青山透子『日航123便 異物は真相を語る』(新書版)
(河出書房新社 2023.8.10刊) |
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なお、本書は、「はじめに」に続き、本編は第一章、第二章、第三章、第四章、から構成されている。
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| 第一章 | 第二章 | 第三章 | 第四章 | |

第四章 証拠物と証言が訴えていることはなにか

過去最高の売上を記録したボーイング社 一九八五年、過去最高の売上を記録した航空機メーカーは「修理ミス」を犯したボーイング社であった。修理ミスをされた日航側もさることながら、自衛隊も全日空もみなボーイング社製品を購入しているのはなぜだろうか。同年十二月二十七日の日経新聞の記事には、全日空、ボーイング社767機の購入を決定、日航株は事故を起こしたにもかかわらず、史上最高値を付けた、とある。きっかけは日航の政府株放出の思惑からというのがその理由だ。このように、経済の面から見ればボーイング社の修理ミスや日航123便墜落がまったく影響を受けておらず、むしろ政府の後ろ盾によって日航の株価も上がり、ボーイング社は過去最高の売上を記録している。これをどう説明すればよいのだろうか。単なる偶然か、あるいは政府間の思惑が一致した結果、必 然的にこうなった、ということではないだろうか。 さて一つ気になることを書いておきたい。一九八〇年代のパイロットは、航空大学校出身者か自衛隊出身者がほとんどで、日航123便の高浜雅己機長もすでに触れたように自衛隊出身だったが、著者がインタビューをした元日航機長の信太正道氏も元零戦搭乗員で自衛隊出身者だった。信太氏は、民間パイロットと自衛隊パイロットの違いについて、「お客様第一の意識か、戦闘目的か、パイロットはよほど意識をしなければならない」と語っていた。定年退職後は元自衛官であるからこそ戦争反対を訴え、武器を持つ人間の愚かさや怖さについて講演もされていて、その精力的な活動は尊敬に値するものがあった。 その昔、日本航空には満州航空時代に航空業務に携わった人たちや、元自衛隊パイロットの再就職者が多数占めていた。日航123便墜落から一カ月後に自殺と報道された羽田整備工場メンテナンス・コントロール室調査役の日航職員(当時)も満州航空の出身者であった。ただこの自殺報道では、首や胸など数カ所を果物ナイフで刺して亡くなった、とあったため、これで自殺なのかというのが社内での大きな疑問であったと聞く。ある警察関係者は、「自分で数カ所も刺す前に通常は一回目で気絶するし、ましてや普通の人の自殺で首は自分で切らない」と思ったそうである。 さて、自衛隊操縦士の民間における活用制度を「割愛制度」という。なんだか不思議な言葉であるが、平成二十一年度から公務員再就職禁止により一時中止されていた制度が平成二十六年からあまり知られずに再開していた。この制度の趣旨は「自衛隊操縦士を民間航空業界等で有効活用することは、我が国民間航空業界の発展という観点からも意義がある」(防衛省広報平成二十六年三月十四日発表より抜粋)というものだ。実際には二〇一四(平成二十六)年度に五名の航空自衛隊操縦士が民間航空機会社などに再就職をして、同時に彼らは予備自衛官を志願しており、予備自衛官としての任用となっている。 官民の交流が促進される利点もあり、自衛隊員の再就職先確保と民間パイロット不足解消のために役立つ制度であるが、万が一、不測の事態となった場合、予備自衛官としての任務意識が民間航空機パイロットとしての自覚を上回ったとしたらどうであろうか。その可能性を否定する根拠は誰も持ち合わせていない。 または、横や縦の人間関係のつながりの中でなんらかの研究やデータ集め、さらに実験等で暗黙の了解があったとしたらどうなるだろうか。これもあり得ない、と否定することはできない。信太氏が最も懸念していたことがこの点であった。 著者がインタビューをした山下徳夫運輸大臣(事故当時)も語っていたが、政治家がすべての事実を把握しているとは限らない。むしろ自衛隊増強を打ち出した中曽根首相(当時)ですら、日航機事故直後に防衛庁ヘシビリアン・コントロールを強化する目的で、防衛庁背広組の人数を増やしている。八月二十二日付の報道では、「文民統制を全うする手順、内容を考えて進めて行くことが大切だ」と語り、同日付で内局(背広組)機能強化の一環として、防衛審議官を三名に増員する、という発表をしている。 報道各社は、なぜこの時期にと不思議そうな論調であったが、ここには重大な問題を含んでいると思われる。例えば、中曽根首相の意向が現場に歪んで伝わり、何をやっても大丈夫という意識がなんらかの不都合を隠蔽しやすい環境を作っていたとすれば、中曽根氏すら驚きであったのだろう。だからと言って、自衛隊の最高責任者は総理大臣なのだから不測の事態が生じてもその責任はきっちり取らなければならないのは当然である。
