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青山透子『日航123便 異物は真相を語る』(新書版)
    (河出書房新社 2023.8.10刊)

 なお、本書は、「はじめに」に続き、本編は第一章、第二章、第三章、第四章、から構成されている。
 第一章 | 第二章 | 第三章 | 第四章 |

 では、まず著者の略歴を記す。そののち、新書版の「はじめに」の全文を紹介したうえで、第一章の概要を掲載していきたい。

著者略歴:青山透子(あおやま・とうこ)
ノンフィクション作家。東京大学大学院新領域創成科学研究科博士課程を修了、博士号取得。日本航空国際線客室乗務員を経で、日本航空サービス関連子会社設立時に教務を担当し、企業、官公庁、大学等の人材育成プログラム開発及び講師としで携わる。現在は弁護士、研究者、有織者らと立ち上げた「日航123便墜落の真相を明らかにする会」(会長はご遺族の吉備素子氏)の事務局を務めでいる。著書『日航123便墜落の新事実一目撃証言から真相に迫る』は10万部のベストセラーとなり、本屋大賞ノンフィクション部門ノミネート。続く『日航123便墜落 遺物は真相を語る』『日航123便墜落の波紋』とともに全国学校図書館協議会選定図書に選ばれる。他に、『天空の星たちへ―日航123便 あの日の記憶』(マガジンランド 2010年刊)などがある。



新書版 はじめに
 死者の声を聴く――これは、検死医師の法医学教授に教えていただいた言葉である。
 私はこの言葉を肝に銘じ、雑音や雑念を取り去り、日航123便で亡くなられた521人(胎児も含む)の声を聴くことに専念して、この本を書き上げた。
 二〇一八年に出版した際、筆舌に尽くしがたい遺体状況を世の中に伝えるには一体どうすればよいのだろうかと悩んだ。死者の声を届けるためにも、裁判への道を模索していた。長年、誰も責任を取らず、墜落原因が不明でありながら再調査もせず、二〇一三年に運輸安全委員会のホームページに公開された「事故調査報告書」付録に書いてある「垂直尾翼に十一トンもの力で着弾した異常外力の着力点」について、遺族への説明も一切なかった。(下図 参照)
 それにもかかわらず、不思議なほど8・12連絡会は全く動かず、非番でたまたま乗客として乗り合わせていた生存者で元日航客室乗務員、落合由美さんも沈黙のままであった。その間、日本航空は、後部圧力隔壁修理ミスを強調するような社内教育を続け、世間に対しても、安全啓発のためと言いつつ、推定と矛盾だらけの展示物を並べ、上野村小学校生徒たちによる目撃証言集「小さな目は見た」を書庫の奥深くに隠し、遺族提供の写真も、123便の窓から外を撮った写真(拡大するとオレンジ色になる黒点が写っている)を展示から排除し、まるでその写真がなかったかのように細工した。展示品の垂直尾翼の黒い擦れた跡は、きれいに掃除された。つまり、世間に対して作為的に偽りの事故原因を流布する役割を担ってきたわけである。日航安全啓発センターは、啓発どころか、欺瞞に満ち満ちている。せめて当時を知る私のような元日航社員が、遺族のためにもこの事実を明らかにする責務があるだろうと考えて、今まで調査をしてきたのである。



 二〇一三年に運輸安全委員会のホームページに公開された「事故調査報告書」付録
【画像2】『航空事故調査報告書付録』(運輸省、JA8119に関する試験研究資料)にある「異常外力の着力点」を示す概要図)

 そして、ようやく茨の道が法廷への道に変わった。二〇二一年三月二十六日、東京地方裁判所にご遺族の吉備素子さん、佐々木祐副操縦士の実姉の市原和子さんが情報開示を求めて提訴した。しかしこの裁判過程では実に様々な出来事が勃発した。日本航空の背後に政府や防衛省の姿が見え隠れし、裁判所を巻き込んだ出来レースだったのではないかと疑いたくなるほどの不当判決となった。
 二〇二三年二月二十一日、今度は東京高等裁判所に舞台を移し、控訴審の口頭弁論が開始されたが、その裁判長の言動にも同じような雰囲気が漂っている。判決がどうなろうとも、最高裁に521人(胎児1名を含む)の声を届けなければ真相は闇に葬られる。日本航空は、乗客の命を預かった責任として、遺体が語る叫び声を聴かなければならない。
 私たちは、目をそむけたくなる凄惨な遺体状況を直視し、五二〇名が人として生きてきた証として、尊厳の念を持ちながらその死因の真相を究明しなければならない。そして、次のような事実を認識しなければならないのである。
 昭和六十二(一九八七)年六月一九日公表の運輸省航空事故調査委員会「航空事故調査報告書」の七九頁、「〜このことから異常外力が発生したと考えなければ、DFDR (飛行記録装置)記録値の説明ができないことがわかった」。
 平成二十五(二〇一三)年一般公表の運輸省航空事故調査委員会「航空機事故調査報告書付録」の九十五頁、「18時24分朗・70秒において〜約24キロ・ポンド(約11トン)の前向き外力が作用」。同じく一〇一頁、「〜それぞれ異常な外力が作用したことが確からしく考えられる」。そして、垂直尾翼に着弾した異常な外力点の図表が一一六頁に記されているのである。しかし、いまだにこの「異常外力の着力点」を調査していない。世間は不起訴となった後部圧力隔壁説をいまだに信じ込んでいる。だからこそ、私たちの知る権利がそれを解明しなければならないのである。


