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藤田日出男『隠された証言 日航123便墜落事故』

(新潮文庫 2006年8月1日刊)

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序章・第1章


著者紹介
  藤田日出男
 1934(昭和9)年生れ。1956年3月大阪府立大学農学部獣医学科卒業。1958年、運輸省航空大学校卒業。同年、日本航空入社。パイロットとして、コンベア880、ダグラスDC−8などに乗務。1994(平成6)年、同社を定年退社。航空安全活動歴は長く、1966年、「航空安全推進連絡会議」設立に参加。1987年、英国クランフィールド工科大学で航空事故調査のマスタークラスに学ぶ。日本航空退社後は「日本乗員組合連絡会議」事故対策委員を務めた。2008年没。
 
 本書は以下のような構成となっている。
 序 章 内部告発者―3度目の接触 
 第1章 墜落現場 
 第2章 ドキュメント「日航123便墜落
 第3章 内部告発者―最初の接触
 第4章 事故調査委員会
 第5章 内部告発者―2度目の接触
 第6章 あり得ない「隔壁破壊説」
 第7章 急減圧は、やはりない 
 第8章 18年間の出会い
 第9章 事故原因
 終 章 内部告発者との別れ
 あとがき
 文庫版あとがき

 

序章 内部告発者――3度目の接触

 2003年5月18日、私は内部告発者と3度目の接触をすることになっていた。
 3年間でたったの3回。二人とも接触は極力避けてきた。ほとんどが電話のやりとりだった。
 自宅のある伊東から小田原までの約45分間、特急「踊り子」の車内で私はこれから会う男のことを考えていた。やがて、小田原の見慣れた町並みが視界に入ってくると、私は自分が緊張していることに、はっきりと気付いた。
 内部告発。その男は、1985年8月12日に起きた「日航123便墜落事故」に関わった旧運輸省(現国土交通省)の官僚で、事故調査に関する内部資料を私に提供してくれていた。 
 待ち合わせの喫茶店は、東口のロータリーからすぐだった。のんびり歩いても5分で着くだろうが、足が勝手に急いでいた。
 席にすわり、コーヒーを前にして「どう切り出したものか」思案しているうちに、彼が店に入ってきた。ゆっくりこちらへ近づいて来る姿は、久しぶりだが変わりなかった。
 「お元気でしたか」
 「まあ、私はなんとか。藤田さんのほうは、相変わらずお忙しいでしょうね。例のMD‐11事故の裁判もあるし」
 私は頷いて、名古屋で行なわれている公判のあらましを説明した。話しながら、私は目の前にすわっている大柄な男をゆっくり眺めた。
 ネイビーブルーのスーツに無地のワイシャツ、小紋の黒いネクタイが、いかにも堅実な役人を感じさせる。
 「田中(仮名)さん、相談というのは、例のファイルのことです。昨日の電話でも話しましたが、あのファイルを公表したい。もちろん、あなたに迷惑がかからないように」
 昨夜、自宅に電話したときには、すぐそばに奥さんがいたようで、はっきりとした返事は聞き出せなかった。奥さんは、田中が、この件にいつまでも首を突っ込んでいることを危倶しているという。家族の立場からすると、それも当然だろう。
 田中は、しばらく動かなかった。
 「私が内部告発者だと特定されないように?」
 最初、役所を辞職する覚悟さえあった頃は怖いものなしだったこの男にも、家庭がある。途中はずいぶん迷っていた。だが、なんとしても田中の許可を得ておきたかった。
 「ええ」
 思わず高くなった私の声に、ニヤリと田中が笑いを浮かべた。
 「わかりました。私は、藤田さんがあのファイルをどう使われようと止めたりしません。そのために、渡したんですから」
 「ありがとう。でも、ほんとうに大丈夫かな。あなた、役所のなかで目を付けられていると言ってたでしょ」
 「マークされてたことは、事実です。でも、だからといって首にはできない。せいぜい嫌がらせくらいなもんです。それより、あのファイルにはそんなに重要な新事実がありましたか?」
 「もちろん。生存者の落合由美さんが救出後、数時間も経たない時点で話を訊かれています。まずそのこと自体、驚きです。しかもその中ではっきり急減圧はなかったと証言しているんですよ。もっと重大な話も含まれています。アメリカの調査官・サイドレンが、8月27日に落合さんに会っていますが、そのときの証言です」
 「事故調査委員会は、急減圧がなかったことを事故の直後、どんなに遅くとも8月27日の段階で知っていた?」
 「そう。知っていた。証言しているのはプロの客室乗務員ですよ」
 「それを無視した」
 「闇に葬ったわけです」
 「アメリカのNTSB(国家運輸安全委員会)も、当然知っていた?」
 「当然、知っていた」
 「驚いたな。そうして、ボーイング社の名前には傷がつかなかった。じゃあ、後部圧力隔壁の破壊で噴出した高圧空気によって垂直尾翼がパンクして吹っ飛んだという事故調の結論は、やはり成立しないことになる」
 「そう。私が18年間、言い続けてきたことの確証が、公式の証言記録として、あのファイルにはあったわけです」
 「その事実を突き付けられて、国はどう反応するだろう?」
 「それは、田中さん、あなたの方がよくお解りでしょう」
 「そうか。反応しない、無視だ。だんまりを決め込む。けれど、(イカオ=国際民間航空条約機構)には条約があるでしょう。航空法もそれに準拠すると定めてあるし」
 「新事実が明らかになった場合、すみやかに再調査をしなければならない。しかし、国土交通省はこれも頬被りするでしょう」
 「強制力がない」
 「そう。強制力がない。放って置けば国民は誰も気付かない。しかし、ひとつだけ彼らの恐れているものがあります。世論です。ここに訴えることが、再調査への唯一の道です」
 1時間ほどして、私たちは席を立ち、小田原駅へゆっくり歩いた。
 「もう、あの夏から18年が経つ。昨日のことのように記憶に焼き付いてますが。それにしても、御巣鷹山の現場は惨いものでした。もし、自分があの事故で肉親を奪われた遺族だったら……」
 別れ際、田中がふと洩らした言葉は、123便事故に関わった誰もが抱く思いだった。
 もしも、あの飛行機に乗っていたら。もしも、あの事故の遺族だったら。
 この内部告発者が、飛行機が好きでたまらず、管制官になりたくて運輸省に入ったことに、私は心から感謝していた。もし、彼のような男がいてくれなかったとしたら。
 そう考えただけでよけい気が滅入ってしまう。立派な体躯に比べて、気が弱く慎重な彼の決意に、私はどうあっても応えなければならないのだ。
 

