第三章 沈黙と非開示――罪を重ねる人々

当時の事故調査委員会が、異常外力着力点という事実をなぜ調査対象から外したのか。 本来、そこからスタートすべき事故調査報告書に、墜落原因は圧力隔壁という理由を後から付けたのは何故だろうか。軍事行為による「異常外力発生」によって墜落したことが間違いないとすれば、それを記した公文書は果たしてどこに存在するのだろうか。 二〇一九年に、ご遺族の一人が請求人となって、国土交通大臣宛てに「日航123便墜落事故のボイスレコーダー、フライトレコーダーその他調査資料一切(マイクロフィルムを含む)」の行政文書開示請求を行った。 その請求に対する運輸安全委員会事務局長からの通知結果は、一部のみ開示、あとは全て不開示であった。その一部とは何かというと、すべて英文の書類である。そこには、日本の事故調査委員会が作成した日本語のものは一つもない。しかもその英文書は、米国での一般的な解説文であり、次の七つだけである。外国人が提供した英文書を公開し、自分たちが作成した議事録やその他諸々すべては不開示という対応である。 その英文のタイトルを簡単に訳して並べてみた。ここから事故調査委員会の意図的な策略が見えてくる。 開示可能な書類(すべて英文、詳細は本書一九五頁参照) 米国・軽飛行機の衝突実験−三つのフライトパーツ角度によるもの NASAとFAAによる一般的な航空衝突プログラム NTSB (AAS−81−2)大型輸送機の機内安全について ボーイング耐空性の指令第二巻(AD86−08−02) ボーイング耐空性の指令第二巻(AD85−22−12) 飛行機の損傷許容要件(USAF) DC−10 意思決定基準要約レポート(FAA) これらはアメリカのNASA(航空宇宙局)やFAA(連邦航空局)、NTSB(国家運輸安全委員会)が作成したネット上でも閲覧できるような米国−般文書であって、日本の公文書ではない。日本の事故調査委員会が自分たちで作成したものや日本語の文書は一切含まれていない。この決定からは、 「遺族がその場で閲覧するのだからどうせ英語ならわからないだろう、適当に英文書を一部開示として伝えれば、統計上一部開示として数値が上がって、閉鎖的ではないという体裁が保てる」と判断したのだと推定できる。 そこでこの決定を不服として、行政不服審査法の規定により審査論求を行った。これは先ほど述べたように、運輸安全委員会委員長による不開示が妥当なのかどうかについて、請求人から不服が出たことを受けて、総務省情報公開審査会に諮問し、委員が審議して答申する、それを答申書にまとめて請求人に裁決という流れになる。 審査委員三名によって詳細な調査を重ね、このまま不開示でよいのかどうかについて、そこに正当な根拠があるのかどうかを調べるのである。その会議には法律で強い権限が与えられており、各省庁は黒塗りされていない文書や図表等を提出しなければならない。非公開の場で本物を見て判断をすることになる。さて、その結果はどうなったのだろうか。 二〇二〇年(令和二年)三月十日、公平で中立な委員たちが出した答申書は、「本件対象の文書、その全部を不開示とした決定は妥当」であった。つまり「不開示でよろしい」という結論である。 その理由については、この審査会そのものの弱点も見えてくるので答申書の要点をわかりやすく解説していきたい。 まず当初、運輸安全委員会が請求人の遺族に対して、不存在と回答したボイスレコーダーとフライトレコーダーについてである。これについては審査途中で通知があり、「不存在」ではなく、「日本航空に返却した」という内容に変更された。 審査の結果、運輸安全委員会は所有者の日本航空へ返却したために不存在という結論となった。 ここで日本航空がそれらを所有していることが明確になった。 次に、当時の事故調査委員会の議事録や文書、証言、図表等の扁について、通常ならばその全体像を明らかにしてリストを作成し、これは開示できる、これは不開示と個別具体的にするものなのだが、一切それをせずに、いわゆる十把一絡げ状態で全部不開示であった。その理由は要約すると以下のとおりである。 @ 対象文書は複数の資料等から構成されている。運輸安全委員は、科学的で公平な判断を行うために職権が独立して行うこととされている。しかし個別具体的に特定した文書が明らかになると、検討や審議、前提となる調査内容や方向性について、外部から指示、干渉、不当な圧力を受けるおそれが生じる。このおそれは、この文書を公にした場合も生じる。 終了したものでも、将来予定されている同種の審査検討での意識決定に不当な影響を与えるおそれがある。 