第一章 この墜落は何を物語るのか

 上野村の桜の下で
 また三十三年前のあの日が静かに近づいてくる。
 上野村全体が薄紅色に染まる四月、地元で「仏乗桜」と呼ばれている樹齢約五百年のしだれ桜は、中正寺の境内にそびえ立ち、お寺の屋根瓦を桜色に染めていく。
 その樹高二十五・二メートルの古木は、長く険しい年月を生き抜いてきた重みも感じさせず、そのしだれた枝は巨大な翼を広げ、まるで天空を舞う極楽鳥のごとくに見えた。
 枝先の花々が風に揺れるたび、はらりと落ちる花びらに、著者は一滴の涙を見た気がした、と書いている。
 その「涙」はあの日を忘れてはいけないと語りかけているようであった。
 灼熱の夏に消えたあの人を想いながら、流す「涙」が一粒でもある限り、私たちは真実を追究し続けなければならない。
 五百二十人ひとりひとりの人生が突然断ち切られ、残された家族の未来も止まったあの時。
 蒸した夏の匂いがいつもあの日をよみがえらせる。
 何年経っても衝撃的な記憶はずっと心に深く残り続ける。
 なぜ、ファントム二機が墜落前の日航機を追尾していた事実を自衛隊は隠すのか。
 なぜ、日航機の機体腹部付近に、赤い物体がくっついていたのか。
 なぜ、上野村住民たちが真っ赤な飛行物体を目撃したことに注目しないのか。
 墜落場所が不明という報道にもかかわらず、その日の夜のうちに自衛隊車輌や機動隊車輌が上野村に集結したのはなぜか。
 これらの鮮明な記憶は唐突な発言でも曖昧なものでもなく、当事者が実際に見聞きしたことを記憶が生々しいうちに書き記したものである。三十三年間、真撃に向き合って取り上げる人がいなかっただけであり、これらの複数の目撃情報や疑問に対して「そんなはずがない」、「記憶が曖昧だ」、「あり得ない」といった批判をする人がいるが、自分が信じられないからといって否定する根拠にはならないだろう。
 表面的には後部圧力隔壁破壊説を検証すると称し、事故調査委員会が出した結論と異なる見解を、何の検証もせずに異説や少数説、荒唐無稽説として否定し、そちら側に目が向かないように排除してきた人たちは、なんらかの意図をもって作為的に行っているとしか思えないほど欺瞞に満ち満ちており、それで民意を誘導しているつもりなのだろうか。
 なぜならば遺族の方々は、運輸安全委員会(事故調査委員会が二〇〇八年十月に名称変更)による二〇一一年の解説書が出るまで事故調査委員会への質問の中に、墜落原因が異なる可能性についても検討してほしいと重ね重ね要請してきたのである。
 もちろん、今もなお遺族の中には真相究明に執念を燃やしている人たちもいるのである。
 著者は信念を持って、死者の語りたくても語れない「声」を聴こうとし、見過ごされた人びとの想いを伝えて世に問うているのである。誰もがこの間題を避けてきた事実は明らかだ。
 昨年、前著『日航123便 墜落の新事実』(以下、『墜落の新事実』)において、さらなる目撃情報や新たな墜落原因の可能性について調査をした結果を提示した。案の定、火消しのように運輸省事故調査報告書を擁護する本が慌てて出版されたが、すでに事故調査委員会の出した不確かな結論を、いまさらながら補強する必要性などないはずだ。当時のままで止まっているその人たちの情報量と、今日まで長い年月をかけてコツコツと小さな目撃証言や証拠物の調査を積み重ねてきた結果、別の視点でこの墜落事件を取り上げることになる筆者の情報量とは大きな差がある。
 この事件は単独機として世界最大の犠牲者を出したのであり、五百二十名の失われた命を考えれば、たとえ三十年以上の年月をかけて事実を積み上げてきた結果が事故調査報告書と異なるものになったとしても、それを一括りにして「陰謀」という安易な言葉を用い、事実を否定する根拠は何処にもないのである。
 いつまでたってもこういった発言を繰り返す人の心根は一体何だろうか。
 真実が明らかになることへの焦りとしか思えず、おそらく真の墜落原因が明らかになれば不都合が生じる組織や、当時の関係者の必死の抵抗なのだろうが、逆にこういう人が出てくるからこそ、そこには不都合な事実があるとしか思えない。
 そのような中で、著者の調査結果について「まさかそんなはずはない」と言わなかった人たちがいる。著者自身が会った元自衛隊員たちや、零式戦闘機搭乗員の訓練を受けた直後に終戦となり、自衛隊を経て日航機長となった信太正道氏、海軍少佐で零式戦闘機教官だった上野村村長の黒澤丈夫氏である。日航123便の検死担当医師がまとめた「ご遺体状況一覧表」に書かれた内容からは、明らかに武器燃料を被ったのではないかと思われるのだが、自衛隊の武器が関係している可能性があるのではないだろうか、という著者の見解について「なるほど」と納得していただいた。実際に戦闘機に乗って戦う訓練を受けた人間や、レンジャー過程を修了した特殊隊員のようなスペシャリストで、過酷な戦闘訓練の経験を重ねた人のほうが、そういうことはあり得ると思った、ということになる。
 つまり、経験のない部外者や都合の悪い部内者がとやかく言える次元のことではなく、そのような人たちの勝手な憶測による否定などは、真相を明らかにするのに障害こそあれ、何の役にも立たないのである。
 その不都合な事実は、ほんの一部の人間にとって不都合なだけであって、事実を表に出して市民全体が情報を共有しなければ、罪を消し去ろうとする勢いを止めることはできない。
 さらに情報の不透明さは誤った判断を生じさせ、偽りの土台の上に立つ決断は、未来をゆがめる。あっという間に無知な愚衆が多数となり、相手国を思う想像力と罪悪感が欠落し、戦争へと向かったのは歴史が証明している。
 当然のことながら公開される公文書は、公務員が国民のために責任を持って作成した正確で正しい内容でなければならない。それが意図的に上司や権力者側にすり寄って改ざんされていた場合や、文書そのものが不存在の場合は民主主義の根幹を揺るがしかねない。
 信憑性のないような公文書で私たちはどうやって正しい判断ができようか。
 情報を遮断して脅威を煽り、権力者を祭り上げて利益を得ようとする人たちは、いつの世でも出没してくる。誰も生データなどの証拠資料を公表しないのをいいことに、新事実を否定して隠蔽しようとする人物の存在があるとするならば、それは許されることではない。そのためにも情報を公開していかなければならず、さらに冷静に一つずつ検証していかなければ事の真相にはたどり着けない。
 こういう世の中において、今こそ事実を詳細に伝えなければ本当の意味での航空機墜落の再発防止などは望めず、国の未来まで捻じ曲げられると懸念して、著者は本書を書かざるを得なくなった、という。

