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青山透子『日航123便 異物は真相を語る』(新書版)
    (河出書房新社 2023.8.10刊)

 なお、本書は、「はじめに」に続き、本編は第一章、第二章、第三章、第四章、から構成されている。
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第三章 遺物調査から分かったことは何か

 尾根からの証拠物

 初めてその「塊」を見た時、不気味な物体というよりも、必死に語りかけてくる「何か」を感じざるを得なかったのを覚えている。その塊には霊気のようなエネルギーが閉じ込められているようで、正面から見据える著者に何かを訴えかけるような無言のオーラを放っていた。
 御巣鷹の尾根に墓参した遺族や一般の方々が山に登るたび、飛行機の残骸と思われる桁の部分やリベットなどの接合部品、機内の壁紙などの備品が足元に落ちていることに気付くはずだ。数年前にも大雨が降った後で山の土が流され、一メートル以上の大きさがある翼付近の機体の一部が露出したとの報道もあった。すべて回収したはずと言っても、現実には多数の残骸があの尾根に残っているのである。
 さて、その「塊」だが、墜落後に上野村住民が尾根の整備を行った際にコツコツと拾い集めたものだった。上野村村長の黒澤丈夫氏とその話になった時、「いつの日か大学等の研究機関で成分の分析をしてほしい」ということであった。その依頼に対して著者は「いつか必ずします」と答えたものの、思えばあっという間に数年が過ぎていた。それらの「塊」はずっと時が止まったままの状態で、上野村の住民が大切に保管していた。
 著者の心深くに村長の言葉が重石のように鎮座し続け、八月十二日が来るたびにそのことが思い出されてならなかったのである。
 著者は社会人院生として大学院に進んで博士号を取得したのだが、その時の社会人学生たちは、その道で有名な企業出身者や各省庁出身者も多かった。最近日本でも社会人院生が増えてきたが、欧米では一度社会人として仕事を持ち、自分の学費を稼いでから次のステップとしてキャリアアップや知的好奇心のために博士号を取得し、ロイヤーやドクターになるために大学院へ進むというのが通常である。そういった意識の高い学友とともに議論を重ねた日々は充実していた。さらに各国からの留学生たちとの交流によって研究分野のみならず、プライベートでも損得なしのつながりは思いもかけないネットワークを生む。教授たちも著者と年齢が近いこともあって、様々な疑問を率直に質問して専門的知見を集められたのも大学院という環境のおかげであった。
 専門を超えて講義を聴く機会にも恵まれ、真撃に事実を受け止めてともに考えてくれる法律関係者や研究者との出会いも貴重であった。その中でも特に関心を持ってくだったS弁護士との出会いが大きかった。そのおかげもあって「塊」の成分分析にたどり着くことができたのである。

 自衛隊の火炎放射器が使用されたのか
 日航123号機(機体番号JA8119号機)の墜落現場で回収された「塊」(サンプルA、B 次ページ写真参照)は、専門家に依頼してその成分分析を行った結果、岩石ではなく厚みのある金属がドロドロに溶けて固まったもので、組成分析の結果、いずれのサンプルもアルミニウムが多く占めることから、航空機の構造材科である超ジュラルミンであることが明らかになった。これが御巣鷹の尾根に墜落した後に採取されたものであることから、これは日航123便1A8119号機のものであることは間違いないことがはっきりした。
 さらに、組成分析と質量分析の結果から生まれた最も大きな疑問は、二つとも航空機材料には含まれていない硫黄(S)とベンゼンの値が高いことである。




