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小田周二『永遠に許されざる者』

(河出書房新社 2017年7月30日刊)


 前編 | 後編 


前編


 本書は、1985年8月12日に起きた日航123便墜落事故の遺族である小田周二氏の五冊目の著書で、いわば集大成ともいえるものである。副題は「日航123便ミサイル撃墜事件及び乗客殺戮隠蔽事件の全貌解明報告」

 まず、以下に本書の末尾に書かれている著者の略歴並びに日航機墜落事故との関連、そしてこれまでの著作についてご紹介させていただく。

著者略歴
 小田周二(おだしゅうじ)
1937年  奈良県生まれ。大阪大学工学部応用化学科化学工学修士課程。
プラスチック製造メーカーで研究、技術開発、製造、工務、品質管理等に従事。横浜市金沢区に在住。
日航機墜落事故との関連
日航機事故遺族
日航123便撃墜事件 1985.8.12 
 犠牲者名 次男小田浩二(15歳)、長女小田陽子(12歳)、中上岑子(37歳)、中上義哉(12歳)、中上佳代子(10歳)の5名
日本の空の安全を願う会 主宰
8.12連絡会「日航123便墜落事故調査 分科会」会長
日本航空との関連
日本航空は加害責任を公私に認めたが、事故状況、事故原因についての技術会議を開催中(2013年から)。
公開質問状 9通提出。趣旨に合わない回答と言い訳のみ。
2017年「日航は加害者でなく、支払った金はお見舞金だ」と告白した。日本航空安全推進本部 権藤常務(福田、小副川、上谷、松本氏)
 ⇒(児玉、中野部長)⇒(山西、中野部長)「人事異動」
コロナ禍で会議中断のため、TV質問と回答で事故原因究明中。
運輸安全委員会との関連
2017.10「加害者でない」と回答。
2016年4、6月 隔壁破壊説の矛盾についての質問と其の事故原因を提起した「公開質問状」を提出したが、一切回答がなかった。
前橋地検の不起訴判断で「航空局は無罪だ」と回答。
31周年慰霊式で航空局総務課長と面談。「責任はない」「加害者でない」と。
32周年慰霊式で航空局安全部長と議論「質問状は受理」「回答を行う」
33周年慰霊式で航空局安全部長と議論「質問状は受理」「回答を行う」
34周年慰霊式で航空局安全部長と質疑「質問状は受理」「回答を行う」
航空局、2020.1(公開質問状)の回答と(面談議論)実施を回答

著作 発刊日
出版本「日航機墜落事故 真実と真相」小田周二著 2015.3発刊
出版本「日航123便は何故墜落したのか」小田周二著 2015.12.12発刊
公開質問状「運輸安全委員会宛」小田周二著 2016.4.12発刊
出版本「日航機事故報告書は真っ赤な嘘である」小田周二著 2016.5.12
告訴状「前橋地方検察庁宛」小田周二著 2016.11.12
上申書「前橋地方検察長宛」小田周二著 2017.1.27
公開質問状「国交省、航空局宛」小田周二著 2017.2.25
告訴状2「前橋地方検察庁宛」小田周二著 2017.12.12
出版本「524人の命乞い」小田周二著 2017.8.12
出版本「永遠に許されざる者」小田周二著 2021.7

はじめに
 筆者は、これまで日航123便墜落事故に関する著作としては、主として青山透子氏のものを中心に取り上げてきた。それは青山氏が、元日航の客室乗務員としてかつての同僚たちはもちろんのこと全ての亡くなられた搭乗者への強い鎮魂の想いを持ち、かつまた研究者として客観的で冷静な視点でこの事故を捉えようとしてきたからである。
 もちろん、今回取り上げた小田周二氏の本書にも、遺族としての強い鎮魂の想いが貫かれているばかりでなく、この事故を引き起こした加害者への激しい怒りにも溢れている。ただ、本書には青山氏の著書に比べれば、多少「推測」の部分が見られることも確かである。そのために小田氏の著作は、ややもすれば「創作」扱いを受けてしまう虞れがあることも否めないであろう。
 しかし、その「推測」も状況証拠を積み重ねてなされているので、決して「憶測」ではない。この日航123便墜落事故では多くの「事実」が未だに闇の彼方に葬られ、「真実」が捻じ曲げられてしまっている。その「真実」を明らかにするためには、事実に基づく証拠、すなわちエビデンスを積み上げていくしかないが、しかし、ここに大きな壁が立ち塞がっているのだ。つまり、日航123便墜落事故の「真実」を隠蔽しようとする国家権力の壁である。
 いまだに、最も重要なボイスレコーダーもフライトレコーダーも全面開示がなされていないし、また伊豆半島の沖合の海底160メートルに沈む垂直尾翼の残骸の一部とAPU(補助動力装置)の引き上げも行われていない。またすでに荼毘に付され合葬された身元不明者の遺骨は御巣鷹の尾根に設けられた埋葬墓に納められ、「開かずの扉」によって永遠の眠りにつかされている。
 これらは、国家権力の手にかかればどうにでもできる話であるが、遺族の方々の力だけではどうにもならない。また、これらの重要証拠ばかりでなく、諸々の文書・通信記録などもほぼ全て不開示とされている。事故の真相を知りたいという遺族の方々の切実な想いに対して、政府・日航本社の応対はあまりにも理不尽極まりないものである。
 著者の小田氏は、そうした理不尽な対応にもめげずに、諦めることなく日航123便墜落事故の「真相究明」にその生涯を傾けてきた方である。そして、闇の彼方に葬られた「事実」を明るみに出そうとする小田氏の努力によって、次第にその「事実」の輪郭が闇の中から少しずつ浮かび上げって来たのではないかとも思われる。
 まもなく事故から40年が過ぎようとしている。遺族の方々も含めて直接の関係者の多くがすでに亡くなられてしまっているなか、ますます事実を明らかにすることは困難になりつつあるが、国を動かすためには何よりも世論の力が大きいことは言うまでもない。どうぞ、皆さんにもぜひ本書をご一読いただき、日航123便墜落事故の「真相究明」への重い扉を皆さんの力で開けていただければと願っている。

 本書では、これまで筆者が紹介して来た青山氏の著作の中に書かれていることは、なるべく重複しないように心がけ、小田氏の調査によって浮かび上がって来たことを主に紹介していきたいと思う。

 本書は、第一部〜第三部で構成されており、それぞれ第一部(1~7章)第二部(8~12章)第三部(13~17章)となっている。

 本題に入る前に、小田氏は、無辜の国民の命を奪った「中曽根総理」「自衛隊」こそ「永遠に許されざる者」である断言したうえで、次のように述べている。

 1985.8.12に起きた日航123便墜落事故は自衛隊による日航123便乗客乗員の残虐非道の殺害殺戮車件であり、それは冷酷残虐な権力者の自己保身のために行われたものである。そしてそれに加担し、日航123便を、ミサイルで撃墜した自衛隊はもとより、捜索・救助を装って上野村に入り村民の救助活動を妨害し、捜索救助の不作為によって生存者を見殺しにした自衛隊・群馬県警、さらには嘘の「隔壁破壊説」を捏造して、35年間も遺族を騙してきた運輸省(当時)航空局、そして、事故の真実を知っていながら、「加害者」だと自称して「補償交渉」を行い、それも35年間にわたって遺族を騙してきた日本航空、これらはすべて、永遠に許されざる者である。

 こう述べたうえで、その対象としてあらためて以下を挙げている。
 
許されざる者:     政府権力者、自衛隊、群馬県警、運輸省(国土交通省)航空局、日航、ボーイング社、前橋地検、35年間の政府権力者、自民党総裁!!