 国産巡航ミサイル試作品の洋上試射実験と日航機墜落事故との関連は? 
 一体あの時、何が起きていたのか。
 それにはまず、一九八五年八月十二日にあの事件が起きる数日前、一体どのようなことがあったのか、当時の防衛庁自らが発表した自衛隊の訓練の動きを追ってみたい。

墜落直前まで国産ミサイル開発本格推進
・墜落四日前−八月八日

「地対艦ミサイル部隊を新設−防衛庁五九中期業務見積り原案を報告(毎日新聞一九八五年八月八日付)」
 当時の中曽根康弘首相は「海空重視」として、シーレーン防御や水際撃破能力強化を整備方針とするとし、防衛費の対国民総生産(GNP)比一%枠撤廃を目指す発言をしていた。それを受けて防衛庁が国防会議で公式に報告した内容は次の通りである。
@ 北方重視の観点より、陸上自衛隊の師団改編や地対艦ミサイル部隊も新設する。
A P3C対潜哨戒機を百機体制とする。
B 地対空ミサイル部隊は旧式ナイキからすべて新型パトリオットに切り替える。
 これらを軸として、具体的には、陸上自衛隊は全国の戦車部隊の北海道、青森に占める比率を四七%から六〇%へ高め、昭和六十二年度に開発完了予定の地対艦ミサイルを導入、空中機動力強化のための対戦車ヘリコプターのAH−1S、輸送ヘリCH−47の増強を図ると書かれている。海上自衛隊も主力としてP3Cを百機体制に充実させ、新型艦対空ミサイルシステム護衛艦のイージス艦調達を視野に入れて、洋上防空全般の研究を続けていきながら導入を検討する、としている。航空自衛隊は、作戦用飛行機の約四百三十機達成を期し、FH戦闘機とF4の比率を五対五から七対三に高め、地対空ミサイルは新型パトリオットにすべて切り替えるということだ。
 これが墜落四日前の一九八五年八月八日、防衛庁発表の報道内容である。
 何か物事が起きるには必ず予兆がある、とすれば、この日航機墜落四日前の首相の発言と公式発表は無視できない。中曽根首相の発言に基づいて陸海空と一斉に装備増強をぶち上げており、これはまるで今の安倍内閣と同じ傾向である。最大の脅威となっていたのがソビエト連邦(当時。現在のロシア)であった。実はこの年一九八五年三月にソビエト連邦共産党書記長に就任したのがミハイル・ゴルバチョフ氏で、ソ連国家の指導者として米国との冷戦や軍拡競争に終止符を打った人である。軍縮と経済政策を一気に推し進め、四年後にはベルリンの壁崩壊、東西ドイツの統一につながった業績が評価されて一九九〇年にノーベル平和賞を受賞した。一方、ソ連の脅威に対して軍拡を進めていたロナルド・レーガン米国大統領は当時「スターウォーズ計画」を推し進めていたが、ゴルバチョフ氏の登場でこの計画はその後消えた。その時日本は、北方を意識して仮想敵の存在を強調することで軍備を増強していたのである。
 さて、防衛庁は洋上研究を行いながら、二年後に開発完了を目指して地対艦ミサイルSSM−1を実験している様子が手に取るようにわかってくる。地対空ミサイルにおいても新型パトリオットに切り替えることや、艦対空ミサイルシステム護衛艦調達も検討中とすれば、そういう訓練を日々していた時期だった、という事実が明確となってくる。

・墜落二日前−八月十日
「陸自のSSM‐1誘導飛行に成功(朝日新聞一九八五年八月十日付)」
 防衛庁技術研究本部の発表によれば「我が国の最先端技術を駆使して開発中の地対艦ミサイルSSM−1のプログラム誘導による飛行テストを九日、若狭湾海上にて実施し、計算通りの飛行に成功した」ということで、飛行テスト実施状況が詳細に記されている。
 陸上自衛隊としては、このミサイルを侵攻兵力に対する洋上突破能力の柱として、今後三・五個隊(一個隊で六連発発射機十六両)を編成する方針としている。ミサイルのプログラム誘導飛行は開発のかなめとして大変重要な部分であり、これを達成したことで予定通り二年後に開発完了となり、装備化正式決定が可能となった、とある。
 SSM−1の射程としては、約百五十キロであり、敵艦船に近づくまでは、あらかじめプログラム入力された指示に従って飛行、探知をさけるために低空で、山腹を縫うように飛んで海上に出るようにする。このためには、プログラムや誘導機構とも大変複雑となっており、高性能が要求される。陸上から発射されて、これだけ長距離を飛ばすことができる射場が国内にはないため、テストでは飛行機からミサイルのエンジンに点火をし、それを落として飛ばすという形で行われた。航空自衛隊が協力して、石川県小松基地からT2ジェット練習機がミサイルを抱えて飛び、F4戦闘機、C1輸送機が安全確認やデータ収集にあたっていた。陸上自衛隊技術研究本部はこの結果を分析中であるが、今回の成功で「開発の大きな山場を乗り切った」と評価している。この後数年間、ミサイルの目であるレーダーを作動させて位置を確認し、敵艦に突入するテストなどを行い、成功すれば実用試験弾による実射試験をしていくスケジュールである、としている。
 さて、この洋上訓練に注目してほしい。
 防衛庁が実験しているミサイルの動きは、前著『墜落の新事実』で記した静岡県藤枝市で目撃した小林美保子氏の証言とその動き方がぴったりと一致する。低い高度で山腹を縫うように日航機の腹部にくっついているように赤い物体が飛行していた様子は、小林氏のみならず上野村村民にも目撃されている。『小さな目は見た』という上野村立上野小学校の子供たちが書いた文集では、「真っ赤な飛行機」を見たとの記述があった。その後も赤い物体の目撃情報は続いている。
 そのミサイルのプログラムは高性能で複雑なもので、日系企業が中心となって開発しており、飛行距離も射程も百五十キロ以上であることからも、高度が下がった日航機を追尾する可能性は十分ある。ファントム戦闘機二機が並行して飛行して訓練している状況は、目撃情報と同じだ。安全確認やデータ取りで、航空自衛隊も協力していた、とある。こうやって着々と飛行テストのスケジュールをこなして、国産ミサイル開発を行っていたのが、墜落発生の二日前なのである。

