あらすじ
第二章 次の日、秋幸は人夫らに混じって下刈りをはじめた。ほんの五メートルほど刈り進んだところで、秋幸は若い衆と鉄男に昼になったら事務所に寄れと言って、あとを任せ、車に乗った。 紀子に会いたかった。林道を切れて渓流ぞいの道を走り、民間のまばらな里を抜け、途中下りて渓流で水を飲み、顔を洗って、市内へと向かった。 車をデパートの駐車場に入れ、紀子に電話した。紀子は今日も小鳥の餌買いに行くので、アカシアという喫茶店で会おうという。秋幸はモーテルに行きたい、と言ったが、紀子には、なに言うとるの、アカシアよと言われ午後一時にアカシアで会うことになった。 一時まで木材協会に顔を出そうと、駐車場に行くと、そこで良一がジープでやって来た。良一は、隊長また出たんじゃ、という。チーン、チーン、シャランという音だけ聞こえる幽霊が高速道路のインターチェンジの工事現場からほど近い荒れ地同然のところにまた現れたというのだ。 駐車場でトラブルがあったので、秋幸は歩いて木材協会に行くことにした。良一もついて来る。途中、良一は小路を少し入り込んだところにある小さな家に寄った。そこはオリタケのモヨノオバの家だった。モヨノオバは、耳は聞こえるが話せない。モヨノオバは路地でも知られた器量よしだったが、突然声がでなくなったのはモヨノオバと恋仲になったその男に振られた前の女が、モヨノオバの飲む茶に毒を入れたからだという。 しかし路地で語られたてきたのはこの話とは違う。高麗や天竺から飛来したという天狗のように羽根をつけて次々と飛び上がる人間を烏天狗と路地の人々はいうが、ある日烏天狗がモヨノオバの真上にやって来て、永久に声がでないようにしてやる、と言ったというのだ。 アカシアには紀子は結局来なかった。紀子の家に電話しても誰も出なかった。ことごとくがはぐらかされていると思った。そして秋幸は浜村龍造がことごとく今を作り上げているのだと思った。秋幸が秀雄を殺したから、浜村龍造は山も路地も一挙に消し去ったのだ。電話を掛けて、なにもかもぶち壊わしてやる、と言ってやりたかった。 電話をすると、番頭がすぐ米倉産院へ行って欲しいと親方が言ってました、と言う。米倉産院にはモンとヨシ兄とヨシ兄の女スエコがいた。ヨシ兄にさっき会ったモヨノオバのことを話すと、あれは良一の母親だと、言った。産院に来たのはスエコの月経が止まったからで、もしや妊娠かと調べてもらうためだった。モンは歳のせいだと言ってるが、スエコは診てもらわな、分からんとここへ来たのだ。 ヨシ兄は、浜村龍造に百万で売った鉄男を返してくれ、と秋幸に言った。返してくれなきゃ、いままでの悪事を全部ばらしてやると、浜村龍造にそう伝えろ、と言う。秋幸は、俺が鉄男を買うことを決めたんじゃさか、俺がヨシ兄の元につれてきたる、と約束した。 秋幸は、その夜鉄男を連れて、路地跡に立てられたテントの中にいるヨシ兄を訪ねた。鉄男はギターを持ってきてヨシ兄に歌を聴かせた。 そのことを聞いてモンは、秋幸が生まれてから今までのいきさつをなにもかも知っているので、秋幸の胸のうちに去来するものが分かるような気がした。秋幸が腹違いの妹と出会ったのも、そして秋幸が腹違いの弟を殺したのも、モンは止めようと思えば止められたのに、自分がそうしなかったのは、別れても暮らす二人をひきあわせることだけを考えてきたせいだと独りごちるのだった。 モンは、そして死んだ秀雄が、自分の周りにさながら親に戯れる子供のようにまといつく姿を思い描く。モンの店の二階に寝ているモンの男の背中の刺青を秀雄がうらやましがり、親に内緒で同じようなものを彫りたいから連れて行ってくれとせがまれ、ほうほうの態で逃げていたこともあった。 他方で、浜村龍造は自分の子供たちが新地に近寄ることさえ禁じていたのに、秋幸が新地に顔を見せると、大事に扱ってくれ、なにもかも教えてくれ、と言い、そうして秋幸はさと子と関係してしまったのだ。秋幸はワナにはめられたも同然だと、モンはつぶやいた。 モンは清水を汲みに路地跡に行く。ヨシ兄がモンに声をかけ、鉄男が帰ってきて泊まっていた、と言う。 モンは秋幸が会ったというモヨノオバの話もよく知っていた。モヨノオバは佐倉に長く勤めていた。佐倉が火事になったあと一時期良一を連れて路地に住んでいた。モヨノオバが良一の実の親なのか、そうでないのかははっきりとはわからない。ただ、佐倉に現れた大きな狼のような二人の男らが、ガソリンをまき火を放ち、一人がモヨノオバを脅し、金目のものを出させ、モヨノオバを犯した。もう一人は佐倉の旦那が寝ている部屋に入り、しばらくたって血しぶきでまみれた体に抱えきれぬほどの証書をもってそれを袋に詰めて、モヨノオバを犯している男の尻を地下足袋で押さえ、もっともっととあおる。そして袋を持った男が、袋から手を離し、スボンを下げ、のしかかった男を蹴り上げるのを見てモヨノオバは悲鳴を上げようとしたが、声が出なかった。それからというもの声が出ないので、モヨノオバは誰にも話すことはないと殺されずに済んだという。 モンは身をかがめて清水をヤカンに汲む。ヨシ兄は、鉄男にしばらく居たれ、と言ったってくれと言う。朝になったらまた山仕事に出ていってしまったらしい。モンはシャブを打っとる親父のとのころより山にいるほうがせいせいするんよ、と心のなかでとつぶやき店のほうに歩きはじめる。 今、自分の脇にいるのは、覚醒剤中毒の幻覚でジンギスカンの末裔だと騒ぐヨシ兄ではなく、あの浜村龍造と組んで火付けしたり、押し入り強盗をやらかしたあの男なのだ。 秋幸は鉄男と若い衆を連れて三人で、人夫たちにまじって下草刈りや木の切り出しの現場で働いていた。人夫らは、三番目の子を殺した長子を迎え入れた浜村龍造と弟を殺した兄を迎え入れた友一の気持を噂した。秋幸は自分がなぜ浜村龍造のところに来たのか、自分でもその答えが見い出せないでいた。 現場仕事を終え、車で山を下りる途中、国道の信号のある角のガソリンスタンドで友一がこちらに手を振っていた。友一は秋幸たちの車を追いかけてきて、鉄男と若い衆にガソリンスタンドにおいてある自分の車に移れといい、友一は秋幸に、どこでもええからちょっと走らんかい、と言う。 秋幸は国道を有馬のほうに向けて走った。しばらくして友一が竹原建設のことじゃが、と言う。秋幸は、国道脇の喫茶店で車を止め、ビールを飲みながら友一から浜村龍造が竹原建設の手形を集めているという話しを聞く。友一は、なんのために手形を集めているのか、救けるつもりか、それともその反対のことをしようとしているのか、浜村龍造は秋幸がかわいそうだと言った、と言う。