 にもかかわらず、問題なのはジェット燃料のケロシンや灯油には、ベンゼン(炭素が六角形状になつたもの)は含まれず、特にケロシンには、重油やガソリンなどに含まれる硫黄「S」も含まれていない点である。
 つまり、ジェット燃料のケロシンではジュラルミンはこのような状態にはならないのである。そして、この「塊」にはベンゼンと硫黄を含むタール成分のものが付着していたとする分析結果からすれば、飛行機の構造材料の超ジュラルミンをこれほどまでに溶かした粗悪な燃焼促進物が上野村の墜落現場にあったということになる。
 これは現場にいち早く入った消防団の証言による「ガソリンとタールの臭い」にも合致する。それにしても、硫黄、ベンゼン、こういうものが入っている燃焼促進を主とした物質はなんだろうか。GCIMSによる質量分析によると、サンプルAではクロロフォルムも融解したジュラルミンにベッタリと張り付き、入り混じっていたということになるが、この日の搭載物に危険物が確認されていない以上、これらの成分が検出されたことは重大である。ましてやガソリンを大量に搭載することなどない。
 そこで、火灸放射器の武器燃料成分について書かれた論文を、東京大学宇宙航空研究所から入手した。その特徴的な成分である、(1)アルキルアルミニウム、(2)天然あるいは合成ゴム、(3)高分子弾性体のプロポリマーで粘稠したゲル、といったものが分析結果から考えられるかどうか、見えてくるかどうかについても今回の成分分析者に見解を伺った。
 アルキルアルミニウムは重合触媒として、合成ゴムの製造に用いられているとのことである。今回、多量のアルミニウムはジュラルミン由来であることから、それがアルキルアルミニウムかどうかはわからない。ただ、GC−MSの結果で、アセトンの重合体が多く検出されているので、何か重合を促進する物質が含まれていた可能性があり、アルキルアルミニウムがアセトンの重合を促進させたと言える可能性は否定できない、とのことであった。
 つまり合成ゴムが含まれていた可能性はありそうだ、ということになる。今回は計測結果から導き出した一つの可能性であるが、今後さらなる精密な測定を行い、ゴム関係の専門家を交えながら調査していきたい。なお、今回は調査結果の一部を提示したが過去の公害問題でよくあったように、どこかの御用学者が出てきて重箱の隅をつつくようにこの結果を否定してきたとしても、他の遺物調査と併せて弁護士立ち合いのもとで詳細な調査が続いていることを明言しておく。
 あの日、上野村の墜落現場の山奥で、ジェット燃料ではなく、ベンゼンが含まれる大量のガソリンが用いられ、航空機の構造物であるジュラルミンが融解してドロドロになって固まり、その中に硫黄成分を含むゴムのような粘着性の高い物質が含まれていた、という事実は、武器使用の可能性を最大に高めた結果となったのはまちがいないと考える。本来、ありもしないはずの物質があったということは、誰かがそれを持ちこんだ、ということになる。山頂で自衛隊ヘリコプターが物を上げ下げしていたという目撃情報、現場から近い陸上自衛隊相馬原の部隊も所有していたM2型改良型火炎放射器燃料、機体の融解、炭化遺体と一本の線がつながる。
 一九八五年時、群馬県相馬原部隊は陸上自衛隊普通科(歩兵)で、第一二偵察隊と第一三普通科連隊情報小隊(松本)から現地確認のためと称し、計十二名が21時35分に派遣された記録は残っている。
 偵察して何が行われていたのか、それは生存者救助ではなかった、これだけは確かである。