・墜落前日−八月十一日
「国産ミサイル本格推進−防衛庁方針(読売新聞一九八五年八月十一日付)」
 この記事にはミサイルの写真も出ている。練習用のミサイルの色は朱色、つまりオレンジ色である。記事によれば、我が国独自の技術力による武器等装備開発について、中曽根首相の積極的姿勢から国産ミサイルを推進するよう指示されていたことが明確にわかる。
 防衛庁の発表によれば、空対空ミサイル(AAM)で射程が短い赤外線追尾方式と長射程用のレーダー方式の二種類があるが、現在(当時)は前者がサイドワインダー、後者がスパローといずれもアメリカ製のミサイルを使用している。そのうち、国産を目指すのは、前者の赤外線追尾方式ミサイルである。防衛庁では昭和四十年代にサイドワインダーをモデルとして「AAM−1」を開発したが、性能が良くないことから、約三百五十発で中止した経緯がある。しかしながらその後、超LSI(大規模集積回路)を導入したコンピュータ等の発達に伴い、技術も向上して、低温度でも反応する赤外線追尾方式により、目標機の後方からしか撃てなかったのが、前方や側面からも攻撃可能となったということだ。
 また、巡航型艦対艦ミサイル、空対艦ミサイルは、陸上自衛隊が六十三年度から実戦配備予定の地対艦ミサイル(SSM−1、射程距離約百五十キロ)を母体として開発していく。現在(当時)は、艦対艦ミサイル「ハープーン(アメリカ製)」、空対艦ミサイル「ASM−1(国産)」であるが、新しい巡航ミサイルのモデルとなる地対艦ミサイルSSM−1の試射実験結果によれば、現在(当時)のものよりもはるかに性能が高く、世界的にも注目される巡航ミサイルとなる可能性が大きいと防衛庁は自ら称賛している。
 試射実験によって高い評価を得た国産ミサイル開発は、その複雑なプログラムを克服して、着実に成果を上げている様子がわかる。
 これらが日航123便、墜落前夜までの自衛隊の動きである。そして八月十二日、相模湾にて、自衛隊護衛艦「まつゆき」の試運転、という流れなのである。
 墜落日まで、自衛隊が国産ミサイル実験のデータ取りや研究を繰り返していたことが明確となったが、だからといって訓練中のアクシデントによるかどうかは、これだけでは明確にわからない。あらゆる方向からその可能性について検証していくことにする。

 東京から大阪行きの上空は、当時空の銀座通りというほど、同時刻発の全日空機や多くの飛行機が飛んでいたはずであり、そのようなところで訓練をしていたとはにわかに信じがたい。
 八月九日に日本海側(若狭湾)での国産巡航ミサイルの飛行テストが無事成功したのはよいが、なぜ今度は相模湾で行ったのかがまず疑問である。ある軍事関係者の詳しい話では、次の訓練として大型爆撃機または大型輸送機をターゲットとして訓練したのではないだろうかということであったがこれはあくまでも仮説である。特に、考えられるとすれば当時のソビエト連邦が一九八三年に初飛行を行った空中給油機イリユーシン78(U−78)を模したジャンボジェットが狙われたのではないだろうか。その際、雫石事故(一九七一年七月、自衛隊訓練機が全日空機に衝突し、乗客乗員百六十二名が全員死亡、自衛隊員はパラシュート降下し助かる)の教訓ということで、民間航空機を訓練のターゲットにしたのではいざというときに大変なことになる。したがって炸薬非搭載で形式だけのものであったはずだが、そこでなんらかのアクシデントが生じた。
 ただ、腑に落ちないのはなぜ事故歴のあるJA8119号機だったのだろうか、という点である。単なるジャンボであれば、他社便でもよかったはずだが、この飛行機でなければならない理由、そして元自衛隊にいたパイロットが操縦する機体でなければいけなかった理由がそこに存在するのではないだろうか。
 これはあくまで推測の域を出ないが、突発的事態に備えての何重もの「保険」をかけていたのではないだろうか。慎重に慎重を重ねて、言い訳や逃れる道を作っていたとしか思えない偶然である。これらについてはおいおい書いていくことにする。

 下記の記事の右の写真は、洋上飛行中にトラブルとなり、試験運行中の海上自衛隊護衛艦「まつゆき」が、上部がめくれた垂直尾翼の一部を三崎沖で発見、一部を回収したもの。そして左の写真は、生存者を吊り上げる自衛隊機。「なぜかフジテレビのみ生中継を行った。なお、生存者発見から4時間以上御巣鷹の尾根上に放置され、日赤医師との直接交渉でようやく救助された」とある。
 



