ねる決心は固まっていた。彼女が在室ならば、二人の今後について腹を割って話し合うことにしよう。胃腸を刺戟してはいけないとやめていたコーヒーを久し振りに淹れ、新聞に目を通しならゆっくりと味わった。不思議なことに腹具合は何ともない。
 これは幸先がいい、と思う。
 なずなのアパートはすぐに見つかった。赤羽駅東口から徒歩五分ほど。赤羽公園のそばで、近くにはスーパーや図書館もある便利な場所だった。赤羽は川口の隣駅だ。家出したといっても、なずなは隣町に移っただけである。こうやって実際に来てみると、川口のマンションとの近さにあらためて気づく。これなら歩いて来られる距離ではないか。
 本当に別れる気があるのなら、こんな中途半端なことをするだろうか。まして根元真一が住んでいる東浦和は川口より大宮寄りだった。赤羽は川口より一つ池袋寄りだ。つまり、なずなは真一から遠ざかる場所に勤め先と住居を求めたのだ。そこに彼女の心根の一端が垣間見えていると考えてもさして不都合ではないだろう。
 真一が離婚したことで心の内に起こった突然の波乱を何とか鎮めたくて、なずなはこんな場所に我が身を隔離したのではないだろうか。
 腕時計で時間を確認する。ちょうど十一時半になったところだった。
 明生は、目の前の三階建ての建物の中に入っていく。狭い階段を昇る。はがきに記された住所の末尾は「203」だった。
 古ぼけた焦げ茶色のドアの前で一度周囲を見渡した。開放廊下には一列に五つのドアが並んでいる。このビルの横幅からして各室ともに1DK程度の広さだろう。駅には近いが、老朽ぶりを考慮すれば家賃は月額六、七万といったところか。
 ドアの横にある呼び鈴を押した。
 十五秒ほどの間があって、ゆっくりとドアが開いた。明生は一歩あとずさるようにして玄関前に立つなずなと対面した。
 おはよう、と明生は言った。
 おはよう、となずなが返す。
 ちょっと話がしたいんだけど、いいかな。なずなは黙って頒く。むくみ気味の顔からすると、寝ていたか、起き抜けという感じだった。だが、やつれてもいないし顔色も悪くはなさそうだった。
 部屋の中は殺風景なものだった。四畳半のキッチン、その奥にべッドを置いた六畳間。外はきらきら光るような陽光であふれているのだが、ベランダの向かい側を枝ぶりのよい巨木が占拠しているために日当たりはいまひとつだった。どうして、こんな部屋で暮らしているんだ……。
 明生は物悲しさともどかしさが入り交じったようなやるせない心地にさせられ一方で、たとえこのような生活になったとしても、それでも自分と離れることを優先したなずなの強固な意志を感じ取らずにはいられなかった。
 キッチンには二人掛けの小さなテーブルが据えられていた。冷蔵庫、食器棚、電子レンジ、小型の液晶テレビ。観察すると独りでやっていくために必要なものはたいがい揃っている。
 テーブルとセットになっている椅子に座る。なずなは何も言わず、流しに立ってお茶を淹れていた。マグカップに入った緑茶が二つ置かれ、なずなが向かいの椅子に腰を下ろした。初めて見るマグカップは色違いのお揃いだ。カップを持ち上げた途端、このテーブルでこのペアカップでこんなふうに差し向かいでお茶を飲んでいる真一となずなの姿が脳裡に浮かび上がってきた。
 互いにお茶を一口すすったところで沈黙がふくらむ。
 戻って来る気はないのか。
 口に出す寸前まで、戻って来てくれないかという言葉だった。
 なずなは眉一つ動かしもしない。明生を見ていた瞳がすうっとすぼまり、あの写真、小春のしわざね、とはっきりした声で言った。
 明生は最初ぴんと来なかった。間があって、坂本小春に渡された写真のことだと気づく。
 何か硬くざらついたものに触れたようなイヤな感じが体内に湧き出してきた。
 明生ちゃんは何も知らないんだから仕方がないけど、あの小春っていう女は見かけと正反対の性悪なの。今度だって自分のわがままで子供を捨てて出て行ったくせに、いまになって取り返したくて、明生ちゃんのところまで押しかけたのよ。私と真ちゃんがずっと不倫してたっていう証拠を何とか明生ちゃんから引き出したかったの。まったくどこまでいっても最低な女。
 話があらぬ方向に進みそうな気配に明生は戸惑った。なずなの言っていることも半分くらいしか頭に入って来ない。
 ねえ、なずな、どうして僕たちこんなことになったんだい。なずなはもう僕と一緒にいるつもりはないのかい。
 小春や真一のことには触れず、自分たち二人の話に引き戻そうとした。