第1章 墜落現場

 日航123便の墜落事故があった1985年8月12日、私は翌日の早朝に出発する香港便に乗務するために、成田空港近くのホテルに宿泊する予定だった。チェックインを済ませたあと、ホテルのレストランに向かい、そこで古くからの友人と落ち合い夕食をとっていた。
 そこへ翌日一緒に香港へ飛ぶ川崎機長が近づいてきて、声を潜めるようにして、「ちょっと……」と声を掛けられた。社外の人間には聞かせたくない話があるのだと思い、友人に頭を下げてテーブルから離れた。
 「うちのジャンボが行方不明だって、ディスパッチ・ルーム(運航管理室)で聞いて来た」
 「何便?機種は?どの付近で?」
 とっさに矢継ぎ早に聞き返していた。陽気な川崎機長の顔が異常に緊張しているのがわかった。
 「操縦不能になったという情報があるそうだ。今、電話で聞いたところでは熊谷の西のほうでレーダーからエコー(レーダーの映像)が消えたと言っていた。123便、機種はナナヨン」と答えてくれた。「ナナヨン」というのはボーイング747型、ジャンボのことで、日航関係者の間でそう呼ばれていた。
 「お盆だ。満席だぞ」
 独り言でもなく、彼に話しかけるでもなく、大きな声を出してしまった。満席の機内の様子が頭を掠めた。時刻は午後7時15分だった。夕闇があたりをおおい始めていた。NHKテレビが速報を流したのは、7時26分のことだった。
 食事をしていた相手に、「ちょっと急用が出来たので、すみません、またいつかゆっくりと」と言って席を立った。
 レジで清算を済ませて、会社に電話を入れた。明日の乗務を交代して貰うように依頼しなくてはならなかった。実は私にはパイロットという肩書きで空を飛ぶだけにとどまらない「もうひとつの職分」のようなものがあった。”航空事故調査”である。
 1966年のボーイング727・羽田沖墜落事故をきっかけに、合理的な事故原因追究体制を我国の調査にも確立したかったのである。事故が起こるとすぐに現場に急行することは、社内の多くの人が知っていた。
 乗務スケジュールの担当者は、「いいですよ、現地に行かれるのでしょう、ご苦労様です」とこちらの事情を察して、二つ返事で了解してくれた。
 次に羽田空港にある私が属している乗員組合の事務所に電話をした。私が名前を告げると、言い終わらないうちに、
 「直ぐに現地へ行ってくれますか?乗務割は変更してもらいますから」と組合の役員から依頼があった。
 「レーダーから消えた場所は?」と私が聞き返した。
 「まだ正確にはわかりません。会社の情報では、横田の305度(北西)34海里(海上距離の単位。1海里は1852メートル)付近と言っています」
 今聞いた位置なら富士山の北のほうだ。私は「場所から考えると一人や二人では無理だから、同行してくれる人を選んでおいてくれ」と伝えて直ぐにホテルをチェックアウトして、タクシーに飛び乗るようにして羽田の事務所に向かった。
 タクシーの中で、先ずやるべきことを考えていた。タクシーの運転手に頼んで、ラジオをつけてもらい、あちこちの局をはしごして事故に関する情報を得ようと試みた。しかし、いずれも墜落地点不明といった感じで必要な情報は得られなかったが、しばらくして墜落地点は長野県の北相木村付近だという情報がラジオから流れた。
 相木村ならば、秩父困民党の一揆の資料を見に行ったことがある。南も北も何度か歩いたことがあるので、ある程度の土地勘があった。山岳の多い険しい地形が思い出され「不時着に成功」という状態は期待できないと思った。
 フライトバッグの中からエアウェイ・マニュアル(航空路や空港の地図)を出して、東京地区の航空地図を出し、プロッターと呼ばれるこのマニュアル専用の定規と分度器が一緒になったようなスケールで、横田から305度34海里の地点を書き込んでみた。富士山の真北40海里(約74キロメートル)、北緯36度、東経138度45分付近を示していた。
 運転手からロードマップを借りて、地名と照合しようとしたが、当然のことながら、緯度経度の目盛りがなく、山の中はあまり詳しく記入されていなかった。しかし金峰山の20キロメートルほど北北東よりであることは解ったが、これはラジオで繰り返し流されている北相木村よりもかなり東よりの地点だった。
 この時はきっと墜落地点は北相木村の端のほうだと勝手に思い込んでいた。航空地図で確認したのは群馬県か埼玉県だったが、後で地図をよく見てみると、北相木村は確かに長野県である。その時点で墜落地点の情報が混乱していることに気が付くべきだった。
 私は現地に持って行く物のリストを作り始めた。北相木村付近ならば、ある程度の登山用の装備が必要だと考えた。少なくとも登山靴だけは必要不可欠だと思った。
 先ず必要なものは、ジャンボ機の構造が示された運航規程と整備規程の一部の写し。これがなければ分解した機体の状況を把握することは難しい。特に機体の塗装などの写真は不可欠だ。
 次に状況を記録するカメラとフィルム。筆記用具とノート。簡単な測量が出来るように、コンパス、傾斜計、50メートル程度の巻き尺。現場での作業に必要な物として、登山で使用する9ミリ程度の補助ロープ。さらに手を保護するための軍手か作業用の革手袋。
 時計は、もう9時を過ぎていたが、依然として墜落現場は確認されていなかった。
 それにしても、あまりにも遅い。いったいどうなっているのだろう。
 重傷を負いながら救助を待つ人が居ることも考えられた。何故あれほど大きなジャンボ機が墜落したというのにその場所が確認できないのか。管制用のレーダーのほかにも、防衛庁のレーダーもあり、墜落地点がわからないなどとはどうしても理解できなかった。
 

混乱する墜落地点情報

 車は、報道関係の車でごった返す羽田空港の日航オペレーションセンター(現在は解体されて存在しない)と呼ばれる、半分が格納庫になっているビルの前に着き、そこから歩いてビルの横の入り口から組合の事務所に入った。
 事務所はごった返していた。あまり広くない部屋の中では30人以上の人間が電話や書類と格闘している。組合執行委員の一人が、私を事務所の奥にある印刷室の方へまねいた。彼は組合がその時点までに入手した情報をまとめたメモを手渡しながら、
 「これ以上のことは、まだわかりません。どうも墜落地点の情報がコロコロ変わってイヤな感じです。現地に行くのはどうされますか?」
 「およその場所は見当がついているから、とにかく近くまで行って夜が明けるまで待ってみるよ。明るくなれば判るから、それから現場に入ればいいと思うよ。」
 私の同行者は、ベテランの航空機関士の松田司郎と、元気のいい若手の副操縦士の佐藤進と決まった。松田は、ジャンボ機の構造に精通した凡帳面な男で、以前にも組合の会計などで一緒に仕事をしたことがある。佐藤と仕事をするのは初めてだったが、組合の安全担当委員を買ってでた、正義感の強い若者だった。
 私たちは急いで出かけようと、事務所のドアを開け、外に出た。空港内の駐車場にある公衆電話のまえで、若い男性が受話器を握りしめて、「嘘だろう、そんなこと嘘だろう」と泣きながら叫んでいる姿が見えた。私たちが聞いた最初の遺族からもれる慟哭だった。
 沈黙の中、私たちは羽田空港を出発した。ラジオ、テレビでは、墜落地点は御座山北斜面で、炎上中という情報が流れていた。
 私たちは、登山の準備や、カメラ、フィルム、簡単な測量器具などを用意し、さらに簡単な食料も調達した。東京を離れたのは、真夜中を少し過ぎていた。
 関越道からの道は、おそらく事故関係者の車両や報道関係の車両で混雑するだろうと考えて、中央高速経由で信州峠を越えて、川上村に入る道を選んだ。信州峠を越え、さらに馬越峠を越えれば南相木村に入る。あとは車と徒歩で、御座山にも登れると考えていた。また、墜落地点を「ぶどう峠」という情報もあったが、「ぶどう峠」ならば県道125号線(今は2号線)を西に向かい、川又で右折して県道124号線を20キロも走ればたどり着ける。
 信州峠に近づく頃には、空が明るくなっていた。
 川上村に近づく頃、陸上自衛隊のトラックの数が、目に見えて増えてきた。空には「パタパタ」とヘリコプターの音がした。どうやら、事故現場は近いという気がした。自衛隊員がトラックを降りて徒歩で登り始めるのが見えた。近づくと「扇平山頂上付近だ」という会話も聞かれる。扇平山なら、私は概略の位置は知っていたので、その方向に向かって佐藤と二人で登り始めた。
 運転で疲れていた松田には、宿の確保や事務所との連絡を頼み、日没までの時間を考え、余裕をみて午後4時ごろに、車を降りた場所まで迎えに来てもらう事にした。
 扇平山に向かって、登山道の無いところを登ったが、ようやく尾根までたどりついたところ、ヘリコプターがその上を飛び回る事故現場は、深い谷をひとつ隔てた北側の尾根の方だと分かった。とても歩いて行ける距離でも地形でもなかった。
 やむなく下山して改めて登ることにした。徹夜の上に、8月の太陽、道のない登山。さすがにつらかった。扇平山が墜落地点という情報を信じてしまったことにはいくつか要因があるが、やはり騙された自分にひどく腹が立った。
 その後、打ち合わせておいた場所で松田と合流し、私達は車で川上村の近くの釣り宿に向かった。
 宿に着くと、テレビでは事故現場の映像が連続して放映されていた。我々が登った扇平山よりもかなり北東の方角だった。宿の人に道を教えてもらい、地図を調べて墜落地点を確認した。今朝明るくなってから入手した墜落地点に関する自衛隊の情報がなぜ間違っていたのか疑問が深まった。
 後で知ったことだが、防衛庁の捜索開始は日航123便の機影がレーダーから消えた12日の夜18時57分からわずか4分後であった。19時01分にはF‐4ファントム2機が、松永貞昭空将の指示で、茨城県・百里基地を離陸し捜索に向かっている。その後も19時30分ごろ航空自衛隊は、運輸省に対して「早く出動要請を出してほしい」と申し入れている。それでも運輸省が要請を出さないために、19時54分に百里基地救難隊のヘリコプターV‐107型機を「見切り発進」させた。運輸省は20時33分になって初めて航空自衛隊に対してだけ出動要請を行なっている。
 陸上自衛隊も20時00分には、群馬県相馬原の第12師団偵察隊と長野県松本の第12師団・第13普通科連隊の情報小隊の一部が出動態勢を維持して待機、出動要請を待っていた。東京空港事務所長は21時30分、陸上自衛隊東部方面総監に災害派遣をやっと要請している。
 何故このように自衛隊は、素早く積極的に捜索に参加したがったのだろうか。もっと不思議なのは、それとは対照的に、墜落地点の情報確認は遅く、全部で5回も出しているのだ。おまけに、その全てが間違っている。13日の朝、明るくなってからも誤った情報を流していたのだ。この原因はどこにあるのか。その時は疑問と憤りを覚えたものだが、「故意にしている」という確信にまでは至らなかった。しかし、間もなく防衛庁がわざとミス・リードしていたと確信するようになる。
 私たちは、翌日の計画について話し合い、この事故についての意見交換をした。しかし、墜落地点が判明し、4人の生存者がいたという事実以外、そのほかには細かい情報は、ほとんどわかっていなかった。
 しかし、奇跡的に生き残っていた4人の生存者から得られる情報が、きわめて重要であることは当然だった。夜も更けて、テレビには様々の評論家たちの推論が次々に開陳されていった。
 整備面に問題があったのではという報道がされていた。まだ何も解っていないのに勝手なことを言うなという反論の声もあった。少なくとも機体の破壊があったことだけは確実で、問題は機体破壊の原因がどこにあるのか、だった。設計上の問題なのか、整備不良なのか、乱気流や、空中衝突なのか。それが問題なのである。
 翌14日は日の出ととともに三国峠まで車で登り、そこから長野県と群馬県の県境の標識沿いに、尾根を歩いた。
 

