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小田周二『永遠に許されざる者』

(河出書房新社2017年7月30日刊)


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報告書には墜落の「事故原因」が書かれていない。
 小田氏は、事故調査委員会の報告書の最大の欠陥は、123便が墜落した原因が明記されていないことだ、と指摘している。つまり、この報告書でも123便が垂直尾翼の破壊脱落の後も「不安定な状態」ではあっても「飛行の継続ができた」という事実を述べているが、その継続飛行していたものがいきなり墜落に転じたのはどうしてなのだろうか、ということである。

 ・川上村レタス畑から上野村への飛行の軌跡
 横田基地方面を目指していた123便は、それから10分ほどで長野県川上村の梓山に到達していた。そこで、最後の手段として高濱機長はレタス畑への不時着を試みている。
18:54:06
 機長 「はい、左」―五郎山を避ける。
 機長「あたまを下げろ」―レタス畑への着陸態勢に入る。
 機長「フラップ、降りるね?」―減速指示
 副操縦士「フラップ10?」―減速しつつ揚力を高めて降下する操作。
 ⇒薄着陸に入る前の標準的な操縦である。
 しかし、ここで機長はレタス畑に多数の農民を発見。接地場所、高度などから不時着が無理と判断して着陸を中止し、「復航」飛行に切り替えた。いわゆる「タッチ・アンド・ゴー」である。
 当時、レタス畑で農作業をしていた石川哲氏(38歳)は「まるで石を投げたらあたるような超低空飛行だった」と延べ、その後飛行機は三国山の方に向かって飛んで行き、「もうぶつかると思ったが、機首をぐっと持ち上げて、山の斜面を這うようにして上昇していった。機首の上部が後ろからでも見える程の急角度のままやっと尾根を超えた。姿が見えなくなって、数秒後に、黒い煙が、続いて白い煙が上がった」と証言している。
 レタス畑での不時着を諦めた事故機は無事「復航」して3,000mの飛行高度に上昇し、上野村の山岳地帯の1,500m級の山々との接触を避けながら、安全高度の飛行を行っていたが、その時であった。
18:55:45 機長らの絶叫音「アーッ」⇒事故機に異常事態が発生したことを示す。
生還還した落合氏の証言「物凄い横揺れがした」と一致する。
18:55:57 事故来急降下開始(制御不能の墜落事象の開始)。
DFDRデータの飛行高度を参照
     (フライトレコーダーの18:56:00の飛行高度の変化)
18:56:30 123便、御巣鷹の尾根に墜落
 このように、18時55分45秒に異常事態が起きてから45秒後の56分30秒に123便は墜落している。(520人死亡、4名重傷の被害)。



川上村、上野村山岳地帯への飛行経路

 ここまでの会話と飛行状況は、著者(遺族・小田)が作成した上図の「川上村・上野村山岳地帯への飛行経路図」と完全に一致することがお分かりいただけるはずだ。
 この飛行経路はそれぞれ以下の目撃証言により作られたものである。
目撃証言@    目撃高度 数10M、遺書者を書いていたであろう乗客の姿を目撃(長野県川上村梓山)
目撃証言A    レタス畑の真上、石を投げると当たる程の超低空を飛行して来た日航機は直進すると扁平山に衝突するので、右旋回上昇し、更に直前の三国山との衝突を避けるべく、左旋回上昇して、群馬上野村の山岳地帯に飛行して行った
目撃証言B   機長、副操縦士が驚愕の(絶叫)18:55:45秒
「物凄い横揺れがあり、直後 垂直に落下」落合由美さん→ミサイル被弾、炎上、操縦不能
目撃証言C   飛行幾が飛んで行ったあとから、流れ星のようなものが飛んで行くのが見えた(→自衛隊ミサイルの飛行軌跡)
目撃証言D   三国山の向こう側(群馬県側)に消えた。(ドーン)と大きな音がして、空が真っ赤になり、原爆のようなミノコ雲が上がった
目撃証言E   飛んでいた飛行機が 赤い炎を上げ、やがて黒い煙を残して南相木村の群馬県境に消えた

墜落時についての生存者証言と目撃証言
 CVRの記録から、事故機は18時56分頃から急激な降下飛行に転じたことが読み取れる。この時の機内の状況について、生存者である落合由美氏は、次のような墜落飛行を証言している。
 ・落合由美氏の証言
 安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。船の揺れというものではありません。ものすごい揺れです。しかし、上下の振動はありませんでした。(著者:すなわち横揺れ)前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。聞こえたのはそれだけです。
 そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふうにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。
 怖いです。怖かったです。思いださせないで下さい、もう。思いだしたくない恐怖です。お客様はもう声も出なかった。私も、これはもう死ぬ、と思った。まっすぐ落ちていきました。振動はありません。窓なんか、とても見る余裕はありません。いつぶつかるかわからない。安全姿勢をとりつづけるしかない。−以下略(吉岡忍著『墜落の夏』1986年新潮社)。

 55分45秒頃、落合氏は「ものすごい揺れ(横揺れ)」を感じ、それからすぐに恐怖の急降下が始まり、髪の毛が逆立つような急降下であったと証言している。このような衝撃の証言から同時刻ごろの機長らの絶叫は落合由美氏が感じた「ものすごい揺れ(横揺れ)」であることがわかる。
 同じく奇跡の生存者である吉崎博子さんの証言によれば、123便は「ほぼ垂直と思えるような角度で急降下、墜落した」ということだ。また、川上村消防団長・林岩氏も、「事故機が右旋回しながら、真っ逆さまに落ちて行った」と証言している。これらの証言は、事故機がほぼ垂直角度で真っ逆さまに落下したことを示している。つまり、これらは操縦の結果による急降下などではなく、制御できないほどの急激な墜落事象がこの時に起きたことを示しているのだ。
 ・多くの住民による目撃証言
 他にも、何人かの住民が目撃情報を語っている。(角田四郎著『疑惑』より)。
 「真っ黒い煙を上げながら、群馬県境の山中へ墜落した」(川上村 鶴田汪氏)
 「胴体から煙を噴きながら、超低空で東北の方角へ飛んで行った」(相木村 粟生の主婦)
 「飛行機の飛んで行った後から、流れ星のようなものが飛んで行った」(南相木村中島地区の住民3名)
 「飛行機が赤い炎を上げ、やがて黒い煙を残して南相木村の群馬県境に消えた」(中島初代、主婦、川上村)
 これらの証言から分かることは、事故機は墜落前に炎上して赤い炎を上げ、黒い煙を出して飛行していたのだ。
 これは、右主翼の第4エンジンが破壊され、引火したものと推測される。
 第4エンジンの破壊状況が他の3基のエンジンの破壊状況と大きく異なる上、墜落の前に脱落しているからである(事故調の分析資料)。
 上記の証言の中でとりわけ注目されるのは、事故機が飛んで行った後から「流れ星のようなものが飛んで行った」という証言である。飛行機の後を追いかけるようにして飛ぶ「流れ星」。これは、ミサイルの航跡と考えられる。このミサイル(100kg、速度マッハ2〜5)が右第4エンジンを直撃したと考えれば、落合由美氏が感じた「ものすごい」横揺れという事象と完全一致する。
 墜落場所には「第4エンジン」「水平尾翼」「垂直尾翼」「APU」は発見されず、いずれも墜落する前に破壊脱落している。この破壊脱落のいずれかが、墜落の事故原因なのだ。