 私は、よその家庭を壊す人は嫌いなの。お父ちゃんがそういう人だったから。真ちゃんからほかの女に子供ができたって聞かされたときも、私たちはもう終わりにしようってすぐに決めたの。悔しかったけど仕方がないと思った。真ちゃんの家とはお隣同士で、お父ちゃんとお母ちゃんが大喧嘩するたびに真ちゃんちに逃げ込んでたの。亡くなった真ちゃんのお母さんにも本当にお世話になった。私が新潟に行ってからも真ちゃんは三回も訪ねて来てくれた。私は、真ちゃんのお嫁さんになるってずっと信じてたの。真ちゃんはパン職人を目指して頑張ってたから、私もお店の勉強を続けてた。いつか二人で自分たちのパン屋さんを開くのが夢だった。それが、たまたま行った飲み会で、修業仲間の女の子に紹介された小春と一回やって、子供ができて、真ちゃんはあんな人だから、彼女がどうしても産みたいって言ってるんだ、なずな許してくれ、って。そんなの幾ら土下座されたってどうしようもないじゃん。子供ができたのならもう家族でしょ。生まれてくる子供には何の罪もないんだから。だから、私、真ちゃんのことを諦めた。
 なずなはお構いなしに喋った。明生が来たらそうしようと決めていたのか、それとも行き当たりばったりで話しているのか。これが目くらましなら大した演技力だが、そんな必要があるとも思えない。明生の困惑は広がるばかりだ。
 不意になずなは立ち上がると流し台から急須を持ってきて、自分のカップにお茶を注ぎ足した。明生に向かって小首をかしげてみせる。まだたっぷり残っているので明生は首を振った。そんなやり取りは一緒に暮らしていた頃と同じだった。
 でもねえ……。お茶を一口すすって、思い出し笑いでもするかのように顔をほころばせる。
 駄目だったんだよねえ。私、そのあと狂っちゃったのよ、となずなは言った。
 真一の家で自殺未遂をしたり、小春の部屋に怒鳴り込んだりといった話はやはり事実だったということか、と明生は思う。だが、そうしたすったもんだはもう五年も六年も前の話にすぎない。当時のなずなはまだ二十歳前後だろう。
 根元夫妻はどうして別れる羽目になったの?興味があることでもないが、そこは肝心な点だから質問せざるを得ない。
 小春の妄想、となずなが吐き捨てるように言う。
 明生ちゃんも本人からさんざん聞かされたんじゃないの。私と真ちゃんがずっとできてるって。それでこの五年間、真ちゃんの方も半分ノイローゼ状態だったのよ、あの女、ほんと馬鹿みたい、とまた吐き捨てる。
 しかし、いまのなずなの様子を目の当たりにすれば、小春の「妄想」をあながち妄想とばかりは決めつけられない気がする。現に明生ですら、これまで見たことのないなずなの素顔に多少の薄気味悪さを感じているのだ。
 あー、ごめんね、明生ちゃん。いきなりなずなが大声になる。
 また狂いそうな気がしたのよ。明夫は思わず身構えていた。
 真ちゃんが離婚したってお父ちゃんたちから聞いた瞬間、そう思ったの。彼女は明生の警戒心には気づいていないようだ。
 そんな自分が怖くて、しばらくは、忘れよう、明生ちゃんのことだけ考えようって毎日一生懸命だったの。でも、駄目だった。真ちゃんのことが頭から離れないの。いま頃どうしてるかなあとか、お店大丈夫かなあとか、隆一君はお母さんがいなくなって困ってないかなあとか。明生ちゃんのことを考えようとすればするほど真ちゃんのことを考えてしまうの。ほんとにごめんね、明生ちゃん。
 そこでなずなは大仰に掌を合わせて拝むようにした。
 でもさ、と、次の瞬間たちまち口調がくだける。
 私たちまだ子供もいないし、充分にやり直せるよね。明生ちゃんは宇津木家の御曹司なんだもの。私よりずっと素敵な人が幾らだって見つかるよ。元麻布のご両親やお兄さんたちだって、私たちが別れたら大喜びのはずだし。明生ちゃんにはあんなに立派な家族がついているんだもの。
 明生はなずなの余りの言いように、次第に気持ちを抑えられなくなってきた。
 いい加減にしてくれないか。気づいたら言葉が口をついて出ていた。語調がきつかったせいか、なずながたじろぐような表情になる。明生は一度深呼吸して、しっかりとなずなの顔を見つめる。もしかしたら、言うべきを言うこれが最後の機会なのかもしれないという気がした。
 小春さんの言っていた通りだよ。きみと根元はぐるなんだ。今日、きみの態度を見ていて確信したよ。なずな、どうしてきみは根元と別れたんだ。小春さんのためか。小春さんのお腹の中にいる赤ちゃんのためか。それとも根元のためか。そうじゃないだろう。きみは、自分のためにあいつと別れた。根元のことが許せなかったからだ。人は同情や悲しみ、失望なんかでは相手に対して迷惑をかけたり、その人のことを傷つけたりなんてできやしない。きみはきみ自身の怒りに任せて、気が狂うような馬鹿な真似をしたんだ。そしてあげく、自暴自棄になって自殺未遂をしたり、キャバクラで働いたりしてた。なずな、きみがやってきたことなんて本当にくだらない。徹底的にくだらないよ。