次々に出てくる赤い物体の目撃情報 ファントム二機の目撃情報はその後も寄せられている。 さらに「赤い物体」についてだが、『小さな目は見た』という前著で取り上げた地元の上野村立上野小学校の文集や、『かんな川 5』という上野村立上野中学校の中学生が書いた文集について、当時の生徒だった方にもインタビューを行った。文集の内容にはとてもリアリティーがあり、その時の上野村の光景がよみがえってくる。 近所の人たちが「真っ赤な飛行機を見た」と記述した当時中学一年生だったY・Kさん(四十六歳)に高崎でお会いすることになった。父親が事故当時消防団で現場入りし、四名の生存者を救った。後からわかったのだが、偶然にもそのお父さんは二〇〇九年に著者がインタビューをした方であった。 高崎駅前には商業施設や新しいホテルも立ち並ぶ。ここから上信電鉄で下仁田まで六十分も乗れば、山の中の静かな村があるとは思えないほどである。現在高崎市内の会社に勤務しており、ずいぶん前に上野村を出てから同級生にもあまり会う機会がないとのことだった。義理の兄は歯科医師であり、当時の検死活動にも参加されていたという。 当時のことを今も覚えていらっしゃいますかとお聞きしたところ、「はい、覚えていますよ。七時ちょっと前、ちょっと過ぎくらいかな。普通は飛ばないところを、かなり低いところを飛んでいて。ヘリコプターがうちの上あたりを飛ぶようになって、なんでかなあと思っていたら、ニュースで消息を絶ったって。当時は上野村じゃなくて長野県側だと。うちは野栗沢というところで、現場から反対方向で距離は離れているんですけど。親父は翌朝五時ぐらいにおふくろにたたき起こされて、(自分が)朝起きたら父親がいないんで、どうしたって言ったら、消防団で行ったと。一日中テレビはその中継ばっかりになって。それを見ていたらうちの親父もテレビに映っているんですよ。墜落現場で子供を助けて担架で尾根まで上げて。テレビに映った途端に、親戚からうちにいっぱい電話がかかってきて」とのことであった。 父親は消防団として朝の五時ぐらいに出発して、生存者発見の午前十時頃には現場に到着したというのだから、五時間ほどで歩いて行ける距離であったということだ。もし、墜落直後の前の晩、長野県だ、という報道ではなく上野村だということであれば、すぐにその場に行けてもっと多くの生存者を発見できたことになる。以前お会いした時も「長野だって報道だったもんねえ」と悔しがっておられた。 子供としてとても印象深かったこととしては、「親父に、ものすごい臭いがついて、すぐお風呂にはいったけど、道なき道を行って煙が上がっているのを頼りに行ったと言っていました。夏だから喉が渇いたっていうんで途中で沢の水を飲みながら行ったら、その沢の先に死体が・・、その話が一番ショッキングでした」 当時、同級生が三十人くらいしかいなかったので、五百二十人というとちょっと想像ができなかったという。その規模がすごいとわかるように、その印象が残るようにと作文を書いた記憶があると語った。 「自衛隊のヘリコプターも低空飛行で、(十二日の)夜七時ちょっと過ぎぐらいかな。八時半くらいには結構いましたね。自分の記憶では四、五機は回っていたような気がする。バタバタバタバタと音を立てて。自衛隊の車輌はパンパンパンパン。二十キロ近く離れたところに親戚のおじさんがいたんですけど、その人がニュースを聞いて、峠があるんですけど、車で野次馬で行ったら、なんかもう警察車輌がいて、峠の交通規制とかして、駐車をさせないとかで大変だったらしいですよ」 ご近所の方々が「真っ赤な飛行機を見た」と書かれていますが、とお聞きすると、「うちのまわりは四軒がかたまっているんですけど。何か赤いものが飛んでいたと言っていました。後ろから火が出ているような感じだと。日本航空の飛行機じゃないものが飛んでいました。他にもドーンという音がしました。墜落の音が聞こえたのかなあと僕は思いました」 JALの飛行機じゃないのかと再度確認をしてみると、「あの辺は飛行機なんか飛ばないんですよ。赤い飛行機は一機で、ジャンボジェットではない」 「墜落した二、三カ月後かなあ。