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藤田日出男『隠された証言 日航123便墜落事故』

(新潮文庫 2006年8月1日刊)

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第5章 内部告発者――2度目の接触

 

やはり、事故調は知っていた!

 2000年11月、運輸省は翌年に控えた情報公開法の施行に備えて、多くの資料を焼却・断裁などして、廃棄処分した。このとき事故調内に保管されていた、ボイスレコーダーも処分されるという話がマスコミ筋にも広がっていた。当時、運輸省に限らず、霞ヶ関の官庁街では資料の処分が大規模に行なわれていたようで、マスコミ関係者から廃品処理業者が大忙しだという話を聞かされていた。
 その頃「事故調査委員会も古い資料を処分する計画だ」という情報が入ってきた。
 この情報は秘密でもなんでもなかったらしく、運輸省の人間からも直接、同様の情報が得られた。この資料破棄の動きは航空関係者と報道関係者の多くが知るところとなり、そうした資料を守る動きが水面下で広がっていた。中でもボイスレコーダーのテープが破壊されると、国際民間航空条約機構で定められた再調査の機会が失われる危陰性もあるため、心ある航空関係者の間で密かに保存されていたコピーテープや、当時の関係者が持っていた資料などが秘密裏にあるところに集められた。
 事故調はこのように情報や資料を闇に葬ろうとしたが、多くの人の協力で一部は守ることが出来た。事故調査には基本的に終了がない。新しい事実が出てくればすぐに調査を再開しなければならない。したがって決して事故調査の資料を廃棄してはならないのだ。これは基本中の基本である。
 私たちは何とか破棄を阻止しようと、各方面に働きかけ続けた。マスコミ関係者も事故調査委員会を追及し、「マイクロフィルムに保存しているから再調査には支障がない」という言質を取ることに成功した。
 

しかし、原本の焼却処分は強行された。

 しばらくして、次のような匿名の手紙が届いた。
 「調査資料はご存知のとおり破棄されました。特に日航且23便事故の資料が集中的に破棄されたような気がします。一方それ以前の古い資料で残されているものもあります。役所にも良心はあります。事故調査資料のコピーは実はかなり個人で持っている人がいます。この事故のボイスレコーダーのコピーテープも個人的に持っている人はいます。それが一部流出したようですが、今それらの資料を集めています。ここですべて破棄したら、世界最大の事故の検証が出来なくなります。それは世界の航空界の損失です。確かに原本は消えてしまうでしょうが、役所が管理していないコピーはまだ大量にあります。出来るだけ集めますので、破棄されないところに保管してください。すでに一部は報道関係にも提供されています。報道関係だけでは、事故の原因調査に役立つ保証はないので、藤田さんのところにお送りします」
 にわかに信じがたい連絡で、当然かなり警戒心を持って受け止めていた。そこに、運輸省の役人で事故調に籍を置いたことのある田中(仮名)からの電話が入ってきたのだから、不可思議な暗合を感じないわけにはいかなかった。
 件の手紙の差出人が田中とは考えられなかった。しかし、時期が時期だけに、これも何かの巡り合わせかと思われた。
 田中は、電話では何も明かそうとはしなかった。ただ、近いうちに是非会いたいと、それだけを言ってきた。人目が気になるのであれば、我が家に来てくれるようにお願いし、田中は、私の自宅がある伊東までやってきてくれた。
 部屋に入っても、何か落ち着かず緊張していた。
 「ここは誰も来ませんからご安心してください。この前はなんとなく落ち着かない感じでしたが、私以外ここにいませんから、私を信頼していただいて、安心してお話しください。ところで最近、こんな手紙をもらいましたよ」
 例の差出人不明の手紙を見せた。
 「あー。こんな手紙が来たのですか、そうでしたか」
 これをきっかけに、田中は何か安心したような感じで話し始めた。
 田中は大きな紙袋に入れて、ファイル綴じされた資料を持ってきてくれたのだった。
 資料はきれいに整理され、運航関係は「OP」、現場関係は「A」、救難捜索関係と生存者目撃者口述、医学に関する情報は「SR」、整備関係は「M」、飛行性能関係は「P」などの記号がつけられ分類されていた。



廃棄されるところだった内部資料のファイル
(本書より)