地獄への道

 しばらく歩いた所にある小さな高台のような所から、谷を越えた尾根の上に煙が上がる事故現場がみえた。
 山の尾根の肩に機体が激突した跡が見られ、そこから北西の方角一面に燃料が飛び散り、煙が上がり山の木々が黒くこげているのが見えた。あの大きなボーイング747型機がどこにあるのかわからなかった。これまでの飛行機事故で見られた、墓標のように残されている尾翼部分もどこに行ったのか、全く見当たらなかった。



墜落した日航123便(WEBサイトより)

 「これは高速墜落だ!」と私は感じていた。速度が大きいと破片が小さくなる特徴がある。燃料の飛び散り方の激しさからもそう感じた。墜落の瞬間、搭乗者が受けたであろう、衝撃の大きさは想像を絶していた。この中で生存者がいたことは、奇跡としか言いようがなかった。
 上り下りの続く尾根をしばらく行くと、東側の沢に下る道が見つかった。急な坂を降り始めると、途中で湧き水があり岩の間から落ちる雫を水筒に受けて、水を補給しておいた。
 再び歩き始めると、突然目の前に人間の遺体が転がっているのが目に入った。遺体の少し先には木がなぎ倒され、金属片が地面に突き刺さっていた。
 鼻を押さえるほどの腐敗臭が激しかった。急な斜面を、遺体(肉片)や機体の破片を踏まないように気をつけながら下っていった。スキー場での経験から、傾斜は40度を超えていると思われた。足元は悪くすぐに崩れた。
 滑りそうになり、木から垂れ下がった蔓をつかもうとしたが、一瞬手が止まった。蔓だと思ったのは、木からぶら下がった人間の腸だった。
 思わず尻もちをついた。手に何か柔らかい物が触れた。人の手だった。肘から先しかなかった。
 上の木を見上げると枝には、人体の一部が中に入った破れたシャツのようなものがぶら下がっている。悪夢のような世界だった。
 その近くの枝には、ベッタリと血が付いた座席ベルトがぶら下がっていた。座席ベルトを座席に取り付けている金具は、ポッキリと折れている。衝撃の大きさを実感させる光景であった。
 手をついて起き上がると、2メートルほど下に見慣れた客席がシートの背もたれを前に倒した格好で、木の根っこに引っかかるように転がっていた。2席が続いた座席の一方は大きく曲がり原形をとどめていなかった。シートの前側に回って見ると、下半身だけの遺体が木の根元に転がっているのが見えた。下半身から数メートルほど坂の下の方に生えた木の幹に長い髪の毛が絡みつき、上半身と思われる部分があった。頭部は見えず、腕も肩のあたりしか見えなかった。
 近くの斜面から片足がつき出ていて、膝から下の部分が半分土に埋まっている。いや膝から下はなかったのかもしれない。そのうち奇妙なものが目に入った。遺体の背中から黒い紐のようなものが下半身のほうへつながっていた。何か椅子の中に入っている紐のようなものかと考えたが、端のほうは幅が広く真ん中の部分は細い一本の紐のように見えた。その紐は、壊れたシートにからみついている。
 この紐は、背中の皮であった。おなかの部分がシートベルトで切断され、内臓はなくなっていたが、皮膚だけは丈夫なために切断されず上半身と下半身を繋いでいたのだ。そのことを理解するためには、かなりの時間を必要とした。その上、切断された皮膚の下には小さな蛆が一面にうごめいている。
 頭の中が急に冷たくなるのを感じた。この遺体は遺族には絶対に見せられない。誰の遺体であれ、ほとんど正視には耐えられない、地獄そのものだった。
 

地獄を見ていたミッキーマウス

 ミッキーマウスの人形が、土もかぶらずに椅麗なまま落ちていた。東京ディズニーランドに夏休みを利用して、関西方面から遊びに来た子供の土産に違いない。このミッキーマウスは全く汚れが見られなかった。きっとこれは墜落まで子供の手にしっかりと抱かれていたのだろう。
 その近くには、べっとりと血がついたブレザーコートが斜面にそっと置かれたように広がっていた。
 さらに斜面を降ると少し開けた所へ出た。右の急斜面に木は一本もない。機体が切り倒したものであることは明らかだった。坂の中腹に長さが10メートルもありそうな、細く長い金属製の胴体の前後方向の構造物である縦通材がほぼ垂直に突き刺さっていた。周りに1メートル以上の木は残っていない。更地のようになっていたために異常な光景に見えた。その細い金属が、風に時々揺れていた。
 斜面は小さな沢で終わっていた。今では「スゲノ沢」という名前で知られているところだ。当時は誰も名前など知らなかった。事故当時、狭い沢は、ゴミ箱をひっくり返したように大小の破片、乗客の手荷物などで埋まり、その間から遺体が所々に見えていた。後部胴体の一部がある程度大きな残骸として残っていた。通路に敷かれている、青いカーペットに覆われた床板が、谷の斜面に立てかけられるような状態で残されていた。トイレの便座が転がっていた。それが不思議な現実感を感じさせた。
 この谷間に生存者が埋まっていたのであった。
 私が立っているすぐ近くで、子供の遺体が発見された。首には黄色い酸素マスクがゴムバンドで絡みつくようにぶら下がっていた。体にはほとんど損傷が見当たらず、眠っているような感じであった。事故後、しばらく生存していたのではないかと思わせるきれいな遺体である。
 私は事故の概要を掴む為に、主な構造物がどこに散らばっているのか調べるつもりだった。しかし、事故現場はあまりにも広く、急斜面が多く、遺体収容の自衛隊員や警察官まで現場に入り乱れ、調査するのは困難だった。
 それでも機体の主な部分がどこにあるのかは、ようやく確認できた。エンジンは谷底のほうにあったことを、遺体収容作業をしていた自衛隊員から教えてもらった。事故機が会社に社用無線で「R5ドア(右側最後部のドア) ブロークン」と知らせてきた件のR5ドアは墜落現場で発見された。窓パネル(窓ガラス)はなかったが、かなり変形しているものの、ドア自体は墜落現場で確認できた。問題は窓パネルのガラスが何時破壊したかである。仮に高高度を飛行中に空中で窓が破損すると大量の空気が機外に流出するために、機内には突風が吹きぬけ激しい音を発する。窓ガラスがどこで破れたか、この点の確認が必要だった。生存者が風の音を聞いているか、突風を感じたか否かが鍵となる。音と風がなければ墜落時の破壊であることが確認できる。
 

機長の姿見えず

 1時間以上も現場にいたためか、腐敗臭はほとんど感じなくなっていた。事故機が激突したと思われる付近に、前車輪が残されていた。事故機の前車輪とその少し上の方には、操縦席の床に当たる、大きな残骸が転がっていた。
 付近には操縦席にある計器盤の破片や、酸素マスク用のパイプに使われているコイル状に巻かれたワイヤーが燃え残っていた。さらにその周辺には、機長席で機長になるための実地訓練として操縦をしていた副操縦士が、教官機長から受けた注意事項を記録したメモが散らばっている。まだ所々から煙が立ちのぼっていた。
 この副操縦士の遺体は座席に座ったような姿勢で、黒く焦げて残っていた。機関士の遺体は腰の部分だけが燃え残っていた。この場所に現在は3人の墓標が並んで立てられている。
 しばらく探したが、機長の遺体は全く確認出来なかった。
 操縦席が激突した地点から少し坂を降った付近には、まさに肉片としか言いようのない遺体が一面に散らばっている。道(とは言えないような人の歩いた跡)の脇には、客室の壁板の上に肉片が山のように積み上げられていた。通路を作るために1ケ所に集めたのだろう。
 機長の遺体は、事故からかなり経ってから、下顎の骨の半分が発見された。夫人にしても、それを夫の遺体だと確認する根拠がなく、事故後16年間というものどこかに一抹の疑念を持ちながらも、無理やり夫の遺体だと信じこもうとしたように見受けられた。
 ところが、事故から17年目の2002年の8月12日、私たちは例年どおりの慰霊登山を終えて下山する途中で、やはり慰霊登山に参加していた事故当時遺体の処理に当たった医師の一団と会うことが出来た。
 医師のうちの一人が、「機長の遺体を確認したのは私です。歯型からぴったりと確認できました。間違いありません」と断言した。
 この言葉を聞いて、家族は未だどこかに残っていた「これが本当に遺体なのか」という疑念がはれたように救われた顔になった。
 他にも同じように遺体確認に対して一抹の不安を抱いている遺族がいるような気がする。
 私と同僚たちが事故現場に入った目的は、まず事故の原因とかかわりがあると思われる情報を収集することだった。次に捜索救難体制は機能していたのか、さらに犠牲者の遺体の状況などから、事故が発生した場合にどうしたら人的な損害を最小限に抑えることが出来るか、これらについての情報を集めることにあった。
 私は事故の原因や背景をなすと思われる事実・情報を集めることに集中していたためか、人の血が流されている光景を目のあたりにしながらもあまり精神的な動揺は受けていなかった。実は私にはパイロットになる前に獣医の勉強をしていた経験があるため、ある程度血には慣れていた。同行した佐藤は、顔色が青ざめ、話し掛けてもあまり口を開かなかった。少し離れた所では、遺体収容のために毛布で遺体を包む作業をしていた自衛隊員が、木陰で鼻と口をおおっていたタオルをはずして、嘔吐している姿も見られた。
 私は操縦席の計器類の破片が散乱している付近で、機体の破片などの部品番号を記録しながら、事故原因について、つとめて冷静に考えることだけを心がけていたように思う。
 この地獄絵のような事故現場で、自分でも不思議なほど感情が抑えられていた。いや、感情を抑えられなければ、そこに立っていることさえも難しかったのではないか。
 