 二度焼かれ炭化した焼死体は何を物語るのか
 群馬県警察本部が作成した『日航機墜落事故事件身元確認100事例集』(一九八六年)の事例48に掲載されていたもののなかに炭化遺体がいくつかある。なぜ生身の肉体がなぜこのように炭となったのか。なんらかの異常な燃焼が墜落現場で起き、その燃焼が促進された結果こうなったのだろうということが容易に推定される。それは航空機燃料によるものではないということは前述のとおりである。
 なお、この群馬県警察本部作成の資料集は、タイトルに「日航機墜落事故事件」とある。これは墜落原因が不明のため、事故か事件か未定であるという意味である。この資料での「完全体」とは、頭部が残存または頭部の一部を残存する死体、とされている。「離断体」とは、完全体以外の死体、である。どのようにして身元を確認したのかということで、面接、着衣、所持品、身体特徴、歯牙、指紋、その他と区分けされて遺体状況をまとめていることはすでに記した。これを見ても、警察や医師が大変な苦労をされて確認していった様子がわかる。
 この事例集での遺体状況から推定すれば、おそらく、一度目はケロシンという航空機燃料によって通常の航空機火災が起きた。それから数時間が経ち、医師たちが「二度焼き」と書いた火災が起きた。しかし、今度は粘着性の物質を含む燃料にて長時間高温を保った状態で焼かれた。まぎれもなくこの遺体は、それを物語っている。
 私たちは日航123便の乗客がなぜ戦場同様のこのような凄惨な姿にさせられたのかという意味を直視しなければならず、決して目をそらしてはいけないのだ。この事実を、なぜ五百二十人もの犠牲者が出た上に、さらに焼かれる必要性があったのか、という視点で見ていかなければ彼らは決して浮かばれず、「安らかにお眠りください」と言われても納得できないだろう。
 一九八五年の日本は、戦時中でも突発的有事下でもなく、平時のごく平和な日々だったはずだ。ベトナム戦争時の写真と日航123便墜落時の遺体では、当然のことながら年代とそれぞれの国の置かれた状況が異なる。平和な日本の一九八五年八月十二日、まるでナパーム弾に焼かれたごとくの遺体が、なぜ群馬県上野村になければいけなかったのか。
 一般人が手に入るはずもない武器燃料で焼かれた可能性をどう説明すればよいのだろうか。成分分析の結果とこれらの写真を見比べながら、著者は心の底から湧き出てくる激しい怒りを覚えた、という。こういう実態を直視せずに、三十三年間もこれを放置し続けてきたことへの強い憤りと当時の関係者への怒り、そして人間性への失望である。何も知らなかった私たちは、この事実が捻じ曲げられて気付かなかったことで、結果的に隠し通してきた人間の思う壷になっていたことは否めない。
 事故だとしても「二度も焼かれる」必然性はなく、乗客のみならず十五人の社員も焼かれた日航は、これをどう受け止めるのか。何もせずにこのまま見て見ぬふりをするのであれば、日航も加担したと言われても仕方があるまい。それほどまで生データの開示をしないのであれば、逆に生のボイスレコーダーに真相が記録されていることが明白となる。政府が隠蔽し、その指示であるからといって、いつまでも情報を開示できないことで大きな罪を背負っていることを自覚しなければならないのである。
 日航123便が墜落したきっかけは過失であったかもしれないが、その後の対応で早急な救助ができたにもかかわらず、意図的にしなかったのは重大な不作為の犯罪である。さらにべンゼンと硫黄の含まれたタール系の燃料を使って現場を燃やしたとなれば、少なくとも死体損壊罪ともなる。もしも殺人事件であれば、時効は成立していない。
 中曽根康弘氏が「官邸は関与していない、命じてない」と語っていたとしても、その責任は免れようもないが、防衛庁の当時の関係者と制服組が独断で実行したというのならば、当時命令を下した責任者も起訴しなければならない。運輸省が後から日本航空に圧力をかけて隠蔽に加担させ続けたのであれば、その事実を炙り出さなければならない。
 さらに大きな問題が内在している。それは、平時に非合法な武器使用を安易に実行し、それを命じられた隊員がなぜ拒絶できなかったのか、という点である。ここも重点的に検証する必要性がある。これは自衛隊員自らの命と尊厳、そして良心を守るために大変重要なことにつながる。
 事故調査報告書が世に出た時から、その論拠となる生データを開示せよ、ということは遺族のみならず航空関係の組合やあらゆる関係者が要請してきた。過去何度も事故調査委員会、その後の運輸安全委員会に遺族が申し出ても、無視し続けてきたという事実は重い。日航側においては、乗員や遺族に対しても様々な理屈を述べてその生データを開示してこなかった。国会でも幾度かボイスレコーダーの内容が取り上げられたことがあり、乗員が証言したこともある。
 すべてを突っぱねた理由がこれであれば、焼かれた人間の憤りは何処にぶつければよいのか、私たち一人ひとりがその思いを受け止めて、それを実行した人や命じた人を断じて許してはならないのである。


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