 さて、小田氏は本書において、なぜ彼らが「許されざる者」であるのかを詳しく述べているので、以下に順次見ていこう。

 まず、この日航123便墜落事故がどのように起こったのかを本書に基づき確認しておきたい。

 日航123便墜落事故の概要
 1985年8月12日、18時12分、日本航空・羽田発大阪行きの123便、すなわち日航123便が東京の羽田空港を離陸した。定刻の12分遅れでの出発で、約1時間後には大阪空港に着陸することになっていた。
 123便で用いられていたのは「ジャンボ機」として知られるボーイング747型機。機体番号はJA8119で、1974年1月に製造された機体だった。全長70.5m、全幅59.6m、全高19.3m、重量は250トン超。巨大な機体は、528もの客席を備える。
 当日、この123便には合計509名の乗客が登場していた。普段から羽田一大阪便は東西を結ぶビジネス便として利用され、夕方に羽田を発つ123便には東京方面での出張を終えて関西方面に戻る多くのサラリーマンが乗り込む。それに加えてこの日、8月12日は夏休み、お盆休みの最中ということもあり、東京ディズニーランドやつくば科学博覧会などの観光を楽しんだ家族連れ、あるいは親戚が乗り合わせての利用も多かった。
 123便のコックピットで操縦を担ったのは、高濱雅己・機長(49歳)、佐々木祐・副操縦士(39歳)、福田博・航空機閑士(46歳)の3名である。高濱機長は操縦教官、福田機関士は技術教官を務める優秀なベテランであり、佐々木副操縦士も機長昇格を間近に控えていた。この日は機長昇格のテストを兼ねて佐々木副操縦士が操縦桿を握り、傍らでそれを高濱機長が補佐した。さらに同機には男性のチーフ・パーサー、7名の女性アシスタント・パーサー、4名のスチュワーデス(現在は客室乗務員と呼ばれる)の12名が乗り組んでいたから、日航の乗員は合計15名だった。
 こうして509名の乗客と15名の乗務員、合わせて524名の命が18時12分に羽田を飛び立ったのである。

 予定されていた飛行ルートによると、同機は離陸後に千葉県館山の東方上空に達し、そこから南下して静岡県焼津市の上空を経て西へ。さらに紀伊半島上空に達したところで右旋回して北上し、大阪空港へと向かう予定だった。
 だが、同機が大阪空港上空に姿を現すことはなかった。
 18時24分に機体に何らかの異変が生じたことを東京管制に伝えてきた123便は、救難を意味する「スコーク77」を発信。この時、同機は伊豆半島南部の東岸、相模湾上空を飛行中だった。その後、機長らは何らかの異常によって自機が昇降舵や方向舵を操作するのに必要な油圧機能を喪失していることを知る。
 だが、同機は「羽田に引き返す」と東京管制に伝えた後、通常の飛行ルートを大きく外れて内陸に向けて北上しながらも、約32分間にもわたって飛行を続ける。詳しくは後に述べるが、524名を乗せた123便は富士山北側上空をかすめ、山梨県の大月市上空で360度以上の旋回飛行後に米軍横田基地飛行場への着陸を目指し、その後、長野県川上村のレタス畑の不時着行動の後、機首を秩父山系へと向ける。ほどなく123便は、群馬県と長野県、埼玉県の県境が接する山岳地帯に分け入っていく。1,500mを超える急峻な山々が連なる一帯である。
 18時56分、その山岳地帯を飛んでいた123便の機影がレーダーから姿を消した。同機が群馬県上野村高天原山の尾根、通称「御巣鷹の尾根」南東側に墜落していることが公式に明らかになるのは、それからじつに10時間も経た13日早朝のことだった。
 その後、13日の10時45分ごろから相次いで4名の乗客生存者が発見され救出されたものの、残り520名が死亡。一度に失われた人命の多さという点だけ取っても、123便墜落事故は1985年当時も2020年8月時点でも史上最悪の航空機事故であり続けている。

 運輸省事故調査委員会の「事故調査報告書」の事故原因
 事故調査委員会が事故から約2年後の1987年6月19日に発表した「事故報告書」によれば日航123便墜落事故の事故原因は、おおよそ以下のようなものである。

 ボーイング社の隔壁部の修理ミスにより、機体後部の圧力隔壁が長年の金属疲労により劣化した。亀裂が成長し、ある時点で一気に隔壁が破壊されて機内空気が流出し、噴出した空気が垂直尾翼とAPUを破壊し、同時に操縦に不可欠の油圧配管を断絶破壊した。垂直尾翼の破壊とトルクボックスが損傷したために方向舵は脱落し、4系統の操縦系油圧配管も全て破断した。
 以上のような機体後部の破壊によって、方向舵、昇降舵による操縦能力や水平安定板(=水平尾翼)のトリム変更機能が失われ、ほとんどの操縦機能が失われた。機体の姿勢や方向の維持、上昇、降下、旋回等の操縦が極度に困難になり、激しいフゴイド運動(旅客機などの固定翼機において、進行方向に対して縦方向に生じる機体の揺れのこと)、ダッチロール運動(飛行中の航空機が何かの拍子に横滑りをしたときの傾きを解消する方向へのローリングモーメントが発生し、勢いあまって反対側に傾くという揺り返しが生じる。それがまたさらなる揺り返しを生み、横滑りが連続する不安定な飛行状態のこと)が生じた。その抑制は難しく、不安定な状態での飛行の継続はできたが、機長の意図通りに飛行させるのは困難で、安全に着陸、着水させることは不可能であった。
 以上が報告書の事故原因の概要である。

 「事故調査報告書」の嘘−「圧力隔壁の破壊」が原因ではない
 これまでも多くの航空関係者や識者から指摘されてきたように、「圧力隔壁の破損」が事故原因であるとする上記の報告書の説には多くの疑問が突きつけられている。日航自身も事故から1週間後の8月19日に河野整備部長が「垂直尾翼は外部の力で折れ破壊した」と述べていたのである。
 もし、「圧力隔壁の破損」によって機内の空気が短時間に大量に機内後部の垂直尾翼下に流れ混んで垂直尾翼とAPUを吹き飛ばしたというのならば、当然のことながら機内では急減圧が起こり、酸欠や気温の急激な低下、そして機内の荷物や乗客・乗員をも吹き服飛ばされる可能性がきわめて高いはずだが、それがほとんど起きていないのである。
 垂直尾翼の脱落等の衝撃で機内の酸素マスクが下りてきている様子が乗客の小川哲氏の撮った写真に残されている。(以下の写真参照)



