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中上健次『地の果て 至上の時』(小学館文庫)
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作品について
 これは中上健次の代表作ともいえる『枯木灘』の続編となる作品である。『岬』で芥川賞を受賞してから7年後にあたる1983年に新潮社の純文学書下ろし特別作品として発表された。
 出版当時は、文壇ジャーナリズムから総じて冷淡な扱いを受けた。『枯木灘」で中上健次が築き上げた「路地」世界から大きく逸脱したこの作品で、多くの批評家たちは戸惑いを隠せなかった。
 この作品では、『枯木灘』の主人公秋幸が刑務所から出所したところから物語は始まる。秋幸はその浜村龍造の長子であるが、自分は父とは暮らしたこともなく母親と異父兄弟のなかで育ってきた。路地に愛着はあるが、父親違いの兄弟姉妹のなかで育ってきたので家族への違和感も感じている。
 一方で秋幸は成長するにつれて自分が次第に父親にますます似てきたと感じている。「路地」の人びとからは蝿の糞の王ともあだ名され、怖れられ毛嫌いされている男であったが、自分の中にその男の血が流れていることをいやでも感ずる。
 秋幸は、前作『枯木灘』の中で、浜村龍造の子で、秋幸の弟にもあたる次男の秀雄を殺したのだ。浜村龍造は減ったらまたつくればいいと平然としていたが、もちろん心中は複雑だ。そしてなによりも父浜村龍造は秋幸に自分に近いものを感じていた。浜村龍造の長男友一は取り立てて取り柄のない男だったから、いやでも秋幸への期待を持ってしまう。
 秋幸はそうした父の期待を必ずしも拒絶はしていない。出所して秋幸が頼ったところは育ての親の竹原建設ではなく、実父の浜村材木店だった。竹原建設は「路地」の再開発の仕事を請け負っていた。かつて一緒に土方をやっていた竹原の長男文昭が会社を切り盛りしていた。秋幸が浜村材木を選んだのはもちろん父を慕っていたわけでもなく、ただ自然に触れて汗を流す仕事に惹かれたからだ。いまでも浜村龍造を許してはいなかったし、浜村龍造も秋幸に対する期待の一方で次男を亡き者にした秋幸への怒りは消えていなかった。
 「路地」の再開発を巡るいざこざは育ての親竹原一族と生みの親浜村一族がもつれ合う争いでもあった。浜村龍造は「路地」の地権者であり、「路地」の再開発を担当するのは主に竹原一族たちであった。そこに「路地」のかつての住民たちが絡んでくる。多くの「路地」の住民はどこか遠くへ去ったが、ジンギスカンの末裔を自称するヨシ兄らを中心とする人びとがそこは自分らの土地だとしてテント生活を続けていた。しかし、かれらは浜村龍造にうまく操られて泳がされていたのだ。ヨシ兄もかつての浜村龍造の相棒で悪仲間だった。かれらは竹原一族にとっては頭痛の種だった。浜村龍造は竹原一族に開発を任せ、「路地」の住人の追い出しが終わると、もはや竹原一族の利用価値はないとみて、今度は後ろで彼らの邪魔しているのだ。竹原建設の手形を買い占めていることも秋幸は知った。
 竹原建設の文昭は次第に追いつめられていく。秋幸の母でもあるフサが浜村龍造に電話してきて、文昭がどこかに消えてしまったから秋幸を戻してほしいと頼みこんできた、と浜村龍造から聞かされる。手形は秋幸に渡してあるから心配するなとフサに言っておいたが、兄やんはどうなんだ、と聞く。秋幸は戻るつもりはないと答える。
 浜村龍造は、もしかしたら冷酷無比なだけの男ではないのかもしれないという思いが秋幸の中に芽生えていたのか。他方で、長男の友一は秋幸への反感よりも浜村龍造への反発心が強くあった。
 そんな中、「路地」でテント生活をしてるヨシ兄が息子の鉄男に拳銃で撃たれて重体となる。拳銃は鉄男が警官から盗んだものだったが、一度鉄男から秋幸が買い取り、そのあとでまた秋幸から鉄男が奪い取ったものだった。
 ヨシ兄も、鉄男もシャブ中毒で浜村龍造から金をせびり取って暮らしているが、本当は鉄男は浜村龍造を撃ち殺したいと思っていたのかもしれないが、それがとんだことに親に銃を向けることになってしまったのだ。
 文芸批評家の川村湊は、「路地」消滅後に現れたこのヨシ兄一党についての違和感を次のように述べている。