竹原建設は経営はうまくいってるらしいが、どうやら女と絡んで変な噂が飛んでる、という。 秋幸は、文昭は計算ずくめの男じゃから、もう少しくだけた方がええ、女遊びにちょっとくらい金使こうた方がええんじゃ、と言う。友一は、わしも兄貴も親の無鉄砲な女遊びで生まれてきたようなもんじゃ、と言い、兄貴と大人になってから話すの、夢みたいや、と言う。兄貴とは一度も飯も食たこともなければ、風呂に入ったこともない。死んだ秀雄はそれがもどかしかったんやろの。 俺が殺したんじゃ、と秋幸が言う。友一は息をつめ、秋幸を見た。それから、親爺を大事にして昔の事は見逃したって欲しい、親爺は兄貴の事ばっかり昔から言っとった、秀雄が死んでから一層そうだ、と友一は言った。秋幸は、俺は龍造をなんとも思っとらん、と言う。 友一が涙を溜めている。親爺を許したって欲しい。兄貴が思うとるほど親爺は悪党と違う。秋幸は、悪党であってもらわなかなわん、友一、俺がそばにおるかぎり、俺らは悪党衆で人に後指さされ続けるんじゃ、と言った。友一の戸惑いをからかうように秋幸はわらい、友一は、意を決したように秋幸に握手を求めた。二人は握手を交わし、秋幸は、友一の肩を抱き、龍造が何をしようとお前は知らん顔しとけ、と耳もとで言った。
扇祭りが過ぎると土地は連日三十度を越える暑さが続く。秋幸は久しぶりに味わったその土地の暑さを耐えがたいとさえ思った。 相変わらず、ヨシ兄や浮浪者たちは昼日中から路上で火を燃やしている。秋幸のところに美恵の夫実弘から電話があった。土方やめて、竹原を出て浜村のところで働いて、浜村の跡を継ごうと思うのはかまわんが、と実弘は言い、ヨシ兄らルンペンと一緒に火燃やして、鉄男をそこで使うとるかぎり人は浜村が開発会社の邪魔しとると取るど、鉄男を連れて来い、と実弘は言った。そして、世間はヨシ兄の後ろで浜村龍造が糸引いとるのを知っとる、茨の龍とヨシ兄が切っても切れん仲だということはみんな分かっとるんだ、このまま放ったらかすなら逮捕してぶち込む、と脅す。 秋幸は実弘からの電話のことは浜村龍造には一言も話さなかった。浜村龍造と実弘や繁蔵の間にどんな確執があったのかをモンに訊こうと思ったが、ヨシ兄たちが火をたいていることを耳にするや、モンが息が苦しいと胸に手をあてたのを見て、秋幸はなにも言えなくなった。 秋幸は柵の前に立った。浮浪者たちは火の中にダンボールや木切れを放り込んでいた。秋幸はここでたとえ火をたこうと他に燃える建物もない空き地なのに、実弘や繁蔵らが大袈裟に言っているのだ、と思う。彼らは土地大改造が決定するや開発会社の役員となり、路地の一軒一軒を説得して立ち退かせ、家を取り壊し、山を取り壊したのだ。 秋幸は炎が草とともにゆらめくのを見ていた。秋幸が生まれ、そこで育った路地が消えた。実弘と繁蔵がわずかばかりの立ち退き料と代替えの安いアパートを用意してブルドーザーを入れ、ショベルカーを入れ路地を消したのだ。美恵とフサがやった、と秋幸はつぶやいた。 黄色いテントの脇でスエコが古いセーターををほどき毛糸玉を作っていた。ここで見張ってないと会社のやつらが何をするかわからないのだ、スエコは言い、朝あいつら除草剤撒こうとしてた、と言う。 そこへヨシ兄と鉄男がやって来る。ヨシ兄はダンボール箱に入った菓子パンと栄養ドリンクを浮浪者たちに配る。浮浪者の一人が煙にむせるのを耳にして、秋幸は、火をもう少し小さくしろ、と言う。ヨシ兄が、繁蔵や実弘の言うこと聞けと言うんか、と笑を浮かべる。 スエコが、火たかなんだら、あいつら草と一緒にわしらも枯らしてしまうつもりじゃ、と言って手にしていた毛糸玉を草むらに放り投げ、あそこにも除草剤まかれとる、おまえら、あそこ歩いたり、坐ったりできるか、と怒鳴る。秋幸は、火が大きいから町の人たちが不安になって消防署せっついたり、警察に電話したりするんじゃ、と言う。ヨシ兄は、なにが警察や消防署がおそろしものか、俺はいつでもここから立ち退いたると言うとるんじゃ、理由があるなら言うて来いと言うのに、あいつら姑息に立ち入り禁止の柵作ったり、除草剤撒いたりする。ここの土地はみんな佐倉が安い金で路地のものからだまし取ったもんじゃだ、と言う。 秋幸が、ジンギスカンのもんじゃ、と言うと、そうじゃよ、とヨシ兄は言い、秋幸の背中に手をかけ、思いついたように、火を消せ、と怒鳴る。近くの者たちがその意味がわからず躊躇していると、いっつも俺らに火たけとそそのかすのは、龍造じゃよ。その火を俺らに消さすんかい、アキユキに消さすんかい、とヨシ兄が言う。 アニ、ほんまの事、教えたろかい、とヨシ兄は秋幸の耳もとでささやき、秋幸の背をひとつ叩き、おどけた調子で、あれは悪り。なんでも自分一人のものにしたがる、と言ってからくつくつと笑い、おまえの子まで取りあげる。 秋幸が訊き直そうとすると、ヨシ兄は背中を押し、すたすたと草むらの方へ歩いて行った。秋幸はみていた。紀子の子に未練はない。紀子が未練だ、と天啓のように思い、それから誰にも犯されない力を示す行為だというように、火を消せ、と怒鳴った。
海と山と川に四方をはさまれた人口四万弱のその土地は、隣の土地との境目にあたる山を削り取ると地形は一変した。二千年もの昔から熊野信仰の都として栄えた土地はまるで異教徒の渡来を迎えたようになにもかもくつがえされるのを人々は眼にし、不安になった。 そのよい例が路地だった。その土地を縦断する長山と呼ばれた山が旧新宮と旧熊野地を分け、旧新宮の町の人には眼につかぬその長山の裏側に路地はあった。山を削り路地を消し去ってみるとそこは地域のまん中に位置し、逆に値のつけようがないほどの有用な土地となった。他方でかつての繁華街は繁華街でなくなり、古い家並みを誇っていた一等住宅地も、新たに浜そばの場所に庭の広い欧風住宅が建てられると、時代遅れの不便な家だと言われるようになった。土地改造のせいで、上と下がひっくりかえる気配があった。それに促されるように水の信心は広まっていた。 木材協会のカフェテラスで、友永から紀子とよりを戻したいのか、と訊かれたちょうどその時、浜村龍造と紀子の夫の大和田が連れ立って事務所に入ってきた。二人はその足で秋幸たちのところに来て、椅子に坐り話し出す。浜村龍造と友永らは材木の景気の話しなどをしていたが、秋幸は一人紀子のことを考えていた。秋幸は紀子がたとえその大和田とそして浜村龍造にも身を任せたとしても紀子と秋幸の関係は変わらない、と独りごち席を立つ。