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青山透子『日航123便 圧力隔壁をくつがえす
                    (河出書房新社 2020.7.20刊)

 本書は、第一章、第二章、第三章、終章、から構成されている。
| 第一章 | 第二章 | 第三章 | 終章 |

第一章

 日航123便事件発生から三十五年目の今年。
 正月気分も抜けきらぬままに、テレビ画面に飛び込んできた映像は、バラバラに細かく飛び散った飛行機と人間の無残な姿であった。本物の炸薬入り地対空ミサイルに撃墜されると、巨大な物体も人もこのような有様になると映像が無言で語りかけていた。
 二〇二〇年一月八日にイランの首都テヘランを飛び立ったウクライナ航空752便が、離陸直後にイラン軍(革命防衛隊)の地対空ミサイルで撃墜されるという痛ましい事件が発生して、イランの自国民八十二人、カナダ人六十三人を含む乗客乗員百七十六名が犠牲となった。彼らの命が軍隊の誤射で失われた事実は永遠に覚えておかなければならない。このミサイル誤射事件は私たちに、実際にこういうことが起こりうることを再認識させてくれたのである。
 今ならば衛星やレーダー、一般人による動画録画によって、政府の偽りの発表を見破ることは可能だろう。誰もが携帯電話を持ち、誰もが簡単に即席のスクープ記者になれることは、ネット社会の大きな成果である。これらがあったからこそ、イラン政府が誤射を認めて犠牲者への追悼と謝罪に至ったのだ。
 もし、三十五年前にこの技術があったなら、〈あの日〉に起きたいまいましいことは瞬時に明るみに出て、あらゆる人々が正義の力を結集して、政府の嘘も簡単に暴かれただろう。 そして、気の遠くなるほど無駄な時間を費やすことなどなかった。
 今年の年頭にイランの軍隊が自国を飛び立った民間の飛行機を誤射して墜落させたことも、私たちにこうした「事件」があり得ないことはないと教えてくれた。
 
 そして私たちは騙されていたのだ。
 二〇一九年十一月、私は、日航機墜落から二日後に書かれたある公文書を発見した。そこには「日航機墜落事件」と書かれていたのである。
 発信元は外務省である。日付は一九八五年八月十四日。まだ事故調査委員会の調査すら始まっていない時期のことであり、当然のことながら、当事者の日本航空も米国ボーイング社も、全く何が起きたのかもわかっていない。その時点で外務省では公文書に「事件」と書いていたのである。
 そしてこの「事件」は、あまりにも幼稚な方法によって故意的に「事故」とすり替えられていった。後から思えば「あれはおかしい」と思うことは多々あったはずである。
 それにもかかわらず、あっという間に事故と信じ込み、騙された私たちはどの段階で真実を見失っていったのか・・・。
 
 その文字が書かれていたのは、米レーガン大統領から中曽根首相宛の手紙である。手紙の上部に「日航機墜落事件に関するレーガン大統領発中曽根総理あて 見舞いの書簡 8/14 在京米大より接到」と手書き文字が見える。外務省職員によるとみられるものだが、それだけになお一層「事件」に真実味を感じさせるものだ。




 上記の文書に書かれていることは、次のような内容になる。
 
 親愛なる「ヤス(康弘の愛称)」 へ
 日航機123便の悲劇的な墜落の@きっかけに際し、米国民を代表し、心より哀悼の意を表します。私たちもほんの数日前に、ダラス・フォートワースにおける悲劇的な航空機事故で、甚大な損失と人的被害を被りました。総理大臣閣下もご存じのように、米国は航空の安全確保のため最大限の努力を継続することについてコミット(責任を持って取り組む意味)しております。私たちは、航空事故による悲しむべき人的損失を防止するために全力を尽くさなければなりません。米国国家運輸安全委員会は、米国が有する最高の専門知識を提供すべく、日本に専門家をA派遣しつつ(送り込みの途中)あります。Bさらに米国にできることがあればお知らせください。ナンシーと私は、本件C事故の犠牲者及びご遺族に対して、深くお悔やみ申し上げます。  敬具
 一九八五年八月十四日 ロン(レーガンの愛称)
   日本国内閣総理大臣 中曽根康弘閣下
 