 なお通常、試運転には開発担当の日系企業の技術者も当然同席するとミサイル開発担当の企業から聞いたが、その旨はホームページにも掲載されている。それらの企業が、事故後急浮上した東京電力の群馬県上野村にある神流川発電所の設計に深くかかわっているのは本当に偶然なのだろうか。さらにこれらの日系企業は原発建設に特に深くかかわっており、その後国に救済を求めながらも事実上倒産した企業も含まれている。
 なお、この神流川発電所を見学した際、年に数回位しか稼働していない旨を説明された。東日本大震災のことや原発の運転再開を思えば、御巣鷹の尾根直下に穴を掘って莫大なお金で作ったこの発電所の存在は、一体何なのだろうか。年に数回のために作ったのか、何のためにわざわざ作ったのか、ダムが余っていることを認識せざるを得なかった。このダム建設と合わせて、御巣鷹の墜落現場付近の山々は数年閉鎖されて慰霊登山ができなかった時もあるが、このダムのために上野村は固定資産税で潤い、御巣鷹の尾根への道路は立派に整備されて、最短距離で行けるように長いトンネルがいくつもできた。
 いずれにしても防衛庁の発表によれば、日航123便の墜落四日前から、中曽根康弘首相の意向に沿った形で、防衛庁自らが開発していた国産の巡航ミサイルの洋上実験での成功を称賛し、世界初の射程距離を自慢していたのは事実である。
 このような状況下、通常の感覚で誰もが推定できるとすれば、国産巡航ミサイルの洋上飛行実験中に突発的事故が起きて、日航123便の飛行中、伊豆稲取沖で垂直尾翼周辺に異変を発生させた。即座にファントム二機が追尾してその状況を確認した。自衛隊はそのミスを隠すために一晩中墜落場所不明としていた、と考えると筋が通る。
 これは推論ではあるが論旨に破綻は生じない。なぜならばファントム二機による日航機追尾飛行も、山腹を縫うように飛ぶ赤い物体も、洋上での訓練内容も防衛庁が発表している状況と一致し、その訓練の最中に垂直尾翼が破壊されたことも、海上からドンという音がする数秒前にビュー、ビューと赤い光線が出たという目撃情報とすべてつじつまが合うからである。
 しかしながら、決定的証拠を持つ側が政府であり、実施していたのが防衛庁であれば、今問題となっている「日報隠し事件」からも分かるが、「日報」でもあれほど隠すのだから、この事件は一切表に出て来ない可能性のほうが強いだろう。それではよほどのことがない限り、疑惑が晴れる日が来ないということになってしまう。
 そのような状況下で私たちはどうしたら真実にたどり着くことができるのだろうか。