生存者発見

 ここスゲノ沢はその当時は、残骸と多くの遺体で埋まり、沢の底は見えなかった。その中に、少し尖った岩が頭を出していた。岩の頭には血の跡が光って見えていた。この岩の周辺部は、残骸の中に穴が掘られたような状態になっていた。ここに4人の生存者がいたのだ。
 しかし生存者の話によると、4人以外にもかなり多数の生存者が近くに居たことが明らかにされた。飛行中の異常発生から、32分間、不安定な飛行の恐怖を体験し、墜落からおよそ16時間後にようやく救出されるまでに、生存者は4人になってしまっていたのだ。
 私が遺体の搬出や残骸の状況を見ていると、少し後ろのほうに、二人の自衛隊員が腰を下ろして休んでいた。二人とも疲れ果て、黙ってうつむいている。
 私はその近くまで行き、遺体や破片のないことを確認してから、腰を下ろし、「ご苦労様です」と声をかけた。彼らは頭を上げて軽くうなずいてくれたが、言葉はなかった。
 「暑いうえに臭いはこたえますね」
 と私は続け、話を聞いた。
 彼らは救出の様子を少し離れたところからカメラマンなどをあまり近づけないようにして見ていたそうだ。
 「ヘリポートまで運び上げるのは手伝いましたが、あの坂ですから大変でした。残骸を寄せ集めて作った担架で、運んだのですが、消防団の人は鉈や鋸で木を切って上手く道を作っていました」
 「救出に直接立ち会われた方がいたらぜひ教えてください」と聞いたが、「あまりマスコミの人とは接触しないように、言われていますから……」と口を濁した。
 「すみません、私もなくなったパイロットたちの同僚でして、どうしても救出の状況を知りたいのです。マスコミではありません」
 そう言うと、自衛隊員は急に安堵の表情になり、言葉遣いも友だちに話すような感じに変わっていった。
 

遺体の脈をとる

 「そうでしたか、てっきりマスコミの人だと思って。実は子供を救出したTから詳しく話を聞いています。発見したのは警察のレスキューの人か消防だと言っていました。同じ隊員のTは、3人目に救出した女の子を引っ張り出したそうです。機体の残骸の中に埋まっていたそうです」
 「どのあたりですか?」
 「そこの石のある辺りでした。あの近くに、6畳ぐらいの範囲に4人ともいました」
 「助け出したとき、どんな具合だったのか、聞かれましたか?」
 「波板のようなプラスティックと金属の射り合わせた板、ハニカムと言うのですか、その破片の下にいたそうで、その子をお父さんがかばうように覆いかぶさっていたそうです。女の子は意識もはっきりしていて、手がお父さんの下になっていて痛いといっていたそうです。親はとっさに子供をかばったんだろうなと話していました。この子が足を動かしていたので、生存者がいることがわかったといっていました。何か動くので近づくと、もう一人の生存者が手を振ったので、その人が先に運び出されたそうです」
 「その子は怪我をしていなかった?」
 「運ぶときに見たら、手を少し怪我してたかな?足にも怪我をしていたと思うけれど、よく覚えていない。あちこちに小さな傷はあったと思うけど、はっきりとは覚えていません」
 「そのほか何か話題になりませんでしたか?気付かれたことはありませんか、何でもいいのですが?」
 「そう言えば、お父さんも生きているのではないかと思って、脈を診たけどわからなかった。お父さんの血色がよかったので、別の隊員にも見てもらったんですが、亡くなっていたと言ってたことが気になったね」
 「事故のときなどには死んでいるかどうか、一体ずつ、軽く体をたたいたり、声をかけられると思うのですが、生きていると思われるような遺体はありませんでしたか?」
 「そうですね、頭や顔のない、はっきりと死んでいることが判る遺体が多かったですが、中にはきれいなのもありました」
 「そう言えばさっきどこにも傷のない子供の遺体が運ばれていましたね。あのようなきれいな遺体はほかにはなかったですか?」
 「Tも言っていましたが生存者の周りにはきれいな、傷の少ない遺体が目に付いたと話していました。私も何体か運びましたが、特に子供にはきれいなのが多かった気がします」
 「救助が早ければ、助かった人がいたとは感じませんでしたか?」
 「僕は医者じゃないから解らないけれど、血色の悪くない遺体があったことは確かです。僕の立場で言っていいのか判らないけれど、墜落して何時聞か、1〜2時間は生きていた人はいたと思う。時間はよく解らないけど、そんな気がします。手袋をしていたから暖かさはわからなかった」
 こう話してくれた自衛隊員も、疲れきっていてのどが渇いていたようで、水筒の水を飲んでもらったが、これ以上は無理をいえなかった。
 それにしても救助がもっと早ければ。事故直後には生存していたかもしれない子供のことを考えると胸が痛かった。
 

救助が早ければ

 この自衛隊員の話に出てきたT氏が救出したのは、川上慶子さんだった。
 事故から20日あまりすぎた頃、「赤旗」新聞の記者が慶子さんのインタビュー記事が載っている8月19日付の赤旗を持って取材に来た。
 そこには驚くべき内容が記されていた。群馬県警が事故直後の8月15日、慶子さんに、国立高崎病院で行なった事情聴取の内容だった。このとき立ち会っていた身内の人は警察官と医師から、慶子さんの話を口外しないように口止めされた。
 
 「墜落する前にはお父さんが『慶子、頭を下にしろ』と叫んで、慶子さんと妹の咲子さん、それにお母さんの3人を、両手を広げて抱えて守ってくれました」
 「落ちたとき、『お父さん、動けないよお』と言うと、お父さんは『お父さんも身動きできない』と言った。その後で『お父さん、痛い』と言ったときにはそのまま動かなくなった」
 「咲子の名前を呼んだら、返事があったので『からだ動くの?バタバタしてごらん』と言うと、手足をバタバタさせた。『お母さんはどうや』というと『ここにいる』と言うから『さわってみ』と言うと、咲子は『お母さん、冷たい』と言い、『姉ちゃん、苦しいよお。息が出来ないよお』と言うので、私は『穴を開けなさい。また、元のようにみんなで仲よくくらそう』と言ったけど、咲子はしばらくしてゲロゲロ吐き出して動かなくなり、お父さんも冷たくなった」
 
 この慶子さんの言葉から、私はなんともやりきれない気持ちになった。何故もっと早く救助が出来なかったのだろうか?何故あんなにも墜落地点の確認が遅れたのだろうか?
 のちに発表された事故調査報告書の中でも最大の問題点のひとつとして指摘されるのが、「4名の生存者以外は、即死あるいはそれに近い状態であった」という部分だ。
 川上慶子さんについては、このように父親と妹さんが生存していたことが確認されている。落合さんも、墜落後、周りに何人もの声や息遣いを聴いていたと述べている。それをどうして即死あるいは即死に近いと、報告書は曲げて書くのだろうか。事実が書かれていない報告書など世界広しといえども、日本以外その例を聞かない。

 報告書は将来の改善のために書かれるもので、責任逃れのためのものではない。事故調査と犯罪捜査は、並行して進められてはならない。責任追及を同時に行うと、事故にかかわった当事者は、罪に問われることを恐れ、基本的人権である黙秘権を行使するため、真実が明らかに出来ないことになり、事故調査の意味がなくなる。これは、世界の航空事故調査の常識なのだが、日本だけはこの常識が通用しないことになっている。
 

