終章 521人の声を聴く

今もなお、未知のウイルスが猛威を振るって世界中を攻撃している。 今年の一月二十三日に中国の湖北省武漢市が封鎖された時、また、1・2・3、の数字が並んだ。研究者たちの間では自然への環境破壊がもたらしたと言われている新型コロナウイルスによって、世界中の動きが急ブレーキを掛けて止まった最初の日である そのような中、アテネでは無観客で聖炎の採火式が行われたが、ギリシャ国内の聖炎リレーは中止となった。 そして三月二十日、「TOKYO2020号」と名付けられた聖炎輸送特別機は、強風の最中、宮城県にある航空自衛隊松島基地に着陸した。ANAとJALの両社の客室乗務員がともにタラップに立って聖炎を届けた。その後、到着式を敢行したのだが、ブルーインパルスが大空に描いた五輪マークは吹き荒れる風で乱れ散り、点火の際には聖炎が何度も消えた。 今から四十九年も前、一九七一年七月三十日にこの松島基地を飛び立った航空自衛隊練習機が、全日空機(ANA)と接触して機体はバラバラとなり、乗客乗員百六十二名の全員が上空から落下して死亡したあの全日空雫石衝突事故を思い出した。ANAの機長はマイクを握りしめたままの状態で落下してきたという。その手に無線用のマイクを強く握りしめたまま、おそらく緊急事態発生で管制官とやりとりの最中、機体に入った亀裂が、その後、空中で崩壊していったのだろうと推定された。一方、自衛隊員側はパラシュートで脱出し無傷で助かった。その航空自衛隊松島基地での到着式であり、復興五輪のシンボルの地はともかくも、そういう過去もあったことを私たちは知らなければならない。 オリンピックの浮かれた雰囲気に流され、世界中がパンデミックになりつつあるこの時期に、隣国で死者数が増大しているにもかかわらず、自分たちの都合を優先させて到着式を行った。周囲の状況を皮膚感覚で把握しにくいこの島国の非常識さは、海外から冷ややかな目で見られた。 他国の選手たちは、大勢の人間が一か所に集合し感染リスクが極めて高いオリンピックには参加しないという意思を示し、ネット上で世界中の外国選手の声が広がった。七割以上の国民がオリンピック開催は無理だと言い始めてもなお開催すると言い張った人たちは、ほどなく、非常事態宣言を出した東京の、そして全国の状況を、どのような気持ちで眺めていたのだろうか。 結局、三月二十四日に延期が決まってカウントダウンが停止し、その日を入れて123日後の七月二十四日に開催する予定だった東京オリンピックは、代々木に聖なる火を迎えることなく、延期という結果となった。123日目という。1・2・3という数字が静かに語りかける。 今年、世界中が注目するオリンピックのセーリング会場となるはずだった相模湾、この藍色に覆われた静かな海の水深百六十メートルに、日航機の残骸は今もなお放置され続けている。海底に遺物を沈めたまま、この上で、騒々しくオリンピックなどするな、という声が聴こえてくる。 これは、聖火を迎える心構えなどできるわけがないということだろう。 案の定、中止決定の翌日から、東京都の新型コロナウイルス感染者数が急激に増加していった。 おもてなしの裏の顔が次々と暴露されていく。それはまるで、オリンピックマネーにすがって無理やり開催を強行したい金銭に浮かれた人たちへの警告のようであり、いまだ相模湾に墜落機の重要証拠を、ゴミ同様に放置している人たちへの暗黙の非難のようだ。 戦争が起きたわけでもないのに、あっという間に国境は封鎖されて人の往来ができなくなり、飛べない飛行機が空港に溢れている。それも、世界中の空港で昨年末から正月にかけて、こんな日が来ることを誰が想像しただろうか。 想像を超えたその先にあるのは、想定外の日々だ。 従来通りの考えは一切及ばない。 刻々と変容する社会の中、こういう時代だからこそ、自然を破壊して推し進めてきた道ではなく、本来あるべき方向へ、あるべき姿へと新たな道を模索しながら舵を切って歩き始めなければ、命すらなくなる。