 推定飛行ルートの真下、伊豆沖合の海底に沈む日航123便の航空機部品、補助エンジン―民間テレビが水中撮影に成功も引き上げすらしない運輸安全委員会
 いまさらながら、(当時)の一つの仮説にすぎない報告書を支持し続ける人たちは、なんらかの意図をもっているのではないだろうかと疑わざるを得ない。
 当時の運輸大臣任命の委員による、運輸省内に設置された航空事故調査委員会に対して信頼を寄せることは結構であるが、それが本当に私たちの信頼に値するものであるのかどうか、そこに書かれた文書内容がすべて真実か否かは別の問題である。
 日航123便の航空事故調査報告書(一九八七年六月十九日公表)は、担当検事の群馬県前橋地方検察庁検事正と三席検事でさえも、「修理ミスが事故の原因かどうか相当疑わしい」と遺族の前で説明し、「事故原因にはいろいろな説がある。圧力隔壁破壊がいっぺんに起こったかも疑問である。(中略)事故調査委員会の報告書もあいまいと思う」として、真の事故原因は解らない、と語っているような代物である(一九九〇年七月十七日前橋地検、8・12連絡会日航機事故不起訴理由説明会概要)。
 さらにその解説書(二〇一一年七月付)も含めて、事故調査委員会が指摘する推定原因と結果との因果関係には疑念を抱かざるを得ない。そこに書かれている内容では、現場状況や目撃情報、遺体の検視報告書、生存者の証言などとも整合性がつかず、「急減圧ありき」という前提での専政調の言い分には、航空の現場をよく知る日本乗員組合連絡会議(AIPAJapan)も未だに納得していない。
 しかしながら、このような事故調査報告書を、これが正しいと信じ込んでいる人が多く、それを前提として議論を進めてもなんの意味もないことに私たちは気づかなければならない。あの報告書で指摘する推定原因では、結果との間に確信が持てる因果関係が存在していないのである。事故調査委員会(現・運輸安全委員会)側の事故原因を追究しようとする意気込みのなさは、海底に眠ったままの日航機残骸の存在にも表れている。
 二〇一五年八月に、民間のテレビ局が日航123便の残骸を捜索して発見し、それは想定内の場所に未だに沈んでいる事実が明らかになった。直接的原因が発生した現場である静岡県東伊豆町の沖合二・五キロメートル、推定飛行ルートの真下、水深百六十メートルの海底にて日航123便の航空機部品、補助エンジンのAPUなどが水中カメラで撮影され、海底に沈んでいる事実が確認された。水深はさほど深くもなく、飛行ルートの真下でこのように民間でも発見できたのである。
 下記をクリックして当時のニュース映像をみることができる。
 ニュース映像を観る
 しかし、解説書が出た二〇十一年に運輸安全委員会(旧・事故調査委員会)は、場所が特定されずわからないゆえ、お金もなくて探せないという言い訳を数ページも書き、一切引き揚げを試みようともしなかった。その四年後に、それが嘘の上塗りであったことが明らかになったのである。そのような解説書を「やっとここまで来た」などと有難く受け取ってはいけないのは明白だ。
 当時の元調査員が「引き揚げて調査すべきだ」とコメントを出しても、現在の運輸安全委員会はそれを無視し、再調査を積極的にやろうとする姿勢がまったく見られない。
 遺族にとってもこの残骸の引き揚げは皆の悲願であったはずである。しかしいたずらに時間が経過し、遺族も高齢化が進み、引き揚げようとする意欲が失せていったのだろうか、そういった声が上がりにくくなっている。
 このように、残骸の引き揚げ一つをとっても、後から徐々に明らかになっていくのであるから、いつまでも事故調査に対する不信感や疑問が出てくるのは当然であろう。
 さらに、報告書に記載された数式の羅列は、その論文を依頼された人が先に結論ありきで導いた机上の空論であり、実機での再現性もなく、機体構造や現場状況、生存者による証言と矛盾が多々あり、当時の検察側が指摘しているのもこの点である。
 これだけ矛盾の多い事故調査報告書をなぜ頑なに主張する人がいるのだろうか。
それとも、遺族が群馬県警から聞いた「事故原因を追及すればアメリカと戦争になる」という言葉を信じているのだろうか。この発言をすれば人は黙り、自分側の正義が保てるとでも思っての判断なのだろうが、事実は異なる。
 米空軍第三四五戦術空輸団所属の元中尉マイケル・アントヌッチ証言で明らかになったのは全くの逆であって、墜落直後に米軍が救助に向かったのを日本が断ったのである。
 この日本側が断ったという事実について、当時の首相の中曽根康弘氏は自らの著書で「官邸ではなく、防衛庁と米軍が連絡をとっていただろう」と言い訳をしている。これは自衛隊の最高責任者として無自覚な発言であるのは明白だ。それにしても日航とボーイング社の修理の不全が事故原因にもかかわらず、なぜ米軍と自衛隊が連絡を取り合うのか。
 さらに、墜落した翌日の八月十三日には米軍最高司令官、W・1・クラフ米太平洋軍司令官に勲章(勲一等旭日章)を授与している。中曽根氏は墜落現場に行くことよりも優先して、米軍に勲章を渡しているのになぜ戦争になるのか。何に対する勲章なのだろうか。
 また、墜落の十五分前にファントム二機がJAL123便を追いかけて飛んでいるのを、現役自衛隊員も含めて複数の人たちが目撃して確認をしている。その後も目撃情報が多数よせられている。
 日航機墜落前にファントム二機を飛ばした早急な対応について、せっかく国民から称賛を浴びる機会を自ら捨てて「日航機墜落現場の発見が遅れた」とし、そのことへの非難を「甘んじて受ける」と言い訳する理由もわからない。
 何度も言うが墜落原因がボーイング社の修理ミスと日航なのだから、自衛隊が発見遅延の批判を浴びる懸念はなく、せっかく日没前に墜落前の日航機を追いかけたのだから「我われ自衛隊のおかげで早急な救助ができた」と胸を張って言えばよいではないか。
 その一言で、凄惨な現場で過酷な遺体収容作業を行った大勢の自衛隊員が報われるのである。それが言えない理由は何故か。
 なお、アントヌッチ氏は日本側の自衛隊が到着したと聞いて、安心して横田基地へ戻れという命令に服したにもかかわらず、翌日の報道で夜中から朝方まで墜落場所不明となっていたことに愕然としたと語った。それでは墜落現場で人命救助よりも何を優先していたのか、というのが多くの人たちの疑問である。
 こうして三十三年間も曖昧のまま、真の事故原因の究明を公開の法廷で行いたいと叫び続けた遺族たちの声も届かず、一九九〇年に不起訴となって以降、最大の証拠物であるブラックボックスの中身を第三者が客観的に検証する機会を失ったのである。
 つまり、事故調査報告書に書かれた内容が本当かどうか、誰も検証することができなかったということになる。当然のことながら第三者が客観的に調査することができてこそ、それが本当に正しい報告書かどうかが初めてわかるのであり、運輸省の事故調査委員会といった情報収集の権限が与えられている側の書いたものであるから、第三者が誰もチェックしていないその報告書を盲目的に正しいと信じ込んでよいはずはない。