 「藤田さんが興味をお持ちなのは、このあたりでしょう」と言って出してくれたのは、SRと書かれた生存者や目撃者の口述をまとめた部分で、パラパラとめくってみると、見たことのない資料がほとんどだった。生存者の口述記録である。
 「こんな内部資料を事故調はちゃんと持っていたとは……。ここで生存者が急減圧はなかったと言っているじゃありませんか!驚きました。それを知っていて事故調は急減圧を主張していたとは…、あきれたものです」
 「3月の下旬、急減圧の有無に関する部分を抜いた、『事実調査に関する報告書の案』を持って、事故調のメンバーがアメリカへ出張したことがありました。その時のボーイング社の態度には皆、怒っていたのです。ボーイング社は隔壁破壊のシナリオを書類で事故調に押し付けたという話でした。パイロットは海に降りれば着水できたのに、520人も殺したのはパイロット・ミスだと迫ったそうです。これには事故調内部でも、かなり多くの人が怒っていましたから、その後は陰でかなり批判があったようです。ボーイング社側が、お互いに監獄入りを出さないようにしようと日本側にささやいたり、かなりひどいことを言っていたようです。」と述べたあと田中は、さらに「藤田さんは、事故調を批判されていますが、私たちにも自分の生活がありますから自由に動けないのが実態なのです。勇気が無いといえばそれまでですけれど」と付け加えた。
 「内部告発」が、国家公務員にとって、どれだけプレッシャーのかかる行為か、私はこれまで漠然としか考えたことがなかった。
 「藤田さんのお顔はテレビ番組などで存じていました。私は日航にも知人が多く、藤田さんが安全問題の改善などを要求してストライキを実行して、会社から解雇され、その後9年間も闘って職場に戻ったことなどを聞いていました。それでこのファイルは藤田さんなら上手く役立ててくださると思っていました」
 「信頼いただいたことはうれしいのですが、期待に沿えるか……」
 「あなたがいろいろな機会に、日航123便事故について意見を述べておられるのは知っております。ただ事故調の中にも、あの調査をおかしいと思っている者がいることを知ってほしいと思います」
 私は、この人の気持ちは良くわかったが、企業や政府がどのような圧力を加えて来るのか心配になった。自分自身、会社の方針に反対して争い、一度は解雇された経験もある。この人への圧力がどう加えられるのか気になった。国家公務員には守秘義務もあり、内部告発者に対する保護法の無い日本では、このような行動によって、大きな困難に直面する危険性が大きいのだ。
 「あなたに危険は無いのですか、役所だって黙ってはいないでしょう」
 「はっきり言って、危険はあると思っています。世論を味方につけない限り、危険は伴うと思っています」
 「私は、危険ならば、考え直して下さったほうがよいと思います。安全第一ですよ、本当のことは、時間が経てば必ず世間に明らかにされると思います」
 「正直な話、事故調査資料を廃棄することについては、我々としても犯罪行為に手を貸すような気がしています。国がやらない以上、自分たちで社会的責任を果たす必要があると思います。資料の破棄は、歴史に残る愚行だと思っています。そのために有志で相談して、関係者の自宅や机の中に残っていた資料を集めてみたのです。一部は新しくコピーもとりましたが、ある部分は破棄直前に一冊まるごと別のファイルと交換されたものもあります。とりあえず藤田さんにこの資料を見てほしいのです」
 「そうですか、わかりました。とりあえず見せていただきます。これは、国民の安全に関することであり、本来秘密にすべき資料ではありませんから、公務員の守秘義務の対象とすること自体がおかしいと思いますが、正直言って、あなたに圧力を掛ける口実にされるのでは気が進みません」
 ファイルの内容はとても短時間に読めるものではなかった。かなりの量があった。
 しかし、私が資料を借りて置くわけにも行かず、とりあえず必要な部分だけコピーを取った。田中は、むしろ資料を預かってほしいといってくれたが、結局、以前に裁判関係の資料を預けたトランクルームに保管することになった。
 田中が、仲間たちと共に、廃棄寸前の調査資料を残したことは、大変な幸いだったと言える。
 一冊、まるごと抜き取っておいたという分厚いファイルには、生存者たちの生々しい 「証言」が含まれていた。これらの「証言」は、文章化されながらも、実は調査報告書にほとんど記載されることがなかったものだ。マスコミから断片的に表には出て 特に、「急減圧」が、あったか、なかったかを議論するには、本来絶対に欠かせないものだ。
 とりわけ、落合由美さんが受けた聞取り調査は、注目される。この部分が残されただけでも、田中の行為は賞賛に値した。

 

アメリカ調査官が生存者に会う

 アメリカ側の調査員が落合さんの話を直接聞いたのは、8月27日のことであった。
 NTSBのサイドレン調査官が、多野総合病院に、日本の事故調査官1名と共に訪れていろいろと質問した。落合さんは時折、英語を交えて答えた。
 