 きみは僕と知り合ったとき言ったじゃないか。私はちゃんと付き合うなら絶対に浮気しない人がいいって。僕は浮気なんてしてないよ。これからだってしないさ。だけど根元はそうじゃないだろ。恋人だったきみのことを平気で裏切って、ほかの女と寝たんだ。そして妊娠までさせた。あげく、その女に逃げられたら昔の女に泣きついてくる。子供の保育園のお迎えができないからときみに電話を寄越す。きっとそれだけじゃないんだろ。これまでずっといろんなことであいつはきみを利用してきたんだろ。そんなの男のクズだよ。どうにもならないろくでなしだ。そんな男のどこがいいんだ。そんな男のために僕とこんなふうに一方的に別れようっていうのか。きみはどうかしている。とんでもない嘘つきだ。何を甘えたことを言っているんだ。みんなそれぞれに重い荷物を背負っている。一人一人別々の苦労を抱えて必死で生きている。僕だってきみだってそうだ。あいつひとりが大変なわけじゃない。
 明生は喋りながら、先日お見舞いに行った榎田さんの顔を思い出していた。そして、あの日間かされた東海さんの話も思い出していた。興奮も悲憤もない。ただ、こういう話をしたところでいまのなずなの心には響かないだろうと思っているだけだった。
 なずなは、ぽかんとした顔をしていた。
 二人で暮らしているあいだ、彼女は明生からこんな辛妹な言葉を浴びせられたことは一度もなかったのだ。
 束の間の沈黙の後、ごめんなさい、と小さな声でなずなが言った。
 明生ちゃんは何にも悪くない。
 じゃあ、悪いのは誰だよ。なずなは答えなかった。
 僕が御曹司だって?きみと僕が別れたら僕の親や兄貴たちが喜ぶって?何なんだよ、それ。僕ときみとのあいだのことに何でそんなものが関係あるんだよ。僕は親や兄貴たちじゃなくきみを選んだ。誰が反対したって、きみと一生仲良く生きて行こうって心に誓ったんだ。その僕と別れて、一体きみはどこへ行くんだ。根元のところか。根元のところへ行ってきみは何をする。彼と小春さんとの間にできた子供のことはどうするんだ。きみは子供から母親を奪うのか。そしてその後釜に自分が座るつもりなのか。そして、根元と小春さんが二人で開いた店を今度はきみが切り盛りするのか。なずな、それがきみが一番望んできたことなのか。きみが小さい頃から夢見てきたのは、そんなつまらないことだったのか。
 ごめんなさい。
 なずなのさきほどまでの威勢はすっかり影を潜めていた。
 明生ちゃん、ほんとうにごめんなさい。
 そう詫びを繰り返したあと、
 でも……私にはどうしても真ちゃんなのよ、と彼女は俯いたままぼそりと言った。
 なずなの部屋を出た途端に下腹部に猛烈な差し込みがきた。慌てて目の前の公園の公衆トイレに駆け込んだ。汚れた便器に目をつぶってしゃがむとシャーと音を立てて水のような便が噴き出す。朝のコーヒー一杯とマグカップのお茶を半分ほど飲んだきりなのに、あとからあとから腹の中の水が吐き出されてきて気色が悪い。
 だが、ここ数日とはちがって、出すだけ出し切ってしまうとお腹の張りは取れていた。手を洗う頃には、この一週間ずっと引きずってきたモヤモヤがきれいに消えているのが分かった。消えてみて、そのことが実感される。
 治ったんだ。
 明生は素直に嬉しかった。この世の中、イヤなことばかりではない。捨てる神あれば拾う神ありだ。そんな気になる。すっきりした気分で明生はもう一度、なずなの住んでいるアパートの近くまで行った。
 向かいに聳える巨木越しに二階の真ん中の部屋を見上げた。それにしてもなずなの部屋は暗かった。陽光の下に出てみると尚更そう思う。
 なずなはあの暗い部屋をトンネル代わりにして、新世界へと旅立って行くつもりなのだろうか。そのトンネルの先に広がっているのは、ひからびた過去にがんじがらめになった寒々しい未来でしかないというのに。建物に背を向けると、赤羽の駅へと明生は急ぎ足になった。
 二日後の火曜日。午後八時過ぎに川口のマンションに戻って一階の郵便受けを覗くと、なずなからの速達が届いていた。明るいエントランスホールですぐに封を切る。
 離婚届の用紙に一筆箋が添えられていた。用紙にはなずなの署名捺印がある。一筆箋には短い文面が綴られていた。

 日曜日は話ができてよかったです。名前入れておきました。できるだけ早く区役所に提出してください。そちらの私物は、明生さんが会社に出ているあいだに取りに行くつもりです。長い間お世話になりました。やはり明生さんのような人には、私や真一さんみたいな人間のことはよく分からないんだろうと思います。この前、お話ししてみてそう思いました。
 さようなら。お元気で。 なずな
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