機内の様子(WEBサイトより)

 これを見れば、乗客が寒さに震えている様子もないし、機内のダッシュボードから荷物が飛び出している様子も見られない。
 また、発表されたボイスレコーダーの音声記録を聞く限り、コックピットのパイロットたちは酸素マスクすらつけている様子も伺えないのだ。
 これだけでも急減圧はありあえないといえるが、そもそもジャンボ飛行機は圧力隔壁から空気が漏れ出したくらいでは、垂直尾翼やAPU(補助動力装置)を破壊できるような構造にはなっていないのである。つまり、万一客室から後部貨物室内に空気が流れ込んでも、そこには気圧が急上昇したら空気を外に流すためのドア(プレッシャー・リリーフ・ドア)があって、1.0psi(1平方インチに1ポンドの力が加わること)以上の気圧上昇で自動的にそのドアが開くようになっていて、垂直尾翼に影響が及ばない仕組みになっているのだ。
 この点については、パイロット・航空機関士・整備士の組合の全国組織である日乗連(ALPA)のホームページに掲載されている『「日本航空123便の御巣鷹山墜落事故に係る 事故調査報告書についての解説」 に対する日乗連の考え方』に詳細に説明がなされているので、以下をクリックしてご覧下さい)
 『「事故調査報告書の解説」に対する日乗連の考え方』
 加えて言えば、123便事故機のこのドアは墜落現場で機体についたまま発見されている。元日航パイロットで事故対策委員を務めた藤田日出男氏は、その著書『隠された証言 日航123便墜落事故』(新潮社)の第6章で、「飛行中にこのドアが開いていたとしたら、激しいダッチロールに伴う横滑りなどによって飛散する可能性が高いと思われる。それが墜落地点まで機体についていてヒンジ(蝶つがい)部分もあまり振動を受けたような傷は見当たらなかったので、1.0psiの圧力を生む減圧さえなかったのではないか」と述べている。つまりこのドアも開いていなかった可能性が高いのである。だとしたら垂直尾翼が脱落するなんて全くありえないのだ。(以下の筆者ブログを参照のこと)
 「気まま読書探訪 藤田日出男『隠された証言』」
 以上の点は、これまでに充分語られてきたことだが、小田氏はこれらの点に加えて、垂直尾翼の残骸分析・解析から、これは外部からの破壊によるものだと断定した吉原公一郎氏(『ジャンボ墜落』人間の科学社、1985年)の見解を紹介している。
 吉原氏は「垂直尾翼の内部にはハニカム(蜂の巣のようになったグラスファイバー)が張り付けられていて、外圧に耐えるようになっているが、内圧には最も弱い部分である。従って、内部からの衝撃波や与圧によって剥がれたとすれば、ハニカムも同時に剥がれなければならないが、そうはなっていない。そして、内圧によって頂上部が破壊したとすれば、内側から外に向かって破裂したような痕跡が残るはずだが、実際に残っているのは、押し潰したような破壊痕である。これらの破壊痕は、この破壊が内部からでなく、外部からの衝撃によって生じたことを示している」と述べているのだ。
 以上の点以外にも小田氏はいくつもの理由を挙げているが、多くは青山氏とも重複するので割愛させていただきたい。

 垂直尾翼の破壊はミサイルが原因か
 「圧力隔壁の破壊」が垂直尾翼の破壊の原因でないとすれば、どうして垂直尾翼は破壊されたのであろうか。
 小田氏は、事故があったその日を次のように振り返っている。
 「著者は会社から帰宅して、夜7時のTVで子供達が乗った日航123便の機影が消えたとの放送を聞いた。一瞬、妻の絶叫、悲鳴が響いたのを覚えている。すぐに羽田東急ホテルに急いだが、どうして辿り着いたかは今も思い出せないぐらいだ。
 乗客名簿で名前を確認し、現実に愛する子供達の死を感じざるを得なかった。
 ホテルの会場は乗客の家族らで一杯で、怒号と罵声と驚愕の言葉で大混乱であった。この中で、家族らは、日航の老役員に詰め寄り墜落の状況を聞きただしたが、答えや説明がない。まますます混乱が大きくなり、ついに老役員、すなわち日航副社長(当時)の町田直氏が顔を真っ赤にして、安否を尋ねる家族に向かって「日航機は北朝鮮のミサイルで撃墜されたんだ。今はそれしか分からん」と告白した

 この事実は、角田四郎著『疑惑』や青山透子著『日航123便墜落の新真実』などにも、すでに紹介されている。
 この副社長・町田直は、運輸省事務次官を務めた人物で、航空行政を管轄する運輸省の実務上のトップだった人物なのである。
 1918.10 生まれ、東京大学卒業、運輸省航空局。
 1970.6 運輸省事務次官。
 1974.7 国際空港公団副総裁。
 1981.日本航空副社長に就任。
 1985.8.12 日航機墜落事故当時の事実上の社長であった。
 2003.7 死去。(85歳)
 しかも、彼は1971年7月の全日空機雫石衝突事故当時、町田氏は運輸省事務次官を務め、自衛隊の戦闘機衝突の事件をウヤムヤにして、自衛隊の責任を回避することに尽力し、佐藤内閣の総辞職を防いだ功労者であった。この事件は自衛隊戦闘機が撃墜演習中に全日空機旅客機に激突して墜落させ、全乗員乗客162人を殺した凄惨な事件であった。
 そして、この雫石事件の直前まで防衛庁長官だったのが、中曽根康弘である。中曽根氏と町田氏とは深い交流があり、町田氏が巧みに事故調査をうやむやのうちに終結させたその手腕を中曽根氏が高く評価していたことは想像に難くない、と小田氏は述べ、だからこそ中曽根氏は日航123便墜落事件において、町田氏とその古巣である運輸省航空局に隠蔽工作を委任したと推測できる、としている。
 この町田氏の発言は、遺族からの激しい追及に対して咄嗟に、事故は日航の責任ではないのだと言いたいために、思わず口走ってしまったものであろうが、町田氏は、この時点でどれほどの情報を得ていたのだろうか。
 実は、小田氏が本書で明らかにした次の事実によって、「ミサイルによる撃墜」説は、にわかに現実味を帯びることなる。

 航空自衛隊百里基地の稲吉司令官の告白・証言
 本書第一部「垂直尾翼」はなぜ破壊・脱落したのか、の中で小田氏は次のように書いているのだ。
 この衝突が何であったのかを期せずして告白・証言した人物がいる。当時の航空自衛隊百里基地司令官である。
 航空自衛隊百里基地の稲吉司令官は、戦時中の軍隊で同期だった友人(岩田祐次郎氏、青島海軍航空隊吉津会会員)に電話でこう語っている。
 「えらいことをした。標的機を民間機(日航機)に当ててしまった。今、百里基地から偵察機(F-4E改造機)2機(式地豊二尉ほか)に追尾させているところだ