 ミサイル攻撃によって合理的な説明がつく123便墜落状況
 事故報告書の81〜83頁では墜落事象を比較的詳細に説明しているが、そのきっかけとなったのは事故機で発生した急激な衝撃と横揺れだった。しかし、報告書の「墜落事象の説明」では、18時55分45秒に事故機に発生した異常事態、すなわちCVRに記録された機長らの驚愕の声や落合氏が証言する猛烈な横揺れなどを無視して、その後の事故機の姿勢や方向、横、縦の加速度、機首下げ角度、高度などのみについて詳しく記載している。この急降下墜落事象がなぜ生じたかという分析が、意図的に避けられているのだ。
 墜落に至る前の事故機は、上野村付近上空に入るまで操縦でき飛行できていた。事故調も「飛行の継続ができた」と認めている。したがって、機長らの操縦ミスで墜落事象が生じたことでないことは明らかである。このような事象は、機体に外部から強い力が加わり、発生したとしか考えられない。
 本来なら機体残骸を調べればすぐに分かるはずのことである。墜落が起きた際の事故調査では、まず、機体の残骸分布を調べることが一番重要である。それが航空事故の調査の原則だ。
 墜落場所での機体残骸分布を事故調資料で再確認すると、墜落地点には「垂直尾翼」「APU」「水平尾翼」「第4エンジン(右翼の外側)」が存在しないことが分かっている。このうち垂直尾翼とAPUは墜落よりもはるか前の18時24分に自衛隊標的機の衝突で破壊脱落しているので、墜落直前に破壊脱落したのは残る「水平尾翼」と「右第4エンジン」だと判断できる。
 その脱落は18時55分45秒から、墜落時刻である56分30秒までの45秒間の間で起きているのだ。
 その引き金は55分45秒の激しい衝撃と横揺れである。
 この事故機に起きた激しい衝撃を「ミサイルの衝突」ととらえると、墜落や重要保安部品の突然の脱落との前後関係は次のようにまとめられる。
1)18:55:45の激しい衝撃、横揺れ=自衛隊機が撃ったミサイルの激突(CVRの機長の絶叫、落合氏の証言、住民の目撃証言、日航・町田副社長の発言)。
2)事故機の右旋回事象=ミサイルによって右翼外側に付く第4エンジンが破壊され機能停止したことによる(飛行中の火災、黒い煙の目撃証言)。
3)まっさかさま急降下・墜落事象=水平尾翼の破壊脱落による(落合、川上、吉崎氏の証言、DFDRの高度変化、住民目撃)。
 このようにまとめてみると見事に因果関係が導き出され、経過のごく自然な説明が成立する。事故調が報告書でこれらの点について一切触れていないのは、自衛隊機によるミサイル攻撃を隠蔽したためである。

 水平尾翼の脱落と飛行経路
 事故調査委員会の報告書では事故機は「一本から松」から「U字溝」を経由して墜落地点に入り、裏返しに衝突して墜落したとしている。これ自体は間違いない飛行軌跡である。だが、不可解なことに事故調の報告書にはこれ以前の飛行経路が示されていないのだ。
 そのため、どうしても理解不能なことが出てきてしまう。つまり、水平尾翼の残骸が、「U字溝」の真上部500mも離れた位置に落下していることが説明できないのである。巨大な水平尾翼の残骸は飛行航路のほぼ真下に落下するはずであるから、事故機はこの水平尾翼の残骸落下の地点を飛行したと想定される。しかし、事政調は 事故機がU字溝で右主翼先端が地面を削り取った際の衝撃により、水平尾翼がとんでもない方向に飛び散ったと説明している。しかし、巨大な金属塊である水平尾翼が飛行方向の後方ではなく真横に500mも飛散するということは科学的に成立しないことは明らかである

 さらに事故機は18時55分57秒から猛烈な急降下、すなわち墜落事象に陥っている。これは姿勢制御にとって死活的に重要な水平尾翼の脱落が原因であると考えるのが自然だ。しかし、事故調の主張によれば水平尾翼は18時56分26秒の「U字溝での接触」で「水平方向に吹き飛んだ」ということになるので、これでは時系列的には、「墜落事象の発生後に水平尾翼が脱落した」ということになってしまう。明らかに順序が逆なのだ
 この事故機に起きた激しい衝撃を「ミサイルの衝突」ととらえると、墜落や重要保安部品の脱落との前後関係は下図のようにまとめられる。
 図の左側の点線のところから事故機が入って来る。ちょうど川上村のレタス畑に着陸を敢行しようとして、諦めてタッチ・アンド・ゴーをして扁平山、三国山を回って急上昇してきたところである。そして事故機は3000メートルまで急上昇してから、ミサイルの攻撃を受け、水平尾翼が落下し、バランスを崩して、急降下し、一本から松、U字溝に接触しながら御巣鷹山の斜面に激突するまでの航跡を示したものである。



事故直前の飛行状況

 さらに、下図から、水平尾翼と第4エンジンの落下位置及び飛行経路を確認すると、中央上に水平尾翼、そして中央下に第4エンジンがあることが分かる。水平尾翼の落下位置からすると飛行経路は水平尾翼の上を通り、そこから右へ大きく旋回して、「一本から松」への接触後に、右主翼がU字溝を削り取ったあたりで第4エンジンの本体が脱落したと考えるのが自然である。



墜落現場の残骸分布図

 第4エンジンの脱落と飛行経路
 では、第4エンジンはどのようにして落下に至ったのか。上図で見たように第4エンジンの落下位置は、水平尾翼の落下位置よりさらに進んだ先のU字溝の位置である。しかし、下図をよく見てみると第4エンジンは、すでに「一本から松」との接触から「U字溝」までの間にわたってエンジン内部の部品をばらばらと散乱させている。部品を次々に落としたあとに「U字溝」でついに本体(外枠部)が落下しているのだ。この破壊状況から第4エンジンの内部はすでに機体が「一本から松」と接触する前に大きく破壊されていたことがわかる。そうでなければ、エンジン内部の部品がまるでこぼれ落ちるように次々に落下していった理由が説明できない、と小田氏は述べている。
 従って、水平尾翼の落下の直前に第4エンジンは小型ミサイルによってその内部が破壊されていたのだ。もしも強力なミサイルで第4エンジンを全壊させてしまえば、残骸の形状からミサイル攻撃という事実が露呈してしまうことになりかねない。
 そこで自衛隊は、精密な小型のミサイルでエンジン内部だけの破壊を行ったと推測できる。自衛隊の関与の証拠を残さないための謀略作戦として考えれば、これは当然の策だ。



第4エンジンの残骸分布図

 第4エンジンがミサイルで破壊されたのなら、水平尾翼よりも先に第4エンジンが落下するのが常識的な順序に思える。だが、それが実際には逆の順序になった背景には、このような事情があったのである。
 つまりは、ミサイル攻撃で第4エンジンの内部が破壊されて機能を停止し、部品がバラバラに崩落し始めると同時にミサイルが命中した際の衝撃で機体は激しく横揺れし、その衝撃によって水平尾翼が脱落。以後、第4エンジン内部が崩落しながらも機体は右旋回して飛び続け、最後に第4エンジンの外枠部が脱落。このように水平尾翼と第4エンジンは飛行経路に沿った順で脱落したのである。