友永も引きあげ、秋幸についてきた。 友永は、鯨川の事務所まで送ってくれ、と秋幸の車に乗り込んだ。友永は、チェンが秋幸と話したがっていたと言い、チェンは台湾独立に絡んでいて台湾からも、日本からもさらにFBIやCIAからもマークされているらしい、と言った。斎藤はあのあとチェンに絡んで台湾独立するなら、今すぐにでもやれとけしかけ、一人一殺で、三十人いればすぐにでもできる、と言っていたという。あいつはええ加減なことばり口から出まかせ言うて人をそそのかす、と友永は言った。 秋幸は竹原の家に行った。美恵が来ていた。入るなり、あんたのしとることなにもかも筒抜け、ヨシ兄と組んで毎日火たいたり騒いだりして開発会社の邪魔しとると、と言う。秋幸は、この前も実弘にポン中のヨシ兄使って火たいたりしていやがらせするのもええ加減にせい、と言われたと言い事務所のソファに腰を下ろした。 眼のまえに足を組んで坐っている美恵は土地の改造気運に乗った飛ぶ鳥を落とす勢いの土建屋夫人という様子で、路地に暮らしいた頃とはまるで違う生活が浮き上がってみえる。美恵のその姿は秋幸には皮肉以外のなにものでもなかった。 美恵の夫実弘が羽振りがよくなっなったのは、山と路地を切り取り、撤去する作業をそこに住んでいたという理由で請け負ったからだし、それを佐倉と結託して進めたのはほかならぬ浜村龍造だった。路地の男として路地に生きると思っていたかつての秋幸には路地を地上から消しゴムで消すように消そうとした浜村龍造のみならず、実弘や繁蔵もその女房である美恵やフサも納得できなかった。 美恵は、紙みたいやった、と路地の家がまるで紙だけで出来ていたようにブルドーザーやショベルカーで簡単に潰された、と言った。美恵は家がなくなったことを悲しんでいるようにみえたが、美恵が今している事は弱いものから土地を取り上げ、追い払いそのあがりで食って肥り、感傷にひたっているだけだ、と秋幸は思う。人を踏みつけて人は何で平気で生きていけるのか、もし美恵が秋幸の言葉を受けとめる強さを持った男の兄弟ならば、美恵にはそう言ってやりたかったが、体も気持ちも弱い美恵にはそれは無理だと言葉を呑み込んだ。 そのあと中之町まで美恵を送る車のなかで、文昭がホステスの女に金をつぎ込み、それと組んだヤクザに脅迫され、どこかに雲隠れしているという話を秋幸は聞いた。それが原因で文昭の女房は子供を連れて実家に帰っているらしい。母さんは何も知らず、文昭が自殺するんやないかと心配ばかりしとる、文昭が自殺でもしたら秋幸が龍さんとこからもういっぺん竹原に来て組をつがんならん、と美恵が言う。 本当のところ、ヤクザと女を脅すために自殺すると狂言やっとるらしいけど、文昭は本当に自殺してしまうかもしれん、と実弘が言っていたとも美恵は言った。秋幸は浜村龍造が手形を持っていたという友一の話を思い出し、フサはヤクザや女の影に浜村龍造が見え隠れするのを知って何がふりかかってくるか分からないと不安になり、心配しているのだろう、と思った。中之町のとば口で美恵を降ろし、その後ろ姿をみながら、路地が消えたのなら血のつながりも消えるべきだと秋幸は独りごちた。 秋幸は有馬のジジの小屋から車で事務所に行き、そこで鉄男と若い衆を乗せて浜村龍造の家に行った。その日は、友永山林から苦情が来たと友一に言われた。秋幸たちが木を切り出して野猿と呼んでいる手繰りロープの運搬機で木を林道に下ろす作業をしているが、その野猿が友永山林の持山の上を通っていたらしい。友一に土地が国のものと思ったのか、と言われ秋幸は頷く。 友一が番頭に呼ばれて玄関に出ようとするところで、ちょうど浜村龍造が部屋から現れ、下田、ちょっと来い、と番頭を呼びつける。秋幸に、これら友一と一緒になってろくでもないことしよる、と言う。売るにしても、買うにしても、一言事前に相談に来なんだらあかん、と言い、友一が、相手がうちの一統のもんやし、どうしても売ってくれと言うたさか、と言うと、それが好かん、と浜村龍造は言う。 あいつら二人の態度はなんじゃ、とつぶやく。どうも虫が好かん。材木屋を何じゃと思うとるんじゃ、と言い、あいつら二人、首切ってもかまわん、とまで言った。シャブでもやったんかい、と秋幸は訊いた。ヨシ兄じゃあるまいし、と言い、ふと思いついたというように、青少年審議会で鉄男の話が出ていた、あいつは町の不良少年たちの陰の親分だったらしい、審議会では現在は更生して立派に働いていると力説してやった、と言った。 秋幸が若い衆の方は、と訊くと、瀬田は審議会にはかからなかったと言い、あれはただの水呑み百姓の三男で気が荒れてよう喧嘩しただけじや、と言う。鉄男をとるか、瀬田をとるかは簡単には決められん、商いは番頭の善し悪しでそう影響は受けんもんじゃ、番頭の悪りのくらい知れとる、旦那の方が十倍も悪りんじゃ、と言う。 ということは自分より旦那だった佐倉の方が悪るいと言う事か、秋幸が訊くと、佐倉の旦那ほど悪り者はおらん、と浜村龍造は強く言った。みんな、わしのせいじゃと人は噂つくるんじゃが、あの旦那は体も弱いし、外へ出歩くのも好きでないさか、悪り事、考えるんじゃ、と言った。 秋幸は、その昔女工のストライキを壊したり、終戦直後遊廓や駅裏に火付けし佐倉を殺したのはまぎれもなく実父浜村龍造だと思った。秋幸はまだ三歳の頃のことだが、母や美恵からも、浜村龍造が油の染みついた大鋸屑を大きな邸の要所にばらまき火をつけ、そのうえで強盗を装って押し入り佐倉を殺害したと、教えられてきた。だが、山林地主の佐倉は代替わりして川向こうの鵜殿にある。