 なお、本書巻末の資料Jには、百里基地・稲吉司令官による「標的機の衝突事故」と戦闘機発進指示の告白、という資料がある。それによれば、稲吉司令官が電話した相手は、第2次界大戦での戦友である岩田裕次郎氏であり、そのことを岩田氏は稲吉氏から直接聞いたとも証言しているのである。二人は青島海軍航空隊に昭和18年10月に入隊した同期生で、彼らは「吉津会」という同窓会を結成しており、平成13年5月に第24回「吉津会」の下呂総会を下呂温泉で開催している。その時の事務局長が岩田氏であった。
 資料Jには、併せて「吉津会」下呂総会の案内状の一部がコピーされていることから、この総会の折に、岩田氏はあの時の電話のことをあらためて稲吉氏から直接聞いたものとみられる。
 以上の点を踏まえたうえで、小田氏は、町田副社長の告白は日航自身が確認した事態ではなく、誰かからの連絡で知ったと考えられる。そして墜落時の真相を知り得る立場にあるのは、123便を追尾していた自衛隊以外には考えられず、自衛隊を通じて、その情報は政府中枢へと伝えられたと考えられる、と述べ、町田氏が満座の乗客家族たちの前で「ミサイルによる撃墜」を口にしてしまったのは航空局や自衛隊、政府にとっては想定外の失言だったとしたうえで、小田氏はさらに次のように推理している。
 通常であれば、運輸省航空局が運航会社にこのような重大な極秘事項を知らせることはあり得ない。公になれば重大な社会問題となるのが目に見えているわけで、それでもあえて極秘事項を日航側に伝えたのは、他に何らかの別の目的、要求があったと考えられる。
 当時の報道によれば、日本航空の整備士や技術者50数名が事故の翌日の13日午前1時には早々と上野村に向かう入り口にあたる長野県南牧村に到着している。この派遣部隊は東京羽田を事故発生当日12日の午後9時頃に出発していたことになる。世間では墜落場所さえ公式には特定されず、さまざまな情報が飛び交っていた段階である。この段階で事故当事者であるはずの日本航空の技術者が集められて現地に送り込まれたのは、ジャンボ機の機体残骸と自衛隊の関与を示す「ミサイルによる撃墜」の残骸・遺留品との識別ができる者がいなければ、証拠を隠滅することはできないからだ。そのために、日航の技術係社員の識別能力が必要であったのである。
 そこで墜落現場への技術者の派遣を要請するにあたり、政府(自衛隊、運輸省)としては、事前に日航側に墜落の事実の一端を説明せざるを得ない。「ミサイルによる撃墜」という説明は、技術者の派遣を要請する前提条件であったと推測できる。技術者の出発が午後9頃だったとすれば、12日午後7時半頃には航空局から日航に「ミサイル撃墜」の話がもたらされていた、と考えられる。

 123便を撃墜したのは、「無人曳航標的機」か?
 稲吉司令官が述べた標的機とは、実戦的な訓練のために採用された「無人曳航標的機」とみられる。これは遠隔誘導・操作される先端部のロケットに似た形状の機体部分と、その後尾に付く長いワイヤーとそのワイヤーの先に取り付けられた標的すなわち「吹き流し」部からなる。



無人曳航標的機の機体部分(ウェブ上から)

 この標的機が123便に衝突したことを裏付ける目撃証言がある。
 それは小林美保子氏の証言で、彼女は8月12日午後18:30頃に、静岡県藤枝市の上空で低飛行している123便を目撃している。そして、その機体の中腹に「円筒形のべっとりとした赤色がお腹に張り付いているイメージ」のものを見たと述べたのである。(青山透子『日航123便 墜落の新事実』より) 
 恐らくこれは曳航標的機の標的、すなわち「吹き流し」だと推測できる、と小田氏は述べている。
 また、123便の尾翼付近に赤系統のものが付着していたという情報は、123便が墜落した後の墜落現場からももたらされている、として小田氏は以下の証言を挙げている。
 「現場にヘリコプターで降り立って見たら、JAL123便の尾翼付近に一直線のオレンジ色の塗装が付いていた。また、まわりの樹木や草が燃えていなかったのに、ただ遺体だけが真っ黒に炭化していた。12日夜中の0時に翌日の朝刊1面に『標的機の衝突』の自分の記事が載ることを確認したが、翌朝13日、自分の記事はなくなっていたので大変驚いた」(全国紙の某記者の証言)。

 こうして123便の垂直尾翼を破壊脱落させたのは、自衛隊の無人標的機であるのはほぼ間違いないと判断できるが、自衛隊は123便の墜落後、標的機が衝突した可能性について聞かれて、「標的機を発射できる船は、今、呉港にいるので、事故原因は標的機ではない」と言い訳した。これは、物理的、技術的に衝突の可能性を否定する証言ではなく、護衛艦のアリバイを示すことで自分は無実だと表明しようとするという発言である。だが、逆に言えば、相模湾近海に護衛艦さえいれば標的機が発射されて衝突に至った可能性があることを暗に示す言葉だとも言える、と小田氏は述べる。
 そして、実は事故当日、納入前の護衛艦「まつゆき」が相模湾付近で活動中であったことがわかっているのである。それは中曽根康弘総理大臣のもとで、軍事力の増強と能力アップのために発注された新式の護衛艦である。
 その未納入護衛艦「まつゆき」が8月12日当日、相模湾で試運転と新型標的機の発射テストを行っていたことが分かっている。その際に何らかのトラブルにより、標的機が123便の尾翼部に激突した可能性がきわめて高い。それが新型標的機の欠陥によるものか、誘導装置の誤作動なのか、あるいは使用された標的機が何らかの理由で暴走したのか、それとも日航機の飛行時間が予想より遅れていた(日航機は定刻より12分遅れで出発していた)ことによるものなのか。いくつかの要因が考えられるが、いずれにせよ標的機が123便の機体最後尾付近に激突し、垂直尾翼とAPU(補助動力装置)を脱落させたのはほぼ間違いない、といえる。

 この標的機による撃墜を裏付ける重要な証拠がある。それは乗客の小川哲氏が機内で撮った写真である。この写真は、事故後に遺族が公開しようとしたが、それを阻止しようとした群馬県警により一時期押収されてしまっていたものである。しかしその後前橋地検が日本航空やボーイン社、運輸省航空局を不起訴とした時点で、カメラが遺族に返却され、一連の写真も公開された。(1990年10月14日付朝日新聞に掲載された)その中でも注目されたのが、同氏が窓越しに撮影した相模湾上空における右手前方からの小さな黒点をとらえた写真であった。