親戚やら七、八人ぐらいで御巣鷹の尾根に行きましたね。全然まだ道ができていない頃に登ったんですよ。何時間もかけて。残骸は結構きれいになっていましたけど、ここが坂本九さんが亡くなったところかと思って、ヘリポートも行きましたよ。木が倒れていて、現場は地面も焦げて、真っ黒でした。自分は拾っていませんが、機体の一部みたいなものを拾った人もいました。ヘリポートに捨ててあった破片を誰かが拾ってきました」 あの時は学校のプールは遺体の洗い場と化して使えなくなり、部活もなくなって、学校の体育館では幽霊が出るとかの噂話もあったそうだ。 「親父の話では、山で幽霊が出るようなところを掘り返したら、赤ちゃんの遺体が出てきたとか、胴体が切れていたとか、死体がゴロゴロ転がっていたとか、そういう話を思い浮かべると、中学生だった私は気持ち悪くなったりしました」 子供たちが様々なことを見聞きした様子が手に取るようにわかった。それにしても、やはり後ろから炎のようなものが出ているように見える「赤い飛行機」が飛んでいたのだ。そして墜落現場の地面も焦げて真っ黒だったという。このように、いつまで経つても衝撃的な記憶は鮮明なのである。 実はこのインタビューの後、思いもかけないことが起きた。その日たまたま群馬県警察医会の会合があり、出席されていた大國勉氏と再会した際、一緒に来ておられたのがこのY・Kさんの義兄の歯科医師で、偶然にお会いする機会に恵まれたのだ。著者のインタビューはこのように、いつもなぜか人間関係の信頼でつながっていく。これも上野村村長にお会いした際、ご著書に「積陰徳」と手書きで書いていただいて以来、そのように常日頃心がけていたからかもしれないと勝手に思っている。 お話しする中で、大國氏がいかに警察医の先駆者であって、数々の実績を持って警察に協力してきた凄い方かということがいまさらながらにわかった。 さて「赤い飛行機」を目撃した一家がまだそこに住んでいらっしゃるということなので、上野村に移動してその女性にインタビューをすることにした。 上野村は標高五百十一メートル、周辺は三国連山などの一、二千メートル級の山々が連なり、総面積百八十一・八六平方キロのうち九割が山を占める典型的山村と言える。その女性の住まいは、Y・Kさんの出身地と同じ野栗沢地区で御巣鷹の尾根から見れば埼玉県に近いほうに位置する。右手に神流川を見ながらズンズン山道を車で走っていくと、すりばち荘という民宿が見えてくる。その民宿を経た先には野栗食品という古びた昔ながらの食品屋さんがあり、橋が見えてくる。その道中には竜神の滝という、ちょっと小ぶりながらも野性味を感じさせる滝があって、三年前にも学友たちとそこに行った記憶がよみがえってきた。そこからさらに山の麓近くに入り込んだ集落にお訪ねした。 家々が急な坂道に寄り添いながら建っている。その向こう側には山の尾根が迫り、空がぐんと近づいてくる。現在八十二歳というが、そう思えないほどすっとした姿勢で割烹着姿の似合うお母さん、という感じの女性Sさんが笑顔で迎えてくださった。 「ええ、お父さんとね。私の娘が二人、当時は娘が二十歳と二十一歳で大きかったですよ。ちょうどね、十二日の夕方、お盆の前だから少し足りないものがあるから、買い物に行ってきてくれるって頼んでさ、そしたらお父さんが娘と二人で下のお店、野栗商店まで行ってくれて、その帰りに見たって」 何が見えたのか、どのようなものが見えたとおっしゃっていましたかと尋ねると、「真っ赤っていうよりオレンジっぽかったんじゃないかね。尾を引いているって。時間はねえ、夕方の十八時過ぎで暗くなる頃だったかなあ、まだ薄暗い時でしたよ。飛行機が低空だったから光が見えたんじゃないかね。野栗まで買い物に行って滝の坂っていうところを登りながらさ、あの飛行機おかしいねって。UFOかねえ。あの頃UFO流行っていたんですよ。後ろに火が見えるように、尾を引いていたんですよ。お父ちゃんに子供たち(娘)が、あれは長野か群馬の境かもしれないって。そのうち村で、何か見た人は連絡ください、という放送があって。やっぱり電話してやろうかなって。ずいぶん、上野村でもそういう人いたようですよ」と語ってくれた。赤というよりもオレンジ色、さらに後ろに尾を引くように見えた、とのことであった。 「子供たちが文集を書いていたっていうのは見ました。子供っていうんは本当に正直に書くから」とのことだった。村内放送のことは他の人も聞いており、飛行機の墜落についてはすぐ知るところとなった。その機敏な対応について、「あの村長さん(黒澤丈夫氏)ですから、これだけのことができたんですよ。