 下線を引いた部分に該当する英文を読んでみると、背景が見えてくる。
 まず@の「きっかけ(機会や出来事)」に使用している“occasion”という部分だ。
 通常、航空機事故として使う言葉には、クラッシュ(crash)=墜落、アクシデント(accident)事故・災難、インシデント(icidennt)=航空機等運航障害、などがある。ここで書かれている.occasionは、ほとんど使用しない。この言葉は、本来は「物事が降りかかる」という意味であり、英和辞典にもそのように書かれている。機会とか出来事という意味合いもある。なぜoccasionという、この言葉をレーガン大統領は使ったのか。おそらく深い意味と背景がそこに存在する。つまり事故や災難による墜落ではなく、原因が明らかにわかるほどの出来事が降りかかった、ということだと十分解釈できる。
 次のポイントは、A「派遣しつつ」あるというdispatchigのところだ。すでに手配して確実にやっている、現在やりつつある、人を送り込んでいる途中といった意味を含む。これはあまりにもスピード感がありすぎる。航空機事故発生時は海外も含めて、自国の事故調査委員が特に取り組むべきものであって、わざわざ米国が諸外国にいちいち出向く話ではない。世界的規模の乗員組合によれば、米国の国家運輸安全委員会(NTSB)がどこかの国へ即日、調査に出向くのは異例中の異例であって、このボーイング社も、いくら来てほしいとリクエストしても来なかった航空機事故は、他に沢山あったと聞いた。
 十二日の墜落時刻は十八時五十六分、米軍の輸送機が、飛行機が燃える炎を発見したのが十九時十五分過ぎとすれば、サマータイム中の米国ワシントンDCの時差から、現地時間の墜落時刻は、八月十二日の早朝五時五十六分である。米軍機による発見時刻は、六時十五分となる。ただし、この日レーガン大統領はサンタバーバラの別荘に滞在していたことが日記からわかっているため、そのサンタバーバラがあるカリフォルニア州の時間によれば、早朝の二時五十六分に日航機が墜落、米軍機C130輸送機によって墜落場所が発見されたのが三時十五分となる。米国内の墜落ではないので、大統領を真夜中にたたき起こすほどのものでもないと思われる。
 レーガン図書館にある大統領日記によれば、この日だけは、通常の起床時間である九時前後に比べて早く、なんと早朝五時三十分に電話で起こされている。この時間は日本時間で同日の二十一時三十分となる。ちょうど日航123便の燃料切れで日本航空側が公式に墜落の発表をした時刻と重なるのである。その電話の相手はリベリア共和国と記されているのだが、それが日本に関係しているのかどうか、その後に何があったのか、これだけではわからない。
 いずれにしても、この日の早朝に起床してその後なんらかの事実を知り、指示を出したから、米国ボーイング社が十二日の最も早い段階で、調査員五名を送る決定を下し、十三日の飛行機で日本へ向かうと決定したのだろう。
 当時、ボーイング社の一番の主力機と言えばこのB−747型機である。それもこの一機で五百二十人もの死者を出したのは前例がないとして強い関心をよせたことや、この十二日のうちに米国調査官二名の派遣が早急に決まったと、報道各紙に書いてある。従ってこの公文書が届いた十四日には、すでに調査官が派遣されたことがわかっていたので、派遣されつつある調査団が日本にまもなく到着する、という意味で書かれていたのだ。
 続いて、B「さらに」のところだが、「more」とわざわざ書いて、私たちにできることがあれば、お知らせくださいと結んでいる。かなり早い段階でお互いに事件を知り、それに米国へ協力要請をしていることになる。
 そして最後の文に書いてある犠牲者に対するお悔やみの文言でのC「事故」は、原文ではaccidentを使用している。こちらは突発的に発生したことの犠牲者という意味で、accidentを使用したことがわかる。つまり、この言葉Caccidentと比較すると、日航123便が事件性のある出来事がきっかけで墜落したことを意識して、最初の言葉@occasionと書いただろうことがより一層際立つ。
 この日付の段階で、ロンとヤスは墜落原因を知り、それが事件だとお互いに伝えていた。そして何の疑いもなく、外務省職員は「事件」と聞いて、事件と書いた。
 通常、事件という言葉は、犯罪性を帯びた出来事で、刑事や民事など訴訟行為の行われている際に使用する。官公庁の手続き上で、許可申請や、住民票、戸籍関連などの事柄を管理する法令用語として使用する場合もある。それ以外にも一般人の関心や話題となるときに使用したり、事件の中には事故を内包する場合もある。さらに不慮の事故が調査の過程で事件になっていくこともある。
 しかし、航空機事故においては調査のプロセスが全く異なる。そこでは国際民間航空条約の取り決めに従って調査を行うことが決められており、その高い専門性を重視して技術的にも見識豊富で知識を持つ調査官が取り組むべきとして専門家による調査を基本としている。従って航空機墜落事故をまだ調査もしていない段階で事件とは呼ばない。ましてや事件だと思ったら事故だった、というアプローチの仕方もない。専門的で詳細な調査の結果、結論を出すまですべてが事故である。
 次に、外務省が単なる関心や話題で安易に事件と書くことはない。それでは法令用語として日常的な手紙やメモなどでも、案件や事柄を「事件」と記入していたのかどうか、という点だが、確認してみたところ、元外務省職員は、手紙やFAXで法令用語として使用はしない、と語っていた。
 念のため私は、一九八五年から一九八六年当時の日米外務省書簡で公開されているものをすべて確認したところ、手書きで書いた文やFAXの件名などに使用する言葉は、通常の意味合いで使用していることがわかった。例えば、「レーガン大統領就任式に際しての総理よりの祝電(案)」、「〇〇の後任問題・総理発レーガン大統領宛てメッセージ」、「レーガン大統領発中曽根総理宛て礼状」、「大相撲アメリカ公演についての総理大臣からレーガン大統領への親書について」、「事務連絡・レーガン大統領宛て見舞電案の伝達」等である。従ってこの場合、事件と書いたのは、通常通りの発想で、「犯罪性を持つ事件」として書いたことがわかる。さらに、事故調査委員会の調査結果を聞くまでもなく、事件と判断した、となる。
 
 事件――。
 この重大な二文字が公文書から出てきたからには、ここからは想像の域ではなく、確実に事件として〈あの日〉を捉えていかなければならない。
 さて、「事件と書いたのが単純ミスではないか」という疑問があれば、それに答えるのが下記の証拠文書である。



 外務省の日米要人間書簡の電信案では、それ以降もFAXの件名で、「事件」と書いてある。
 
 件名 JAL墜落事件――レーガン大統領よりの見舞電に対する総理よりの謝電(上記文書)
 