窓の中央左に黒点が見える(ウェブ上から)
 この写真は事故から25年後、進歩したデジタル技術を使って分析し直され、「黒っぽい円形の塊の領域内は右側へ帯状、もしくは扇状にオレンジがかっている。円錐、もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見た様なイメージで、この物体は、オレンジ体の方向から、飛行機の進行方向に向かっているように見える」(資料K一接近するオレンジ色の飛行体:青山透子著『日航123便あの日の記憶 天空の星たちへ』河出書房新社、2010年)
 このコメントから、飛行物体の色はオレンジ色に見えること、ロケットのような形状のものあること、そして123便方向に向かって飛んでいた可能性があることを示唆している、と小田氏は述べている。
 そして、垂直尾翼の破壊脱落の直前にオレンジ色の物体が迫っていたことをうかがわせるのは、小川氏の撮影した写真だけではない。CVRにもまた、不可解な音声が記録されていたのだ。
 事故調が公表したCVR(ボイスレコーダー)の文字起こしによると、18:24に福田機関士コックピット内で2度にわたって「オールエンジン‥‥‥」と語ったとされる。
 CVRは飛行中のパイロットや機関士の言葉を記録するものである。だが、CVRはコックピト内の会話だけでなく外のエンジン音や風切り音なども同時に拾って記録するので音声はボヤケており、解読作業は困難である。数人で聞くが、一つの音声が聞く人によって異なる単語、異なる意味内容として聞こえることも珍しくない。
 しかも、この123便事件で奇怪なのは、元の音声テータが公開されていないということだ。公開された内容は修正されたり、部分的に消去されたりしている可能性が高く、後に述べるように会話が成立していない奇妙な発言の断片が残っている場面ある。したがって、事故調がCVRの音声を文字化したものとして公表した通りの言葉が発せれていたのかどうか、信憑性に疑惑が出てくる。その一つが、前述の福田機関士の「オールエンジン‥‥‥」である。事故調の解読に基づく「オールエンジン……」は、素直に解釈すれば全4基のエンジンのことのようにも考えられる。だが、正常に動いている全4基のエンジンのことを福田氏が唐突に発言したり機長に報告したりすることは、飛行の実態にそぐわない。
 機長と佐々木パイロットはコックピットで前方向を見ているのに対し、機関士は横長に配置された計器類を見ているから機体の右方向を向いていたはずである。このことは、右方向から接する飛行物体があれば、機関士がいち早く気づいたことを意味する。コックピットの右窓に急接近した「赤黄色の物体」を見た機関士・福田氏が「オレンジ・エアー」と叫んだとすれば、乗客の小川哲氏が右方向から接近する謎の飛行物体を窓越しに写真に撮った状況と一致する。「エアー」とは「AIR」であり、これは、航空業界では飛行機や飛行物体を意味する。百里基地の司令官が口にした標的機とは遠隔操縦できる航空機で、主翼や尾翼が付いている飛行物体、まさに「AIR」である。また、人間の視力では、赤色より黄色味がかっている方が認識しやすい。「オレンジ色の航空機(飛行物体)だ」と解釈できる。しかも福田氏は二度も叫んでいることから、相当に驚愕したことをうかがわせる。すなわち、福田機関士は急接近するオレンジ色の飛行物体を見ており、それが後部に衝突したことを高濱機長、佐々木副操縦士に告げたと考えられるのだ、と小田氏は述べている。

 いずれにしても自衛隊標的機が実験、または訓練で123便の垂直尾翼部に激突したことは間違いない。びっくりした自衛隊実験担当は、事故機が西方向に飛行した事態を見て、高速の偵察戦闘機を有する百里基地の司令官に追尾を要請した。この事態は作家・安部譲二著『日本怪死人列伝』(産経新聞社)に記載されている。同氏は「日航機は撃墜されたとしか思えない」とも記述し、日航機の墜落は事故ではなく事件であるとしている。その見解は、著者(遺族・小田)の見解とも一致する。
 さらに、この百里基地司令官の告白には注目すべき言葉がある。それは「百里基地から偵察機を2機に追尾させているところだ」の言葉である。もとより発言の文脈から考えて、これは百里基地独自の都合や予定に基づく通常業務として発進を命じたのではなく、標的機を当ててしまった責任者からの要請による緊急発進と考えるのが妥当だ。責任者は高速の偵察機を持っている百里基地の司令官に、標的機をぶつけた相手である民間機(123便)の被害、墜落状況、その後の操作状況などを確認するように申し入れたのである。「えらいことをした」との言葉もまた、相模湾の未納入艦で標的機の実験をしていた自衛隊幹部の悲壮な懺悔、後悔であったのであろう。
 この「偵察機2機に追尾させている」という言葉が重要なのは、それを裏付ける目撃証言が極めて多いからだ。(青山透子氏の『日航123便墜落の新事実』に詳しく記載されている:筆者註)そのことは、これに先立つ「標的機を民間機に当ててしまった」という発言もまた事実であることを示唆している、と小田氏は述べている。
 さらに、この時期の標的機については注目すべき報道がある、と小田氏は言う。
 それは、1987年3月17日付の朝日新聞の「財産の守りが薄い防衛庁」と題された記事で、そこでは「高速標的機の撃墜1機1,472万円」という損失の事実が報じられ、「尻尾の吹き流しを狙うはずの高速標的機を実際に撃ち落した」として経理上は簿外処理されているのだ。実際に撃ち落としてしまった時期は1985年11月から1986年10月の間とされているが、記録上の操作などはいくらでも可能だ。
 ゆえに標的機が失われたのは1985年8月12日18時24分であり、喪失の理由は誤って撃ち落とされたからではなく、誤って123便の垂直尾翼に衝突させたからである、と小田氏は断言する。自衛隊が標的機の123便との衝突の事実を否定するのなら、未納入護衛艦のアリバイと標的機の喪失日の2点について説明責任を果たす必要があるが、それは今も果たされていない、と小田氏は述べている。