水平尾翼(水平安定板)の機能とその役割
 「垂直尾翼」と「水平尾翼」はともに重要だが、どちらが重要なのかと問われれば、「水平尾翼」だ。なぜなら垂直尾翼は方向を決め、横方向の安定性を維持する機能があるが、これはエンジン出力の調整で代替できるからである。
 また、垂直尾翼には方向舵しかないが、水平尾翼には昇降舵が付くと同時に、そのことによって水平姿勢を制御するという二通りの制御機能を持っている。水平尾翼が機体の水平安定性維持に重大な役割がある証だ。
 水平尾翼の働きは、主翼との釣り合いによって、機体の水平方向の安定性を与え水平尾翼に付いている「昇降舵」によって機体の機首上げ下げの運動を制御するこの機能を十分に発揮させるべく、二つの可動装置が付いている。
 ところが、突然機首が下がった場合に水平尾翼が失われていれば姿勢回復力が働かず、機体はそのまま機首を下にしてまっさかさまに垂直降下しはじめることになる。つまり墜落事象に陥るわけだ。これは生存者・落合由美氏、吉崎博子氏の証言とも完全に一致する。事故機の急激な垂直降下は、同機が水平尾翼を喪失したことを裏付けているのである。
 この機体の正常な姿勢維持は、正常の飛行を行う必須の重要機能だ。航空機は、機首を数度ほど持ち上げた状態で飛行する。この姿勢で気流の流れが翼の両面を通過することにより、本来の揚力が生み出されて飛行できるのである。しかし、飛行姿勢が過度に上向きあるいは下向きに外れると揚力の発生が生まれず、重力に負けて「失速」(ストール)の状態に陥る。このまま推移すると過剰に上向いていた機体はより上を向いて棒立ちになり、次いで前側の重心によって急激に機首を下にして墜落する。過度に下向きの場合も、より大きく下向きになって失速して墜落することになる。

 ここで123便墜落直前の飛行状態を、飛行高度と水平迎角の関係を分析した資料で解析、推理・検証した結果をみてみよう。以下の図はTBS映像から「高度」(左から右に下降している線)と「ピッチ」(機体の姿勢:上下に大きく変動している線)の変化を時間とともに示したものである。(横軸は時間、縦軸は高度とピッチの大きさを表す。)



墜落直前の40秒間の飛行状況(高度・ピッチ)

 18:55:54から墜落した18:56:30までの36秒間の事故機の動きが示されている。
 まず、機体の高度は18:55:58からずっと急下降しているが、それから20秒後には下降が緩やかになり一旦下げ止まって最後は水平飛行になっていることが確認できる。一方、機体の「ピッチ」の方は、18:55:54以降もずっと下方へ向いているが、18:56:10あたりから上向きに転じていることがわかる。おそらく機長らが墜落の最中にも「エンジン全開」で機首を上向きに改善する努力を続けたのだろう、と推測できる。しかし、「ピッチ」がほぼ水平(プラス10)に転じた途端に失速し、墜落している。
 いずれにしても、この図からわかるように水平尾翼は機体の水平安定性を左右するものであり、水平尾翼が脱落すると機体の水平維持が困難となってしまい、たとえエンジン推力があっても機体は操縦不能に陥り、墜落事象に至ってしまうということである。

 これまでにも世界中で多くの水平尾翼の破壊・脱落による墜落事故が起きている。
1971年7.30  全日空機雫石衝突事故(自衛隊機の衝突により垂直尾翼、水平尾翼破壊)
1971年10.2  英国欧州航空706便墜落事故(水平尾翼の崩壊)
1986年8.31  アエロメヒコ航空498便空中衝突事故(水平尾翼の破壊)
1991年9.11  コンチネンタルエキスプレス2574便墜落事故(水平尾翼の前縁板の外れ)
2000年1.31  アラスカ航空261便墜落事故(水平尾翼の故障)

 自衛隊によるミサイル攻撃と撃墜の意図
 事故機は垂直尾翼を破壊された後、手動操縦によって飛行を継続していた。しかし、このようなエンジン出力調整による手動操縦では、エンジン1基を停止させてしまえば機体の安定性が維持できずに墜落するだろうと予測し、自衛隊はエンジンに小型ミサイルを命中させ、その機能を停止させるという謀略を計画し、実行したと考えられる。
 ミサイルでエンジンを狙う場合、左右の4基のエンジンのうち一番外側に位置する第1エンジンか第4エンジンしかない。第2、3エンジンは水平尾翼が張り出しており、後方から正確には攻撃するのは不可能だからだ。したがって、胴体中心から20m離れた第1エンジンか第4エンジンしかない。
 それではなぜ第4エンジンなのか。右の第4エンジンが破壊すれば、右側の推力が落ちるから機体は右旋回して上野村の山岳地帯に墜落するからであった。第1エンジンを破壊すれば左旋回して長野県側に墜落することになるが、その場合には捜索や救助活動が容易で、極秘のうちに証拠隠滅することが難しくなってしまう。
 人里離れた山岳部で、捜索が困難な地域。それが自衛隊にとって最適の墜落場所だった。墜落地点での捜索と救助を困難にさせる一方で、自衛隊にとっては一連の事態を引き起こした証拠となる残骸の回収が容易となるからである。
 しかし、この計画で実行したが想定外のことが起きている。水平尾翼が脱落して猛烈な急降下(墜落)が一気に起きたことは、撃墜という目的に照らせば成功であった。ところが、この水平尾翼の脱落により、事故調や航空局は水平尾翼が墜落に先立って脱落した理由やその場所の合理的な説明を求められる羽目に陥った。嘘の不合理な説明でごまかすことになり、墓穴を掘ることになったのだ。