A 関係者から得た情報は一定の信頼関係によって原因究明目的以外ではたとえその一部でも収集したものを公開することは信頼関係を著しく失うおそれがある。 B公にすることで他国等の信頼関係が損なわれる情報について、一般の行政運営情報とは異なり、政策的判断を伴う。我が国の安全保障上または対外関係上将来予測として行政機関の長の裁量を尊重し、国際民間航空条約の下で国際的枠組みを前提として、我が国の一存で公にすることは、我が国の事故調査制度に対する国際的な信用を失墜させるおそれがある。 この答申書では、他にも文書内で異常なほど「おそれ」という言葉の乱用が見受けられる。ボーイング社と日航が墜落の原因を認めて、すでに公にされていることばかりである。それ以外の何をおそれるのだろうか。ましてや、国際民間航空条約を持ち出すことは、全く理由にあたらない。なぜならば、世界中の航空機事故の裁判では、当たり前に公文書を開示しているからだ。米国でもイギリスでもどこでも三十年経てば国際的な取り決めで公開しており、外務省情報公開審査基準でも明らかである。日本における外交記録公開制度は、ICA(International Council on Archives)国際文書館評議会の原則を踏まえることを自ら定めており、国際基準においても関係諸国同様に、戦後ICA三十年公開原則を基本として外交を行っている。それからみても、日本だけが逆に守っていないということになり、この審査委員の理屈は通らない。 さらに、インドで起きた日航ニューデリー事故では、ボイスレコーダーやフライトレコーダーも含めたインドの事故調査報告書の資料、情報、目撃者の証言などをすべて公開して、インドのニューデリー高等裁判所において裁判を行った。米国、イギリス、さらに日本からも警察が出向き、日本航空は機長も法廷で証言した。NHKではその一年後、「あすへの記録」というドキュメンタリー番組まで作っているのである。これを見ても、どこに、国際関係を損なうおそれが存在するのだろうか。単に自分たち(事故調査委員)が公開することをおそれているにすぎない。 さて、詭弁の際たるものは、 「本件事故の調査過程で内部での検討のために作成された文書が含まれており、これらは審議途中の検討段階における資料である」 つまり、三十五年間も審議途中で、現在も検討中である、と書いている。いつ審議して、どこにその形跡があるのだろうか。一九八七年(昭和六十二年)に最終報告書が出されて以降、二〇一一年の解説書で、数ページもかけて相模湾で残骸が発見されない言い訳を書いたのが最後である。 審議中というならば、最も重要な相模湾での残骸引き上げすら行っていないことをどのように説明できるのか。それでもなお審議途中といえるのだろうか。言えるはずもない。なぜならば、二〇一五年八月十二日、相模湾で機体の残骸が見つかった際、運輸安全委員会はマスコミに対して、 「すでに事故調査は終了しており、コメントは差し控えさせていただく」と述べている。自らテレビという公の場において、「終了している」ことをはっきり認めているのである。 公正、中立でなければならないはずの答申書は、「審議継続中につき不開示」でいい、だから、国立公文書館に移管するつもりなど全くない、という国土交通省外局運輸安全委員会の無責任な見解を発表しているにすぎない。明らかに自分たちの都合に合わせた方便である。 この答申書が物語る本心を書けば、「実際は終了しています。しかしながら一応審議途中にておきます。三十五年間もずっと審議していることにすれば不開示と言えるので、不開示とします。だから証拠品は誰にも見せるつもりはありません。なぜならば諸外国や世間に自分たちの失態がばれてしまうからです」ということだろうと思われる。 ところで、日航123便事件では、米軍と自衛隊の関与が問われている。どちらがどう関与したのかについては現時点ではわからないが、まず一九八五年の背景として日米貿易摩擦問題がある。日航123便事件翌月にはプラザ合意もあってそれに絡めて米軍にやられた、という事件かという見方もあろうが、もしその結果として日本が対米追従している現状を見れば、弱みを握られたのが日本側であるのは事実だ。 自衛隊が一晩中、人命救助よりも隠蔽工作をしていたことは、その後の調査で明らかであり、そこをとっても犯人を裏付ける証拠となる。航空自衛隊戦闘機のファントム2機が墜落前の日航機を追尾したことが目撃されていること、練習用のオレンジ色の物体を誤って発射させて外力を発生させたことによって垂直尾翼が破壊され、それが墜落の原因を作ったこと、この点についても異常外力着力点の存在によって明確になった。