 追尾した自衛隊機のパイロットが見たもの
 百里基地の司令官が発進させた偵察機のパイロットには、特別任務が課せられていた。標的機を民間機・123便に衝突させた事態そのものはおそらく過失事故であるが、自衛隊にとっては極めて深刻な不祥事であって、国民に知られたら困る重大な事態であった。それは、自衛隊としては絶対に隠蔽したい事故だったのである。
 だから、偵察機のパイロットには事態は厳重な隠蔽を要することが伝えられ、事故機の被害状況や飛行・操縦状況は墜落場所などを視認し調査して至急報告することが厳命された。その日的は垂直尾翼を損傷している旅客機の窮地を救うことでなく、状況を調べていかに対処すべきかの判断を自衛隊の幹部、幕僚長が行う判断材料にすることにあった。したがって、自衛隊機パイロットは視認した123便の損傷状況を機長に教える気配は全くなく、極秘裏に後ろから近づき、123便とは何の連絡交信も行わずに状況を調査し、百里基地を介して自衛隊幕僚長に報告していたのだ。
 もし自衛隊機パイロットが視認した事態(垂直尾翼が全壊)を123便機長に告げ、あるいは何らかの援助を申し出ていればその後の123便の運命は大きく変わっていたはずである。なぜなら、何度も述べるようにこの時点で123便は飛行を継続していた、飛ぶことができていたからである。
 だが、事態は幕僚長以下の自衛隊にとって、あるいは自衛隊を統括する政府にとって驚愕すべきものだった。追尾した偵察機の自衛隊機パイロットが見たもの、自衛隊幹部に報告したことは、次のようにまとめられる。
(1)当該の民間機(123便)は重要な垂直尾翼が壊滅的に破壊脱落していること。
(2)同機は垂直尾翼を失ったが、操縦・飛行できていること。
(3)同機は羽田空港でなく横田基地に向けて飛行しており、着陸の可能性があること。
(4)オレンジ色の「吹き流し部」が後部胴体に巻き付いているという事実。
 以上の事実を知って、幕僚長以下の幹部は驚愕の声を出して言葉を失ったに違いない。万一事故機がどこかの飛行場に着陸することになれば、自衛隊はいかなる言い訳もできない事態に追い込まれることを意味する。特に、大きかったのは(4)の後部胴体に巻き付いたオレンジ色の「吹き流し部」だ。これは垂直尾翼の撃墜が自衛隊による標的機によるものであることを如実に示すものだからだ。
 ここから事態は大きく変質する。自衛隊が完全隠蔽を基本とする限り、123便の飛行場への着陸は絶対に阻止しなければならないことになるからだ。
 事故機は安全に地上に降りてもらっては困る。
 標的機の衝突という大失態、不祥事を隠蔽しようと考える政府・自衛隊から見た場合、なおも飛行を続ける乗客乗員524人はもはや救うべき被害者はなく、隠蔽を妨げて国、自衛隊らの立場を危うくする生き証人となったわけである。

 123便は垂直尾翼の脱落後も飛行を継続できたのか
 ところで、事政調査員会によると、事故機の状態については次のようにまとめられている。
1)重要機器、部品が喪失し、飛行は困難になった。
2)姿勢、方向、旋回、上昇、降下の操縦が極度に困難になった。
3)フゴイド、ダッチロールの抑制が困難であった。
4)しかし、不安定な状態での飛行の継続はできた。
5)機長の意図通りの飛行は困難であった。
6)安全な着陸は不可能であった。
 しかし、この結論には論理の飛躍、矛盾が顕著に表れている。すなわち、1)2)3)は操縦が困難だとしているが、4)では飛行の継続ができたとしており、これは論理的にも技術的にも大きな矛盾である。また、4)と5)、4)と6)も互いに矛盾しており、この操作性・飛行性についての説明は成立しない、と小田氏は述べている。
 現に、123便は事故発生から32分間も飛行しているし、明らかに操作性は認められるのだ。しかも、「安全な着陸は不可能であった」と、結論づけるのは、どだい奇妙な話である。123便は事故機であり、「安全に着陸できる」可能性はそもそも極めて低い状態だった。であるならば、如何にして、可能な限り乗客・乗員の生命を救うことができるか、そのための「緊急着陸」の可能性がどの程度あるのかを追求することが何よりも求められていたのではないのか。「緊急着陸」自体不可能という判断ができるほど操作性が認められないとするならば、「飛行は継続できた」という点とそれは全く矛盾するのである。

 実際、事故機は垂直尾翼とAPUの脱落により、油圧系統の操作性が完全に失われた。
 事故発生直後に、機体を目撃した静岡県河津町のタクシーの運転手は近持芳太郎氏と渡辺武夫氏によれば、「ボーンという音が聞こえ、(機体は)灰色の煙を出していた。河津町の上空で北方向に90度も旋回した」という。
 小田氏によれば、おそらくそれから程なく事故機は墜落事象に入ったのだろう、と言う。確かに、事故機は事故発生時の7000メートルから一挙に1000メートルほどにまで急降下している。その時の様子を目撃した藤枝市の小林美保子さんは「事故機はジャンボ機の窓がはっきりと目視できるほどの低空飛行から急激な旋回、急上昇を経て北方向に飛行した」(青山透子著『日航123便墜落の新事実』)という詳細な視認、目撃証言を語っている。窓が目視できるほどの低空という証言からは、藤枝市に飛来した段階で飛行高度は1,000m以下になったと推測できるし、そこから旋回、急上昇していることから、事故機は明らかに操縦ができていたことがわかる、と小田氏は述べている。
 この時点の飛行操縦は、油圧系統の不良のため、手動によるエンジン出力操作と電動モーターによるフラップ操作に頼って行われていたことが、ボイスレコーダーの記録からも分かる。
 しかし、公表された事故機の飛行経路・高度(下図:青山透子『日航123便 墜落の新事実』より)を見る限りでは、この目撃情報のような高度の変化は記録されていないので、小田氏も明らかに報告書のデータのこの部分は改竄されている可能性が高いと指摘している。



公式発表された123便の飛行経路・高度

 さて、事故機はどうにか事故当初に起きた墜落の危機を回避できたが、その後に、さらに困難が待ち受けていた。それが、フゴイド(上下動)やダッチロール(横滑り)現象である。ジェットコースターのように激しい揺れと上下運動が繰り返されるなか、それでも事故機は大月市上空で連続的な旋回、下降飛行を行うことで、なんとかそれを鎮めることができたことがフライトレコーダーの解析からもわかる、と小田氏は述べている。こうした卓越した機体操縦に対して、事故後の1987年に殉職した高濱機長、佐々木副操縦士、福田機関士3名に国際定期航空操縦士協会連合から「ポラリス賞」が贈られているのである。

 123便は米軍横田基地への着陸をめざしていた
 通常の着陸時には飛行高度をまず1,500mまで下げる必要があるが、事故機は危険な失速を避けるために飛行速度を落とさず右旋回のスパイラル飛行を続けることでそれを見事に成功させている。大月市上空にさしかかった時点で高度6,600mだったものが、7分後の八王子市では高度1,500mまで降下しているのだ。
 ところが、このように困難を克服しながら行われた360度旋回と降下飛行であるにもかかわらず、CVRに録音されたはずのコックピット内での高濱機長と依々木副操縦士の間の会話は事故調が削除したためかほとんど記録されていない。
 佐々木副操縦士は高濱機長の指示で操縦しており、指示があると、必ず「了解」の返事をしている。ところが、このスパイラル降下中の二人の会話はなく、佐々木パイロットは黙々と操縦していたことになってしまう。この緊急着陸を想定した危険の伴う降下で、会話や指示がないことはあり得ない。したがってCVRの内容は事故調、航空局が修正・削除していると考えるほかない。その理由は、そもそも報告書が「着陸は不可能であった」という結論を先に置き、事態を隠蔽しているからである。