 航空機事故調査と警察庁との覚書
 飛行機事故という専門性の高い高度な技術を含む調査については、「その技術や資質を持った豊富な知識と見識のある者が技術調査官として取り組むべきものである」と航空事故調査マニュアルに書いてある。いわゆる「専門家」にその調査を委ねることになる。委員長及び委員の任命権者は運輸大臣(現在は国土交通大臣)であり、衆参両議院の同意を経て選ばれる。
 この目的は、再びこのようなアクシデントが起きないように、パイロット等の罪といったいわゆる刑法的な面とは分離して事故調査のみに集中し、調査員にすべてを開示して包み隠さず話すことで将来の重大なインシデントを防ぐという点にある。この国際民間航空条約(ICAO条約)の取り決めに則って民間航空の事故調査は行われ、その条約を締結している日本もそれに従って行っている。つまり、これは航空機事故の再発を防ぐために行う調査であって、もしその結果がパイロットの懲戒や訴追、処分などにつながるような目的に使用されるようなことがあれば、関係者が躊躇してしまう可能性もあり、またそれによって情報収集や調査が妨げられるとしたら公共の利益や安全に著しい悪影響を及ぼす、というのがその趣旨である。
 日本では一九七二年二月に警察庁と運輸省で航空事故調査委員会設置法案に関する覚書が交わされ、二〇〇八年には警察庁と運輸安全委員会との問で犯罪捜査及び事故調査の実施に関する細目を取り決めている。その中で「現場保存」は、「原則として警察が行うものとする、ただし、委員会が現場に先着した場合は、臨場した警察の現場保存責任者に引き継ぐまでの間、委員会においてこれを行うものとする」と記載されているが、日航123便の場合は墜落場所不明という報道に惑わされて、警察及び事故調査委員会が現場に到着する以前に、自衛隊員がいち早く現場に入山し、その現場で捜査前に証拠物件を電動カッターで切ってしまっていた、というのが事実だ。
 「事故現場以外にある証拠物件」の項目では、「警察及び委員会のそれぞれの責任者が協議して措置するものとする(中略)警察が刑事訴訟法の手続により押収した後、必要により鑑定嘱託あるいは保管委託を行うものとする」と記載されている。
 つまり、相模湾の海底に沈んでいる航空機残骸の回収について、当初、群馬県警側は捜索することに大変意欲的であったが、事実上、事故調査委員会に仕切られていたためにできなかった。
 それについて群馬県警の警察官は「海底から何も発見できないなんて、そんな馬鹿な、と思ったんですよ。水深三百メートル程度の海底ですよ。どうして尾翼が発見できないんだ。そう思ったけどね。しかし、文句は言えないんですよ。本当は俺たちにやらしてみろ、と言いたいんですよ。だけどね、運輸省っていえば、我々より、上級の官庁だから、群馬県警がしゃしゃりでたら都合のわるいことになっちゃうんだな」(吉岡忍『墜落の夏』新潮文庫版、二二三頁、十一〜十五行)と話していたと書いてある。著者がインタビューをした検死現場の医師たちも同じようなことを語っていたが、遺体安置所を視察にきた運輸省など中央官庁の官僚に対して最敬礼で迎える河村一男県警本部長の言動からも警察主導の難しさを感じていたとのことである。
 その後河村氏は、運輸省に直談判しに行った遺族の吉備素子さんへの尾行や嫌がらせといった仕事に転職したようだが、一体どちらを向いて仕事をしてきたのだろうかと疑わざるを得ない。むしろ遺族に対して十分な捜査ができなかったと詫びるべきだろう。これらの行為は吉備さんから訴えられても仕方がない言動である。そして河村氏が語った言葉が「事故原因を追及すればアメリカと戦争になる」では、日航もボーイングも罪を認めているのだから、脅しとしても全くつじつまが合わない。



2024年7月現在の吉備素子さん

 生データ開示の必要性
 最大の証拠物であるブラックボックス(CVR、DFDR)の真正物(生の細部前声や生のデータ)を見聞きしたのは当初は航空事故調査委員会だけであり、事故調査報告書の記載内容については今なお、コックピット内の会話の空白部分やつじつまの合わない前後関係の言葉の矛盾について、長年実際に操縦に携わる人や専門家、目撃情報との乖離についても、いくつかおかしな点が指摘されている。
 ただ、当然のことながらボイスレコーダーそのものは改ざんできる代物ではない。
 そのようなことは特に航空会社にいた人間であれば、誰もがわかっている。
 コックピットと呼ばれる操縦室内の音声を録音したこの装置(CVR)は、航空機の事故調査用の機器で、事故発生時の状況を知るために備え付けられている。録音は三十分間のエンドレステープを使用し、古い内容を消しながら新しい内容を録音しているので常に最終の三十分間が確保されるようになっている。なおB−777では録音テープがソリッド・ステート・タイプに代わって、耐久性が向上し、録音時間も百二十分間に延びた。
 確認しておくが録音されているのは次の通りである。
@ 管制交信
 無線にて航空機内にて送信、受信される音声通信の記録
A 乗員の会話
 操縦室内で機長、副操縦士、航空機闘士の三名の会話別音声通信。これはチャンネルご とに分けられている
B インターフォン通信
 航空機内のインターフォンを用いて行う操縦室内乗員間音声通信
C 機内アナウンス音声
 乗客へのアナウンス、乗務員によるアナウンス系統を用いた音声
D ヘッドセットかスピーカーに導かれる音声
 信号音で航法や着陸援助に使用されるもの(マーカー音など)
 乗員とエリアマイク収録音の4チャンネル

 日航123便の場合、この音声録音については、例えば乗員組合では、「客室高度警報音ではなく、同じ警報音を使っている離陸警報音ではないか?音が違う」、「自動操縦装置解除の警報音が確認できない」といった数々の疑問を主張してきた。しかし、運輸安全委員会は、二〇一一年の解説書ですでに説明しているとし、「検討経緯が残っておらず、どのような検討がなされたかわかりません」と曖昧な言葉で回答を避けている。
 他にも遺族の「報告書内容の一番疑問視されている重要な箇所が、疑問符で止めてあり、明確に記載されていません」というコメントにも、運輸安全委員会は「今般、遺族の皆様の疑問点についてできるだけ分かりやすく説明するために、報告書の解説を作成したもので、ご了承ください」と何度も同じフレーズを使って回答している。
 わからない、という疑問に対して、ご了承ください、と答えるのは見当はずれであろう。
 このような状況のもとで真相を明らかにしようとすれば、原本、つまり生データ開示しかない。そもそもボイスレコーダーの記載にしたって、はたしてそれが適正に再現されたものかどうか、「遺族の皆様の疑問点についてできるだけ分かりやすく説明するために」と言って、逆に政府やその他の関係者にとって都合よく編集された可能性すら十分考えられるのだ。
 前著『墜落の新事実』では、著者が聞き取り調査をした複数の目撃情報とは全く異なる飛行高度や飛行ルートが、事故調査報告書に記載されていることを指摘した。つまり、飛行高度に関しても報告書の記載内容に疑問があると問題提起したのである。
 例えば、コンピュータ用の磁気テープ変換の際、またはその処理過程において、データを見やすく配列した時、紙にプリントして示す時、一部分に作為的に手を加えて書いているのではないだろうか、都合の悪い部分を削除しているのではないだろうか、という指摘である。それが、多数の目撃情報と事故調査報告書に書かれた飛行高度が一致していない、ということにつながる。
 これも生データを開示してもらえばよい話であって、かたくなに情報を出さないところに不信感が芽生えても仕方があるまい。もっとも、そのいきさつを確認しようとしても、運輸省(当時)が情報公開法施行前に、なぜか日航123便墜落関連の資料をおよそ1トン分も破棄した。これについても考えなければならない。
 今なおまだ残っている真正の書類があれば、こういった疑念を払拭する意味でも情報のすべてを公開するのが当然である。前橋地検の検事正が遺族への報告会で、「時効はないのだから、すべての資料は永久保存する」という話をしており、遺族側もそれを望み、将来公開してくれ、と言っている。それを無視して廃棄した当時の運輸省の公務員としての重い責任も問わなければならない。
 つまり、誰もが聞くことができ、誰もが閲覧できるようにしてこそ、それが真実であると言えるのであり、本物を聞かせていない、見せていないその閉鎖的な現状からは、調査した側にとって都合の良い部分だけ抜き取った改ざん資料と言われても仕方がない。
 そんなことはあり得ない、と思いたい気持ちもあるが、隠蔽する側の人間は森友問題・加計問題と同様にこの程度は簡単に行う。現在進行中の様々な隠蔽や改ざんで明らかになったことは、隠したい人間がその権限を握っている場合、いくらでも隠せるし改ざんできる、ということである。それに政府のお墓付きが得られれば何でも可能だ、と思い込みたいのだろうが、それは重大な犯罪である。