放射能汚染同様、目に見えないウイルスは神出鬼没だ。もっと言えば、安全区域は存在しない。お金、地位、権力に媚びないウイルスは、人の間を行き来しながら付度することなく、平等に病をもたらす。そして私たちは気づく。 最も大切なのは、いのちなのだと。 しかしながらいつの時代もいのちよりも、経済を優先したくなり、政権に媚びてしまう方が楽だと思う人もいる。 正直に話せば、この日航123便事件も全く同じであり、いのちよりも、結果的に、軍事経済を優先させたとしか思えない。さらに、いくら新事実がわかっても世間では報道もされず、遺族会を名乗る8・12連絡会は口をつぐんだままで変だという声も多く寄せられたが、それについては、三十五年という長い歳月が、日航123便に関わった人々の人間関係を変化させたとしか言いようがない。年月は、風化のみならず本来の自分の役割を見失わせることもある。 もちろん、遺族の中には政治家たちや、すべての政党に真相究明を訴え続けてきた人もいるが、いずれの政党からも返答すらこないという。議員の中には「与党ではできない」と答えた人もいるというが、与党ができなければ誰がするのだろうか。 つまるところ、事実を知りつつも、誰かの影を恐れて言い出せない人もいるし、全くの善意で情報を提供して知らぬ間に口止めの金銭を受け取ってしまった人もいる。遺族といえども就職や情報と引き換えに個人的に恩恵を受け取ってしまった人や、別の人生を歩み、再婚した人もいる。 さらに、本人が自覚しているかどうかは別として、PTSDも人間関係に深刻な影を落とし、その人自身に不安定な感情、思考と言動をもたらす。 亡くなった人はどうせ生き返らない、相手が政府なら何をしても無駄だ。自分たちの今の生活が大事だ……。 このように当時の関係者や遺族側にも複雑な事情があり、私は、取材や調査の過程でこういった個別の事情を垣間見ることになったのだが、これが現実というものだった。 しかし、これでは戦争同様、死者たちは永遠に報われない。このまま521人(胎児も含む)のいのちが失われた(あの日)を曖昧なままで放置してよいはずがない。検死医師が提供してくれた壮絶な遺体状況の記録を目の当たりにした時、私はそう思った。 日本で起きた事件である以上、私たち自身が事実を明らかにしなければならないのだ。 そこで、内閣府公文書管理委員会元委員で、情報公開法制度に携わった三宅弘弁護士をはじめとする方々とともに、墜落原因の調査を重ねてきた。 今年(2020年)一月八日にイランの首都テヘランを飛び立ったウクライナ航空752便がイラン空軍のミサイル誤射によって撃墜された事件を見ればわかるように、誰もが利用する公共交通機関として民間航空機墜落の危険性を考えると、日航123便事件を解明することは、人としてなすべきことをなすことにもつながる。 本来ならば、最も信頼されるべき仕事をしなければならない日本の運輸安全委員会は、その後日航123便墜落の再調査をする気配すらなく、政府から独立した組織の利点と立場を放棄し続けている。いくら情報開示請求を行っても、窓意的判断で門を閉ざす。 頼りになるはずの報道関係の間では「触らぬ神に崇りなし」か、上層部の個人的事情があるのかはわからないが、日航123便に関する新事実についての報道は、ことごとく避けられてきた。 昨年七月に行った早稲田大学でのシンポジウム「情報公開と知る権利今こそ日航123便の公文書を問う」では、会場一杯に市民や大学関係者、学生、メディア、読者の方々が大きな関心を持って来てくださった。その休憩時間で私は、初めてお会いしたA新聞社の論説委員に、「貴女は本当の事実がわかった時、それを書くつもりか」と聞かれた。 私は逆にその真意をはかりかねたのだが、当然そのつもりだと答えた。あれは、自分たちは知っているのだ、ということを匂わせたようにも見受けられた。