置いておかれた生存者

 多くの人の協力で救出された4名の生存者たちも、ヘリコプターがなかなか来なかったために、現地の急造のヘリポート付近で、2時間近くも待たされた。私自身も当時現地にいた複数の人から、怒りの声を聞いた。8月15日付、地元の上毛新聞にも、午前11時に黒澤さんらは慶子ちゃんを担架で尾根の頂上に運び上げたが、その後、約2時間、自衛隊のヘリが到着せず「早く連れて行ってくれないと、死んでしまうのでは」と気をもみ、午後1時過ぎになって全員が自衛隊のヘリで病院に収容されたということを記事にしている。
 この記事のほかにも、私は現地の猟友会のH氏が「必死に運んだのに現地に2時間近くも置いていたことに怒り、隊長に食って掛かった」との話を聞いた。
 4名は遺体の山の中で16時間も頑張っていた重傷者である。それを2時間も放置したとは、いったいどういうことなのだろうか。



救助へりに収容される川上慶子さん
(WEBサイトより)


  私の手元には「上野消防団活動記録」という分刻みで残されたメモがある。
 それによれば、
11時28分   生存者4人確認(吉崎博子、吉崎美紀子、川上慶子、落合由美)とニュースが流れる。
11時32分   消防本部次長より上野村事故対策室へ患者を藤岡の病院へ収容するよう連絡の電話が入る。
12時03分   生存者4人、ヘリコプターで藤岡市立第一小学校へ着陸予定。
多野総合病院へ収容するが、救急車が目印になるため、第一小学校で待機する件、藤岡消防署に連絡。
12時47分   運輸大臣と消防庁長官が総合グランドに13時11分頃到着するとの連絡が入る。
12時53分   墜落現場との無線交信不能。
13時21分   警察無線より、生存者全員の収容がまだ済んでいない模様との情報が入る。
13時28分   生存者を多野総合病院へ収容する件は、警察が直接連絡するので藤岡消防署の救急車はいつでも対応できる状態で第一小学校で待機をするよう再度連絡。
13時30分   墜落現場より生存者4名を乗せたヘリコプターが、仮治療を受けるため、上野村のヘリポートに向け出発。
13時57分   東京消防庁のヘリコブターで2名、自衛隊機で2名を乗せ藤岡へ出発したとの連絡が入る。
14時08分   藤岡第一小学校にヘリコプターが到着との連絡が入る。

 以上の経緯が記録されている。生存者を現場から下ろすために使われるべきヘリコプターが、運輸大臣と消防庁長官の移動に使われた可能性が大きい。当時、そんな声が現場では囁かれた。ヘリコプターは遺体の運搬に使用されていたため、汚れがひどく腐臭もはなはだしかった。きれいな機体は限られていたのだ。群馬県警は、生存者などより大臣に不快な思いをさせたくなかったのかも知れない。
 

遺された遺書、初めての証言

 日航123便の墜落事故においては、きわめて異例のことだが多くの乗客の「遺書」が残されている。
 ここでは、それらの「遺書」についてはその詳細は割愛させていただく。
 他方、四人の生存者の証言についても、かなりの証言が得られている。まず事故から4日たった16日、多野総合病院に収容された落合由美さんが、病院職員を通じて初めて報道陣のインタビューに答えている。テープに録音された音声だけの回答だった。
 
いまの体調や気分は?
 気分は、いいです。腰が、ちょっと痛い……
異常が起きたときに機内で絶叫や悲鳴はありましたか。
 はい、ありました。子供たちは『お母さん』と言っていましたし、パニックでしたので『キャー』という悲鳴ばかりです。
ダッチロール(機首の横揺れと左右の傾き)になったときの様子は?
 みんな、ベルトをしめ、着席してスチュワーデスの指示に従っていました。
救命胴衣をつけるよう乗客に指示があったとき、乗客の様子は?パニック状態になっていましたか。
 はい。自分の救命胴衣がどこにあるのか分からない方が多くて、まず、探すことと、つけ方も『安全のしおり』というパンフレットを見ながら、落ち着いて着けてはいらっしゃいました。けれども、なかなか……。自分で着け終わったら、まわりの人を手伝ってあげるという感じでした。
乗客はその時、言うことを聞いてくれましたか。
 みんなスチュワーデスの指示に従っていました。
乗客からスチュワーデスに何か求めたことは?
 救命胴衣がどこにあるのか、とか、酸素が出てない、というのがありまして、酸素はマスクを強く引っ張ってくれ、とスチュワーデスから言われていまして。救命胴衣はちゃんと自分の座席の下にあるからということを、スチュワーデスも近くの席まで行けませんですけど、遠くから叫んでいました。
急降下の時、飛ばされたり、手荷物が吹き飛んだりしましたか。
 衝撃防止姿勢で自分の足首をつかんで、頭をひざの中に入れていましたから。下を向いていたので、まわりの状況はよく分からないんですけど、みんなその格好でいたようです。
パーサーの非常事態の放送はどういうものでしたか。
 パーサーからはなかったんですが、酸素マスクが出て来た時に、テープにあらかじめ入っている『ただいま緊急降下中。マスクをつけて下さい。ベルトを締めて下さい』というアナウンスが自動的に流れるようになっているんですけど、それが流れまして、スチュワーデスから、しばらくして『救命胴衣をつけて下さい』ということと、『酸素が出てない人は思いっ切りマスクを引っ張って下さい』ということと、『管制塔からの交信は受け取れていますのでご安心下さい』というアナウンスがありました。
墜落した時、どんな気持ちでしたか。
 助からなければいけないと思いましたけど、体が動かなくてどうしていいか分からないという状態で……。
なぜ自分が助かったと思いますか。
 分かりません。ウーン。
墜落後、眠り込むまで、どんな気持ちでしたか。
 口の中に砂が入って来るので息苦しくなるから、自分の顔をちょっとでもそういうことがない方向に動かすのに精いっぱいで……。あとはのどがかわいて。ヘリコプターの音がして、ずっと手を振っていたのですけど。気が付いてもらえなかったのか、ここまで来ることができないのか、と思いました。
翌朝、救急隊員に起こされた時の気持ちはどうでしたか。
 『大丈夫だぞう』というふうに叫んで下さったんですけど、もう体が痛くて、本当にこのままどうなるんだろうか、まだはっきり自分では分からない状態でした。

 その3日後の8月19日、川上慶子さんのインタビューが国立高崎病院の看護婦長を通じて行われた。生存者4人の中ではただ一人テレビカメラが病室に入り、笑顔が現れる瞬間もあった。

よく眠れた?今朝のごはんはおいしかった?
 はい、眠れた。(食事は)おいしかった。
飛行機のことを話してくれる?
 北海道から東京、東京から大阪に飛行機で行き、叔母の所に寄ることになっていた。
飛行機の中で音がした時、何が起こった?
 左後ろの壁、上の天井の方が『パリッ』といって穴があいた。一緒に白い煙みたいなものが前から入ってきた。
その時、何か考えましたか。
 怖かった。(しばらく考えた後で)何も考えなかった。

 8月24日付「日刊スポーツ」紙には、川上さんが付き添いの関係者に語った証言が、掲載された。

 (墜落後)気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。
 手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。自分の体中を触ってみても、みんな付いており、「生きている」と思った。みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返事した。母は答えなかった。「手や足を動かしてみ」と言われて足をバタバタさせると、靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。足首がヌルヌルしていて「血だな」と思った。
 父は私の右わきから下半身に乗っていた。手足は動いても体は動かない。「助けて」と父に言うと、「お父ちゃんも挟まれて身動きできない。助けてやりたいけど、どうしようもないわなあ」と言われた。
 父が動くと、おなかが死ぬほど苦しかった。「お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い」と言っているうち、父はそのまま動かなくなった。
 咲子に聞くと「お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる」と答えた。左手をのばして触ってみるとやはり冷たかった。
 その後、咲子と二人でしゃべった。咲子は「苦しい、苦しい」と言った。「足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ」と言うと妹の足の音がした。
 妹はそれでも「苦しい、苦しい。みんな助けに来てくれるのかなあ」と言うので「大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう」と答えた。
 突然、咲子がゲボゲボと吐くような声を出し、しゃべらなくなった。一人になってしまったと思い、その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした。
 ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。目の前を覆う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。「生きているんやな」と思った。何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力した。
 父のシャツのタオル地が見え、腹の上に乗っている父を左手で押し下げた。そのとき、父のだと思って触った手を、上の方にたどると自分の右手だと分かった。(右手神経のマヒ症状)
 顔の上の部品の一部をつかんで横からはい出そうとしたが、二度三度するうち部品がずり落ち、顔とのすき間が狭くなった。そこで今度は両足を当てがい押し上げようと踏んばった。
 「中学になってから慶子は根気がなくなった」と、日ごろから言われていた言葉を思い出し、頑張った。
 人の気配がして「生きている人は手や足を動かして」と声がした。足をバタバタさせると人が近寄って来た。ボサボサの頭、ショートパンツで勘違いされたらしく、「男の子だ!」と言われた。