 二枚とも件名に、「JAL墜落事件」と書かれている。ここで重要な点は、「件名欄」に書いているという点だ。
 この文章の内容自体は墜落事故へのお見舞いのお礼であるが、タイトルとしてこの言葉を使用していることに注目しなければならない。件名では明らかに二度も事件と記されている。日付は、昭和六十年八月二十二日である。
 つまり、墜落後から十日が過ぎてもなお、間違いなく「事件」と記されており、先ほどの十四日の手紙の手書き同様で単なるミスではない。
 世間では事故と報道されていても、外務省職員の間では、ずっと事件という認識が続いていた、ということになる。
 それには、墜落発生直後から、「日航機墜落事件」、「JAL墜落事件」と書くほどの明確な根拠と事件性があり、疑う余地のないほどであったと十分推定される。事故調査委員会の調査結果を待つ必要もなく、明らかに事件とわかる原因があったということであって、それが十日以上過ぎても、外務省職員は当然のことながら「事件」として認識していたということだ。
 こういった文脈から考えると、日航123便では、未必の故意も含めて故意的に発生した状況の中で操縦不能に陥り、その結果、墜落した、と言い切れるからこそ事件と書いた、となる。
 従って外務省は、直ちに官邸からその報告を受けた。墜落原因が何か、誰がしたのか、どういう状況で発生したのか、すべてがわかった。その話の出所も信憑性があって、疑う余地のないものであった。
 その結果、外務省職員は、「事件」と書いた。これほどわかりやすいことがあろうか。
 このように外務省内で瞬時に事件とわかったことを、なぜ事故調査報告書には、いまだに事故と書かれているのだろうか。それも一年間以上もかけて調査をして出た結論が、後部圧力隔壁修理ミスという過失による事故だった、というのだ。そのような偽りの調査報告書を誰が信じるというのだろうか。事故調査委員会(二〇〇八年から運輸安全委員会と変更)は直ちに訂正して事件として書き直さなければならない。
 
 事件を事故に――驚くべき詭弁の実態
 当時の中曽根政権は、最初から事件と知りつつ、無理やり事故に変えていった、ということが公文書によって明確に見えてきた。そして、事件の原因を知りつつも、犯人を逃がして隠匿した実態がようやく明らかになった。
 それでは、いつ、だれが、どの段階で事件を事故に変えていったのかを考えなければならない。
 私はこれまでの調査過程を分析して、その実態を解明することを試みた。
 その際、ネット上に溢れるこの日航123便に関する裏の取れない情報や、一部の報道関係者による意図的な誘導、某著者たちの故意的な謀略による本、根拠のない雑音といったたぐいのものは、一切排除した。そして、裁判に通用するほどの確認が取れた事実を時系列に並べながら、今回発見した公文書をもとに、どの段階で誰がどのように動き、隠蔽していったのかを具体的に考えてみる。今後、同じ手口で一般人が騙されないようにするためにも、この未解決事件を検証して解決することは、同様の原因による航空機墜落を防ぐうえで不可欠である。さらに事件を起こした「犯人」に謝罪と反省する機会を与え、遺族や関係者たちが、心から安らかになることにもつながる。
 単独機世界最大の死者を出した日本国の一人ひとりの責任として自国民が検証すべき重要な事柄なのである。何よりも、521人(胎児も含む)が天空から私たちを見ているのだ。
 それではまず時系列にそって、政府関係者の言動を注意深く見ていくとその絡繰りが見えてくる。
 
 日航123便墜落以降の出来事(時系列で)
 
・八月十二日(月) 墜落

 日航123便が墜落した時刻、中曽根康弘首相は、夏休みで滞在中の「ホテル鹿島の森」がある軽井沢から上野へ向かう十七時十一分発の特急あさま22号の列車内にいた。
 御自身の回顧録『中曽根康弘が語る戦後日本外交』(新潮社、二〇三年)では、「午後七時過ぎに列車の中で第一報を聞いた」とある。
 上野駅到着が十九時十五分。公用車に乗って上野駅を出たのは十九時十九分(『上毛新聞』)、公邸には、新聞社によってばらつきがあるが、十九時四十七分(『朝日新聞』)に到着した。
 新聞各紙では、中曽根首相は公邸入口で待ち構えていた記者団から墜落のニュースを聞き、「ほう、そうなのか?」といかにも知らなかったかのように答えているが、その時、うそぶいていたことになる。なぜならば列車の中で聞いたと回顧録にあるからだ。
 その後の行動をその回顧録から抜粋すると次のようになる。
 八時に執務室に入り、即時に報告を受けて対策指令を出して、「国民に政府の正式見解を出すのは事態の調査に万全を期して発表しなければならない」ので、「それまで私に留めて、私が合図するまで公式発表はならぬ」と指示を出した。そして、重要なのはつぎのくだりだ。
 「米軍もレーダーで監視していたから、当然事故については知っていました。あの時は官邸から米軍に連絡は取らなかった。しかし恐らく、防衛庁と米軍でやり取りがあっただろう」と自ら語っている。
 自著の『日航123便墜落の新事実』で、官邸からの指示もなく「防衛庁と米軍でやり取りがあった」というこの部分をあまりにも不自然ではないかと指摘したところ、問題意識の高い多くの評論家や知識人から、好意的な書評をいただいた。
 なぜ不自然なのかといえば、日本国の防衛組織図にも書いてある通り、防衛庁は内閣の下に位置しているからだ。それにもかかわらず、官邸から指示がないまま総理大臣を飛び越えて、防衛庁と米軍が勝手にやり取りをしていた、と中曽根氏本人の口から言っている。これが事実ならば、前代未聞の異常事態になる。さて、次の言葉に注目したい。
 