 もうひとつの構造的な欠陥は、『枯木灘』には登場しなかったジンギスカンの末裔<シ兄が現われ、過去にまで遡って浜村龍造の分身役≠つとめているという設定自体についてだ。むろんこの人物の物語上における必要性・不必要性をにわかに断じることはできないが、『枯木灘』から『地の果て至上の時』への転換において顕著にみられる蝿の王&l村龍造の脱神話化♂゚程にともなう役割分担ということであれば、逆効果であったとしか思われない。龍造とヨシ兄は単純にいってしまえば、「路地」という世界に対する愛憎≠フ二面をそれぞれ象徴しているわけだが、それをふたつの性格として分離させる必要性は本当にあったのだろうか。すなわち、ここで浜村龍造的世界を割る必要があったのだろうか。
 このことに関連してさらにもうひとつあげておこう。『枯木灘』において龍造の抱いていた浜村孫一神話、あるいは浜村孫一への憑依幻想は、『地の果て 至上の時』ではヨシ兄のジンギスカン幻想、いいかえれば東アジア的妄想にまで膨張、拡大させられている。むろんのことそれは浜村孫一神話を相対化し、卑小化するのと同時に、「路地」という世界の歴史的、幻想的な基底をいっきょに持ちあげ、拡張化させる働きを持っている。だが、実際に『地の果て至上の時』の世界が、それだけの急激な大東亜≠ヨの戦線拡大=iついでにいえば台湾革命を志向するチェンの存在なども含めて)に耐えられるのだろうか。いいなおしてみれば、「路地」がとりこわされてさら地となった跡の「雑草の原っぱ」に、私たちははたして千年の時をへだて、海や半島や大河によってへだてられた「蒙古の大草原」を幻視することができるだろうか。むろん、アルコールや覚醒剤の助力を借りることなく、ただ文章≠ニいう魔術をもって。(川村湊「『世界』の輻輳」1983年「文藝」7月号)

 これに対して、作者中上は、次のように反論している。

 この新進は何としてでも「路地」という世界に登場人物らをはめ込みたいし、「路地」という世界に対する役割分担、愛憎、浜村龍造的世界を割る、というふうに絶対のレベルのように「路地」を持ち出し二項対立を頭に浮かべて語を並べるのである。事の始めから「路地」という世界のレベルは壊されているのである。絶対のレベルとしての「路地」を持ち出す事は誰にも許されていない、というのがこの小説の出発点だった事を考えると、この新進の物言いは、批評というものの退歩がありありと出たものだとしか言いようがない。ここはむしろヨシ兄のジンギスカン*マ想で、浜村龍造的世界から何物かが競り出て来たというべきである。それは浜村孫一神話の幾つかの側面をはっきり白日の元にさらしたと言えるのである。(『物語の系譜―折口信夫』より)

 作者が言うように、何者かが競り出してきたというように捉えることができるかどうかは、読者に委ねるしかないだろう。そのあたりからこの作品への評価が分かれるところかもしれない。
 川村湊は、さらにつぎのように述べる。

  そういう意味では『地の果て 至上の時』の世界は揚げ底≠ウれている。「路地」という世界と、世界の路地にしかすぎないという交換式が拮抗しているところに、『枯木灘』あるいは『千年の愉楽』の緊密な世界があったわけだが、『地の果て至上の時』の世界は、ただ複雑に絡みあう二項、三項の関係が環を結びあってゆくことによって構成される現実相似の世界である。つまり、そこには「路地」という世界、世界の路地としての被差別空間が孕んでいた〈反現実〉へと転化する契機はなく、どこまでも横ひろがりに広がる風景%Iな世界なのである。『枯木灘』の近親殺人者や『千年の愉楽』の卑小な女たらし、ヤクザ、泥棒、地廻り、浮浪者、タコ労働者といった賤民たちがその作品の内部で〈聖化〉されるのは、世界の路地という被差別性を逆手にとって「路地」という世界概念を成就するからにはかならない。現実の反世界としての「路地」という世界、反現実としての世界の路地の構築、まさにこうした世界と現実との転換、反転によって作品の中の人物は生かされ、また作者は世界概念に「とらえられる」だろう。だが、そのような世界概念の転換の契機は『地の果て 至上の時』に時限爆弾のように仕掛けられているだろうか。一点を発火させれば、世界がたちまち燃えあがり、崩壊し、暗転してゆくような仕掛けが。(同前)