 8月21日、多野総合病院で、吉崎博子さんのテープによる証言が公表された。実兄の原靖雄さんに話をした録音である。
 すでに、親類へ話した内容のいくつかは漏れ伝えられていた。
 夫の優三さん(38歳・死亡)が、機内で「眼鏡をかけたままではけがをする」と気遣ってくれたこと、墜落後、うとうとすると長女の美紀子ちゃんが「ママ眠っちゃだめだよ。死んでしまうよ」と励ましてくれた、などである。

機内の様子は?
 私は眠っていたが、ドーンという音と同時に白っぽい煙と酸素マスクが出てきた。
壊れたところは見なかったか。
 全然見ない。白い煙だけで見えなかった。
乗客の様子は?
 酸素を吸うので精いっぱいだった。(酸素マスクは)数は十分だったと思うけど、われ先に取り合っていた。
子供の様子は?
 ゆかり(次女=死亡)は気分が悪く、マスクをしながら、『あげそう』といった。ゴミ袋をあてると、少しもどして、まっ青で気を失った。
墜落の時の気持ちは?
 ジェットコースターに乗ったような感じだった。
グルグル回ったりしたか。
 回ったりしない。景色が次々、変わっていった。充芳(長男=死亡)はしっかりマスクをあてていた。お父さんが『子供がいるから、しっかりしろ。うろたえるな』と言った。
墜落の様子は?
 何回かに分けて落ちていった。これが結構長かった。耳鳴りがしてよく聞こえなかったが、機内では赤ちゃんの泣き声がした。
機内の放送は?
 『救命胴衣をして頭を両足の中に入れて』と放送があったが、美紀(長女美紀子ちゃん)は救命胴衣をつけられなかった。
墜落の時、何を考えたか。
 絶対に無事に着くと思った。どこかが故障したぐらいに思った。スチュワーデスは『大丈夫、大丈夫ですから』と言っていた。不時着する覚悟でいた。
落ちた時の様子は?
 美紀の声だけ聞こえた。それも夢かもしれない。メガネをはずしていたので、見えなかった。
今の気持ちは?
 元気になりましたから、頑張って生きます。
 

遅れた救助と素早い事情聴取

 私のメモには「11時生存者発見、12時仮設ヘリポートヘ、ヘリポートで1時間30分以上待たされ14時15分ごろやっと病院へ搬入」と記録されている。結局、生存者発見から病院搬入まで3時間余りを要したことになる。
 生存者は、骨折、ショック症状、頭部の外傷など救急治療を必要とする状態であった。その生存者をヘリポートで1時間半も待たせたのはどうしてなのか?
 
 翌1986年の4月25日、この事故に関する聴聞会(現在は意見聴取会)が開かれた。
 その数日後、私の家の郵便受けに、茶色の大型の封筒が二つ折りにして無理やり突っ込まれていた。
 差出人の名前は無かった。不審に思いながら、かなり重い封筒の封を開いてみると、あの事故の4名の生存者に対する事故調査官と思われる人のインタビューの記録であった。調査官の名前は、記載の無いものもあるが、防衛庁航空自衛隊の小原甲一郎医官が質問しているものがほとんどであった。その内容を同席した運輸省の事政調査官が筆記したと思われる。
 驚かされたのは、落合さんに対する最初のインタビューが行なわれた時刻である。このメモの冒頭には、「昭和60年8月13日15時頃」と記載されている。生存者の病院への搬入は、14時15分頃とされていたので、もしこの文書が本当に政府の内部資料のコピーだとすれば、やっと病院に収容されるや、そのわずか45分後には事情聴取が行なわれていたのである。あまりにも遅い病院への輸送、あまりにもはやい事情聴取。
 この時間の差に私は疑問を持って再度関係者や当時の資料を調べてみた。多少、時間のずれている記録は見られたが大筋では一致していた。当時、救助活動の中心であった上野消防団と、藤岡消防団の関係者の話や記録でも同じであった。
 この救助の遅れと事情聴取の素早さが、その時、強い印象となっていたため、今でもはっきりと私の記憶に残っている。
 現場にいたある消防団員は、「最初は医師・看護婦は現地に送り込まれていなかった。生存者が発見されてから急にあわてた。生存者に対する準備ができていなかったような気がする」と話していた。
 はじめから生存者がいないと決めてかかっていたのではないかと私も感じた。
 地上の現場から、空の現場に目を転じてみよう。
 日航123便が東京管制部のレーダー上から姿を消したのは、8月12日の18時57分、羽田から方位308度(北を0度として時計回りに360度で表示した方位、西北西に近い)60海里(約110キロ)付近、そのときの高度9700フィート(約2950メートル)、速度は300ノット(時速556キロ)と発表されている。この位置は墜落直前の位置で、実際の墜落地点の約7キロ北北東に当たる。
 この情報が東京救難調整本部(略称 東京RCC)に伝えられたのは18時59分であった。そのわずか2分後、運輸省側からの出動要請も無い段階で、19時01分に航空自衛隊の百里基地から、松永貞昭空将の指示でF‐4ファントム2機が発進した。民間航空機がレーダーから消えた場合に、自衛隊がこれほどすばやい反応を示した前例は聞いたことがなかった。1966年英国BOACのボーイング707型機が富士山麓で空中分解して墜落した事故のときも陸上自衛隊員が大量に動員されたが、今回は航空自衛隊の反応ははやく大きかった。
 これと並行して、防衛庁作戦室では、航空幕僚副長、防衛部長も参加して対策会議が開かれていた。また陸上自衛隊でも作戦室で、防衛部長の出席のもとでこの事故に関する打ち合わせが行なわれた記録がある。
 防衛庁がとったこの事故へのきわめて素早く、大掛かりな初期対応にはそれなりの理由があったことは確かである。
 この日、相模湾上では海自のミサイル自衛艦「まつゆき」の試運転が行なわれた。123便はその真上を飛行した。「まつゆき」が試射したミサイルが、123便を直撃した可能性に海幕は恐れおののいていたという「怪文書」が出まわっていた。
 防衛庁から発表される墜落地点に関する情報は、翌日になっても正確な位置は発表されなかった。しかし実際には自衛隊のヘリが正確に現場上空に到達していた。朝日新聞社のヘリコブター「ちよどり」が現場上空にいた時、その下には2機の自衛隊ヘリが存在していたことが確認されている。12日21時すぎのことだ。

 

現地に最初に入ったのは一般人

 墜落地点に関する情報を、当時現地で捜索に協力した猟友会や消防関係の人たちからの話と朝日新聞社が出版した記録資料などをもとに、時間を追って整理すると次のようなことに気がついた。
 山岳地帯で、墜落現場をいち早く発見するには、空からの特にヘリコプターからの位置情報に頼るしかない。この事放では墜落地点は人家のほとんどない山の中であり、発生してから間もなく日が暮れているために、地上からの捜索は時間を要すると思われた。しかし、捜索隊が入った13日午前9時前に、大学生をまじえた4人の一般人が墜落現場に入って下山してくる途中で、捜索隊と遭遇している。この4人以外にも、親子連れの3人が朝早く下山してきていることを村人は確認している。
 学生や一般人が到着できたというのに、何故、救助隊が夜のうちに現場に入れなかったのか。この事放で、レーダーから機影が消えた地点は、そこが直ちに墜落地点とは断定できない。飛行コースが山の陰になることも考えられ、飛行高度が低くなるとレーダーには捉えられなくなるためである。しかし普通はその周辺と考えられ、今回の結果を見れば明らかな通り、やはりかなり近くであった。レーダーから消えた地点から飛行していた方向を加味して考えれば、捜索すべき範囲はおのずと限られてくる。
 したがって、機影がレーダーから消えた地点を中心とする空からの捜索情報、特にヘリコプターからの情報に期待がかけられることになる。
 飛行機、ヘリコプターからの墜落地点に関する情報は少なくなかった。
 航空機による位置情報のうち私が知り得たものを、時系列に並べ、まとめてみた。