 中曽根首相「私が合図するまで公式に発表してはならない」
 
 航空機墜落事故の事実を公式発表するのは日本航空株式会社である。その原因を調査するのは事故調査委員会の役割である。なのに、なぜこの段階で中曽根氏の許可がいるのか。ここにも大きな矛盾が出ている。彼は報告を聞いて自衛隊が関与した事件とわかった。だから、国の発表ということを意識した発言をしてしまった、となると辻棲が合う。
 
 中曽根首相「防衛庁と米軍でやり取りがあっただろう」。
 
 もしこれが「日航とボーイング社が独自に連絡を取り合っていたのだろう」というならば、全く問題はない。
 しかし、官邸、いわゆる首相を飛び越えて相談もなしに、国防に関することを防衛庁が米軍と好き勝手にやっていた、という前提で話をしている。そんなことを許していたとすれば由々しき事態であり、彼自身、その点はよくわかっていたはずだ。
 これは、二〇一二年出版の回顧録であるから、逆にいえば、米軍と防衛庁に自分が指示を出していたということを隠すために、自分の罪を逃れたい一心で、思わず発言したのではないかともとれる。
 書簡では二日後(八月十四日)、FAXの件名には八月二十二日(図4、本書 二三頁参照)、つまり、実際に外務省ではすでに「事件」であると認識して、レーガン大統領への書簡で事件と書いていたのだから、その事件を引き起こした犯人は誰か知っていた、ということになる。
 そうなると、中曽根氏自身の口からうっかり出た人が起こした事件であることは間違いない。つまりそれは、「米軍と自衛隊」だ、となる。
 他の閣僚たちの発言からも、より一層真実が見えてくる。
 同夜十一時から首相官邸で、山下徳夫運輸大臣を本部長とする政府の第一回日航対策本部会議が開かれた。
 同日深夜、二十三時五十分、運輸省で記者会見があった際の山下運輸大臣の言葉は次の通りである。
 「全く予想できない事故でびっくりしている。現段階ではまず乗客乗員の救出に全力を挙げる」、同会見後、大臣室ソファに座った山下運輸大臣は大きくためいきをつき、「技術的なことはわからないが、これは人災だ」と発言したとの報道があった。
 
 山下運輸大臣「これは人災だ」
 
 運輸大臣が人災と認識したということになる。これもまた事件の真相を補完している発言である。逆に、「事故原因究明に全力を挙げる」という言葉は全く出て来ない。
 通常、航空機事故の場合、当たり前に出てくる「事故原因究明」という言葉が全くないのは、明らかに原因がわかっていたからこそ、究明することに全力を挙げる必要などなかったからだ。
 だから、外務省も「事件」と書いていたのである。
 さて「事件」は続いていく。
 
・八月十三日 (火) 米軍トップに勲章
 日付が変わり、深夜0時05分、今度は引き続き、事故調査委員会(通し番号第二〇四回委員会)の第一回目の会議が山下運輸大臣も出席して行われた。政府による第二回目の会議は10時00分、同日の午後には山下大臣は現地視察に行っている。その際のコメントは次の通りである。
 「事故機は福岡から東京便で羽田に着いた後、東京から大阪便として出発した。私はその福岡から東京便に乗っていたが、そのあと整備や点検はしっかりとなされた。機長もベテランで人災ではなかったと信じている。あくまで天災と信じたい」
 
 山下運輸大臣「あくまで天災と信じたい」
 
 人災と発言した翌日、今度は天災と信じたいと語っている。大きく揺れ動く信じたい気持ちには、何が含まれていたのだろうか。
 私が二〇一〇年に山下徳夫氏にお会いした際、この話のみならず、オレンジ色に拡大した窓の外の写真をお見せしたが、山下氏はわざと驚いた表情をなさった。それは、どうか察してくれ、という意思表示に思えた。こういう気持ちだったのだろう。
 この十三日の新聞各紙「首相の行動」によれば、同日16時30分に、クラウ米太平洋軍司令官、ティッシュ在日米軍司令官、マンスフィールド米駐日大使が同席して、18時50分までの長い時間、会談を行っている。『ジャパンタイムズ』によれば、クラウ氏へ勲一等旭日大綬章を授けたとあるが、中曽根首相は五百二十一人(胎児も含む)死亡の墜落現場へ行かず、先に米軍へ勲章を与えたということになる。
 もう一度外務省公文書の図2(本書 一五頁)をご覧いただきたい。この場で同席している人、マンスフィールド大使のサインがある。その大使に託されたレーガン大統領の書簡に外務省職員が「事件」と書いていることからも、その場で何を話し合っていたのかは一目瞭然である。さらに、異例のスピードで、米国国家運輸安全委員やボーイング社調査団が、日本行きの飛行機に乗ってこちらに向かう準備を開始している。つまり、この場で日航123便事件の今後の処理について話し合ったといえる。
 なおその日の夜に日本航空から、事故機が一九七八年に胴体後部底部を滑走路でこすって修理交換している機体であった旨が公表された。
 
・八月十四日(水) 隔壁修理歴発表
 日本航空の根尾製造技術部機体グループ課長によって、墜落したJA8119号機の事故歴が明らかになったと全国紙で大々的に報道された。
 同日、15時55分に首相官邸にて、日本航空社長である高木養根氏が中曽根首相と面談している。
 高木社長は、十二日深夜、山下運輸大臣に「パイロットミス、事前点検ミスはなかった」と報告しているが、ここで事故歴があったことを正式に伝えたのだと思われる。引き続き、事件であることを公表するかどうか、事故歴の飛行機のせいにするのか模索中だったのだろう。ちなみに高木社長は、後日、遺族の面前で「官邸に行けば殺される」と発言していることから、よほど強力な圧力を受けたようだ。高木社長は、単独機世界最大の死者を出した自社の飛行機が、事件によって墜落したことを聞いたのだろうが、事件を事故としてもみ消すための話もあったのではないだろうか。彼は当時の日本航空が半官半民であって、自社の歴史上初めての生え抜き社長であったにもかかわらず、毅然とした態度で突っぱねることができなかった。自分たちの仲間の運航乗務員と客室乗務員、合計十五名も犠牲となって殉職したことを考えると、社長としてやるべきことをせず、その後、犯人隠蔽という大罪を犯したことになる。
 この日の深夜、ボイスレコーダーとフライトレコーダーが回収された。解析や再生は十六日以降になる予定との報道があった。
 