 
質問  「緊急対策訓練(デイッチング・ドリル)で急減圧についてどのようなことを記憶していますか?」
答え 「先ず耳が痛くなり、機内に白い『もや』がかかり、酸素マスクが落ちてくる、ベルト着用と禁煙のサインが点灯する、プレレコーデッド・アナウンス(急減圧時には乗員も酸素マスクを着用するため、マイクが使えないので、あらかじめテープに録音されたアナウンス)が客室内に流される」
質問 「異常に気がついたのは、離陸後どれくらい経ってからでしょうか?」
答え 「離陸後の時間は10分か15分たっていたと思う、異常発生の時刻は6時25分だった。時計を見た」
質問 「異常が発生した時、気づいた兆候について話してください」
答え 「上の方から『パーン』という音がした。同時に耳が痛くなって、機内が白くなった。あとは、天井の一部が落ちた。同時にプレレコーデッド・アナウンスが流れた。これが話に聞いていた急減圧の状況だと思った」
質問 「急減圧が起きたとき、客室の『もや』が室内のどちらの方向に流れて行ったかわかりますか?」
答え 「流れるという状況でなく、留まっている状況で、そう長い時間でなく、比較的短い時間で、もや』が消えた」
質問 「空気がどちらの方向に噴出するように流れるように感じましたか?」
答え 「流れていない」
質問 「貴女の座っていた席と、天井に穴の開いたところと、パネルが落ちたところを示してください」(この質問は証言の正確さを確認するため写真を示しながら行う質問)
答え 「席は56のC、(その他の質問には写真上で指摘)」
質問 「その他に、機内の構造物で異常に気が付かれたところはありませんか?」
答え 「後部トイレの、上の部分が落ちてなくなり、テントのようなものが見えた」
質問 「急減圧が起こった後で、その時の音以外の音、雑音の類が聞こえましたか?」
答え 「特にありません」

 この質問と回答の中に、非常に重要な点が、三つあった。これらを、もし事故調が報告書に記載した場合、「隔壁破壊説」は、とうてい成立し得ないだろう。
 第1点。「空気の流れがなかった」という発言で、垂直尾翼をパンクさせたという空気は客室から流出したものではないことが明らかにされた。
 第2点。隔壁に穴が開けば当然そこから流出する「ヒュー」というような音が聞かれるはずのところ、特に雑音はしなかったと述べた点である。この二つで急減圧がなかったことにNTSBの調査官は気が付いたと思われる。
 第3点。「パーン」という音が上から聞こえている。隔壁ならば客室の真後ろであり、そこに大きな穴が開けば当然後ろから大きな音がする。上のほうで異常があっても隔壁に穴が開き、そこから大量の空気が噴出すれば、そちらの音のほうが大きく、天井の構造破壊の音は隠されてしまうと考えられる。
 落合さんの座席、やや後ろ上方で、垂直尾翼の前端が胴体とつながっている。そのため、垂直尾翼が破壊したときの振動や音は、落合さんの後ろ上方の胴体に伝わると考えられる。落合さんは、垂直尾翼が破壊したときの音を聞いたのだと思われる。
 サイドレン氏が、「隔壁破壊で急減圧が起こり、客室の与圧が激しく抜けて垂直尾翼を破裂、倒壊させた」という筋書きを固定しようと質問を繰り出すが、サイドレン氏が欲しいような回答を落合さんはせず、とても「生存者の証言」からは「急減圧」を立証できないことが、ありありと見て取れるのだ。サイドレン氏も、これはやっかいなことになったと暗澹たる気持ちに陥ったことだろう。「生存者」がいたことを、むしろ恨めしく思ったかもしれない。
 また、これ以外にも重要な落合さんの証言がある。
 9月17日の小原医官の聴取に答えた中で、はっきりと「急減圧ではなかった」と言っている。事故から1ケ月以上が経過し、相当落ち着いてきてからの証言である。
  