8月12日
@19時15分    米軍輸送機C,130型機より、墜落機のものと見られる煙を発見、位置は横田タカンから305度、34海里(およそ北西の方角、63キロ)という情報。事故現場のやや北寄り、諏訪山に近い。
A19時21分 航空自衛隊のF‐4ファントムによる計測。横田タカンから300度、32海里で火災発見。この位置は三国峠の東側で埼玉県内。
B20時42分 航空自衛隊百里基地所属のV‐107型ヘリコプターが現地上空に到着。位置は横田タカンから、299度、35・5海里と報告。この位置は、ほぼ正確に墜落地点と一致している。
C20時50分 @の米軍輸送機に誘導され、厚木基地から飛来した救助用ヘリが墜落地点上空に到着。現場上空は煙が多く、少し離れたところにロープで降下しようとしたところ、横田基地司令部より、中止命令が出され基地に引き返した。
D21時10分 朝日新聞社のヘリコプター「ちよどり」が現場上空に到着、幅2キロにわたって広がる火災を確認。位置は、羽田VOR・DMEの304度、60海里であった。この通報された位置も正確に墜落地点と一致。現場上空には他にもヘリコプターが飛行しており、数機の飛行機、ヘリの衝突防止灯を確認している。
E23時17分 長野県の信濃毎日新聞が、自衛隊のヘリに位置を確認したところ「群馬県の小倉山と品塩山を結ぶ線らしい」との情報を得た。墜落地点よりかなり北側
F23時35分 朝日新聞社のヘリ「ちよどり」は御座山北斜面が墜落現場でないことを確認し、再び墜落現場上空に到着し、21時10分の計測が正確であったことを確認した。「ちよどり」のさらに下には自衛隊機と見られるヘリが飛行していたのが確認された。
8月13日
G4時39分    航空自衛隊ヘリ、V‐107型機は、明るくなってから墜落地点を確認。位置は扇平山の北1キロの地点と報告。この位置は誤っている。扇平山は頂上のさらに北には2つほどピークが見えるところで、上空からは頂上が確認しにくい山ではある。墜落地点より南に3キロずれていた。
H5時00分 航空自衛隊ヘリ、HU‐1が墜落地点は三国山の北西約2キロと報告。
この位置はほぼ墜落地点と一致。
I5時10分 陸上自衛隊ヘリOH‐6が機体を確認。位置は「御座山の東5キロ」と報告。実際の墜落地点から北西に5キロも離れていた。明るくなっており、朝日新聞社のヘリが夜間に正確に確認しているにもかかわらず、大きく外れている。

 ここで出て来る「タカン」は主として軍事用に使用されているものである。飛行機の計器に無線局からの方位と距離を示す設備で、横田タカンは横田にある局を指す。横田から、方位を磁石の北を0度として、時計回りに360度の数字で示す。東は90度、南は180度、西が270度になる。距離は一般にはあまり馴染みのない、「海里」で示される。すでに書いたように、1海里は1852メートルである。VOR・DMEも機能的にはほぼ同じもので、方位と距離を計測することが出来る。こちらは主として民間機で使用されている。
 なぜか事故直後からしばらくの間、タカンによる位置情報は不正確だという誤解が広がっていた。タカンによる情報も実際に地図上に書き込んでみると、長野県の御座山のほうまで誤差があるわけではない。ほぼ実際の墜落地点の位置と一致している。軍用のヘリコプターであれば、日航123便の機影を最後まで追跡していたので、嶺岡山の捜索レーダーによる位置の測定と併用すればかなり正確に位置は測定出来たはずである。

 防衛庁は墜落から35分ほど過ぎた19時30分ごろには、米軍からかなり正確な墜落地点の情報を入手していたといわれているにもかかわらず、墜落地点に関する防衛庁情報は、夜が明けて明るくなってからも混乱していた。
 他方で、上記Dに示したように朝日新聞社のヘリが、墜落から2時間あまり経過した21時10分には、正確に墜落地点を確認し写真撮影もしていて、これと同じ頃自衛隊のヘリも現地上空を飛行していたことが朝日のヘリコプターに搭乗していた記者2人によって目撃されているのである。
 さらには、この20分前には米軍の救助ヘリがロープを使用して救助作業を開始しようとしていたことも、後に明らかにされるわけで、少なくとも事故から2時間あまりの現地では救助を開始できる状態にあったのだ。ところが米軍による救助は「日本側が、現地に向かっているから」という理由で、中止命令が出されてしまったのである。

 生存者の話では、地上では救助を待ちわびて、「早く来て!」と必死の叫び声を上げていた生存者がいたというのに、救助は中止された。
 地上からの墜落現場に関する情報は、なぜか出所不明のものだけが信用され、正確に墜落地点を示していた航空機情報は、参考にされなかった。地上からの正確な情報と見られる、埼玉県警と長野県警のパトカーからの目撃情報は無視されていた。
 むしろ、この情報の20分後から、急に御座山情報が強調された。日航も、航空局長もこの御座山北斜面情報に急に引きずられ、それによって、それまで御座山説に否定的だった、朝日新聞の情報までが長野県側に引き戻されていた。
 米軍横田基地所属の米軍輸送機C・130が、墜落現場に最も早く着いていたことはすでに書いたが、墜落から20分も経たない19時15分頃、事故機の煙を発見し非常に正確な位置を報告していた。横田タカンから305度、34海里、実際の事故現場よりやや北寄りである。
 この情報は、防衛庁に伝えられたが、なぜか無視された。

 
 当日、この飛行機に乗り組み、ナビゲーターを務めていたアントヌッチ米軍大尉(当時)は、米軍準機関紙の「星条旗」紙(太平洋版・1995年8月17日付)に手記を掲載し興味深い証言を残している。その中で、
 「日航123便の墜落は、本当は2つの惨事だった。第1は、墜落の衝撃によって命を奪われた人たちの死であった。第2は遺体回収を手伝った医師たちによって言いあらわされた。医師たちは、もし救助がもっと迅速にやってきたならば、負傷が致命的ではなかったかもしれない人々を発見していただろう、と語っていたのである。
 一人の内科医の言葉で、私は骨の髄まで震え上がった。『もしも発見が10時間はやければ、われわれは、いっそう多くの生存者を見出すことができたであろう』と彼は言った」
 
 こうした手記をどういう経緯でアントヌッチ氏が書くことになったかは詳らかではない。ともあれ、この記事を読んだ遺族の川北字夫氏がアントヌッチ氏に連絡をとった。以下は、川北氏がアントヌッチ氏と手紙、ファクスでやり取りした「私信」の一部である。
                           
    川北 1996年8月の上野村でのシンポジウムに招待したいがどうか?
アントヌッチ招待は光栄だが「職業的責務」のため出席はできない。だが、自分の体験に関する以下の説明を行事にて発表され利用されても結構。
*私の体験の記事を日本人が目にするとは予想していなかった。
*私は救援措置で何かが間違っていたという確信を持っている。
*当時私が報告した現場位置測定が不正確だったという記事を読んだが、今でも誤差1マイル以下で正しかったと確信している。
*1点だけ私の誤りを訂正したい。当時自分が電波誘導したヘリは厚木基地の海兵隊ヘリではなく、キャンプ座間の米陸軍ヘリの間違いだった。
*現場は急峻な地形で救援活動に危険を伴うことは認めるが、それでも救援隊の現場降下があれほど遅れたことには疑問を感じる。
*本件における救援努力とそのあとの出来事は緊張状態を増す結果にのみ終わり、今も私の心を乱している。
    川北 我々の目的は緊張状態を増すことではなく、肉親の死の真相解明と将来の墜落事故における生存率向上への寄与であることを理解して欲しい。その上で以下の質問に答えて欲しい。
横田の米軍ヘリに夜間現場に降下する能力はあったか?
アントヌッチ ヘリの装備については断言できないが、横田のヘリはサーチライトを装備していた。
    川北 「夜間現場に近づくのは不可能だった」と主張するのは日本人か米国人か?
アントヌッチ 「ジャパンタイムズ」紙の記者から当時の自衛隊中部航空作戦司令官のオオナカ・ヤスオ氏が「夜間現場へのリペリングは危険と判断し断念した。米軍でも不可能だったろう」と主張していることを聞いた。
    川北 「森林進入装備」とはどんなものか?
アントヌッチ 特殊な防具で森林地帯への降下を可能とする装備。自衛隊もこの装備を保有していたものと確信している。
    川北 95年9月25日放送のテレビ朝日「ニュースステーション」に元航空自衛隊中部航空方面司令官・松永貞昭氏が出て、あの夜の現場への降下は「自殺行為」と断言している。
アントヌッチ 「リぺリング」とは滑車を利用したロープによる降下のこと。私の見た新聞報道では自衛隊による最初の現場降下は13日午前7時45分とある。日の出はそれ以前のはずなのに、なぜ日の出と同時に降下しなかったのだろう?また、朝まで何の対応もしないと決定したのは誰なのか?
 私のTACAN測定は間違いなかったと確信している。もし朝まで救援活動が試みられなかったのなら、少なくとも飛行機1機を現場上空に張りつけるべきだったと思う。
 私は以下の点についてずっと疑問に思っている。すなわち、自衛隊は残骸の位置を知っていたのだろうか?もし知っていたならどうしてもっと早く救援活動をしなかったのか?知らなかったのなら(12日午後)8時42分に上空を旋回していた2機のヘリは何者だったのか?その後どこへ行ったのか?
 真相究明のためには以下の3点が明らかにされる必要があると思う。
@8月12日午後6時57分より9時20分までの間に日米当局でどんな交渉が行われたのだろうか?
Aなぜ我々は現場を去るように命令されたのか?
B日本の当局はどのような命令を救援隊に与えたのか?(日本のX‐107ヘリ2機は交代機が来る前に現場を去るよう命令されたのか?誰かが「朝まで現場を放棄しよう」と言ったのか?)
    川北 95年8月17日付「星条旗」紙に載ったあなたの体験によると「現場到着2時間 後の9時20分、最初の日本機が現れた。管制塔はそれが日本の救援機だと言った」とあるが、その日本機はヘリコプターか?固定翼機か?
アントヌッチ 我々が現場を去る直前に到着した日本機は固定翼機だった。高度は海抜1万3千〜1万5千フィート東から接近してきたように思う。機長のグリフィン大尉がその機に「現場を渡す」旨送信していたようだが応答はなかった。
    川北 あなたは座間キャンプの米陸軍ヘリを現場に誘導したが、あなたが交信したヘリの乗員は海兵隊員だったのか?
アントヌッチ のちにグリフィン大尉と記憶を突き合わせた結果、私が「海兵隊」としたのは間違いで「陸軍」と訂正されるべきだ。
    川北 「星条旗」紙にはあなたの「私は後に日本の危機管理当局に近い人間から彼らが自分たちより2時間も前に1機でなく2機の米軍機が現場にいたことに驚いたと聞かされた」との発言があるが、あなたにそう語った人物の名前や所属、そしていつ彼があなたに語ったのかを教えて欲しい。
アントヌッチ その人物はオフレコの約束で話してくれたので名前は言えない。自衛隊に多くの友人を持つ「第5空軍」の関係者とだけ申し上げる。
    川北 95年9月25日放送の「ニュースステーション」で、当時の在日米軍最高幹部が匿名を条件に「事故の当日かなり早い段階で日本の自衛隊は米軍の援助を断わった」という事実を明かした、と報道した。この点についてはどう思うか?
アントヌッチ 在日米軍最高幹部の証言は真実で正確だと信じている。その人が誰かを知る方法はない。
    川北 同じく「ニュースステーション」で松永司令官は夜間における山間のリペリングは自殺行為、と言明しているがこの点についてはどう思うか?
アントヌッチ 確かに危険ではあるが、「自殺行為」と呼ぶのは馬鹿げている。夜明け前に墜落現場に多くの救援隊員を降下させることは可能だった、と改めて強調したい。