・八月十五日 (木) 垂直尾翼調査
 同日午後、米国ボーイング社の事故調査部門技術者チーム五名、米国国家運輸安全委員会(NTSB)の調査官二名、運輸省事故調査委員、米政府関係者(米国大使館員)らが、神奈川県第一機動隊(横浜市金沢区)を訪れている。そこには、相模湾で回収した垂直尾翼の破片や方向舵の一部等の落下物が保管されていた。立ち会った神奈川県警の話が次のように報道されている。
 「米国側の国家運輸安全委員会(NTSB)とボーイング社だけが中に入り、落下部を詳細に検分していた。十三日に回収された垂直安定板に注目。特に何か強力な衝撃でちぎられたようなギザギザの切断面を見せる下部(接合部分)とさらに上部を詳しく見ていた」ということだった。
 米国の調査団が来日して最初に注目したのは垂直尾翼周辺であった、ということがわかる。つまり、墜落現場の御巣鷹の尾根上の残骸ではなかったのである。事件は相模湾上空で発生し、それが事故ではなく、事件であることが明確になっていった。
 そしていよいよ中曽根氏は動いた。それは夫人と一緒に人間ドックに入ることだったのである。
 五百二十人が死亡した世界最大の単独機墜落で遺体回収の最中、現場に行くこともなく人間ドックだ。報道関係者には、通常予定していた健康チェックだ、とさらにうそぶいた。場所は東京女子医大病院。この日の16時21分から、次の日も検査と休養でまる一日病院となっているため、首相の動静は報道陣には全くわからない。病院ならば裏口はあるし、自由がきく。ここで各方面に様々な依頼や話し合い、今後の方針についての詳細な計画を練ったのだと思われる。
 
・八月十六日 (金) 最初の隠蔽工作――スクープ記事
 ようやく回収されたボイスレコーダーとフライトレコーダーの解析が開始された。損傷も激しいため、すべてが明確になるには一週間以上かかる、とのことだった。
 上野村の墜落現場において、事故調査委員会の委員が「お椀状の原形をほぼ完全に残した後部圧力隔壁を発見」と語ったと報道されていた。しかし、破損していない後部圧力隔壁を発見したにもかかわらず、おかしなスクープ記事を出したのは、『毎日新聞』であった。
 「一九七八年の尻もち事故の修理ミスが疑われる後部圧力隔壁の破損が事故原因と思われる」という内容であった。唐突に出てきた後部圧力隔壁破壊説だった。墜落してたった四日後に出たこのスクープ記事は、あまりにも無責任な報道であった。
 それにもかかわらず、この日を境に、この曖昧な情報に引きずられていく。
 なお、『毎日新聞』ではその後の二〇〇〇年に、この当時の自分たちのスクープそのものを否定している。記事そのものは先著『日航123便墜落の波紋』の七〇頁に掲載した。
 見出しは次の通りである。
 「日航機墜落 きょう15年 「圧力隔壁説」に???
 機内与圧低下の影響見られず 在日米軍、現場降下直前に帰還 遺族に知らせず関連資料廃棄」
 そうなると一体、誰が故意的にスクープさせて、その方向で記事を書くように誘導していったのだろうか。その情報を流した『毎日新聞』内では、当時はスクープだったともてはやされたことだろう。しかし、十五年後は自ら否定せざるを得なかったのである。
 しかし、それから三十年後の二〇一五年七月二十六日、その「スクープ」をリークしたのが実は米国側であったことが、次のような報道からわかってきた。
 「一九八五年九月六日、『ニューヨーク・タイムズ』紙が、同機がしりもち事故発生時にボーイング社による修理ミスがあり、それが墜落の原因であるとNTSBが見解を出した、と報道したのは、実は当時のNTSBの幹部が意図的に英国有力紙に漏らしたからであると、元幹部が証言した。その理由は、日本の事故調査委員会側が全く報道しないので、じれったく思って先に米国から出したのだ、と語っていた
 あのスクープもこの『ニューヨーク・タイムズ』紙への発表前であったから、この記事同様に、一連の流れとして米国国家運輸安全委員会(NTSB)による意図的な策略であったのだろう。
 それに引っかかったのが『毎日新聞』記者であったとなる。
 ただ、スクープや『ニューヨーク・タイムズ』紙に出させる計画は、日米が合意していなければスムーズにいかない。しかも、特に『毎日新聞』の場合はボイスレコーダーもフライトレコーダーも全く解析していない段階で、スクープさせた、ということになる。
 このような状況であっても、外務省職員はスクープ報道を無視して、淡々と事件と認識していたことになる。外務省がなぜこのように確信的に事件と書いたのか、それについては後で述べる。
 
・八月十七日 (土) ボイスレコーダー一部公開と日航側の反論
 ボイスレコーダーの録音の一部が公開された。その日の午後、日米合同調査において、墜落現場を訪れ、報道陣をシャットアウトして後部圧力隔壁部分を復元して検証を行ったと報道されている。
 なお翌日、圧力隔壁被壊説に対して、日航側が反論を開始した。
 