 日航123便の突然の墜落に至る経緯に関する結論
 日航機墜落事故の端緒は、自衛隊標的機による垂直尾翼の破壊であった。自衛隊、国はこの不祥事を徹底的に隠蔽することに決め、証拠残骸の密かな回収と証人となりうる乗客全員の殺害を行うことにしたのだ。
 なぜ、全員の殺害か。この墜落では最終的に4名だけが生き残り、落合由美氏や川上慶子氏らの証言で、例えば事故調および航空局が控造した事故原因「隔壁破壊説」は否定された。このこと一つを見ても、彼らにとって事実の隠蔽のためには生存者を残さないことが必須だったことが分かる。
 なお、落合由美氏は、救出から1か月程たった9月17日に入院先の多野総合病院で防衛庁の小原医官の聴取を受けていて、そこで「急減圧はなかった」と証言している。それは役人の内部告発資料から判明したものであった。それを書籍で明らかにしたのが前に述べた元日航パイロットの藤田日出男氏(『隠された証言』)である。
 そして、垂直尾翼、油圧機能を喪失しながらも操縦性を回復した123便の横田基地への着陸を自衛隊は阻止し、上野村の山岳地帯へと誘導して強引に墜落させたのである。なぜならこの場所に事故機を墜落させれば全員を墜落死させることが可能であり、また警察が捜索に手間取るうちに証拠残骸を回収するのにも格好の場所と考えたからだ。そこで自衛隊は、上野村上空の空域でミサイルを使って撃墜するという暴挙を意図的に実行したのである。
 自衛隊は武器を持つ公務員であり、幕僚長以下の上級幹部の命令には事の善悪を考えず、忠実に従うロボット人間の集まりでしかない。悪逆な権力者はこのような危険な殺人集団=軍隊を「自己保身」「責任回避」「権力維持」のために用い、極悪で非道な殺害命令を出したのだ。
 だが、実際には墜落直前の機長らの果敢な努力により、墜落後も相当数の生存者がいた。この後に詳述するように、墜落の後、自衛隊・国はこれら多数の重傷の生存者までも殺害し、そのうえで証拠残骸の回収を極秘裏に実行している。
 現代ではどのような人が殺されたとしても、警察は殺人事件を捜査するものである。ところが、日本の事故調は真撃な調査も行わず、国の指示に従って、墜落事故として、処理するのが通例となっているのだ。日本には、民主主義も憲法もあるが、権力者はこれを無視して国民の命を犠牲にし、自己の「権力維持」「責任回避」「自己保身」を企むのである。
 以上、日航123便墜落事件について、それが無人標的機による垂直尾翼の撃墜により惹き起こされたこと、そして米軍横田基地への緊急着陸も自衛隊によって阻止されたこと、そのうえ最後は群馬県の山岳地帯において自衛隊戦闘機(F-15J)によるミサイルで第4エンジンが破壊されたことが直接の原因で日航123便は墜落へと至ったこと、などについて小田氏の著書に基づきまとめてきた。
 なお、123便を追尾した自衛隊の偵察機2機については、自衛隊百里基地の稲吉司令による証言があるが、山中で123便の第4エンジンの内部をミサイルで破壊した別ミサイル搭載のファントム戦闘機機(F-15J)については、いつ、どこの基地から誰の命令で発進したのかについてははっきりしていない。
 また、偵察機の機種名について、小田氏はファントムF-4E改としているが、百里基地で運用さていたミサイル非搭載の偵察機はファントムRF-4Eで、またミサイル搭載型の改良機RF-4EJもあったとのことである。



ファントム偵察機(RF-4Eは手前、奥がRF-4EJ)




ファントム戦闘機(F-15J)

 さて、ここからは、主に第二部の内容をもとに、墜落後の捜索と救助活動の実態と問題点についてみていきたい。

 日航123便墜落場所の捜索と救助活動の実態
 事故機の墜落後、墜落場所の捜索と救助の活動も表向きには一斉に開始された。しかし、この捜索・救助活動における自衛隊と群馬県警の動きは極めて奇妙なもので、後に大きな問題となって国内外の非難と顰蹙の的となる。特に問題視されたのは、墜落場所が特定されて公表されるまで約10時間、生存者の救出には実に16時間もかかったという点だった。
 この点について事故調の報告書は、「墜落地点は山岳地帯であり夜間であったため、捜索、救助まで16時間もかかったのはやむを得なかった」「(奇跡の生存者4名を除く)520人は即死だった」などと記載している。事故直後、国民やマスコミは時間的な遅れを非難したが、国はその批判を一切無視したのだ。
 事故直後、墜落現場に登って調査した朝日新聞は現地調査団を派遣し、その概要を『日航ジャンボ機墜落一朝日新聞の24時』(1985年)として出版している。その中でも捜索・救助活動についてさまざまな疑問を明らかにしている。やがてそうした疑問や批判の中から、自衛隊特殊部隊による「生存していた乗客乗員の殺害」「標的機の残骸の回収隠滅」などが次第に明らかになっていくことになる。

 日航123便墜落の現場に近い群馬県上野村の小学生や村民が「墜落前後、稲光のような閃光と大きな音がした」と証言しており、墜落直後に村民は墜落場所が上野村であると特定してNHKなどに通報していた。しかしなぜかTVやラジオは「長野県御座山」という場所を墜落場所として放送し続けていたのだ。中でもNHKは驚くべきことに墜落翌日の13日朝4時まで、「御座山だ」と放送していたのである。その間、国民の多くが、国内の事故でありながら、墜落場所の特定にこれほどの時間を要するのはなにかおかしいと感じていたわけであるが、なんとNHKはじめ多くのメディアも場所の特定を遅らせて事件の隠蔽に加担する役割を果たしていたのである。
 また、上野村小学校の5年生の生徒は、墜落前に大きい飛行機と小さなジェット飛行機「2機がかけっこ状態であった」と証言しており、自衛隊機が最後まで追尾していたことを示している。そして中学生の「真赤な飛行機」が飛んでいたという証言もあり、123便が炎を出していたか、赤い「吹き流し」を付けて飛んでいたことも伺わせる。
 上野村の高度は約1200メートルで、日航123便の墜落時の高度は1500メートルであるから、住民たちはかなり近い距離で事故機を目撃していたわけで、証言の信憑性は高い。
 また、「自衛隊ヘリは墜落場所をサーチライトのような強い明かりで照らしながら、多数行きかっていた」「煙と炎が上がった山頂付近をグルグルと回りながら何機もの自衛隊ヘリがブンブン飛んで何かをしていた」。これらの村民の証言は、自衛隊が墜落場所を早い段階で知っていたことを意味し、自衛隊のヘリが炎と煙の上がる墜落場所の上で何らかの任務をしていたことを物語っている。

 アントヌッチ証言が明らかにするもの
 123便が横田基地への着陸目前だったことを暴露した米国アントヌッチ中尉(当時)の10年後の告白証言で、123便の異変を知ったアントヌッチ氏らが墜落を知ると同時に捜索活動を始めたことが語られている。中尉らは事故後20分で現場を特定し、救助活動のために他の米軍ヘリを誘導。さらに、そのヘリコプターからは兵士が救助活動のために降下しようとしていた矢先に、日本の政府側からの要請で救助活動は停止させられた、と述べているのだ。
 自衛隊機が墜落直前まで追尾していた事実とアントヌッチ中尉の証言も併せて考えれば自衛隊が墜落場所の特定に時間がかかったというのは明らかな嘘であり、実際には自衛隊は墜落場所を公にするまでに意図的な時間稼ぎをし、その間に隠蔽工作を行ったのだ。