 以上が、概要である。当時の自衛隊が現場を「そのままに放棄していた」ことが、よく分かる。
 当時、「自衛隊の飛ばした標的機が誤って123便に衝突した」という風説が流され、週刊誌の誌面をさわがせたりもした。そうした陰謀論には、このような背景があった。
 ほかにも流言は飛んだ。ミサイル自衛艦「まつゆき」が12日、相模湾でミサイルの発射テストを行なっていた。このミサイルが123便を直撃したというのである。一笑に付すことができないのは、確かに12日夜の防衛庁が普通ではなかったことによる。
 海幕があわてて走り回り、そうとうな地位にいる者まで、湘南方面に来たと言われる。彼らは「あるいは、もしかすると、またウチがやったのでは?」と疑心暗鬼に陥っていたことは間違いない。雫石事故の悪夢がよみがえったのだ。
 

正確な情報を避け出所不明の情報を重視

 地上でも墜落現場の特定には、なかなか至らなかった。ここでも不可解としか言いようのない作為のあとが歴然と残っていた。その経過はこうである。
 事故の直後、8月16日付の東京新聞には、「『墜落地わかっていたのに…』と地元民」との見出しで、次のような記事が出ていた。
 「墜落現場が小倉山だの御座山だのと言ってたのは、機動隊や自衛隊の連中だけだ。オレたち地元の住民は12日の夜から、南のスゲノ沢の方だと確信してたんだよ。なのに、(警察などは)オレたちの声を無視してあさっての方向を捜索させた。4人以外にも生存者がいたのなら夜中でも十分救出に行けたんだ!」(生存者を発見した堀川守氏の談話)
 (12日の)午後11時ごろには、群馬県警からの要請で、堀川さんを含む付近の猟友会のメンバーが捜索隊の先導をするために集合。「口をそろえて『現場は御座山でも小倉山でもない』と進言しても、機動隊は聞こうともせず、全然、関係のない御座山の方向へ案内をさせられた」
 私も猟友会の人から同様な話を聞いている。
 機動隊や自衛隊は、いったいどこから「墜落現場は御座山」という情報を得たのだろうか。後に調べたところ、警察への110番通報で、通報者の氏名はわかっていないことが判明した。
 地元の人間に案内を依頼しておきながら、彼らの主張するスゲノ沢のほうには案内させず、見当外れの御座山に案内させたのでは、意図的に地元の人たちを事故現場に近づけさせたくなかったとしか考えられない。事故現場から10キロ近く離れた、長野側に引き付けて置きたかったとすれば、誰が、何のために?
 



墜落地点と各情報の位置関係(本書より)

 事故の翌年、上野村を訪れたとき、現地で捜索に協力した人が言っていた。
 「あの時はおかしいと思ったんだ。墜落現場に俺たちを行かせたくなかったんだと思った。だけど俺たちが行って悪いことってなんだろうという話が出て、警察か自衛隊がもう先に行って、何か探してたのじゃないかという話も出ていた。それを見られるとまずいと思って、俺たちを御座山の方に行かせたのじゃないかなと小声で話したよ」
 地上の目撃情報によれば、8月12日、事故直後の18時55分頃から、「長野県南相木村と群馬県境で赤い煙を見た。10分後に黒い煙になって消えた」など、かなりの数の情報が寄せられ、これらの情報は通報者の氏名がほとんどわかっているもので、その内容は群馬県方面に飛行機が落ちたというものが多い。
 ところが、20時08分 氏名不詳の110番通報で、「北相木村のぶどう峠付近に飛行機が落ちたらしい」との通報があった。どうして氏名不詳なのか。氏名不詳情報にこの日の夜半まで授索隊が振り回されることになる。なぜ出所不明の情報を信じたのか?
 さらに21時39分に、長野県警と埼玉県警のパトカーが三国峠付近で合流し、西北西の方角に赤い煙が上がっているのを確認している。
 その後21時59分にも防衛庁筋からの情報として「長野県北相木村の御座山北斜面」という誤情報がテレビを通じて流され、これによって警察、日航、長野県警もそれに追随し、また日航も記者会見で、「御座山」と述べたため、マスコミ各社もこの誤報を受け入れ、警察の搜索活動も大幅に遅れる結果となった。
 長野県警が「現場は群馬県」と断定したのは、23時30分で、これでようやく御座山説が否定されたわけだが、日付が変わって8月13日2時20分 マスコミ各社に防衛庁筋からの情報として、墜落地点は御座山の南斜面という情報が流され、その後も明け方の5時10分まで自衛隊・防衛庁筋からの情報として、「扇平山の北1キロ」、「御座山の東5キロ」(いずれも長野県)などの誤情報が繰り返されている。
 こうして経過をみると、正確に現場の位置を指摘しているのは、パトカーによる三国峠からの目撃情報である。この情報に対して、マスコミなどを長野県側に必死に誘導するように、御座山情報が繰り返された。
 長野県警が「ない」と言っているにもかかわらず、「御座山南斜面」という情報を最後まで防衛庁筋が流したことには、固執しすぎとの批判が航空関係者の間で聞かれた。よほど現場に人を近づけたくない事情が政府側に在ったのではないかと不穏な批判を口にする者も現れた。特に埼玉と長野県警のパトカーの情報は、複数の現地の事情に詳しいパトカーからの連絡であり、空からの情報とも一致していた。本当の事故現場を隠しておきたい意図から、急遽防衛庁筋の「御座山情報」が流されている。
 地元の猟友会の人たちをスゲノ沢の方へ行かせなかった事実と考え合わせると、群馬県警察と防衛庁は、事故現場は十分承知していた上で、そこから敢えて人を遠ざけようとしていたとしか考えられない。
 何年か後に、墜落現場には夜のうちに自衛隊が入っていたという怪情報が流れた。
 まさかと思っていたが、調べていくうちに、この噂が妙に真実味を帯び始めたことを記憶している。
 事故から10年もした頃だろうか、やはりこの事故を調べていた軍事評論家と親しくなった。事故当時の噂話をして、まあ陰謀史観みたいで根拠は薄いですねと笑ったが、彼は至極真面目な面持ちで、
 「いや、それはあり得ます。というより、墜落直後にはもう陸から現場に入っていたと考える方が軍隊というものの理に適っているのですよ。どこの国の軍隊もそうですが、普通の部隊だけでは戦争は戦えない。特殊な能力を備えた連中が必ずいるのです。もちろん、自衛隊の中にもそういう部隊が存在するでしょう。墜落現場を偵察して状況を報告するわけですよ」
 と控えめながら洩らしていた。

 
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