それとも、スポンサーや組織の論理が優先するのだから、知っても書かないことがジャーナリズムの一つだと言いたかったのだろうか。そうであっても、あの時彼は、登壇したご遺族の吉備素子さんが言った「墜落原因が明らかになるまで死ねない」という言葉をどのように受け止めたのだろうか。 報道関係者が、知っていて知らぬふりにしてはあまりに長すぎる。 もしかすると、いまだに「米国と戦争になる」という当時の群馬県警本部長と同じ発想なのだろうか。それは戦後を引きずった昭和、せいぜい平成までの古いしがらみに囚われた発想だ。令和となった今では、米国公文書も三十年経てば開示されるのが基本であるし、世界的基準に照らしてみても、永遠に機密指定することは民主主義の根幹を揺るがすことであって決して許されることではない。 相手国が開示して、自分たちが開示しないとすればその理由はただ一つ、自国の失態である。 以前、中国が列車の脱線事故を起こして、慌ててショベルカーで脱線列車を土で埋めている作業風景が世界中に放映されたが、自国民には放映されずに事故そのものがなかったことになった(二〇一一年温州市鉄道衝突脱線事故)。あれは、隠蔽が可視化されて実にわかりやすかった。 実は御巣鷹の尾根の墜落現場も東京電力神流川発電所を着工した際、山を閉鎖して、土壌改良と称して機体残骸に土をかぶせたのである。長野県南相木村と群馬県上野村にまたがるこの揚水発電所建設によって、現場への登山道の整備やトンネルもできて、両村に多額の固定資産税をもたらした(上野村への固定資産税は一般財源額を大幅に上回る二十六億四千二百万円になると『上毛新聞』[二○○六年四月四日付]が報じた)。しかし、今でも時折、大雨になると尾根の土が緩んで翼の一部が出てくるのだ(『日航123便墜落の新事実』一五〇頁、新聞記事参照)。発電所はほとんど使用されておらず、まるで機体残骸を覆い隠すために建設されたようだ。 先の戦争のように、政府側と結託して戦意高揚の報道で民衆を煽り、偽りの新聞報道をして大罪を犯し、戦争という過ちに突き進んでいった時代をあざ笑うことなどできない。大本営発表のごとく、いまだに日本の報道はこのような状況といえるが、また同じ道を歩んでいることに彼らは気付いているだろうか。 この未解決事件には、思想や背景など個人的イデオロギーは全く関係なく、右でも左でもないし、宗教の垣根もない。必要なのは、無事に大阪伊丹空港に到着できなかった乗客乗521人の無念を感じ取れるか否かだ。 それでもなお、隠蔽に加担して道理に外れ、人としての役割を放棄した人たちによって二重の「犠牲者」となった死者たちは、いったいどこに救いを求めればよいのか。 司法が政治的圧力に属せずに真っ当に機能して、真実を吐き出させ、犯したことに対して心からの謝罪があった時、ようやく魂は安らかになる。その願いだけは、叶えさせてあげたい。 時が忘れさせてくれるのではなく、時が明らかにさせてくれるしかないのである。 そのためにあるのが公文書だ。 今回の発見は、異常外力着力点の位置とそこから始まった垂直尾翼の破壊が墜落原因である未解決事件だった、ということである。外務省も日航機墜落事件と記していた。 しかしながら見ての通り、調査の過程で明らかになってきたのは、現政権で最も軽んじられているのが公文書であるということだ。森友問題でもそうだが、人が亡くなろうとも、重要証拠があろうとなかろうと、平気で嘘をつき通す人たちが政権の周りを固める。公文書を削除し、事実を隠蔽で追い払い、損得勘定でお互いを褒め合う同床異夢の人間が群れる。 これらは死んで訴えた人への冒演であり、誠実な人々への裏切りだ。現政権は自ら「国の未来」を放棄して破壊しているのである。 公文書の適切な保存と情報開示は、為政者に国民の目を意識させて政治を行う上でもっとも重要だと、私たちは言い続けなければならないのである。 