 そもそも自衛隊が123便の着陸を阻止して墜落に追いやったのは、不祥事を完全に隠蔽し、生き証人(乗客乗員ら)を残さないためであった。だが、水平飛行に転じた上での墜落だったことを知った自衛隊は、撃墜だけでは「全員殺害」という命令を達成できなかったことを悟ったのだ。
 この生き残った乗客乗員の息の根を完全に止めるため、自衛隊特殊部隊に緊急出動が命じられた。しかし、多くの人が救助に殺到する可能性があり、特殊部隊の活動のためにはこれを排除することから始めなければならない。ここに、さらなる謀略が必要とされたのである。そのために、まず自衛隊は墜落場所が長野県の御座山(2,112m)であるという誤情報を流し、国民の目線を長野県に釘付けにした。同時に自衛隊は、事故直後に自衛隊救出部隊を自衛隊幕僚長の独断で上野村に急行させた。一方、群馬県警も上の権力者からの指示を受けた県警本部長の独断で極秘の指示を出し、多数の警察官を緊急出動させている。これは自衛隊と群馬県警の連携があったことをうかがわせる。両者の上官・指揮官は自衛隊の高官、そして中曽根総理であったことは間違いない。
 彼らは上野村に到着したが、一刻も争う事態であるにもかかわらず待機命令が出され、自衛隊は隊員が単独で救助活動に動くことを禁じ、群馬県警は驚くべきことに現場への道路を封鎖して検問所を設置し、自主的に救助に向かおうとする人々を追い返し、救助活動の妨害を行っていたのであった、と小田氏は述べている。
 またNHKは緊急放送で「救助に急ぐ自衛隊員を射殺した」との放送を流している。この放送は救助に急ぐ良識的な自衛隊隊員への警告の意味を持つ特別業務命令であった。
 この時、自主的に救助に向かおうとしながら阻止されたのは、上野村消防団、猟友会のメンバーである。彼らの墜落場所への登山を禁止し妨害することが、自衛隊や群馬県警の最初の任務であった。なぜなら、墜落場所への道路事情、地理を一番知っているのはこれら上野村の人々であり、山岳地帯は彼らの「庭」であったからだ。

 自衛隊捜索機による捜索救助活動のウソ
 ・自衛隊機による捜索のウソ
 自衛隊による捜索の初期段階に関連し、後に自衛隊報道官は、捜索救難のために戦闘機を発進させたことを明らかにしている。それによれば、「123便が墜落した直後、午後7時ごろに自衛隊は戦闘機を発進させて、墜落場所の上空を飛び、計測計器で、緯度、経度を記録して基地に帰って、地図で場所を特定する」との方法で墜落場所を特定したと公表した。
 それによる現場の特定には、じつに10時間も要しているのはありえないことだ。
 しかし、実際には、航空自衛隊百里基地司令官の発言で見たように、18時24分の123便垂直尾翼の破壊直後に要請を受けた同基地は、同26分ごろには戦闘偵察機2機を発進させている。
 この2機が藤枝市の小林氏や上野村学生らに目撃されているほか、角田四郎氏も自著の中で目撃情報を記載しており、123便の垂直尾翼破壊後すぐに戦闘偵察機が急発進したのは間違いない。
 自衛隊が国会で完全な嘘を述べた理由ははっきりしている。それは、18時30分頃から123便を戦闘機が追尾していたことを認めれば、「垂直尾翼の破壊」「123便の操縦性」「機体に付着している標的機の吹き流し」「横田基地への着陸申請と許可、そして自衛隊による妨害」「川上村レタス畑への不時着行動」「上野村上空での自衛隊のミサイル攻撃」など、すべてを芋づる式に正直に告白せねばならなくなるからだ。
 ・捜索、救助活動における自衛隊の役割と実際の行動
 123便の墜落場所の捜索と救助活動は、基本的には群馬県警の管轄である。しかし、この権限は今回に限り、自衛隊に移っている(現場で朝日新聞記者が自衛隊指揮官の指示命令を目撃している)。事件・事故の現場管轄権限を軍事組織である自衛隊が握ることなど、到底あってはならないことであり、非常に奇怪な現象である。このように法の枠組みを無視してまで、自衛隊に捜索、救助の権限が移った背景には、官邸(中曽根総理大臣)の意向が働いたと推察できる。
 墜落現場では、自衛隊の二つの部隊が捜索と救助活動に参加している。また、警察組織としては群馬県警だけが自衛隊と協力し、隠蔽作戦を援護している。自衛隊の二つの部隊のうち、一つは捜索や救助という名目で上野村に出動し、そこで長時間にわたって待機したA部隊である。そしてもう一つは、極秘裏に生存者の殺害と自衛隊関連残骸の証拠品の回収をはじめとする隠蔽行う特殊部隊、すなわちB部隊である。この両方に対して指示命令を出せるのは、自衛隊幕僚長しかいない。さらに、生存者の殺害といった重大な行為は、より上の権力者すなわち防衛長官(現在では防衛大臣)、総理大臣の許可がなければ実行できないことは自衛隊組織では当然のことだ。
 当時の総理大臣は中曽根康弘氏であり、その彼は奇しくも群馬県を地元とする政治家である。しかも群馬県警本部長の河村一男氏は元幼年兵であり、上官の命令に忠実に従う素質を持つ人物である。群馬の殿様である中曽根康弘氏(元海軍将校)の事件隠蔽の要請に河村氏が協力したことは明らかであった。

 自衛隊特殊部隊の極秘任務
 さて、墜落後の多数の生存者を殺害し、極秘裏に証拠残骸の回収を行う特殊任務を負った自衛隊殊部隊はどこを発って墜落場所に向かい、墜落場所に到着してから何をしたのか。これを明らかにした目撃者がいた。
 8月12日20時頃、上野村三岐に総勢100人にもならんとする自衛隊の一団が集結し始めた。彼らは何かの合図を待っているように静かに待機していた。この場所は自衛隊基地から遠く離れており、自衛隊機墜落事故の発生直後にこれほどの部隊が迅速に集結できるわけはなかった。したがってこの集団は群馬県の山岳地帯で極秘演習していた特殊部隊と考えられる。
 上野村三岐は、交通の要衝にあたり、墜落地点である御巣鷹の尾根付近に急行するには最適の待機場所である。現場への登山をするには、この「三岐」を経由することは不可欠で、群馬県警がスゲノ沢へ急ぐ上野消防団らを足止めしたのもその理由の一つである。
 21時30分過ぎ、JAL123便墜落地点の御巣鷹の尾根方向から信号弾が上がった。これに呼応し、この自衛隊特殊部隊は整然と行動を開始し、墜落現場に登山行進を始めている。この午後21時30分とは、米軍C−130と救難ヘリが横田基地からの命令によって生存者の救出を断念し、引き揚げた時刻と一致する。つまり、米軍の引き揚げを待って、その動向を注視していた自衛隊の監視部隊が信号弾を打ち上げたと思われる。これを合図に登山を開始した特殊部隊は、13日深夜0時頃には墜落現場に到着し、それから午前6時頃まで特別極秘任務を行っている。
 この特殊部隊が命じられた極秘任務こそ、「日航機の墜落事故に自衛隊が深く関与している証拠を回収し、墜落現場から一切の証拠を抹消すること」であった。それは日航機に「自衛隊標的機が衝突して垂直尾翼を破壊したこと」「横田基地への日航機の着陸を阻止したこと」「日航機にミサイル攻撃を行い撃墜したこと」の各証拠を全て回収し抹消することを意味し、中でも最大の任務は事実解明につながる多くの事象を知る乗客乗員524名全員を殺害することであった
 上野村三岐とは墜落場所に行ける唯一の地点で、上野村の外れに位置する。ここに集合した自衛隊部隊を隠蔽し守るために、群馬県警は御巣鷹の尾根に至る道路に検問所を設置して封鎖し、一般の通行を規制した。さらに御巣鷹の尾根に至る道、通路は獣道であり、村人以外は知らないが、自衛隊だけで登山したということは、自衛隊の特殊部隊が地理を熟知していたことを意味する。彼らは隠密行動を取っていたが、実は予想外に多くの人が自衛隊特殊部隊の存在と行動を目撃している。角田四郎氏の『疑惑』で触れられているM氏もそんな目撃者の1人である。