一声でみんなを集めるチームワークが良いから。字もお椅麗で、立派な人でしたよ」 やはり黒澤村長は村の皆さんの尊敬に値する方であったのだと今更ながら思った。 それにしてもUFOのように見えた不思議なもので、オレンジ色で後ろに尾を引く飛行物体については他の皆さんも同じように見たそうで、すぐに村役場に連絡をしていた。UFOなんか飛ぶかなあと長年疑問に思っていたとのことである。すでに嫁いだ娘たちにも言っておきます、とのことでお茶もご馳走になりながらお話をすることができた。 こうした目撃情報は複数あり、いくらでも出て来るのである。それを否定する根拠は誰にもない。もし否定する人がいれば、その人たちがどこに属してどういう人なのかを私たちはきちんと見極めていかなければならない。たとえば発信元が霞が関や市ヶ谷界隈であればなおさらだ。今後、否定する人たちの責任の所在を明らかにする必要性がある。
検死現場のビデオ、所有者へ返却できない理由 さて、次に『死体からのメッセージ』を著された押田茂賓氏が撮影したビデオについても、群馬県警から驚くべき連絡がきたので記録として書いておく。 DNA型鑑定第一人者として法医学の世界で五十年間、様々な菟罪事件や未解決事件に科学的分析の立場から真相を求め続けてきた押田茂賓氏は、常に研究分野について熱く語ってくださる。今回も神楽坂の美味しい和菓子とお茶を用意して快く応じてくださり、群馬県藤岡市民体育館の遺体安置所での検死風景や身元確認状況を撮影したビデオについて、その後どうなったのかをお聞きした。まず、あの当時、任意提出したビデオのことで、どれぐらいのテープが返ってきていないのでしょうかと尋ねると、「原テープの8ミリが三巻、これは全く編集していない、一週間分が全部そのまま入っています。それから、マスターテープ一巻、これはベータなんですが、私が作ったもので編集したものですね。講義で使っていいようなのはこのベータなんですよ。要するに法医学の先生が身元確認作業の応援に来てくれて、忙しくて写真も撮れないから、講義に使えるように編集したコピーを大学の法医学教室にさしあげて、あと群馬県警本部刑事部刑事調査官や警察庁へ配布されたものもあります。全部を返してほしいと群馬県警本部長宛てに平成二十九年五月二 十二日付で手紙を送ってね。しばらくして返事がきて、群馬からこの三名の警察官が神楽坂事務所に来ましたよ」 手元にある名刺を見せてもらったところ、同年八月二十三日の日付とともに、群馬県警察本部の刑事部捜査第一課の検視官室長の警視T・Y氏、警部のT・U氏、刑事部刑事企画課のD・T氏の三名で来た、と書いてあった。押田氏は当時の内閣総理大臣中曽根康弘と書かれた感謝状を見せながら日本法医学会代表として首相官邸に行った話をした。事務所にやって来た警察官たちと一時間二十分ほど話をして、最後にビデオの件を言ったところ、相手から出た言葉が、「ビデオは、はい、ありますと。8ミリ三本とベータ七本ですね。見ました。あまりに凄すぎて、お返しできない」だったという。 お返しできないという発言に、先生も驚いたそうだ。これはお会いする前にその旨電話で聞いた言葉だったが、電話口で著者は「えー、凄すぎて返せないって言い訳にもならないですよね」と叫んでしまったという。 それは三十三年も経って刑事事件の資料でもない上に、所有者が明確にわかり、学術的に大学で使用する目的で撮影したものである。任意提出であるにもかかわらず、何の権限があって返さないと言えるのかと呆れてしまった。それはまるで「警察に自分の財布を預けてくれと言われて預けておき、あとで返却してくれといったら、財布の中身がお金でいっぱいで凄すぎて返せない」に等しい強弁である。いつから日本の警察は勝手に他人のものを没収できるようになったのか、これは明らかに業務上横領罪であって、他の警察官を呼んできて、三人を逮捕してもらわなければならない事件である。そこで押田氏は、「私は刑事事件をやっているのだから、その旨をきちんと文書で回答願いたい、と言ったら、そのまま帰った。後から電話がかかってきて、電話番号は警察本部で、U氏が『返却は不可です、書類回答もできない』と言ったんですよ。二回電話があって、今度は刑事部理事官のSですと。それは警察の最終結論ですか、書類でいただけませんか、というと、そういうことはできませんと」 書類で書けない、ということはよほどやましいことだと自分たちで認識した上で、さらに証拠を残さず、自己責任にされたくない、という逃げの姿勢が見て取れる。どのように考えてもこれはおかしい、ということで裁判を通じて返却を要請することにしたほうがよいと話をした。