 ・八月十九日 (月) 日航側・後部隔壁修理ミス説全面否定
 日航側が独自の調査をしたコンピュータ解析結果を発表した。河野宏明整備部長が会見して次のように述べた。
 「突風など何か外からの力で垂直尾翼が折れ、それに伴い隔壁に傷がついたとも推測できる」として、外的要因を強調したのである。外的要因、これについても後から詳細に述べる。
 とにかく日航側は必死に原因を突き止めようとコンピュータ解析を行った。その段階で、飛行機の残骸や客観的証拠物に基づいてできる限りの調査をしていた。そして突き止めたのは、外的要因の可能性であった。高木社長はその報告をどういう気持ちで聞いたのだろうか。
 すると、今度はそれに対して運輸省が、猛反撃に出てきたのである。
 
・八月二十日 (火) 運輸省・圧力隔壁説を擁護
 そこで突然に出てきたのが、運輸省の大島航空局技術部長の発言である。
 「圧力隔壁が事故に重大な絡みがある」
 日航側が、外的要因を指摘した途端、運輸省側は圧力隔壁説を強調した。
 実は外務省同様に、運輸省では内部ですでに事件とわかっていたはずだ。それを隠すために、圧力隔壁説を出してきたことがここからわかる。この大島航空局技術部長は、さしずめ森友問題の佐川宣寿氏同様なのだろう。このやりとりから、非常にわかりやすい構図が見えてくる。
 外務省が事件と認識していたのだから、同じように運輸省も事件と認識していた。それにもかかわらず、わざと事故を強調するコメントを出した。しかも、航空機事故は専門性が高く、調査は専門家の事故調査委員会が行うことになっており、その報告書も、調査すらまだ進んでいない段階で、結論を先に決めつけた発表をしたのである。
 何を根拠にこの人はこのような発言をしたのだろうか。航空局では何の実験もしていない。
 つまり、この時すでに官僚たちは、墜落原因が「事件」によるものとわかっていた。だからこそ、今度は省庁間で口裏を合わせるようになっていった。この時、日本航空側が内部調査と独自のコンピュータ解析結果で外的要因を発表したことに、よほど慌てたのであろう。
 その一方で、まだこの時点では、日航側の技術者たちは事件について何も聞かされていなかったのだろうと推定される。だからこそコンピュータ解析結果を発表した。
 ただし、高木社長や、元運輸省事務次官の町田直副社長は、「事件」ということを知っていた可能性は高い。それならば、なぜ社員たちへそれを伝えなかったのだろうか。
 実際にそのとき社員だった私の周囲でも、全くその気配すらなかった。この私ですら、本を執筆する前は報道発表を鵜呑みにしていたくらいである。それにはおそらく、次の三つの要素が働いたと考えられる。
 一つは、高木社長は、中曽根康弘首相から事件の詳細は聞かされずに、米軍にやられたという説を強調され、政府が外交で片を付けるまで、社長の胸の奥に収めておくよう強く言われた。ただ社長としては、社内調査を公表することによって本当の墜落原因を明らかにしてほしいと願っていたから、社員たちの調査結果を見守っていた。
 二つ目は、このとき日本航空は半官半民で、五十パーセントの株式を政府が持っていたことから、主導権は政府にあり、中曽根康弘首相の言いなりになるしかなかった。さらにこの時代の日航社員は政府関係者の子弟が多く、社長といえどもトップダウンできるような統率力はなかった。むしろ乗員組合等のほうが強くてパイロットの給料は社長よりも高く、いつも労使間の問題が絶えなかった。従って、政府の発表を待つしかなかった。
 三つ目は、まさかこの時点で自分たちが濡れ衣を着せられる可能性があるなどとは思っていなかった。万が一、社員たちに罪をかぶってくれと伝えたら、自分の社長としての立場や労使間の信頼関係は吹き飛ぶ。社員になじられるのは当然であり、社員を悪者にすることができなかったゆえ、伝えられなかった。
 このように、社内が揺れ動く中、それぞれの遺族に世話役として日航社員が付き添い、遺体確認の現場では罵声や苛立ちの矛先が日航社員に向けられた。医療関係者が白衣に、「日本○○大学」と書いてあっても、日本航空の文字のうち、その一つが入っていれば殴られて大変だと聞いた。凄惨な遺体の棺桶の中に顔を突っ込まれた社員もいたし、その後自殺した社員もいた。
 だからこそ必死に事故原因を探ろうと社内調査をしていたのだろうが、それを運輸省の官僚は何の根拠もないまま、霞が関の机の上で証拠もなしに後部圧力隔壁だと言い、否定し続けたのである。まるで佐川氏の指示で公文書を改ざんした森友問題と同様である。
 実際にその後、運輸省で修理改造検査担当検査官の東京航空局航空機検査官、田島泰さんが自殺している。これも森友問題で改ざん指示を訴えて自殺した赤木俊夫さんの場合と同様である。
 このように世論が右往左往する中、その重要証拠物の後部圧力隔壁は、すでに十三日の段階で自衛隊員によって電動ノコギリで放射線状に沿って切り刻まれてしまっていた。この重要証拠物が、あっという間に細かく切断されて、それをまだ墜落現場の山から降ろして検証もしていないうちに、「後部圧力隔壁」説だと運輸省が強調しているのである。これは明らかに、誘導的発言であることがわかる。
 しかしながらこの発言によって、報道各社は加速度的に圧力隔壁説に傾いていくのである。なお、当事者のボーイング社と日航は、それを否定し続けていた。
 