体を動かすたびに汗の滴が緑の中で働く事の快楽そのもののように流れ落ちた。夏草の茂みが刈られ、その切り口から流れ出すにおいを嗅ぎながら、ふと自分が夢を見ている気がした。自分のなかに何事か人に言ってはならない禁忌があり、それが倒れ落ちる葉や茎を見ていると、次々と夢のようにわき出すのだ。 昼飯がてら戻り、ついでに木協に寄り外材の輸入割当の推移を調べようと、若い衆に車を運転させて国道を川沿いに下っていると、後ろからクラクションを鳴らした車が走ってくる。運転していたのは良一だった。助手席に坐っていたのは浜村龍造で、後部座席に体を震わせて、涙を流す徹がいた。白痴の生んだ赤ん坊を家に持ち込まれて姿をくらましていた徹は少し前にこちらに戻ってきていて、ユキとさと子が水の信心の道場に引き込んだらしい、とモンが浜村龍造に教えた。徹はそこで何日も水だけを飲み、穢れを取るため体を竹ぼうきで打たれ続けたようだ。浜村龍造が良一の手を借り、警察官二人とともに道場に入り、徹を連れ出したのだった。 最初は暴れていた徹も、秋幸が戻ってきとる、と言うと大人しくなった、と良一が言う。会わしてくれというんで、病院に連れて行く前に来た、と浜村龍造は言い、徹を救けだしたのはさと子が穢れている体毒を払えと責め続けて殺してしまうと心配したからだ、とも言った。 徹を病院に送る良一の車の後を走り国道の交差点のところで、あとで病院に寄ると言い、道を別れた。デパートの駐車場に車をとめ、食堂に入りモンに電話する。モンがすぐ来てということので、車を鉄男たちに任せ、モンの店に行く。 さと子が店にいた。警察に頼み込んで母親のいる敷屋に帰るという約束で出してもらったとモンが言う。さと子は徹を連れてきたのはユキだと言い、徹が道場に入ってからは仲間の人たちの助けを借りて徹の体毒をさらしてあげようとした。内面の体毒は日輪様に頼んだり、同じ志の仲間にたよらなんだらどうしようもない、とさと子は言う。 ユキが徹のことをさと子に言い出したのは、水の話をして、水を飲んだことを繁蔵になじられたからだとモンはいう。徹が戻ってきてユキの家に閉じ籠もっていたので、ユキは弟の繁蔵に身の振り方を相談しようと繁蔵を訊ね、玄関口の上がりかまちに横坐りになり、フサに水を一杯くれないかと頼んだ。ユキは水を飲み、水の有り難さや日の尊さを説きはじめたところに繁蔵がやってきて、用事もなしにうろうろして乞食みたいに、とユキをなじったのだ。繁蔵にしてみればてっきり文昭のことを聞きつけて、その昔フサと一緒になる前に親代わりとして文昭の世話をしたことがあるのでユキが何か口ばしを入れると思ってのことだった。ユキはその年になって繁蔵に裏切られたと思い、立ち上がり、やれ、怖ろしよ、と精一杯の悪意を込めた言葉だけを言い、さと子がアルバイトをしているスーパーマーケットの裏口に行って、さと子を見つけ、思いのたけを喋ったのだ。さと子は仕事を放り出して、徹を立ち直らせようと家に向かった。 秋幸はモンの店をあとにして若い衆らを待たせてある浜村木材の事務所に行った。そこで浜村龍造がやって来て、若い衆らに秋幸を十日ばかり借りると言った。そして浜村龍造は、良一と警察官二人で踏み込んだ時、水の巫女とその兄である斎藤兄妹の二人を逮捕したと秋幸に教えた。 浜村龍造と秋幸はライトバンドを駆って山へ向かった。夏なので山でも凍えることはないと、浜村龍造は何も持たず秋幸を連れて山に入り、渓流のそばで火をたき、暖をとり、草の上に寝転び、眠る。浜村龍造は、ただ無防備の状態になって、その気になれば鳥や猪や渓流に住む魚を取って寝起きをともにしたいと言う気持ちだけだったのかもしれないが、秋幸にとっては自分に謎を問いかけているように思えた。今、浜村龍造は手を伸ばせば届く距離にある。 秋幸は、秀雄のことを、怒っとるかい、と訊く。まあ怒っとると言えばそうじゃ、と言い、女の思うつぼにはまったんじゃ、と言った。女は男が自分の思う通りにならんと言うて、一番酷い方法で子供を殺しにかかる。フサがおまえを大事に育てたと思うか、と訊き、おまえが秀雄を殺したんじゃが、わしはフサが俺の子を殺したんじゃ、と思とる、本当に秋幸が殺すんじゃったらこの俺じゃ、と言った。浜村孫一が浜村龍造をか、と秋幸が言うと、浜村龍造は声を立ててわらった。 その昔秋幸が浜村龍造を憎悪したのはフサの言う悪口のせいではなく、つけ火のたびに犯人は体の大きな乱暴者だと浜村龍造の名が上がったからだった。 秋幸、と浜村龍造にゆすり起こされて、秋幸は路地がつけ火され炎を上げて燃えている夢を見ていたと気づく。渓流のわきの石の原に焚かれた火の傍らで眠ったらしい。浜村龍造が、先に立って渓流の方へ歩き出し、何も食う物ないんじゃ、とつぶやき、渓流の脇で身をかがめ水をすくって顔を洗い、口をすすぐ。山の朝は気色ええ。観音さまの女陰からわき出る甘露じゃから水も甘い、と言い、秋幸の脇に立つ。 秋幸は、路地がつけ火されて燃え上がる夢を見ていて、体の大きな男が出て来た、と言う。浜村龍造は、また俺じゃと言うんか、体の大きな男は他にもおる。おまえじゃろ、と言う。秋幸の顔に浮かんだ一瞬の狼狽を見て、浜村龍造は嬉しくてたまらいように、おまえがまだ芽を出さんタネの時代の事を言うてくれる、タネの孫一殿は分かっくれんのじゃ、負けたら負けた状態でとどまっていたら一統は亡びるじゃのに。路地を見たことあるんかい、路地を歩き廻ったことあるんかい、と言う。秋幸は、浜村龍造が秋幸を挑発していると思い、その男は確かに俺だったんじゃ、と言った。 そして、浜村龍造の声に似せて、俺は刑務所から戻ってこの足で路地の土の上を歩き廻っての、泣いたんじゃ、わしはその時自分が何でもなれると思ったんじゃ、わしは浜村孫一にもなれる、と思ったんじゃ、と言った。そして、路地の草むらを歩きもて竹原秋幸は死んどったんじゃと知ったんじゃ、とそう言い、それからいつか秋幸がさと子との関係を言った時に浜村龍造が、かまんのじゃ、と笑ったように笑おうとした。 浜村龍造は、重大な告白をしたとでもいうように人を射すくめる眼をした秋幸を見つめ、それがたった今思いついたことであろうと察しながら、秋幸の本当を見たと思い、ひとかたならぬ衝撃を受けていた。佐倉の番頭をしていた頃の浜村龍造みたいな秋幸がぬけぬけと自分が積みあげてきたものを横取りしてしまう、簡単に自分を嘲いものにできると思い、兄やんはわしを脅しとるんじゃの、とつぶやいた。 そうじゃないんじゃ、龍さんが自分の血じゃと母親のかげにかくれて見とった秋幸は路地が消えたのとともに死んだという事じゃ、わしは生きとるし、確かに浜村孫一の血を受け継ぐ浜村龍造の子じゃが、獣同然のただの男じゃ、と言った。 黄金色の日が山の際から射し蝉の声が日の輝きを喜ぶようにその山の際から聞こえ、秋幸は立って水の際へ歩いた。石を踏んだはずの足の指先に劇痛が走る。見るとナイフの刃が石の間に落ちている。足の指の付け根から血が流れる。 それを見て、浜村龍造が、素っ裸になって山の中を走るか水に浸かれ、と秋幸に言う。何ない、と秋幸が訊くと、山のカミが女陰拡げて待っとるのに、おしゃべりばかりしとると怒って悪さしたんじゃ、と言い、はよ服脱げ、俺も従うさか、と言う。 秋幸が服を脱ぐと、浜村龍造も服を脱ぎはじめ、どうせなら二人で体洗うら、と言い、兄やん、こら、と言い背中を見せる。背中から尻にかけて一面に雲を突く龍の刺青があった。浜村龍造がその刺青を自慢する。名前に合うとる刺青じゃ、と秋幸は言う。分かってくれるのは、秀雄とおまえだけじゃ、友一はみっともないから隠せと言い腐る、と言って体をねじって自分の刺青を見ようとする。 秋幸はしばらく水に浸かり、何度も身を潜らせ、青みの淵で泳いだ。先に上がった浜村龍造が、いつまでもしつこくかかっとったら嫌われる。ほどほどにしたらええ、と言った。