 これに対しても、中上は冷静に次のように反論している。

 何度も言うが、この批評の書き手はどうしても絶対のレベルとして持ち出した「路地」に作者の想像力や思念を閉じ込めておきたいようである。ここに書かれてある事は、事のはじめから秋幸にとっても実父浜村龍造にとっても自明の事であった。現実の反世界としての「路地」という世界、反現実としての世界の路地の構築、というまさにそこを狙って、浜村龍造は境界という境界を壊し、裏山と路地、新地、境界の跡すら残らないように周辺を跡かたもなく取り払い、更地にし、放っておいたのである。そこから小説が始まったのである。いかなる世界も静止をはばまれている。オリュウノオバは死にモヨノオバは?となって口を封じられ、わずか浜村龍造の応接間とホットラインをつなげた今一つの密室モンの店だけが、破砕された世界像の混線場所のように噂がうずまいている。そこで、作の中央部に雑草の原っぱが出現しているのである。批評家はそこだけ草が生い茂る原っぱが中央部に提出されている奇異さに口を閉ざしたのである。単なる風景の一つとやり過ごしてよいか。読者はそれを空とみないだろうか、無とみないだろうか、同じように作の中央部に空洞の出現する物語「宇津保物語」を想起しないだろうか。(同前)

 作者の創作意図が読者に伝わっているかどうか、それは批評家の判断ではなく読者の判断に委ねられるものである。それにしても中上健次の筆力にはただただ驚嘆のほかはない。この作品は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を連想させる。テーマも父殺しである。しかし、『カラマーゾフの兄弟』のように作品の中で父殺しは成就しない。「路地」を占領するジンギスカンの末裔を自称するヨシ兄らは織田信長に追われ、逃げのびて熊野の有馬に住みついたといわれる浜村孫一の末裔を自称する浜村龍造の操り人形となって、結局は秋幸の拠り所である「路地」を消滅させようとしている。
 父浜村龍造は「路地」の外からやってきて「路地」に入り込み、「路地」の三人の女に子供を孕ませやがて佐倉という地元の材木商の番頭となり、そしていつのまにか佐倉を意のままに操り「路地」を支配し、しまいには「路地」を解体、消滅させようとしてきたのだが、その張本人である浜村龍造は、自宅で首を吊って死んでしまうのである。秋幸はその直前に浜村龍造の部屋に入り、彼が首つりする瞬間を黙って見ていた。長男の友一が背後からその秋幸を見ていた。
 浜村龍造がなぜ自殺してしまうのか。それがこの作品を解く大きなキーポイントである。
 多くの批評家たちは、そこに「父殺しの不可能性」をみている。例えば、柄谷行人は、新潮文庫版の「解説」でこう書いている。

 「すなわち、幾度も父殺しが暗示されているにもかかわらず、その「父」は、ほとんど最初から「息子」の子としてあらわれている。いいかえれば、最初から、メタレベルが対象レベルに降りてきている。すでに、父殺しは不可能なのである」と述べ、さらに柄谷は『枯木灘』において浜村龍蔵は「「神」のように超越化」されているが、そうしたメタレベルの存在を対象レベルのものとして描くことによって『地の果て 至上の時』では「モダンな小説そのものを自壊させた」と述べている。
 あるいは、すが秀実は、小学館文庫版の「解説」で次のように述べている。

 『地の果て』の最初から浜村龍造が語る奇妙な言葉「龍造はおまえの子供じゃ」も、この作品を貫く論理にかなっているということになろう。「岬」や『枯木灘』において遂行された「父殺し」の表象代理は、それが所詮は代理に過ぎず、それゆえに失敗に過ぎなかったことが確認されている。失敗した秋幸こそが「父」となり「王」となるのだ。しかも、「龍造はおまえの子供じゃ」という言葉は、秋幸が「『龍造よ』とまるで浜村龍造が秋幸の息子だというように呼んだ」がゆえに、発せられたのである。秋幸自身が、「父殺し」を遂行できなかったがゆえに(つまり、殺されなかった「父」に象徴的に殺されているがゆえに)、すでに逆説的に「父」であり「王」となっているということを無意識のうちに知っているのだ。

 『岬』や『枯木灘』では、秋幸にとって遠い存在ではあるが、逆にそれゆえに圧倒的な力の象徴でもあった父浜村龍造は、『地の果て 至上の時』においてはもはや父でもなく、圧倒的存在でもない。殺すべき対象である父は、ここには存在しない。今や、秋幸こそが「父」であり、「王」である。一体それはどういうことか。作者中上健次の言葉に耳を傾けてみよう。