 長野県住民:M氏の目撃証言
 ここで匿名とするのは、証言者の生命の危険回避のためである。M氏は海外滞在が長いが、日本で証言する際には当局に生命を狙われ、危機に遭遇している。M氏は日航機事故の墜落場所での異常な事態の目撃内容を講演会で発表しており、その講演の内容はインターネットでも公開されている。この講演会の主催者は、元日本航空社員の佐宗邦皇氏(故人)で、同氏も事故原因について、自衛隊標的機の尾翼への衝突、ミサイル撃墜を主張している、と小田氏は述べている。
 M氏(大学を卒業した社会人)は事故現場の西側の長野県の実家に帰省していた。事故の報を聞いて、川上村の知人に電話をかけたが墜落は確認できず、南相木村の山間部と考え、友人2名と事故現場に行こうと行動した。オフロードバイクに乗り、21時頃、南相木村の林道に入った。
 以下、本書に引用されているM氏の証言を長いが紹介させていただく。

 林道から先に進んだのは、オフロードに乗った2人だけだった。墜落地点は判明していないが、上空で、戦闘機が2機ぐるぐる旋回している音がしているので、その音の中心付近だと判断した(すでに自衛隊戦闘機2機が上空で乱舞していた。この機は百里基地からの戦闘機だと推測できる)。そこで、バイクで林道を可能な限り進み、その先は徒歩で山に入った。当時、警察も墜落地点は分かっていたはずで、南相木村に向かっていた時は白バイも付いて来ていたが、相手は普通のバイクなので山道で難渋して付いて来なかった。
 林道の終点から山に入ってから、途中、山の頂へ登る度にヘリの音がする方向を探し、墜落地点を確認した。ヘリは同じところを一晩中、飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思った(自衛隊は墜落場所をすでに知っていたことになる)。
 あのあたりの山の持ち主の息子と一緒に入って遊んでいたから、大体分かっていた。
 松の木とか岩が多いところだ。もちろん急峻で険しい所であり、先に進むのはなかなか大変だった。とにかく、墜落場所に向かって真っすぐに進むことしか考えていなかった。きつい傾斜や時にはオーバーハングを越え、山道など関係なく強引に幾つも尾根を跨いで行った。直線距離でわずか7、8kmの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6〜7時間くらいかかった。着いたのは午前4時前後だったはずだ。当時、時計を身に付ける習慣がなく、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、恐らくそれくらいの時間だと思った。
 すでに墜落現場には自衛隊員が70〜80名、いや100名位は来ていた。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思った(この自衛隊部隊は、上野村三岐に集合していた自衛隊部特殊部隊と考えられる)。
 同時に事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聞こえた。
 声の響き方からすると、少なくとも40〜50人はいたと思った。実際に、苦しそうな声を上げている人を私も間近で、何人か見ている。
 自衛隊の人たちがいる以上、自分ができることは負傷者のいる場所を教え、早く救出して貰うことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員に伝え、早い手当を頼んでいた。
 ただ、隊員の対応には不信感を覚えた。「へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当をすることになっている」と言うだけで、何もしようとしない。
 隊員たちは手にした40〜50cm位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている(この行為は事故の証拠品の回収であり、隠蔽行為である)。まだ暗くて、その物が何か良く見えなかったので、何かまでは分からなかった。ボイスレコーダーとか、何か貴重なものなのだろうと思っていた。隊員の装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大判アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また靴はつま先の細い短靴を履いており、傾斜のきつい山のことを良く調べて入っているなと思った。(すなわち自衛隊特殊部隊で、山岳訓練中の部隊であったと思われる)。
 ちょっとひどいなと思ったのは、傾斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷では、ヘリコプターがホバリングしているではないか。ヘリが来ているなら、さっさと救助しろと思った。(著者註:自衛隊の任務は13日午前0時頃から、証拠品を秘密裏に回収し隠蔽することと生存者の殺害で、手段は火炎放射器と毒ガスであった)。
 しかも、ヘリの下には、さきほど隊員が何かを入れていたバッグを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げており、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思う。
 ずっと不思議に思っていたのだが、下山を開始する朝の5時頃には谷の呻き声はピタリと止んでいた。その後、僕が見た負傷者の中に指先が一本ちぎれただけの男の人がいた。「この程度なら死ぬことはない」と思い、救助活動の隊員に声をかけて後回しにされたのをはっきりと覚えている。あの人がどうなったのか、僕にも分からない。
 報告書では4名(著者註:落合由美氏ら)以外は全員即死だとのことですが、これは嘘で、明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずだ。
 不思議に思ったのは、山で遭難して遺体になるとキツネやタヌキなど山の動物にひどく食い荒らされるのだが、現場で見た遺体には奴らが手を付けた痕跡がまるでない。それは山を知るものとして大変不思議なことだ。
 到着してから、1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着して来た。この部隊は山で履きにくいブーツ姿だったので、歩けるのかなと思った。また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる態勢に移ったので、もう、これで大丈夫さと思い、この時に下山を始めた。

 それから半年後、このM氏はスゲノ沢の上流付近で携帯用X]ガスと思われる容器(直6cm、長さ7cm)を見つけている。容器には、微量の液体が残っており、持ち帰る際には、何重にもビニール袋で密封したが、調査を依頼した職員2名が密封を解いた途端、二人とも気分が悪くなり、数日寝込んでいる。この内容物がX]ガスとは断定できないが、無色透明、揮発性の劇薬に間違いない。これを用いて自衛隊が重傷の乗客乗員を薬殺したことを考えるだけで、悪寒が身体中を駆け抜ける。
 この目撃証言で13日早朝に到着していた自衛隊部隊は、その装備から見て特別の訓練を受けた特殊部隊であると推測判断できる。このM氏の話の内容は現場の状況、環境を忠実に記述しており、フィクションで話したものではなく信憑性は極めて高い。
 また、自衛隊特殊部隊の隊員が袋に入れていたのは、生存者殺害に使った劇薬(X]、サリン)であるとも考えられる。彼らは重傷者の傍にこのような劇薬瓶を置き、蒸発させて殺害し、その後にその劇薬瓶の回収をしたことも考えられるのである。重傷者の呻き声は、劇薬に苦しむ乗客の声と考えると納得が行く。
 研究者のA・I氏は、先の目撃者M氏に2010年2月3日、大阪のホテルで面談している。M氏は年齢40歳半ば過ぎになっており、健康状態はあまり良くなかったが、誠実な人という印象を受けたという。A・I氏の「なぜ、墜落現場でM氏が殺害されなかったのか」との質問にM氏は「同じく現場に入った立命館大学深井教授の一行に見えたのだろう」と回答した、という。
 この深井教授は、立命館大学の教授で、夏季ゼミで学生たちと4名で長野県南牧村に来ていて、8月13日の午前10時頃に現場に到着している。墜落現場は静まり返っており、誰もまだ到着していなかったが、その後「南の急斜面、スゲノ沢方面で自衛隊のへりが何かを吊り上げている」と手記に書き記している。川上慶子さんや落合由美さんら生存者の吊り上げ救出は13日の13時29分からであるから、それよりも4時間近くも前に自衛隊は何を吊り上げていたというのだろうか。許可なく現場の証拠を持ち出す行為は、証拠隠滅罪にもなり得る。いずれにせよ、単独行動であれば、目撃者の抹殺の可能性は高かったはずだが、偶然にも現場に来ていた人たちがM氏たちの他にもいたということで、助かった可能性はある。