 真正の生のボイスレコーダー
 事故原因は「ボーイング社の修理ミスとそれを見落とした日本航空のミス」ということを主張するのであれば、国民の知る権利として「生のボイスレコーダー」のすべてを公開すればよい。
 もっと言えば、日航とボーイング社が悪いのだから、運輸省が慌てて一トンもの書類を捨てる必要性は微塵もなかったはずである。
 遺族の中には、いまだにそういった当時の運輸省の対応や事故調査報告書に対して大きな疑問を持ち、墜落の原因に疑念を持ち続けている人たちがいる。
 現在の8・12連絡会による遺族会とは別に一部の遺族による技術部会というのがある。その部会が開催した上野村セミナー(一九九〇年から一九九九年まで開催)にて、ゲストで講師をした現役の日航パイロットのN・A氏が、ボイスレコーダーの生テープについて話をしている。
 要約すると次の通りである。
「乗員側も生のボイスレコーダーの公開について事故調査委員会に何度も要求してきたが、警察による調査中という理由でだめだった。その後、不起訴が成立したので、生のデータが日航に返却された。事故調査委員会のほうからは、刑事事件は不起訴決定となったため、残骸も日航に返却したし、当委員会とは関係ない、警察の捜査も関係ないので公開するしないは日航の一存です、と言われた。
 そこで、会社の判断で公開できるのだから、公開してほしいという要請をしたところ、今度はご遺族の手前もあって公開する訳にはいかないという返事であった。日航は過去の事故時などは、逆に事故原因を究明するためといって現場の乗員にボイスレコーダー、生のテープを聞かせている。そしてこれは何と言っているのか、というように原因究明に役立ててきた。それと比較しても、今回の日航123便墜落については一切聞かせようとしない。私ども日本航空の機長、副操縦士、航空機関士、あらゆる乗員が一緒になって、真の事故原因を究明しよう、この報告書はどうも真実じゃない、とオファーをしたのだが、それでも会社側は一切応じずに逃げている。」
 乗員として当然のことながら、報告書のコックピット内の会話に不自然さを感じているのである。プロとして冷静で客観性があるこの機長の発言から、真実が見えてくる。
 すべては「生のテープを聞くこと」。これがまず大きな第一歩であることが明確にわかる。既存の調査報告書の文面やその一部がマスコミに洗出したものが真正かどうかわからないのである。
 そこから私たちは次の点について考えなければならない。
「日航の修理見逃しミス」という整備ミスが墜落の原因なのに、「遺族への配慮」という理由で、あの日のコックピット内の機長、副操縦士、航空機関士と管制官とのやりとりや会話を公開しないのはなぜだろうか。
 整備関連の内容とコックピット内の会話は何の関係性もない。コックピット内の会話は仕事中すべて録音されていることが前提なのであり、乗員にプライバシーはない。
 その上で公表ができないということは、そこには、発表された事故原因とは異なった証拠となりうる思いもかけない事実や、新たな原因につながるなんらかの会話や誰かからの指示、それに対応する会話が入っていた、と考えるほうが自然ではないだろうか。
 それを否定するのであれば、日本航空は直ちに生のテープを公開して、事故調が主張することの正当性を証明すればよいのである。たった三十分程の短いテープを聞けば遺族の心が落ち着くのであれば、それを聞きたいと申し出た遺族に聞かせるべきであって、都合勝手な配慮で隠すほうがおかしい‥
 一九八五年以降に日本航空に入社した者が九割以上となった今、あの時の凄惨な事故を実際に経験した人間はほとんどいない。今年就任した社長も入社二年前の出来事であり、日航に入社すら決まっていない時期である。その中で「ご遺族への真撃な対応」を心がけることは大切であるが、その配慮がボイスレコーダーを聞かせないということにはつながらない。亡くなった人の中には自分たちの仲間であった十五名も含まれており、自責の念から自殺した社員がいたことも忘れてはならない。その事実から身内をかばう方向に考えるのではなく、万が一、違う事故原因であったならば、五百二十名の無念はどうなるのだろうかという思いからの追跡なのである。
 しかし、それを経営側の権限で闇に葬り、重要な証拠物を隠し通すとするならば、多くの社員たちが不断の努力を続けている「空の安全」を自ら捨て去ることになる。そのあたりを本気で考えなければならない時に来ていることを自覚しなければならないのである。
 それでもなお隠し通そうとする人がいるならば、その心根は何だろうか。そのような組織の行く末はどうなるのだろうか。


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