秋幸が浜村龍造と十日間の山歩きから戻ったのは盆の四日後だった。モンは男二人が山歩きをしたのは、秀雄の命日にあたる盆の八月十五日に合わせて秀雄の霊に会いにいったのだと考えていた。秋幸は良一と若い衆を連れてモンで飲んでいてそこへ鉄男もやって来る。そこで飲んでいる男たちを見ながらふとモンは昔のことを思い出す。モンはかつての路地に住んでいた人々の秘密を沢山知っていた。 秋幸の姉、フサの娘の美恵は、モンが郁男に流してやったヒロポンを郁男の連れに売っていた。それは郁男が死んだ今モンが話さなければ誰にも知られる事のない事実だった。フサが繁蔵と仲良くなり、孕んだ子を何回も中絶していた頃、秋幸より十ほど離れた十五の美恵は、ヒロポンを売り、それで不良だった実弘と知り合い、そのうち二人はしめしあわせて家出した。フサがモンのところにもやって来て、モンが家出の手順を教えてやったと口ぎたなくののしることもあったことなどを思い出す。 路地跡の浮浪者たちの騒ぎに対する苦情を原発反対派や労働団体などが取りまとめ、消防署や警察、保健所などに駆け込んいた。そして、秋幸は山に入っていた十日間のうちに徹の噂が土地に広まっていることを良一から知らされた。 白痴の子が孕んだ時、婆さが誰の子かと白状させようと殴っているのを聞きつけて近所の人たちが駆けつけた時、白痴の子が突然光りはじめ、宙に動いて仏壇にぶつかったのを何人ものひとが見たという。そして、生まれた子はよそに貰われたらしいが、すぐに亡くなったらしい。白痴の子も肥立ちが悪く亡くなり、婆さもまた亡くなった。その三人のたたりを受けて、徹は何遍も亡霊を見、病気になり、自殺をはかったらしい、と良一は言った。 秋幸は、その徹を見舞いに行った。徹は国道沿いの温泉地にある海の見渡せる病院にいた。その病院には、プロ野球の戦争も来ているらしい。近くの者が、掛布が来とる、と言った。秋幸は、ふと思いついてそこから紀子に電話した。紀子は病院にタクシーで来ると言った。 秋幸は徹のところに戻り、病院出たらまた俺と働こら、山仕事やけど面白うやろうと思えばいくらでもできる、言う事を聞く女などいくらでもあてごたる、と徹に言う。その時、紀子が入ってきた。秋幸は、徹に、また来る、俺は刑務所から出て来て、今日はじめて、紀子を抱くんじゃ、と言った。 モーテルで紀子を抱いた。部屋に入るとまもなく紀子が秋幸にしなだれかかり、そのまま唇を合わせ、交わった。秋幸が紀子の女陰に指をはわせ、こんな小さなところに性器が入るものだと言うと、紀子は自分の方から秋幸の性器に女陰を当て、ずっと覚えていた、とつぶやき腰を沈める。 秋幸は紀子が性の愉楽を知っていると思い、紀子の腰の動きに誘われるように腰を廻し、声をあげる紀子を抱え起こしながら、浜村龍造が背中に刺青を彫っていたのはただ相手になる女の眼を楽しませるためで他に理由はないと思いついた。紀子が望むなら背中にでも腹にでも刺青を彫ってってやると思いながら、秋幸は紀子の脚を片方ずつ腰に乗せ、見てみよ、こんな岩みたいのが、突きささっとる、秋幸が言い身を引きかかると、紀子は短く声をあげ腰を浮かす。澄んだ液がゆっくり紀子の尻の割れ目に流れ出し、シーツにこぼれる。秋幸は性器を深く沈め、動くたびに寄りどころが欲しいと秋幸の胸にもたれかかろうとするのを抱きかかえ、紀子が他の男と結婚し、他の男に身をまかせたた事を女々しくなじりたい気がした。 モーテルを出て、車で高速道路のそばの入り江に入った。そこの土産物屋に紀子は入り、二十分ほどたって海苔ひと束持って戻ってきた。紀子は眼をはらし鼻声だった。俺とやったのが、つらいのか、と秋幸が訊くと、違う、私、強いよ、と紀子は言う。何遍も子供殺して他所へ行こうと思てたんよ、と言う。 殺してやろうと何遍も突き落としにかかったけど、憎いのはあんたやと思て、何年も待つと思て、他の人にされるのがまんしたんやから。秋幸が、憎んだのか、と言うと紀子は顔をあげ、秋幸を見つめる。色男ぶって、自分のことだけ考えて。勝手にどこかに行って。ひとつも連絡くれなくて。 秋幸が、何遍も電話入れた、待っとった、と言うと、紀子は、してほしいと言う。車のシートをリクライニングにして、今日は一晩中してやる、と秋幸は言い、紀子は秋幸がそばにいてくれることにやっと安堵したように、秋幸がその土地にやって来るのをずっと待ち続けていたのだと言った。 紀子は、秋幸が秀雄を殺した事件の直後、子供を堕そうと思った。何年か経って戻ってくるまで子を産んで待ち続けられないと思い、秋幸の母フサには知っておいてもらいたいと、子を孕んでいるが、堕ろすと言いに行った。そのすぐあと父親がいずれ店を分けるつもりでいた番頭との結婚話を進め出した。紀子は気が変わり、堕ろすなら結婚しないし、結婚するなら堕さないと言い、子供を番頭の子だと言い続け、そうすることで結婚した。 子供が秋幸さんに似てくるのを見ると、だんだん苛々してくる。秋幸さんの子や、と噂されるし、夫も気づいてるから、家では浜村木材のことも秋幸さんのことも一言も言い出さん、と紀子は言った。俺の子か、と秋幸が訊くと、紀子は、違う、あの子はわたしだけの子や、と言う。 なあ、触ってと紀子が言い、秋幸はスカートの下から腿をつたってパンティーに触れる。紀子は秋幸の指が入り易いように腰を浮かす。紀子が秋幸のズボンを下げ、性器を口に含み喉をつまらせ声を立てる。秋幸は紀子の女陰を見たいとスカートをまくり上げて、一気にパンティーを下ろした。紀子の液で濡れた陰毛が日で赤く燃えているのを見た。