今後開示される公文書を見ればより一層詳細にわかってくるだろう。 他方で私が注目したのは、軍事産業を推進したいという「ロン・ヤス」の軍需経済優先の政策がその根底にあったということである。 一九八五年当時、中曽根首相の肝いりで日本企業も負けてはならないと、ミサイル開発に着手し、その真っ只中で日航123便墜落事件が発生した。この時、軍需産業開発で電子関連のシステムを担っていた日本の企業も勝負をかけていた。自衛隊の装備も充実させていこうと躍起になっていた時に、事件は発生した。その際、人命救助よりも優先したのは、軍需産業推進というお金であり、自分たちの失態の隠蔽であった。墜落現場で、ガソリンとタールの臭いが充満するほどの火炎放射器という武器によって、自衛隊員が一晩中隠蔽工作のために現場一帯を焼き尽くしていたことが、日航123便の機体残骸である遺物の成分調査をした結果からわかった(『日航123便墜落遺物は真相を語る』参照)。科学は真実を語ったのである。だからこそ、異常外力着力点の存在そのものを隠したかったのだろう。 そして、日航123便事件では、自衛隊の災害派遣とは別の顔、日頃の訓練を重ねている戦闘行為の顔がまさに露見したのであり、非常事態に対して最高責任者としての中曽根首相がその隠蔽に加担したからこそ、各省庁の官僚たちが唯々諾々と従ったのである。公平で中立でなければならないはずの情報公開・個人情報保護審査会の委員たちも、その本分を忘れて、情報公開をしない詭弁を答申書に書いたといえる。しかし、政府が犯した犯罪は、何でも隠蔽できるという前例を作ってはならないのである。 日航安全啓発センター――情報操作の役割 こうした隠蔽に加胆する日本航空の責任も大きい。 〈あの日〉をいつまでも忘れないという思いと風化防止を願って、日航安全啓発センターは、二〇〇六年四月二十四日に設立された。 ここのパンフレットによれば、 「この事放で亡くなられた皆様の苦しみやご無念、残されたご遺族の悲しみは計り知れないものがあります。私たちはこの事故の悲惨さ、航空安全に対する社会的信頼の失墜を省みて、二度とこうした事故を起こしてはならないと堅く心に誓いました」とある。 事故の概要として、 「ドンという音と共に飛行の継続に重大な影響を及ぼす異常事態が発生しました。機体後部圧力隔壁が破損して、客室内与圧空気が機体尾部に噴出し、APU(補助動力装置)及び機体後部を脱落させ、垂直尾翼の相当部分を破壊し、それに伴い動翼を動かす油圧装置がすべて不作動となってしまった。(中略)本事故の原因は、同機が事故の七年前(一九七人年)、大阪空港着陸時に起こした尾部接触事故の修理に際し、ボーイング社により行われた後部圧力隔壁の上下接続作業の不具合にあり(中略)捜索、救助活動は事故後ただちに開始されたが、人里離れた山中でもあり、墜落場所の確定も遅れ救難隊の現場到着は翌朝となった」 という内容を、読みにくいほど薄い白色の文字で記している。 さて、今まで得た情報と知識を踏まえてこの文章を読めば、誰でも日航安全啓発センターの本当の役割が見えてくるだろう。 客室内与圧空気が噴出したのではなく、異常外力の着力点が垂直尾翼中部にあった、それによって垂直尾翼が破壊された、と事故調査報告書の『別冊』に書いてあるにもかかわらず、一切触れていない。 次に、修理ミスはボーイング社によるもの、とあるが、当時群馬県警に書類送検されたのは、日本航空側の人間たちもたくさん含まれていた。 さらに上野村が人里離れた山中だとしても、すぐに上野村の村民たちは警察やNHKに電話で通報し、村長は中央政府に連絡していた。「人里離れた地域だから知らなかった、だから墜落場所確定が遅れた」とわざわざパンフレットに書いてあげているのである。 一体、どこの誰のための安全啓発センターなのだろうか。 さて当時、日本航空の社員で群馬県警によって一九八八年十二月一日に送検された被疑者十二名が墜落時とその後でどうなったのか調べてみると、墜落時(一九八五年)の役職が、その後、前橋地検が書類送検して被疑者となった時点(一九八八年)では、なんと昇進(あるいは少なくとも現状維持)した人が多いのである。 通常、521人もの犠牲者を出した部署の人間はその責任を問われて、降格人事や減給、懲戒解雇であろう。しかし、この事故原因となった整備や領収検査部の人たちの役職が逆に上がっているのである。検査でミスを見逃した課長から部長となることがありえようか。 