 自衛隊の重症生存者殺害の意図と手法
 M氏が見たのは、自衛隊の特殊部隊(B部隊)とみられる。現場はスゲノ沢の北側斜で、そこには2つに大きく割れた機体の後部座席部分が斜面を滑り落ちて留まっていた。墜落の衝撃が比較的小さかったため墜落直後には生存者がかなりいたことは、奇跡の生還を果たした4名の方々の証言からも分かっている。しかし、それらの生存者のほとんどは、自衛隊特殊部隊に見殺しにされたか、あるいは劇薬によって薬殺された可能性が高い。4名の生還者は「気絶・失神」していたので、死んでいるとみなされて放置され、命を取りとめることができたのである。
 他方、墜落地点に近いところでは火災が発生しており、その火災現場では生存者を完全抹殺するために火炎放射器が使われた。この事実を綿密な実証研究を通して明らかにしたのは青山透子氏である。青山氏は、墜落現場での123便燃料による火災範囲と火炎放射器による証拠とみられる塊状異物(炭化し塊となった遺体等)の分布が一致することを地図で示し、さらのこれらの遺体が「二度焼き」されていること、そして塊状異物の化学的分析を通してそこに航空燃料の「ケロシン」には含まれていない「ベンゼン」と「硫黄S」が含まれていることを突き止めたのである。これはまさに火炎放射器で使われるガソリンとタールに含まれているものだったのだ。(青山透子『日航123便墜落事故 異物は真相を語る』(河出書房新社刊 2023.8.10刊)なお、青山氏のこの著書は筆者の下記ブログで紹介している。「気まま読書探訪」

 日航123便墜落事件の「第二幕」の開始−撃墜・墜落事故の真実の隠蔽
 日航123便墜落事故は、相模湾上空で起きた自衛隊標的機の民間機への衝突という不祥事が端緒であった。この不祥事を引き起こしたのは自衛隊であり、自衛隊幹部の求めに応じてその完全な隠蔽を決断したのは、自衛隊の最高指揮官であった当時の中曽根総理大臣であった。
 生存者がいないが故に、組織責任の追及をかわし切った全日空機雫石衝突事故の経験を踏まえ、「組織防衛」と「自己保身」「責任回避」「権力維持」のために123便を乗客乗員もろとも葬り去るという決断。これによって、524人が乗った同便は撃墜された。
 これが日航123便墜落事件の「第一幕」というべき撃墜事件の発生であった
 だが、政府、自衛隊による撃墜事件にはいくつかの「ほころび」があった。
 「ほころび」の端緒となったのは、機長の必死の事故機操縦の結果、墜落直後の現場に相当数の生存者がいたことである。政府は、救出活動の意図的遅延と特殊部隊の活動によって多くの生存者を抹殺し、事件につながる無人標的機やミサイルの残骸も回収した。だが、それでも落合由美氏をはじめ、4人の乗客が奇跡的に救出され、524名全員殺害という目論見は破綻することになった。
 4名は事件を直接体験・目撃した証人であり、その証言が詳細に分析されれば、政府・自衛隊の犯罪が露見する可能性が出てくるのだ。
 その他にも、墜落直後の証拠隠滅に関わった自衛隊の幹部や隊員、あるいは救出活動を中断させられた米軍関係者、などいつかこれらの関係者の中から、真相を内部告発する者が出てくるとも限らない。
 ましてや純粋に救出活動と信じて働いた末端の自衛隊員や警察関係者らの口に戸をたてるのは難しい。
 その他にも、墜落機体の製造元であるボーイング社やアメリカの国家運輸安全委員会(NTSB)の専門家が日本の事故調査への協力という名目で墜落現場や機体残骸を調査すれば、事件の真相が明るみに出る恐れもある。
 加えて、墜落現場には多くの報道関係者の目があり、川上村、上野村をはじめとする多くの地域の人々も墜落前後の模様について、さまざまなものを目撃している。4名の生存者たちの証言と、これらの多くの関係者の見聞きしたことが突き合わされ分析された時、果たして123便撃墜という事件の真相を隠し通せるだろうか。
 それが、政府にとっては最大の課題であった。
 この段階で、中曽根総理は123便の撃墜と生存者の抹殺に次ぐ「第二の犯罪」を決断した。真相を覆い隠すための虚構のシナリオに基づく事故の解析、すなわち事故原因や全体経過の捏造を今度は運輸省(当時)の航空局に依頼・指示したのだ。すなわち、事件の「第二幕」、墜落事件の真実の隠蔽のための壮大な虚構の始まりであった

 墜落事件の真実を隠蔽する謀略の一連の経過と構造
 123便の墜落事故の直後、運輸省航空局は日航に送り込んだ元運輸省の事務次官であり、事実上の社長である日航の副社長・町田直氏と共謀して謀略行動に入った。謀略とは真の加害者を隠避することであり、そのために日航を実行部隊の一つとして動かすことを考えたのである。それには日航の実質的な最高権力者である町田氏の権力と、14年前に同氏が全日空機雫石衝突事故の真相をあいまいなままに終わらせた智謀と実績が生かされた。14年前に中曽根氏は全日空機雫石墜落事故の直前まで防衛庁長官であり、町田氏と知己であったことも重要な要素だったはずだ。
 国、運輸省、航空局の遠大な計画と実行、その後の経過は次のようにまとめられる。
1)日航に「加害者の代理」を務めさせる⇒事故直後から、日航は自分たちが「加害者」である姿勢で遺族に対応。
2)日航に遺族への「補償交渉」を提起させる⇒日航の提起に遺族は90%が応じた(ボーイング、TSB幹部の証言)。これによって遺族、国民は、騙されているにもかかわらず「日航が誠意ある責任対応を行った」と評価し、隔壁破壊説が定着する布石となった。(ただし、ボーイング社、航空局は知らぬ顔で補償から逃げた)
3)日航が犠牲者慰霊の「上野村慰霊の園」の設立に資金10億円を拠出⇒日航が「加害者の印象を国民、遺族に植え付けた。一方「ボーイング社」「航空局」は慰霊の園の設立の金銭の拠出はしなかった。
4) 事故調の「隔壁破壊説」に基づく事故報告書(1987.7)を受けて遺族、群馬県警が前橋地検に日航、ボーイング社、航空局を告訴したが、前橋地検が不起訴判断。しかし、この段階では日航、航空局とも「無罪だ」との姿勢は見せず、特に日航は「加害者」としての演技で30年間遺族対応を続行。
5)前橋地検の不起訴判断で「隔壁破壊説」が否定された以上、国、運輸省、航空局が当然「再調査」の指示を事故調査委員会に出すべきであったが、不作為のまま放置した(墜落事故の真実追及をしないとの業務上の重大な違法不法行為である)。
6)事故調査委貝会は1999年に「日航機墜落の資料」を極秘裏に全廃棄処分⇒再調査の妨害。
7)事故調の後継組織である「運輸安全委員会」が2011年7月、遺族だけを集めて前橋地地検に否定された「隔壁破壊説」を解説する集会を開催し、ここでも捏造した嘘の説明で遺族を洗脳し、騙した。
8)自民党安倍政権は、2013年11月に「特定秘密保護法」を強行採決して成立させた。防衛関係、自衛隊機密の漏洩に対する報道の制約であり、それは「日航123便墜落事故」での自衛隊の関与についての取材規制とも言われ、マスコミの自衛隊への取材を規制する効力を有する。
9)運輸安全委員会は2016年10月21日、遺族(著者)に「(隔壁破壊説を否定した)前橋地検の不起訴判断で、航空局は加害者ではない」と文書で通達した。
10)航空局の姿勢転換を受けて日航もみずからが「加害者」であることを否定⇒日航は「隔壁破壊説」の否定を事実上認めたことを意味する。
 このような経緯から、国、運輸省、航空局、日航は、123便撃墜事件の真実を完全に隠蔽するために、極めて大掛かりな謀略に携わってきたことがわかる。この首謀者が運輸省航空局と日航の副社長である町田直氏であることも容易に推定できる。航空局は航空の安全向上を旨とする航空行政の中心機関であることよりも、権力者に寄り添い忖度することを優先させてきたし、お客様の命を預かる日航は乗客や大切な社員である乗務員の命を「ムダ死」のまま放置しようとしてきたと断じざるを得ない。