早朝、紀子を家まで送り、秋幸はそのまま浜村龍造の家に行った。まだ夜があけていなかったので事務室に人の姿はなかった。秋幸はソファに横になり、紀子を横取りして、他所の土地で現場監督でもしようかと思った。ソファでしばらくうつらうつらしたが、電話の音で眼がさめる。なにか苦情の電話だった。 ふと見ると、造浜村龍造の部屋の扉がかすかに開いていた。秋幸は扉を素早く開け中にはいった。秋幸の気配を感じ、龍造が目を覚ました。秋幸じゃ、と言うと、秀雄がしのんで来たんじゃと思うたら若い孫一殿じゃった、と浜村龍造が言う。そこは防音装置のついた部家で壁には外国の地図がはられ、大きなステレオスピーカーとテープデッキがあった。ラックにはパンクのレコードがつめられていた。 ここは秀雄の部屋じゃった、入口も壁も防音にして、そこに扉をつけた。俺が持ち込んだのは机と製図板だけじゃ、と浜村龍造が言う。大きな机の前の壁は動かすとすっぽりとれ、そこから山が見える。玉置山だと言った。 秋幸が部屋を出たあと、浜村龍造が、俺の朋輩のヨシ兄が実弘たちのさしがねで昨夜逮捕されたと言った。そして浜村龍造は竹原文昭が振り出した手形を十枚ほど見せ、そのうち額面五百万の手形二通は実弘がチンピラをつかって割らせた、と言い、ヨシ兄の釈放を実弘が邪魔するなら、これで実弘を脅すか、開発会社の役員人事をやめさせるか、あるいは路地一帯の入札から外す、と言った。 兄やん、一緒に行くか、というので、秋幸はうなづく。車で騒ぎのあった路地跡の現場を見に行く。集まった浮浪者たちは十五名に増え、集まり過ぎた鮪箱を一どきに燃やしてしまおうと、灯油をかけて火をつけ、おまけに食堂のプロパンガスのゴムホースを切ってそれに火をつけ火焔放射器のように炎をまき散らし壁を燃やし、土蔵にガソリンをかけ、火をつけたらしい。 逮捕したのは実弘たちだった。番頭は昨夜から警察へ行き、役員二人を説得し釈放というところまでは持ち込んだ、と言った。警察に着くとまもなくヨシ兄は釈放された。秋幸は、ヨシ兄とスエコを車に乗せ送り込届けることにした。車の中で、ヨシ兄とスエコから金払えと言われる。ヨシ兄は龍造から命令されて、自分達は原っぱに住んで、火たいてるんだ、と言った。 秋幸は、ヨシ兄にもっと話を聞く必要があると思い、ヨシ兄と二人車を降り、浜の木陰に歩いた。とりあえず、秋幸はポケットの中にあった八千三百円をヨシ兄に渡し、つけ火を請け負うたのか、と訊くと、俺のしたことは龍造のした事じゃ、龍造のしたことは俺のした事じゃ、と言う。あいつはいつも自分に似た男を憎んだどる、俺とおまえも、おらなんだら人一倍さびしがるのに、内実は憎んどる、殺したい、と言う。秋幸は山の渓流につかる龍造の姿を思い出し、ヨシ兄の言う龍造と違うと思った。 あれが憎む以外あるものか、火つけて町中灰にしたいと思とるし、仏じゃ、浄土じゃと言うとるが、仏も浄土も糞喰らえと思うとる、本当言えば俺とおまえも殺してなき者にしたいんじゃ、とヨシ兄が言う。憎んどるのか、と秋幸が訊くと、怖ろしいんじゃよ。俺やおまえを怖ろしてかなわんのじゃ、あれは俺とおまえが一緒になるのを何よりも心配しとる、とヨシ兄は言う。 秋幸は、ヨシ兄とスエコを乗せて車で駅に行き、そこから公衆電話で事務所に電話をかけ、五十万円持って来い、と言った。 ヨシ兄たちの引き起こしたつけ火事件は土地に住む者達の不安をかき立て、さまざまな噂が錯綜した。そのひとつは、佐倉の土地を利用して成り上がった浜村龍造が、七十年ほど前の天子様暗殺謀議事件で土地そのものに遺恨を抱き続けた佐倉と結び、土地のことごとくを灰にしようと、浮浪者たちを使ってつけ火を企んだ。 また別の噂は、地主佐倉の策に乗って路地の出の土建業者らが路地を更地にし、そこにビルがいくつも建てられ、その仕事が廻ってくると信じたが、草が生え、浮浪者が住み着いた。佐倉はビルなど建てる気はさらさらなく、だまされたと分かった土建業者たちが浮浪者に罪をなすりつけ追い出そうと、路地で火がたかれるた時につけ火をした。 秋幸は噂が上手く出来ていると思った。自分の身内がその二つに絡んでいた。秋幸は昔と大きく変わった町の家並を見下ろした。そこに路地はなかった。秋幸が愛したものはまるで在ったことが幻のように消えていた。そしてヨシ兄の言うように、浜村龍造は自分を手元において育てた友一や秀雄のように愛しているのではない。距離遠くフサの子として育つ秋幸は浜村龍造の恐怖そのものだった。浜村龍造は秋幸を憎んでいる。 秋幸は、良一と喫茶店でつけ火について話をした。良一はつけ火させたりするのは土地の霊魂だと、言う。人間の誰彼が考えることじゃなしに、土地そのものが要求する事じゃ。その時良一に店員が電話だと声をかけた。良一は電話に出たが、すぐ戻ってきて、浜村さん俺に、強引につけ火の犯人作りあげたといきなり言うんじゃ、電話代われと言うとる、と秋幸に受話器を渡した。秋幸が受話器を取ると電話は切れていた。 ユキが水の信心を辞めると言い出し、さと子と一悶着あった。ユキは徹がさと子の手で道場に引き込まれてから水の信心を疑い続けた。神様というが妙に人を軽蔑したように見るし、お日様と呼ぶ神様の妹も人をののしるだけで優しさがない、そして二人の神様の眼には秘密のあるような淫蕩の炎が走るのを見て、二人は変態性欲者だと思いついた。 徹はユキの弟の仁一郎の子で、口減らしのために十四で女郎に出たユキを請負師として一本立ちした仁一郎は遊廓からもらい受けに来てくれた。せめて仁一郎が生きてておったら、こんなことにはならなかった、とユキは思う。そしてフサと世帯を持った繁蔵をなじる。繁蔵は自分の子供文昭には厳しく、ささいなことでとがめ許さなかった。徹がこうなったのも繁蔵と文昭のせいだ、とユキは思う。結局、ユキが根負けして、ユキは水の信心に戻ることになった。 モンは、さと子から秋幸の噂を聞かされた。秋幸が紀子と徹の病院を見舞ったという話を聞いて、モンは、徹となにかあったのか、と訊く。さと子は、うち嫌やから兄ちゃんの連や周りにいるのと出来たりしたら、秋幸兄ちゃん裏切ることになるから、うち潔癖なもんよ、二十八の処女よ、とさと子は言う。兄ちゃんの連でもな、神様とは何遍かしたけど、神様とやったら、兄ちゃん裏切っとる気がせえへん。 さと子はそれから小声で、新地で何人も金欲しさか寝たけど、兄ちゃんが一番よかったよ、とつぶやく。そんな事口に出して何が楽しいん。誰も知らん事やのに、とモンが言うと、さと子は、あいつが知っとる。あの蠅の糞が、犬畜生が知っとる、とつぶやく。それから、モンさん、うちが秋幸兄ちゃんの恋人が生んだ子が浜村龍造の子だと教えたんや、と言った。