小原  みなさん意識はありました?
落合 ええ、具合悪くなった人とかもいなかったです。
小原 あの、意識がっていう意味はね、ようするに非常にゆれがひどいから気持ち悪くなって意識がなくなるということもあるかもしれませんよね、子供なんか。それから酸素がなくなって意識がなくなる。そういうことは全然考えられませんでした?
落合 ええ、そうですね。なかったようです、私のまわりには、はい。
小原 というのは、あの、このマニュアルにもあるようにね、2万フィート相当高度の、あの、有効意識時間、だいたいどの程度か憶えておられる。
落合 えーとね、2万フィートですか。2万フィートで……、そうですね、20秒くらいですか。
小原 いや、そんなに短くないけれどね。あの、1万8千フィートだと30分くらいもつんですよ、ところが2万フィートになると5分くらいなんですね。5分から10分くらい。ものすごく個人差ありますよ。もうちょっと上がって2万5千になると3分くらい。まあ、個人差はありますけれども、ずい分遣うわけ、その、わずか2千フィートぐらいのところで。だからその10分しか酸素が流れなかったということが少し関係があるかなと思うので、そういう、あなたの目で見た感じでは、少なくともそういう感じはなかったですか。
落合 ん……
小原 ご自分の身体はそうじゃなかった?
落合 なかったですね。
小原 ほかの人もそんな感じ。
落合 ええ。救命胴衣をつけている時は、みんな酸素マスクをはずしてやってた状態です。 (中略) ただ、あの、耳がバッと痛くなって、バーツと機内が真白になってっていうふうに習ってますけど、それから考えると、それほど、まあ詰まった感じはしたんですけれどもね、一瞬、あのキーンて痛いって感じでもなかったし、真白って感じでも、モワ一っていう、それもわりと短い時間でしたので。それと比べると……あの……急減圧っていう……いうよりも……
小原 っていう感じではない。
落合 ええ
小原 そして、もうすぐ白いあれは見えなくなりましたか?
落合 はい。
小原 それで、そのあとはもう普通、いわゆる普通の状態?
落合 はい。

 決定的なのは、小原医官が「急減圧という感じではなかった」と落合さんから言葉を引き取って、自ら述べているくだりだ。
 また、「有効意識時間」という概念も事故調側は認識していたことがはっきりした。
 ここで小原医官が言うとおり、2万フィートの高度で人間が意識を保つことができる時間は5分から10分なのである。123便が与圧なしで18分間以上も高度2万フィート以上を飛行し続けたことはすでに書いた。本来なら、酸素マスクから酸素が流れなくなれば、乗客は全員意識が朦朧としていたはずなのだ。なかには意識を失った人も出ていたろう。パイロットは3人ともまったくマスクを着けていないが、操縦し続けている。
 ここでの落合さんの証言でも、客室ではマスクなしで誰一人、意識を失っていない。
 皆、マスクを外して救命胴衣を着けていたという。
 「報告書」は、どう書いているのだろう。「個人差はあるものの同機に生じたとみられる程度の減圧は人間に対して直ちに嫌悪感や苦痛を与えるものではない」
 これは、一種の偽証ではないか。「ありえない」とわかっていながら、こういうことを書くのは。最も重要な「急減圧はなかった」という証言は、「事故調査報告書」数百ページの中に1ケ所も見当たらない。どんなに重要な証言も採録されなければ、存在しなかったも同然である。
 これまで、ジャーナリズムが自分たちで独自に取った「落合証言」を基に「実は急減圧は起こっていないのではないか?」と事故調に迫ったことは、何度かある。たとえば、事故直後、月刊「新潮45」誌に載った落合さんの手記は、そのような例のひとつだった。
 だが、事故調は一度も取り合おうとしなかった。自分たち役所が与り知らぬところで行われたインタビューなど、たとえ生存者が何を言おうが関係ないと言わんばかりだった。「すべて、報告書にある通りです」が回答で、事実上のノーコメントである。
 だが、今度ばかりは事情が違う。事故調が委嘱した航空自衛隊の医者が行なった、れっきとした内部資料なのである。彼らは、この膨大な資料を使って「報告書」を完成させたはずなのだ。それが、最も重要な証言を黙殺して作られたものだとしたら。
 繰り返すが、今回の 「内部告発」で表に出てきた文書には「衝撃的な新事実」など存在しない。ここにあるのは、これまでも言われ続けてきた疑惑を疑惑たらしめている「証言」である。
 だが、重要なのは内部資料であるということだ。事故調にとって存在しなかったはずの「証言」が、ようやく確かに存在する「証言」になった。もう、これまでのように無視できる相手ではないのだ。真実を求めるまっとうなジャーナリズムが、しっかりと声を上げ要求すれば、事故調は再調査せざるを得ない。もしも、ここで、事故調の体質を変えられなければ、私たち日本人は、これからもまともな事故調査機関をついに持つことができないだろう。

 下の写真は、NTSBのサイドレイン氏が落合由美さんに話を聞いたときのメモである。7番目の「流れていない」に注目。

 

内部告発文書の最も重要な証言の一部
(本書より)


 

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