このような中、2019年の6月12日の衆議院国土交通委員会において、ようやく日航123便の相模清からの残骸引き上げについて、衆議院議員の津村啓介議員が、石井敬一国土交通大臣に対して「日航123便墜落事故の原因究明」という質問を行った。石井大臣は、運輸安全委員会は独立して権限を行使する組織であることとし、国土交通大臣が指導する立場ではないと強調したが、津村委員は、相模湾に沈んだままの機体をなぜ引き上げないのかと言及し、ぜひこの部品を引き上げて調査すべきだと訴えた。 私はそこに微かな希望を持ちつつある。権力を持つ側は、国民を恐れさせるようにあらゆる情報を操作し、都合の悪いことは隠し通すことで自分たちの失敗を完全に葬り去ることができる。だからこそ私たちはもつと注意深く物事を冷静に見つつ、その裏に何があるのかも考えなければならないのである。 もっと早く、日航機墜落事件と異常外力着力点の公文書にたどり着くことができたならば、遺族たちも活発に世論に訴えられたし、この情報開示がもっと早ければと思うと悔やまれるが、私のまわりで起きた出来事を考えると、今このタイミングしかなかったように思われる。 その奇跡的な出会いについて、どうしても記しておかなければならない。 次頁の佐々木副操縦士の写真が送られてきたのは、昨年の早稲田大学でのシンポジウムの後だった。河出書房新社から定期的に届く読者からの手紙の中に、それが入っていた。 キリスト教カトリック信者のSさんという女性からの手紙で、「青山さんのすべての行動やお仕事に心から敬意を表します」と書かれた丁寧な文章とともに、中に入っていたこの写真を見て、驚いて椅子から転げ落ちそうになった。 日航123便で殉職した佐々木祐副操縦士の顔が目に飛び込んできたからである。写真の日付は二〇一八年八月十二日、下欄に「三十三年前の八月十二日に日航機墜落事故で亡くなられた佐々木祐様」とあった。 添えられた手紙を読むと、同じ教会に通う八十三歳の女性Iさんの弟さんが日航123便で亡くなった佐々木祐副操縦士ということが昨年分かったという。しかしその女性は長年弟さんの死を受け入れることが難しく、事故に関するニュースは一切拒否されていたのだが、Sさんが青山氏の著書を見せたり、森永卓郎さんの日航123便に関する話をネット動画でお見せしたりすることで、「Tさんはようやく弟さんの死を受け入れることができて心を開かれました」と書かれていた。そして、所属する教会の神父の計らいで、二〇一八年八月十二日(日)に、佐々木祐さんと亡くなった521人の方々のために特別ミサが捧げられたとのことだった。 これだけでもかなり偶然の出会いだが、話はここで終わらない。 このSさんの故郷は岩手県で、ご自身が里帰りした際、前から行きたかった秋田県の修道院を訪ねたのが一九八五年八月十五日で、その日のミサは、三日前に日航機墜落で亡くなった方々のためのミサだったそうである。大変な事故が起きたと強く印象を受けたという。 そして、このSさんが岩手県での子供時代に親しくしていた友人がいて、そのお父さんが、雫石町立雫石診療所・御明神出張診療所でお医者さんされていた方で、なんとあの全日空雫石衝突事故発生時、空から降ってきた凄惨な遺体の検死活動をされた医師だったというのである。 そしてその友人はSさんの話を聞いて、昨年の佐々木祐副操縦士の特別ミサのお金を献金してくださり、彼女の献金のおかげで特別ミサができたそうである。 ここまでの偶然の重なりがどこにあろうか。私の体に稲妻のような電流が流れた。心の震えが止まらない。 さて、ここからさらに次のステージに移っていく。 ちょうどこのお手紙が届いた週に、三宅弁護士の事務所に行く予定が入っていたので、私はこの手紙を持参した。先生は以前から、ボイスレコーダーの生データ開示のためにはその声の持ち主、つまり機長、副操縦士、航空機関士のいずれかの遺族の請求ならば個人情報開示請求としてやりやすい、とおっしゃっていた。