秋幸は若い衆と鉄男を番頭として置いて独立採算の組を作った。それは浜村龍造が言い出したことだったが、秋幸も賛成した。資金は浜村木材から借りて、材木を切り出して売る。浮いた利潤で二束三文の雑木山を買い、そこに人を入れて、雑木を払い、杉の苗を植える。そうやって一つずつ山を増やしてゆく。 その日は、鉄男と若い衆を連れ、地主の案内で山の杉を見ながら、切り出しの交渉をしていた。その三人の前で秋幸は、伐った後、俺が植えても、俺の眼では見えん、と言った。地主は爺さんが偉い人たちじゃったから、と言う。 秋幸は浜村龍造のもとで育てられて今にいたっているが、浜村龍造の長男だった。浜村龍造は長男として弟殺しの秋幸を何一つ不平を言わず迎え入れて遇しているが、実のところ、ヨシ兄の言うように凶まがしいと思い、なるたけ遠ざけたい。自分が築きあげた物を横取りし殺意さえ抱いていると本心では思い、秋幸をナキモノにしたいのだ、ふと秋幸はそんなことを考える。 こらからじゃのに、浜村さん、と地主に言われ、こらからじゃ、俺もこれら二人も、これから金をつくって山買うて増やしていくんじゃ、と秋幸は言った。山は秋幸にとって解きがたい謎だった。 秋幸は朝有馬の小屋を出て、人夫らを集めて浜村の事務に顔を出すこともあったし、そのまま山に作業に出ることもあった。山に入ると、両の腕に抱えきれないほどの樹木がそこにあることが謎そのもののようだった。樹木は膨大な時間が、太い幹の美林として形を顕しているなら、秋幸はたった二十九の歳月しか経っていない。山に入ると秋幸は不安になった。 若い衆が、秋幸の姿が見えないと決まって鉄男は勝手なことをやり、人夫たちに働くなと言い、鉄砲とって義勇軍に加わらんかと言う。若い衆は鉄男は気違いかジャブ中のどちらかだ、と言った。確かに、鉄男が人夫たちと山に泊まるりこんでから人夫たちの稼働率は目にみえて落ちはじめた。 車のなかのダッシュボードの中に鉄男が覚醒剤を隠しているのを秋幸は偶然見つけた。秋幸は鉄男にその覚醒剤全部買ったらいくらなんだ、と訊くと、射つん、と訊く。秋幸は、親孝行、俺もしたろと思う、と言う。鉄男は百万で俺を買ったんだから、百万で売るという。秋幸が、自分を買い戻すのか、と訊くと、親爺に秘密にして欲しい、とつぶやく。 鉄男を路地跡の近くで車から降ろし、鉄男が草むらのほうに歩いていく後ろ姿を見ていた。草むらに呑みこまれるように鉄男の姿が見えなくなってから、秋幸は子供の頃、足に踏んだ焼けるように熱い線路を思い出し、ふと、自分が果たしたいのは浜村龍造を殺す事だと思いつく。何故か分からなかった。それが遠い日に刻みつけられた願望だったような気がした。 秋幸は、覚醒剤を浜村龍造のところに持って行き、シャブでも射ってすっきりしてもらおうと思うての、と言うと、浜村龍造は親孝行じゃの、と言う。友一が、シャブを持って来た秋幸をなじるように、ヨシ兄で懲りとるのに、とつぶやく。 浜村龍造が、袋の中に人差し指を入れ一なめし、混ぜ物のない上等なやつじゃ、と言い、どこで手に入れたと訊く。秋幸は俺だけのシンジケートじゃ、浜村木材くらいの資産を、これを浜村衆の一統に流して、一、二カ月でつくったろうかと考えとるんじゃ、と言う。友一が浜村衆と言ってもテキヤが地廻りの類いだから、自分達で射ってみんなシャブ中になる、と笑い、土地の一角に土建業者を入れて整地させていたところが流通センターになることが決まった、と言う。 土地は値上がりが続いているが、山には大きなかげりが出ていた。土地改造ブームは必ず山にも波及すると、浜村龍造は地主らが放出した山林を次々買っていた。その資金は、土地転がしをして手に入れた金だと、材木商らは噂していた。 審議会に出た者らに竹原建設に落とさせるよう手はず整えさせたんじゃ、不渡り出したの何枚あつめるてやるより、仕事一つ出したる方が助けにもなるじゃろと思ての、と浜村龍造が言う。秋幸は浜村龍造がこころにもないことを言うと苦笑した。 秋幸がシャブを持ってきたのを見て、なにか身辺に危険が起きる可能性を感じ、注意をそらすかのように竹原建設を持ち出した。竹原建設を乗っ取るつもりと違うんかい、と秋幸が言うと、おうよ、と言い、それも考えたが、文昭という男は頭はええんじゃがひとつ分からん、と言った。 文昭も、美恵の亭主も佐倉のオヤジの言うこと真に受けてるが、あのオヤジが一筋縄でいくものか、気を許すとどんな事を吹っかけてくるか分からん。わしは秋幸が戻って来る前に嫌な思い出を消したい気持だけじゃったが、佐倉のオヤジはうらみを持っとる。今でも、何人もまわりに人を集めて、恩知らずじゃ、デッチあげじゃ、と言い続けとる。 今から七十年も前の天子様暗殺謀議事件を悔やみ続ける佐倉のことを浜村龍造は言う。時の権力を握った薩長勢力が、紀州藩水野のひざ元の土地と維新の志士を輩出した土地をたたくのが目的で、片言隻句を捉え、謀反謀議のかどで、一網打尽にした。佐倉は、医者や牧師家老や路地を檀家に持つ住職らが検挙されていく姿を思い浮かべて涙し、路地の者らが恩を受けながら、何の嘆願行動もしなかったとなじった。 文昭も美恵の亭主の実弘も、それを真に受けて、あんな方々で土建ブームに乗って仕事しとるのに四苦八苦しはじめたんじゃ。欲、かくさかじゃ。浜村龍造はわらう。実弘の方はそれでも持ちこたえとるが、下請け入れてコンピュータ入れて甘い商売しはじめた竹原の方は、佐倉の話を鵜呑みにしてプロジェクトあてにして機械購入したり、女に金つぎ込んでしもたさか資金繰りが出来ん状態じゃ、それで闇の金に手をつけて、ニッチもサッチもいかん、と言った。 浜村龍造は机を廻りこんで椅子に坐り、ふとシャブの注射器に目をとめ、そこの中に入れてくれんかい、と秋幸に書斎の扉をあごで教える。秋幸が開いてるのか、と訊くと、俺が眼の黒いうちは生きとる人間、おまえ以外は入れんのじゃ、と言う。秋幸は注射器の束を受け取り、シャブの入ったビニール袋を持ち、部屋の扉を開けようとして、友一が秋幸を見ているのに気づいたが、防音扉を開け、部屋に入り、製図机への上にそれを置いた。