・八月二十二日(木) 中曽根康弘首相在職千日祝い
 この日、戦後五番目の長寿となった首相在職一〇〇〇日、として、満面の笑みをたたえた中曽根康弘の顔が報道に出てくる。彼はこう語った。
 「今年の夏、週末は軽井沢で過ごし、健康優良児になるよ。まずゴルフだったが、日航機事故以降は自粛している。代わりにテニスと水泳、読書三昧で過ごしている」
 そして政治部記者との楽しい会食に余念がない。そして、この時点でも上野村に行っていない。
 なお、本当にそうだったのだと確信したのは中曽根首相逝去時の報道だった。昨年十一月の逝去報道では、各局が申し合わせたように、「日航」という文字を外した。中曽根首相が日航民営化を成し遂げたことや、在任中の世相として、一九八五年に世界最大単独機死亡事故となった123便の報道をしなかった代わり、その時の軽井沢での夏休みのフイルムを公開した。喜々として楽しそうにプールで泳ぐ首相の顔を見て、私は事件を事故として偽ることができる人の心根が露見したと感じた。それはまるで、うそぶけることが首相になる条件なのだと言わんばかりであった。これは他人を犠牲にしてもかまわないほど自己愛が強く、自分の地位を守りたかったに過ぎなかったと思われても仕方がない行動である。中曽根首相が「楽しい夏休み」と語っていた時、まだ遺体が見つかっていない遺族たちはどのような思いでその言葉を聞いていたのだろうか。
 彼は、異常なほどの執着心を持って、ただ首相であり続けたかっただけなのではないだろか。
 この時、隣の上野村では、壮絶な現場での遺体収集の作業中であった。検死医師たちは、凄まじいほどに炭化した遺体を前に、わずかに残った歯型から死に物狂いで身元確認を行っていた。この大惨事があった隣町で、首相と一緒に会食をしていた政治部記者たちは、その後どのような思いでこの事実を受け止めたのだろうか。それとも、いまだに隠蔽に加担しているのだろうか。
 
・八月二十三日 (金) 事故調査委員会による隔壁説否定
 さて今度は運輸省発表について、事故調査委員会が反論した。当時はまだ運輸省内に設置されており、現在のように外局として独立した組織ではなかったのだが、現場に出向き、実際に調査を行っていた調査官の発言は次の通りである。
 「隔壁に大穴はなかった」と語ったのだ。
 つまり、事故調査委員会側は、大島航空局技術部長の発言に、異議を唱えたことになる。ここに、両者のせめぎ合いが見て取れる。当事者の日航とボーイング社は依然として隔壁修理ミス説を否定し続けている。
 
・八月二十七日 (火) 第一回中間報告・隔壁説はまだ未定
 この日、事故調査委員会が第一次中間報告を出した。しかし、その内容は後部圧力隔壁説を決定づけるものではなかった。衆議院運輸委員会での答弁で、まず山下運輸大臣は、「警察、事故調査委員会の捜査が本格的に始まったばかりで、まだいつ頃判明するかわからない。相当時間がかかる様子だ」と語っている。
 航空事故調査委員の藤富事務局長は、「機体後部になんらかの不都合がみられて、これが原因の一つであると思われるが、ただちにこれだという段階ではない」と答弁している。そして、運輸省の大島航空局技術部長は、「ジャンボ機の一斉点検では特に不具合は見つかっていない。日航立ち入り検査では、整備関係を重視する」としながらもさらに、「私どもは圧力隔壁が事故に重大なからみがあると理解している」と強調して付け加えた。
 自分の省の運輸大臣が、「捜査が本格的に始まったばかり」と語るにとどめ、事故調査委員も「これだという段階ではない」と言っているにもかかわらず、である。
 この運輸省官僚の発言を見ても、最初から圧力隔壁に導きたいという意思が見て取れる。
 
・九月六日(金) 米国の『ニューヨーク・タイムズ』紙で隔壁説を強調
 ここで、先ほどの『ニューヨーク・タイムズ』紙が、すっぱ抜きの記事を書いた。
 「同機には、しりもち事故発生時にボーイング社による修理ミスがあった、それが原因だ、というのが、NTSBの見解だ」
 これで流れが一気に修理ミスに傾いた。事故調査委員会の発表に対して、じれったく思って出した、という前述のとおり、世論をうまく誘導できたことが、ここから確認できる。
 
・九月十四日 (土) 第二次中間報告・日航隔壁説否定
 事故調査委員会が第二次中間報告を出した。七年前の大阪空港における尻もち事故の修理ミスによって金属疲労が生じたことが原因で、後部圧力隔壁が破壊されたという内容だった。それでもなお、日航の河野宏明整備部長は、ボーイング社の修理ミスを否定した。
 
・十月二日 (水) ボーイング社がミスを突然認めた日
 修理ミスを否定し続けていた米ボーイング社が、突然、修理ミスを認める発言をした。
 なお補足説明をすると、この年、ボーイング社は史上最高の利益を上げた。
 日本政府は、修理ミスをしたボーイング社の飛行機を全日空も含めて当事者の日本航空においても、防衛庁に対しても大量に購入することを指示したのである。年度末には、同社は過去最高の売り上げを記録した。
 どこに、五百二十人を死亡させる修理ミスを犯した会社の製品を、大量に引き続き買う会社があるだろうか。日本航空もそんな会社の飛行機をいくら購入しろと言われても、信頼関係を持てず、恐ろしく危なくて購入できるはずがない。遺体がまだ見つからないと泣き叫ぶ五百二十人もの遺族の声に耳を傾けている最中、大勢の方々が犠牲となった飛行機をさらに買う?そんなことはできるわけがない。
 しかし、表向きの事故原因は修理ミスだが、実は違うのだ、と聞かされたのならば話は別である。さらにそこになんらかの取引が存在していたことになる。
 ボーイング社は当該飛行機のみがミスをしたと認めることと引き換えに、日本政府側に自社機を大量に購入してもらう約束をしたと容易に推定される。
 