このビデオはあくまでも学術目的の資料であって、所有者に返すのが当然であろう。どの弁護士に聞いても当然ながら横暴も甚だしいと語った。 一つの成果としては、ビデオは警察内の倉庫に保存されていたことと、破棄されずに存在していた、ということだ。これは前著『墜落の新事実』(第三章)の中で確認して提示したように、警察内部資料の「日航機墜落事故特捜本部関係書類の保管状況」に記録されていた通りだったということになる。さらに、そのビデオを見たら警察官がその内容を凄すぎる、と思った、ということはきちんと見られる状態で良好な保管がされていたのだ。そして、凄すぎる内容とは、おそらく真っ黒になった遺体の炭化状態がはっきりと映っていることであろうが、それ以外にも河村県警本部長が運輸省の役人に最敬礼をして「私がこの担当となって誉れであります」等々のふるまいや言動が映っているからではないかとも語っておられた。
今回の調査結果のまとめ 一般人の目撃情報に共通する点は、やはり「オレンジ色の飛行物体」である。これは日航機の色の中には含まれていない色であり、その大きさもジャンボジェット機ほどではなく、四〜五メートルで、超低空飛行で目に留まるほどの速さとなる。さらに、後ろに炎か?と思われるほどのなにか尾を引くような感じに見えたという。時間的には墜落前であって十八時過ぎのまだ薄暗い時間帯であった。前著の静岡県藤枝市での赤い物体の目撃情報が十八時半頃であった。上野村での時間は明確ではないが、まだ薄暗く見える時、ということでその後に墜落したとすれば、十八時四十分から墜落前の五十五分前後となる。 これが何か、ということを断定するには明らかに証拠写真でも出てこない限り、いつまでたってもこの赤い物体を飛ばした人たちは認めないだろう。しかしながら、目撃者は複数いる。本書を読んだ一般の市民たちがその根拠となるものをともに考えてほしいと著者は思っている、という。さらに、研究者や専門家は、それぞれが持つ専門的知識を活用し、それをお互いを否定することに活用するのではなく、真相にたどり着くために活用してともに考えていきたい。 次に今回の遺物における化学的分析結果を記しておく。 まず、ジェット燃料のケロシンには含まれないベンゼンが、御巣鷹の尾根の遺物から検出されたという事実は重く受け止めなければならない。さらにジェット燃料の生成過程で除去する硫黄も大量に検出された。この二つを含むものはケロシンではなく、ガソリン、重油といったものである。 ここからわかることは、日航123便に使用された1A8119号機の機体が高温で融解して塊となった物質から、ベンゼン、硫黄、そしてなぜかクロロフォルムが検出された、という事実である。 今回は二つのサンプル結果を提示したが、黒澤丈夫村長が残した他の証拠物も、慰霊の園にある「開かずの扉」の向こう側に閉じ込めた遺体も真相解明の出番を待っている。その身元不明として茶毘に付された遺骨は、五百二十人の誰かの手であり足であり、肉体の一部なのだ。炭化した骨粉や高温融解した機体はその存在をもって後世のために活かしてほしいと、化学的成分分析を通じて訴えているのである。それは次々と証拠品として語り始めるであろう。これらの情報のすべてを共有し、あらゆるネットワークを以て解明していくことで真実に近づき、それを否定する人たちを特定していくことで、責任の所在が見えてくる。 そして日本航空がやらなければならない役割は大きい。 日本には国際民間航空条約(シカゴ条約)とは別に警察庁との覚書があるのだから(巻末の参考文献参照)、生のデータを開示できないという法的根拠は一切なくいつでも開示できる。運輸省事故調査委員会から既に戻された生データの開示は、企業の在り様としての倫理規程である最も重大なコンプライアンスに係る問題である。プライバシーの侵害等を隠れ蓑として開示を拒むことは倫理規定違反となる。自分たちの仲間も含めて五百二十人の命が圧力隔壁の修理ミス以外の原因で犠牲となった可能性が否定できない今こそ情報を国民に提示すべきであり、それが倒産の際に巨額の税金をつぎ込んで、借金も棒引きにしてもらって、ようやく再建させてもらった国民への恩返しであろう。恩返しせずに恩恵を受けっぱなしでは、再び倒産に見舞われる可能性は否定できず、そのような組織は国民から見放されても仕方があるまい。 偽りの土台の上にある組織や、偽りで結ばれている人間関係は、あっという間に崩壊するのである。
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