特に、技術部門での最高責任者で、本来ならば521人を死に至らしめたのであるから懲戒解雇のはずの人がなんと取締役になっており、さらに領収検査の最高責任者は定年退職の年齢を超えてもなお嘱託契約が続いている。これはまるで森友問題で公文書削除の隠蔽を指示した佐川氏が国税庁長官に昇進した時と同じである。しかし、この日本航空はこれらを内々にしたまま、表向きには三十五年間も彼らがボーイング社の修理ミスを見逃したと言い続けていることになる。 その代償が昇進、少なくとも降格ではなく現状維持だと言われても仕方があるまい。 彼らは、ボーイング社の修理ミスを見逃したことで、五百二十名を死に至らしめたとして、業務上過失致死傷容疑で書類送検され、裁判では結果的に不起訴となったが、日本航空は今まで、表向きは今でも彼らの罪を認めていることになる。なぜならばこの日航安全啓発センターにおいて、「墜落原因は後部圧力隔壁の修理ミスによるものである」という言葉を繰り返し唱えているからである。彼らは会社によって消えることなく永遠に罪をかぶせられているのである。自分の人生を振り返った時、それでいいのだろうか。 しかし、私が調査した結果では、彼らは菟罪となる。そうなると冤罪にもかかわらず、有りもしない罪を受け入れ続けるという過酷な環境を生きてきたに違いない。その代償にそれなりの昇進と他に何かがあったとしても、自分の会社から三十五年間も有罪と言い続けられていることには変わりはない。 これが日本航空という会社が、社員を犠牲にしても国土交通省航空局の下で、子飼いのように生きている実態だともいえよう。 なお、航空局の人たちもやはり昇進しているのである。 航空局の被疑者は四名で、そのうち一名は墜落事件から一年半後の1987年(昭和62年)3月に自殺しているが、その他の三名はいずれも昇進しているのである。 彼らもまた、日航に対する指揮、監督不十分として送検されたが、その後ずっと同じように日本航空安全啓発センターから、修理ミス検査見逃しの罪をかぶせられ続けているのである。 一方ボーイング社だが、送検された書類には、氏名不詳とされている。司法手続きとしてもあまりにお粗末である。このように、永遠に茶番劇を続けているのである。 もう少し高尚な言い方をすれば、ある意図を持った特定の考えを相手が知らぬ間に押し付けるためのプロパガンダ、いわゆる情報操作である。啓発というよりは、啓蒙と言いたいのだろうが、これらの言葉は正しく教え導く意味であって、この日航のセンターの展示は、その真逆で「偽りを教える場」としての役割を果たし、結果的に隠蔽に加担している。もはや日航がこの事件そのものに、当初から一枚噛んでいたと思わざるを得ない。 しかし、その日本航空はその後二〇一〇年一月に二兆三千億円という戦後最大の負債総額を抱えて倒産するに至る。しかし、会社更生法のもとで政府から法外ともいえる手厚い支援を受け、わずか三年足らずで見事に東証第一部への上場を果たしているのだ。 それから五年後の二〇一七年、JAL統括機長(五十九歳)のアルコール検査替え玉事件が起きていたことが後からわかった。しかもそれを発表したのが二〇一九年で、赤坂社長となった途端であり、それも英国で副操縦士が逮捕された後での発表だ。過去の分も含めて次々とパイロットやCA、地上職の飲酒不祥事が出てきたのである。植木義晴社長(当時)はその実態を隠蔽したまま株主に説明責任も果たさず、そのうえ役員報酬の引き上げ案まで議案に出していたのである。これは明らかに透明性を欠き、コーポレートガバナンス・コード違反である。この経営体質だからこそ、安全性を提唱する資格などないのである。 今年の一月には、その植木会長が、経営手腕を発揮したとしてインタビューに答え、見事なX字回復で黒字になったと胸を張っていたが、法人税免除や減免で得た利益も含まれている。さらに飲酒の隠蔽である。これでは本物の経営者とは言えるはずもない。ここにもこの会社の幼稚さと甘えを感じざるを得ない。 現在、新型コロナウイルスでどの会社も大変な中で、お手盛りで決めた高額の役員報酬のたった一〇%減額を三か月分のみ決定し、この見せかけのような手土産付きで、また政府に取り入ろうとしていた、とすれば恥を知らなければならない。まさか、この日航123便事件を都合よく利用され続け、逆に政府を脅しているのではないだろうかとも思えてくる。その甘えきった体質は社会の害悪となりかねず、いつになったら本気で負の遺産と向き合う会社になるのか、その精神が問われて続けている。
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