 では上図で示されている大月上空での360度のスパイラル飛行が何を意味するのか。小田氏の推論によれば次のようになる。
 日航123便はその垂直尾翼と油圧配管を破壊され、油圧による自動操縦が不可能になったが、その後わずかな時間での試行錯誤を通じて機長らは4基のエンジンの出力調整を手動で操縦する技術を見つけ出し、旋回や上昇、降下を行うことを習得した。この操縦性であれば、飛行場に着陸できるという判断と、垂直尾翼を破壊したのが自衛隊標的機である可能性が高いという認識。これらを突き合わせれば、自衛隊によって着陸を阻害される可能性が低く、なおかつ多くの民聞人がいない横田基地への緊急着陸が最適だと判断して、北東方向に飛行進路を取ってきたものと考えられるのである。
 そのうえで、冷静沈着かつ優秀な高濱機長は、着陸時の安全をさらに高めるために、緊急着陸の予行練習を行ったのではないか。エンジン出力を微調整しながらの着陸など例のないことだったから、手動でそれを行いながら360度スパイラル旋回と高度下げの操縦飛行を、予め着陸を想定して試していたのではないかというわけである。
 横田基地飛行場に近づいた旅客機が着陸する場合を想定すると、次のような必要条件が考えられる。
1)まず、飛行高度を6,600mから第一段階として1,500mまで下げる。
2)旋回して、飛行場の滑走路の方向に機首を向ける。
3)捻じれのない正しい機体姿勢を保持する。
 パイロットにとって、着陸時の原則は機体の正しい姿勢なのである。特に123便の場合、操縦や着陸の障害となる飛行事象である「ダッチロール」「フゴイド運動」の除去が必要不可欠な課題だったが、結果的にはこの360度スパイラル飛行により、事故機が安定的な飛行を行うことができることを機長は確信できたのではないか。乗客の村上良平氏も遺書に「機体は水平で安定している」(18:45)と書いていることでもそれは証明できる。

 米軍横田基地も着陸を認めていた
 18:46:20に機内放送で機長より「着陸に備えて、安全姿勢をとるように」との指示が出された。奇跡的に助かった落合由美氏も「シートベルトを締めて安全姿勢を取っていた」と証言しているし、先の村上良平氏も「着陸が心配だ。スチュワーデスは冷静だ」(18:46)との遺書を残しているので、乗客らも飛行機が着陸態勢に入っていることは知っていたことがわかる。それは機長らが横田基地の空域への進入を続けていたということ、すなわち受け入れ側である横田基地からも了解を得ていたことを示唆している。
 実際、この段階で米軍横田基地は、123便に対して同基地への緊急着陸を許可していた。つまりは米軍横田基地の了解のもと、同基地への緊急着陸を試みようとしていたのである。その驚くべき事実が明らかになったのは、123便の墜落から10年も経った後の1995年7月のことだ。
 しかも、それは日本側の調査によって明らかになったのではなく、一人の米軍兵士の告白によって明らかにされたのである。もちろん事故調の事故報告書には一言の言及もない。
 日航123便が墜落して10年後の1995年7月、米国在住のアントヌッチ元大尉(123便事故当時中尉。以下、アントヌッチ中尉と表記)が国防総省公認の米軍準機関紙「星条旗」に日航123便の救助活動についての告白を投稿して、墜落事故の真実を語った。世界はその投稿の中で語られる衝撃的な事実に驚愕するとともに、日航機の墜落に日本政府、あるいは自衛隊の黒い影、すなわち謀略を見たのだ。なぜなら、それまで日本政府は墜落事故直後にアントヌッチ中尉らが搭乗する米軍C−130輸送機による救助活動が開始されていた事実を全く隠蔽しており、しかも自衛隊には後述するように生存者救助についての明らかに意図的な不作為があったことが判明したからだ。これは墜落後も生存していた多くの乗客に対する見殺し行為として、世界の顰蹙と非難を浴びることとなった。
 「星条旗」紙へのアントヌッチ中尉による投稿の「見出し」は「1985aircrash rescue botched ex−airman says」である。同中尉は123便墜落時の日本側の救出活動についてbotchedすなわち「下手な細工」(下手なつくろい、たくらみ、策略などとも訳せる)と総括している。すなわち日本の政府や自衛隊の対応は、「誰が見ても、明らかな策略」だと結論付け、日本政府や自衛隊による「見え見えの残酷な見殺し殺人の陰謀、策略」であるとしているのだ。
 さて、救出活動をめぐる驚くべき証言は後述するとして、ここではその証言の中で、123便の横田基地への着陸に関わる部分の概要を記しておこう(資料:米国アントヌッチ元中尉の機関紙への投稿文書)。
 アントヌッチ中尉は、輸送機C−130の通信士であり、任務で沖縄から横田に向けて飛行しており、途中18:30頃に日航123便が非常事態を宣言するのを傍受し、事態を注視していた。その後、事故機と東京管制との交信で、「高濱機長と管制官との会話が英語でなく、日本語であることで日航機は緊急非常危険事態である」ことを認識した(航空管制では英語が用いられることになっているが、緊急事態であることに鑑み、管制官は高濱機長らに日本語での通信を許可したのである)
 その後も日航123便の様子を懸念して日航機の無線交信を聞きながら、中尉は事態の推移を注視していた。
 アントヌッチ中尉は周波数を横田基地・事故機の会話周波数に切り替え、中尉の搭乗するC-130は「Okuraでホールディング(待機)する」よう指示されている。そしてこの旋回待機中に、米軍の横田管制が日航123便に「横田基地への着陸を許可する」のをアントヌッチ中尉は聞いている。
 アメリカ「STARS and STRIPES(1995年8月27日号)紙」に掲載されたアントヌッチ中尉の記事中に、The pilot wanted to land at a U.S. military base−an extraordinary event.(めったにないことだが、パイロットは米軍基地への着陸を申し出ていた)とあるが、それに対して、We heard Yokota Approach clear JAL123 for landing at the base.(われわれは横田管制がJAL123の着陸を許可したと聞いている)とある。
 その後で、アントヌッチ中尉はWe heard Yokota Approach try to contact JAL 123 with no success.(横田管制はJAL123便にコンタクトをとろうとしたが、うまくいかなかったと聞いている)と述べている。
 アントヌッチ中尉の告白証言から、日航123便は横田基地に「着陸申請」を行ったことが確定でき、逆に言えば日航123便が間違いなく着陸できるだけの操縦性を習得していたと判断することもできるのである。後にこの告白証言を受け、日本航空安全推進本部の福田部長や上谷パイロットも、著者(遺族・小田)に対して事故機は操縦性を有していたことをみとめた、と小田氏は述べている。