そこでぜひともTさんに佐々木副操縦士の姉として請求者に加わっていただければどうだろうか、という話をしたのである。 まだお会いしたこともないTさんをどのように説得すればよいのだろうか。そう思っていた時、大國勉歯科医師からの電話が鳴った。 大國先生は、日航123便の時、警察医として、不眠不休で必死に検死を行い、佐々木副操縦士のご遺体も含めて、一刻も早くご遺族に引き渡すべく身元確認された責任者だった。またカトリック信者として、あまりにも凄惨なご遺体状況と過酷な現場ゆえ、白衣の裏側にペンで主の祈りを書かれて検死作業をされた。 同じカトリック信者として心が通じるのではないか、と思い、私は早速この話をした。そして、大國先生が所属する教会の神父様にもお伝えしてほしいと、佐々木祐副操縦士の写真とマリア様の「ご絵」を一枚にコピーして送った。すると、大國先生は神父様とともに佐々木さんの写真を手にして、「真実が明らかになるその日まで、共に頑張ろう」と佐々木副操縦士の姉のTさんへの励ましのメッセージを添えた写真を送ってくださった。その神父様と大國先生の写真を私はTさんにお渡しした。 そしてついに、Tさんは「ぜひとも協力したい」と申し出てくださったのである。 これらは、まるで神様によってそれぞれの魂が導かれたような出会いであると感じた。 なぜならば、日航123便の521人の犠牲者と、雫石で自衛隊の演習機が接触して無念な死を遂げた百六十二人、合計六百八十三人もの遺体を検死された医師同士の偶然の出会いとなったからである。 このように、通常ではあり得ないほどの不思議なつながりによって、私自身も大きなミッションを得たような気がした。 今となっては、毎日、五百二十名の御霊魂の永遠の安息をお祈りするばかりです、とお手紙を頂戴した。佐々木祐副操縦士は、能本大学工学部を出て日航の自社養成パイロットとなった。あと一回の乗務で機長昇進のはずだったと聞かされていたそうだ。その一回が、日航123便だった。さぞかし無念であったろうと姉のTさんはずっと心を痛めてきた。 「弟の最後の声を聞きたい」という請求によって、真実が明らかになるお手伝いができればという思いで請求人を引き受けてくださった。そして、その後ろでは、熊本と群馬、そして岩手のキリスト教教会の皆さんが支えてくれているのである。 現時点で日本航空は弁護士を通じて、このIさんをはじめとするキリスト教関係者の皆さんの想いを土足で踏みにじるようなことを言ってきている。 最後に、この単独機として世界最大の事件の墜落原因を解明することは、企業も人も自分たちの弱点を深く考えることにつながり、それはいつか必ず強みとなる。 日本というこの地で起きた事件に対して、私たち一人ひとりが不断の努力を尽くし、真相の究明を放棄してはならないのである。 追 記 一九八五年当時、日本の航空会社はどの社も新卒で入社した自社養成パイロットが少なく、ほとんどは自衛隊出身者か航空大学校出身者であった。他の航空会社から来た人もいた。現在の常識では考えられないが、当時の民間航空会社間には明確な序列があったものの、会社規模が拡大していくなか、パイロットの人員不足は深刻な問題になっていたからだ。あの満洲航空出身者も、まだ数名が地上の整備や機体スケジュール関連の統制部にいた。 雫石事故以来、仮想敵機は国内を飛ぶ全日空ではなく、半官半民で、いざとなった場合、何かともみ消しやすい日本航空に絞られた。 というのも全日空雫石事故の後、多くの機長たちが常に自衛隊機によって仮想敵のようにされている、と新聞で大々的に告発した。それによって、これからは絶対にそう言われないようにしなければならない。訓練で必要な場合は仲間内だけで行う、つまり自衛隊出身者がパイロットという場合に絞ろう。それを雫石事故から学んだ。このことは、社長等、取締役や一般の地上職には絶対に内密にしなければならない。