・十月九日(水) 事故調査委員会委員長辞任・他の委員も数名辞任
 事故調査委員会委員長の八田桂三氏が体調不良で辞任をして、後任は武田峻氏となった。
 なお、後任の武田氏は、相模湾に沈んだままの航空機の残骸を引き上げよと詰め寄った遺族十一名に対して、思わず「引き上げて余計なものが見つかったら困る」と発言した人物である。この発言は出席していた遺族から証言が取れている。あきらかに彼は事件を隠し、事故とするために、異論を封じ込める役割を頼まれて、それを認識しながら、委員長の後任を引き受けたことになる。なお、いつも政府の発表を擁護するときは『読売新聞』が出てくるのだが、その『読売新聞』の社会部にいた記者が武田氏にインタビューした内容を本にしている。その中で武田氏は「あれは事故だった」ということを強調する物言いをしていたが、いくらそう語っても、当時の外務省が公文書に書いた「事件」を、「事故」にした最高責任者としての罪は重い。武田氏が大正生まれの東京帝国大学卒でその分野では権威があり、なおかつ令和の時代と世情が異なるのだ、というような言い訳はできない。
 公式発表では五百二十人だが、あえて胎児を含む521人としてこの数字が物語る深い意味を考えると、彼らの人生を奪った原因を調査するにあたっては、そのいのちと遺族の想いに答えることを最優先に考えて調査するのが本来の委員長の役目である。今となっては国民の信頼を裏切ったとしか言いようがない。
 いくら権威のある方であっても、人として、絶対にやってはいけないことなのである。
 
 その後に出た事故調査報告書による結論は周知のとおりで、後部圧力隔壁の修理ミスに起因する墜落事故と変えられて、これは現在、今この時まで変わっていない。
 
 これらをまとめると、次のような流れとなる。
 日航が指摘した外的要因説やボーイング社による修理ミスの否定が続く中、政府はこれらをねじ伏せて、「事件」を「事故」にすべく、金銭を絡めた取引を早々に開始した。
 次に、事故現場に出向いた事故調査委員会が指摘した「後部圧力隔壁修理ミスではない、完全な姿で発見された」という発言を否定して、この見解を完全に無視していった。さらに運輸省の航空局部長は、後部圧力隔壁修理ミス説を声高に唱えた。それでも事故調査報告書の中間報告では、まだ修理ミス説を確定していない。
 すると今度は突然、米国内の新聞で修理ミス説がスクープされた。それが報道されてから、国内報道のすべてが、後部圧力隔壁修理ミスが原因である、となっていった。

 その混乱の最中、自衛隊員が重要な証拠物の後部圧力隔壁を破壊して寸断し、梱包処理してしまった。なお通常、犯人というものは自分が犯した証拠を隠滅することを優先するものだ。運輸省航空局も自衛隊員による証拠物隠蔽を咎めることもなく黙認した。
 こうやって、外務省官僚が明確な意思を持って記録した「事件」は、まだ科学的根拠が何もない段階で、運輸省官僚によって「事故」となり、世間に公表されていったのである。
 
 次に報道の流れはどうであったかというと、初期段階の報道では、オレンジ色の物体がぶつかったのではないか、自衛隊の標的機が衝突したのではないかなど、隔壁説以外の外的要因を指摘する様々な疑惑や疑問を持つ人たちの報道も多かった。
 しかしながら『毎日新聞』のスクープ記事がきっかけとなり、米国内での新聞報道によって、まだ調査結果も出ていない段階から隔壁修理ミスだと断定されるという報道に傾いていく。外圧に弱い日本人の典型的心理を利用したとも言えよう。その中で異論は掻き消されていった。外的物体要因説を唱えた人には荒唐無稽とレッテルを貼り、その後もこれらを陰謀論と呼んで、一切無視を決め込んでいった。
 しかし、外務省内では早々に「事件」だと認識しているのであって、それを事故と言い張ってきた政府の思惑が透けて見えてきた。
 今だからこそ言えること、それは、「後部圧力隔壁修理ミスによる墜落事故」、これ自体がこの時の政権が作り上げた陰謀だったのだろう。
 さらに金銭取引の実態は、次のように明らかになった。
 その年の一九八五年十二月二十七日付『日本経済新聞』によれば、ボーイング社は、二兆四千九百億円という過去最高の受注を得た。その後も自衛隊やANAも含めて日本政府はボーイング社の飛行機を買い続けた。ちなみにANAはJALと違って民間会社だったのだが、レーガン大統領がANAも購入してくれてありがとうというお礼まで述べている(図7、その原文[英語]は巻末資料として二一六〜二一七頁に掲載した)。
 一方、五百二十人の犠牲者を出した日本航空の株は、事件発生時は下落したものの、その後政府株放出の思惑が報道されてからはうなぎ上りとなり、なんと、その一九八五年の年来の株価は史上最高値を付けた。こうやって、両社は521人(胎児も含む)のいのちを金銭と引き替えた。
 そして事件の隠蔽に加担する道を歩んでいく。
 これが、当初から事件であったにもかかわらず、事故にされていった過程である。

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