モンの店に浜村龍造が秋幸と友一とそれぞれにつけた番頭を連れてやってきて、店の外で飲みはじめた。そこへヨシ兄が現れて、龍造、われぇと言って殴りかかろうとしたが、逆に龍浜村龍造に殴られ、鼻血を出した。ヨシ兄がそこにやって来たのは、秋幸をテントまで呼んできてくれと文昭に頼まれたからだった。秋幸は俺をからこうたりしたら承知せんぞ、首の骨折ったるぞ、と言うと、ヨシ兄は、文昭が俺に話があるというと言うんで、俺は秋幸に金もろて動いてるだけじゃ、と言ったら、秋幸を連れてきてくれというんじゃ、と言った。秋幸はテントへ向かった。 モンは、秋幸が出てから黒々と大きな秋幸の姿を想像し、また友一と秋幸を引き取ることを熱望してやまなかった浜村龍造の気持を想像した。秋幸をつなぎとめるためには資産は何ほどの意味ももたなかった。秋幸にはすべて無だった。秋幸を近づけるれば近づけるほど、自分を打ち倒すようなもの、法をこえるようなものに見えてくると悩んでいる。 秋幸は、足にあたる石だらけの山跡を歩き、昔の裏山のにおいを嗅ぐように息を吸う。しかし町と路地との間に出来た自然の垣根として路地の人々の眠るような生活に風や光や雨と一緒になって溶け込んでいた裏山のにおいはなかった。 秋幸がテントに近づき、ヨシ兄に呼ばれてきたんじゃ、と言うと、親方か、と鉄男が顔を出した。鉄男はもう帰らんよ、自分で自分を買い戻したんじゃさか、と言う。 スエコが、鉄男、浜のトリ小屋に帰れ、とどなる。鉄男も、われこそイヌ小屋に帰れ、とどなり返す。寝ていた文昭がスエコの金切り声に眼をさまして顔を出した。 それから文昭はランプを持って浮浪者たちがたき火していた跡に行き、そこにおいてあった切り株をさして秋幸に坐れと言った。鉄男もそこに来た。 文昭は、秋幸おまえらは何の権利があって土地のど真ん中を占領しとる。草も生え放題で刈らすこともさせん、草むらから虫や蚊がわいて飛んでくる。ねずみの巣になっとるし、蛇がどっさり繁殖しとる。 毒あるやつはおらん、と鉄男が言う。毒なかってもおまえらだって気色わるがって草むら棒でたたきながら歩いとるやないか。高速道路が出来て、風景や温泉しかなかったこの辺りが日本のエネルギー庫に生まれ変わろうという時代じゃど。資材や製品も運搬されるさか色んな工場が来るということじゃ、何人も下見に来とる。アメリカ人も来とる、台湾出身のコンピュータの専門家もくまなくこの辺りを調べ上げた、と文昭はまくしたてる。チェンか、と秋幸は訊き、出所後はじめて見た紀子の姿を思い出す。 秋幸はそれで土方は有卦に入っとるわけか、と秋幸は言う。コンピュータではじいて稼働率出して、下請け入れて機械を大量に購入して、無理して一つ計画通りにいかんと、ごっそりうまい具合にいかんようになるさか、路地の跡に集まっとる者らにかまう事なしに除草剤をばらまこと言うのかい。 文昭は、そうじゃない、ここは路地の跡じゃない。この土地がどんな風に代わっていくのか鍵になっとる中心地じゃ、そこでこれらの親が火たいたり、騒いだりしとるんじゃ、おまえ何でヨシ兄やルンペンらに金出しとる、竹原や実弘に悪意を持っとるのか、俺が親爺の後をついたさか義理の仲のおまえに廻るものがないと根に持っとるのか。 秋幸は、大きく息をつき、世迷い言を言うな、と吐き棄てるように言う。幻のように消えていたが、そこは路地だった。秋幸が残り一つになった芋を丸ごと食べたと怒り狂う美恵の姿も、路地の者だから遊んでやらないとのけものにされたと萎れた君子の姿も入っていた。秋幸が悪さして、六つ上の君子を泣かせ、君子がお前の父親は天狗だ、茨の龍だと言って、それを聞きとがめ火のように怒ったフサに棒で気絶するほどぶたれた、それは葉ずれの音のように今となっては幻だった。 何でお前が刑務所から帰ってきたら俺と一緒に仕事せんと、蠅の糞じゃと言われるところに行かんならん。後に残った者らがおまえの事考えて、考えつめて、秋幸が戻ってきたらあれをしてやろう、こうしてやろうと思っとったのに、まるで申し訳程度に家に顔出しただけで、後は寄りつかん。俺から見たら、おまえは神かくしに遭うたように目の前から消えたようなものじゃ。 秋幸は、涙を流して言う文昭の顔を見ていた。フサと繁蔵の二人を思うと心苦しかったが、フサの子として身をしばられたくなかった。 それで不渡り覚悟で空手形を振り出しとるのかい、と秋幸は訊いた。文昭は一瞬耳を疑うように秋幸を見て台に腰をおろす。 文昭さん、俺にそれを頼みたいさか、オヤジじゃオフクロじゃと文昭さんには関係ない事、言うとるんじゃろ、俺は一遍死んだ人間じゃ。元の土方の秋幸は死んで、今ここにおるのは、材木屋見習いの蠅の糞と同じ血が半分ほど流れた秋幸じゃよ。文昭さん、この生き直しとる秋幸に救けてくれと頼んでくれ。 蠅の糞に俺が何を頼む、おまえも知っとるじゃろ、火つけして人殺して金手に入れて人のものだまし取って来て高利貸しやヤクザを使って、糞にもならん先祖担ぎ上げて嘲われとる男じゃ、と文昭が言うと、秋幸は、俺の実の父親じゃだ。俺があいつの苦の種じゃ、と言い、俺に頼んでくれ、その蠅の糞の持っとる手形くらい俺がどうにでもする、と秋幸は言った。 秋幸、と呼んで文昭は首を振り、あれは人間じゃない、犬畜生じゃし、人の苦しむのを喜ぶ鬼じゃよ。路地のこの土地を元にしてビルをいくつも建てて大ショッピング街を作るという話を持ち込んで会社作らしたのもあれじゃし、集まった資本をプールして止めとるのも、工事とめとるのも、あいつじゃ、結局あいつの提案でつくった開発会社は蠅の糞のダミーじゃったと、実弘さんも美恵も、今ごろになってあいつの本心が分かってきた。路地に住んどった実弘さんらが、一軒ずつ廻ったんじゃ、土地の発展のために一肌脱いで感謝されんかと言うて。路地と山取ってしもたら、あれはプロジェクトの出資者の一人吉野ダラーの山林地主と組んで、そいつの山林狙て、プロジェクトを骨抜きにしはじめたんじゃ。 竹原建設は繁蔵の代では銀行とほとんど取り引きがなかったので、浜村龍造はそこに眼をつけ、手形の決済が一部止まると銀行はとたんに厳しいこと言いはじめ、浜村龍造が次々と不渡り手形を集めはじめた。何度もヤクザが来て、手形を落とせないようなら、土地と山を吐き出せという。ヤクザが家にまで押しかけるので、女のところに逃げたらそこまで来て、首でもつって自殺せえと言う。 ヤクザに脅されて、首つろうと思うんかい、それで俺をよびだしたのか、と秋幸が言うと、誰がするものかとわらい、文昭は立ちあがり、草むらの方に歩いて小便をする。小便しながら思いついたというように、おまえ、昔あれがこのルンペンの親分と組んで悪事やっとったの知っとるのか、と訊く。秋幸が、知っている、と答えると、不思議な体験をした、と言う。 その不思議な体験を話そうとした時、浮浪者たちのかけ声が聞こえ、鉄男がルンペンの親分帰って来る、と言う。 文昭が女の元に帰ると言い、秋幸の肩を一つ叩き、どうせ出会うじゃろうが世の中というのは広いもので、一回しか生きられんのさかじゃと、体はどっぷりと黄泉につかっとるのに爪の先でこの世の端にしがみついとる執念の者もあるという事じゃよ、と言った。
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