もちろんそれなりの報酬は与える。 武器開発や訓練には仮想敵機や仮想敵艦、促想敵軍の存在はどうしても欠かすことができない。 誰かがその実験に協力しなければならない。とすれば、元自衛官で海上自衛隊出身、さらに身内の誰とも疎遠になっているパイロットは貴重な存在だ。うっかりとした情報漏れは少ないだろう。 ここからはあえて仮説とする。 最終的に仮想敵機を想定した訓練の日時が決まるのが、シップ繰り(機体繰り)のスケジュールと機長のスケジュールが合致する一か月前となる。機体はJA8119号機、大阪で七年前に尻もち事故を起こした事故歴がある機体に限らなければならない。 日航123便で薄暮の夕方十八時発の時間、しかもこの事故歴のあるジャンボジェット機、一九八五年八月十二日(お盆前)、自衛隊出身の機長、これが最適である。万が一の際には、即、事故歴を発表することにする。 炸薬の入っていないミサイルだから、もし当たったとしても大丈夫だろう。あの頑強なジャンボジェット機を敵機に見立てて、ミサイルを発射する手順やシステムの最終的な確認をするだけだ。次週から日米合同訓練があるため、それに備えておく必要がある。準備万端だ。あとはいつも通り、事前連絡を入れておく。作戦失敗の場合でも地上での隠蔽工作は何度も訓練をしているから即、行動できる。首相も自衛隊の味方であり、防衛費増強と日本製武器開発を経済の目玉にしたいという欲望がある。 なお余談だが、米軍が事件に関与しているとしたら、横田基地に降りてよい、などとは言わない。夕方六時四十五分の墜落前の時刻には、すでに横田基地へ緊急着陸をするようにと、日航123便に伝えていた。その上、横田基地に災害即応部隊を結成して、日航機の着陸を待っていたのである。夜九時頃には、座間基地から救難用ヘリを墜落現場まで出しており、そこには医師も同乗していた。米軍の場合、このようにそれぞれが救助態勢を整えており、万が一、米軍が関与したとすれば、炸薬なしのミサイルを当ててすぐばれるようなことはせずにもっと確実に緻密に行うだろうとも関係者に聞いた。いずれにしても、事件に関与しておきながら救助するというちぐはぐな動きをするとは考えにくい。横田基地はとにかく着陸してもらえるように準備を進めていたからである。 逆に、墜落場所を知りつつ救助もせずに、場所を知らないと報道し続けたほうの責任は重大だ。 暗闇の中で朝まで燃え上がる炎を報道各社は自社ヘリで何度も撮影している。その下で燃やされ続けている遺体があったことを知っていたのだろうか。上野村に続く道をいち早く閉鎖した自衛隊や警察、機動隊の動きもおかしかった。なぜならば、誤射を発端として墜落したことを国民に知られたくなかった自衛隊幹部たちの策略に引っかかり、この真相をどうしても隠したかった首相の命令に従ったからだ。しかし、中曽根康弘首相は、官邸は関わらずに自衛隊と米軍が勝手にやった、と語ったまま亡くなった。事情がどうであろうとも、521人を死なせたことに変わりはない。以上が、信憑性のある仮説である。 結局のところ、自国民を標的にして自国民を誤って撃ち、その乗客乗員を焼いた。 戦時中でも戦地でもない上野村の山中で、人道的見地よりも命令が優先され、救助を放棄して証拠隠滅を図った。その再調査を拒む理由は、遺族への計らいでもなければ、恐れでもなく、隠蔽への加担である。さらに、良心の阿責を持ちながら、どうしても罪悪感に苛まれる人による歪んだ自己正当化である。 すでに、公文書には事件と記されており、事故ではなかった。 垂直尾翼も、内圧ではなく異常な外力が着力して破壊された。 さらに今後、詳細な事実が明らかにされていくだろう。 だからこそ、私たちは未来の為にも公文書を価値あるものとして重んじ、守っていかなければならないのである。
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