 「このままでお願いします」は自衛隊戦闘機パイロットヘの着陸許可の懇願であった!
 CVRに残された会話の断片からは、この横田基地への着陸を目前にして緊迫した事態が発生したことが分かる。CVRでは、ある時点から高濱機長の奇妙な会話が突然始まる。
 それはこのようにして始まる。
 18:46:16 機長「このままでお願いします」
 この直前、18:46:03に副操縦士が「相模湖まで来ています」と伝えているので、事故機はこの時前方に横田基地が望める相模湖の上空にあったことが分かる。また機長のこの言葉は、東京の管制官との交信の言葉ではないことは明白である。もし管制官であればその前後に管制官の言葉がなければならないが、それは全然ないからである。日本語で話されているからその相手は日本人であり、懇願する相手は地位的に格上の存在、機長でさえ下手に出なければならない怖い相手なのだ。
 その相手はすぐ近くにいる。飛んでいるのだ。
 事故発生直後、百里基地の稲吉司令官が「えらいことをした。標的機を民間機に当ててしまった」と友人に告白し、百里基地から偵察機(F-4E改造機 ミサイル非搭載)2機に追尾させていることを口走っている。この自衛隊の偵察機がすでに緊急発進し、事故機に追尾して並走飛行していることは角田四郎氏をはじめ多数の住民が目撃している。藤枝市での小林美保子氏、群馬県吾妻郡東村の自衛隊員、M.K.氏、上野村の小学生、中学生が「2機の戦闘機と123便」を何回も目撃している(青山透子著『日航123便墜落の新事実』)。
 このことから、高濱機長が懇願した相手は並走して飛行しながら機長が操縦する事故機を監視している自衛隊機のパイロットであると推察でき判断できる。
 上図に示したが、状況から考えて、「このまま」とは横田基地への着陸態勢の続行を意味する。「このままでお傭いします」とは、このまま横田基地に着陸させてほしいという懇願にほかならないだろう。「このまま」を願うということは、会話の相手がこのまま着陸することを許さない姿勢を示しているということである。自衛隊機は123便の横田基地への着陸を禁じてきたのだ。

 しかし、相手の応答はない。おそらくCVRの採録からは削除されているのだろう。
 その5秒後、再び機長の声。
 18:46:21 機長「このままで お願いします」
 先ほどと同じ言葉を繰り返している。機長は並走する自衛隊戦闘機パイロットに横田基地への飛行継続を再度懇願したが、これも拒否されている。
 ここでも相手の言葉があるはずだが、採録されていない。恐らく自衛隊パイロットからの最後通告、脅迫があったはずだ。
 そして、12秒後にコックピット内で高濱機長の悲痛な言葉が漏れた。
 18:46:33 機長「これはダメかもしれんよね」
 自衛隊機により最後通牒を突き付けられた機長は、ここでついに横田基地への着陸を断念せざるを得なかったと考えられる。恐らく自衛隊側は横田基地の周辺住民への被害を持ち出し、「横田基地への着陸禁止命令に従わねば、撃墜する」と通告されたのではないか、と小田氏は推測している。
 「これはダメかもしれんよね」。この言葉は自衛隊機が懇願を拒否したために着陸を断念せねばならなくなった機長の悲痛な叫びであり、彼が「多くの乗客乗員の命が助かる可能性が無くなった」と想定せざるを得なくなったゆえの絶望の言葉である。

 自衛隊の横田基地への着陸阻止は正当化できるか?
 横田基地への直前に追尾してきた自衛隊機パイロットから着陸禁止を申し渡され、唯一の救命手段である「飛行場への緊急着陸」の断念を強いられた機長が吐いたこの無念の言葉が、遺族の胸を締め付ける。
 123便が横田基地に着陸できなかったのは、この自衛隊幕僚長らから「二次被害防止」の名目で発せられた非道で残虐な命令であるが、これは正当な理由や大義名分があると言えるのだろうか。
 たしかに横田基地の近くには多くの住民が住む市街地が存在する。事故機がもしこの住宅街に墜落すれば、多くの市民が犠牲になるはずだ。自衛隊関係者は約3,000人が犠牲になると予測したという。およそ長さ70m、横幅60m、250トン超(実質400トン)のジャンボジェット機が住宅街に墜落して数10mも滑り、燃料が発火して火災が起きた場合は相当な死傷者が出るはずだ。
 確かに、機長らはエンジン出力の調整による手動操縦技術を習得していたが、それで着陸までできたのかという疑問は当然出てくる。
 だが、ここで緊急着陸飛行とは何かを考える必要がある。緊急着陸は事故機の乗客の命を助ける唯一の手段である。そもそもこのような事故機の着陸では、もちろん「安全な着陸」を目指しはするがそれは結果次第であり、それよりも何よりも「何%の命を助けられるか」を追求するのが航空常識である。この異常事態での緊急着陸で通常の旅客機が想定する「安全な着陸」などはもともとあり得ないのだ、と小田氏は述べている。
 とはいえ、緊急着陸における大前提は、当該の事故機が操縦できること、すなわち旋回、上昇や降下などの飛行ができることである。123便の場合、垂直尾翼の全壊によって起こったダッチロール、フゴイド運動を、飛行高度を大きく下げ、着陸ギアを降ろすことで解消させているので、123便は傾いたまま着陸する可能性がなくなり、水平な状態での降下・着地が可能になっていたのである。
 さらに言えば、仮に住宅街への着陸に支障が生じた場合には、再度急上昇する「復航」を行えば良いのだ。現に同機は横田基地の次に向かった川上村レタス畑で「復航飛行」すなわち「タッチ・アンド・ゴー」を実行していることから見て、123便が住宅街に墜落することは有り得なかったと考えられる。
 しかも、着陸失敗の危険を避ける必要があるからこそ、高濱機長は大月市上空で360度スパイラル降下飛行で着陸の練習を行っているのだ。以上のように検証してくると、「安全な着陸は可能であった」と、小田氏は述べている。
 加えて、世界の航空界の常識として、事故機の着陸行動の判断は当該機の機長の専権事項であり、外部の机に座っている権力者が判断すべき事態ではないのだ。
 しかし、機長の判断は無視され、123便は命が助かるための唯一の「梯子」を外されて乗客乗員524人は見殺しにされた。もとをただせば標的機の衝突という不祥事を隠蔽しようという自衛隊、あるいはその最高指揮官たる総理大臣の自己保身や責任回避、権力維持のためにそれが行われたわけで、524人の乗客乗員の「命」が抹殺されるなど、到底受け入れられるものではない。
 フジテレビは2014年8月12日の特別番組で「日航123便は横田基地に着陸を目指したが、その直前に立ち塞がったのは『風』と『風雲』であった」と説明している。これは報道機関としての精一杯の抵抗とも思えるが、小田氏は『風』=『権力』、『風雲』=『武力』を意味し、権力とは国、武力とは自衛隊戦闘機のミサイルを意味する、と端的に指摘している。
 そして、この問題は憲法と法律、そして人道的な観点から責任を追及すべき犯罪行為であり、日本の歴史上でも特筆すべき重大な犯罪行為なのである、とも述べている。

 以上、第一部を中心に、日航123便墜落事故に関して、伊豆沖での自衛隊無人標的機による垂直尾翼の撃墜後から、米軍横田基地への緊急着陸の試みと自衛隊によるその拒否にいたるまでの経緯の概略をまとめてきた。
 事故機は、結局横田基地への着陸を諦め、自衛隊機によって追尾されながら市街地から遠ざかり西方向へ進路を向け、長野・群馬県境の山岳地帯への飛行を余儀なくされるである。

 なお、後編では、日航123便が御巣鷹の尾根に墜落するに至るまでの驚くべき自衛隊の蛮行、さらには墜落後の国・自衛隊・警察等による信じがたい謀略について、本書に基づき明らかにしていきたい。


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