 このような権力犯罪は、誰がどうみても明らかにオカシイと思えることでも、まるで手品のようにそれこそが真実であるかのように見せかける。それが、40年も嘘がまかり通って来ている怖ろしさである。例えば、前編でも紹介したが、乗客の一人が撮した垂直尾翼の破壊直後の機内写真は何よりも事故報告書の「圧力隔壁の破壊」説が誤りであることを雄弁に物語っている。これが出てしまったらもうどう取り繕ったところで、「圧力隔壁の破壊」説なんか、簡単に吹き飛ばされてしまうはずであった。もし圧力隔壁の破壊が起きて機内の空気が大量流出したら、乗客があんな平静でいられるはずがないし、誰ひとり寒がっている様子もない。機内の荷物も飛び散っている様子もまったくないのだ。人間だって吹き飛ばされてもおかしくないのにである。
 いや、機内の空気は一度に漏れたのではなく、徐々に漏れ出たのだ、と言っている人がいたが、そしたら空気圧で垂直尾翼が飛ばされることなどそもそもあり得ないのである。万一垂直尾翼下部に空気が流れ込んでも、その空気は開閉弁から外に流れ出る仕組みになっているのだから。そんなことは、おそらく航空関係者だったら誰でも知っているはずである。現に、パイロットの乗務員組合は、<日本航空123便 事故報告書についての解説に対する日乗連の考え方>という意見書をホームページで出している。しかしである。にも拘らずそうした真っ当な意見を、平然と踏みにじってしまうのが権力なのである。あらためて再度あの写真をみていただきたい。ここに写っている人たちは、あの世で何を思っているだろうか。そのことに私達は今一度しっかりと想いを巡らさなければならないのではないだろうか。



機内の様子(WEBサイトより)

 本書は、B5版で414頁に及ぶ大著である。以上紹介したのは、ごく一部でしかない。小田氏は、自ら遺族として政府・運輸省(現:国土交通省)航空局、そして日本航空などの関係機関に直接面会を申し出たり、質問書を提出して真相究明のために長年精力的に活動して来られた。本書にはそれらの活動によって得られた多くの新たな事実や資料なども掲載されている。資料編には実に75点にのぼる資料が掲載されているが、ここではそのうちのほんの一部しか紹介できていない。ぜひ、本書を手にとってご覧いただければと思います。

 2025年8月12日には、日航123便墜落事故からはや40年の月日が流れる。これほどあからさまな謀略が国家権力の手によって行われたことは、国家として恥ずべきことであるし、それを今日まで隠蔽し続けていることはそれにも増してまた恥ずべきことである。
 しかし、フランスではなんと51年ぶりに同じようなフランス軍による旅客機撃墜事件の真相が政府の手によって明らかにされたのである
 2019年年9月10日の「ガーディアン(The Guardian)」紙は、51年前起きたエールフランス航空1611便のニース沖での海への墜落事故は、実はフランス海軍による演習ミスであったと報道したのである。
 1968年9月11日、94名を乗せた飛行機が、コルシカ島からニースまでの飛行中にレーダーから姿を消した。墜落原因は機内火災だと報道されたが、実は事件発生直後に現場へ急行したフランス軍は、演習中のフランス海軍艦艇が艦対空ミサイルを誤射していたことを確認していたのだ。しかし、墜落調査の文書や写真は消され、フランス海軍艦艇の航海日誌のページが切り取られ、遺族はブラックボックスのデータが破損されていると聞かされてきた。そして海底から引き上げた残骸はフランス軍当局によって没収され、徹底した隠蔽がなされたのだ。
 51年間も軍事機密扱いとして真実が伝えられなかった遺族たちは、こんな長い間、機密にする理由がわからない、即刻開示してほしいとエマニエル・マクロン大統領に訴えた。マクロン大統領も機密が解除されることを望むとして、ようやくフランス国防大臣フロランス・パルリ氏が、機密解除を決定したのである。
 日本政府も、過去の過ちを精算する勇気ある決断をすべき時だ。できればまだ遺族が生きておられる間に、真実が明らかになり、政府・日航が遺族に対して謝罪することを小田氏ともども願ってやまない。
 これまで多くの人々が、123便事故に対する政府・事故調査委員会の説明に対して疑義を投げかけて来たし、また数多くの目撃証言や内部告発も出されてきた。「火のないところに煙は立たない」である。政府・事故調査委員会(現:運輸安全委員会)が今すぐやるべきことは、@ボイスレコーダー・フライトレコーダーの全面公開(日航本社へ指示すること)A伊豆半島沖の海底160メートルに沈む垂直尾翼とAPU(補助動力装置)の回収と公開解析、B事故現場で回収された「塊状異物」の化学的解析、である。以上がなされれば、事故の全容は速やかに解明される可能性が高いといえる。
 日航123便墜落事故には、陰謀論という言説が常に付きまとってきた。それは、まさか国が、政治家が、内閣総理大臣がそんなことはしないだろうという国民の思い込みが、真相究明の前に立ち塞がり、陰謀論を振りまく権力の追随者たちの声に思わず耳を傾けてさせてしまうからである。「まさか」「まさか」その「まさか」が実行されたのだ。一般人の常識をはるかに超える蛮行が平然と権力者の手によって行われ、徹底的に隠蔽されてきたのである。
 このような恥ずべき蛮行を隠蔽し続けることは国家にとってもやがて致命的な事態を招きかねない。「天網恢恢疎にして漏らさず」大きな悪事はやがては明るみに出てくるのである。一刻でも早い真相の解明は国を滅ぼすどころか国を救うのである。闇を抱え込んだままの国家はやがてどこかで行き詰まることになりかねないのだ。本書を読んであらためてそれを思わされたことを最後に記しておく。
 

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