 熊野に、性意識に目醒めた若者や娘を、アニ、イネと呼ぶ形がある。さらに古座に、若者をアイヤと呼ぶ形がある。アイヤは兄者(アニジャ)の変形であろうが、そう漢字にすると死んだ黒田善夫の詩の遊撃の重要なタームであるアンニヤとも重なるのが容易に見てとれる。古層が居残り続けた熊野と黒田善夫の凝視した東北の農村まで、アニ、アイヤ、アンニヤなる若衆らの層が存在するという想像ははなはだ刺激的だ。
 アイヤ、アンニヤなる母系の男たち。それが父の不在の母系で決定的な役割を荷っている。アニ、アイヤは、母との身体の戯れを終え、母との差異を確認した若者らである。母の子供である状態から抜け出、子供らの男親にもなれる。アイヤは共同体の中で独得な位置を占める。
 このアニ、アイヤの延長上に浜村龍造があり、竹原秋幸が存在する。竹原秋幸には浜村龍造は父ではない。もちろん、義父の竹原繁蔵も父ではない。南≠フ濃密な熊野で、もともとから父は存在しないのだ。ただオトコオヤだけが存在する。「枯木灘」も「地の果て至上の時」も父の不在を自覚したアイヤらの物語だ。
「地の果て 至上の時」の、オルフェスの冥界行のようにバスに乗り換えて下獄する秋幸は、父の不在が、母系社会の愉楽を形づくり、そこから逸脱した途端、母系社会が非倫理的で、ただ破壌の相貌をしか持っていないのを目撃する。秋幸が眼にしたのは、アイヤとしての浜村龍造であり、ニセの母を装う浜村龍造だ。アイヤから父に逸脱するには浜村龍造は、自己を粒子ほどにしてしまうほどの膨大な神話や物語が要るのを知っているし、また逸脱の不可能を知っている。しかし取りあえず物語る必要がある。
 浜村龍造はまさにバリ島の母として、すでに母フサから充分すぎる刷り込みを受けた秋幸に、身体の戯れを試みる。二人は山の中に入ってゆく。母を擬装する浜村龍造と、すでにアニ、アイヤの身にもかかわらず子として擬装する秋幸。母フサは何故、怒るのだろうか。
 フサはさながら魔女ランダである。母を擬装した浜村龍造の術にかかる秋幸の無意識に対して、魔女ランダたるフサは、母系の長として怒っている。たまたま分かり易い例として「地の果て 至上の時」を使っているだけで、他意はない。権力の誕生、あるいは「古事記」という神話がそうであるように、原初の国家誕生を描くのなら、秋幸はこの魔女ランダを殺さなければならない。逸脱した秋幸の真の敵は、母フサであるはずだ。
 秋幸が犯したとされる近親姦も、浜村龍造への殺意も、単純な世の中にはびこった父−母−私、あるいは、パパ−ママ−ボクの、まことにキック力のない構造認識から出たもので、作者が、どのように深刻に秋幸を悩ませてみたところで、何の意味も持たない。秋幸の禁忌への抵触は、あるいは禁忌の出来る以前の始原への要求は、フサを殺し、姉を犯す事である。擬装した母を殺したとしても、カタルシスはない。秋幸はもうすでに気づいている。浜村龍造は擬装しつづけ、擬装の母として首をくくる。
 「地の果て 至上の時」はそこまでで終っているが、母系社会のアニ、浜村龍造が死んだ後、秋幸は死んだアニから付与された魔術を元に、魔女ランダと終りのない闘いに入ってゆく。(「もうひとつの国」所収「南の記憶U」)

 魔女ランダとはバリ島に伝わる神話「ラーマーヤナ」に登場する母系一族の支配者である。中上健次は、熊野を南≠フ結節点ととらえ、この南≠ヘアジア的とも言いかえられるが、「アジアに内在するのは、父なるものの絶えざる不在により、つまり外からの禁止の不在により、幾つ積み上げても曖昧なまま崩れてしまう象徴体系の目づまり状態である。」(「同前」)と述べ、その結果として、例えば「神道が仏教渡来によって出来上った浄−不浄の文化制度の前で、一も二もなく敗北」したように、「間断なく、父を擬装するものの世界」はそうした父系社会の文化制度に脅かされ続けてきたのだ、と述べる。それゆえ、アニ、アイヤたちがその世界から踏み出して行くためには、魔女ランダを殺すという終わりのない闘いに入っていかなければならない、と作者中上健次は言う。
 この作品以降に、中上健次は魔女ランダとの終わりなき闘いを主テーマに作品を書き続けていくことになるのだが、それはここでの本題ではない。いずれにしても、「路地」は消滅し、それによって秋幸も姿を消して、この小説は終わる。

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