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桐野夏生『抱く女』(新潮社)
作品について あらすじ  

作品について
 本書『抱く女』は、「小説新潮」2013年1月号〜2014年6月号に連載されたのち、2015年6月30日に新潮社から単行本として刊行された。
 桐野夏生の作品のなかでは特に目立つ作品ではないが、筆者がこれを取り上げたのは、この作品の舞台となっている吉祥寺の駅周辺と成蹊大学界隈は、実は筆者自身が学生時代を過ごした場所だったからである。筆者は成蹊大学の学生ではなかったが、たまたま手頃な下宿先が見つかって五日市街道沿いの成蹊大学の近くに下宿して吉祥寺から中央線で国立まで通学していたのである。そんなわけで、あの場所は今でも私自身にとってもまさに「青春の地」そのものなのである。駅前は当時とはだいぶ変わってはいるが、ハモニカ横丁など当時と変わらぬ風情も今なお残ってもいる。
 では、以下著者の略歴に続いて、本書『抱く女』についての著者のインタビュー記事を転載させていただきたい。
 また、作品に出てくる早大生リンチ殺人事件、あさま山荘事件、テルアビブ空港乱射事件、中ピ連についても、簡単に触れておきたい。
 
 桐野夏生(きりの・なつお)
 1951年、金沢市に生まれる。建設会社でエンジニアをしていた父の転勤が多く、3歳で金沢を離れ、その後、仙台、札幌を経て中学校2年生で東京都武蔵野市へ転居。武蔵野市立第四中学校、桐朋女子高等学校(東京都調布市)から、成蹊大学法学部へと進学。卒業後は、映画館に勤め、のち広告代理店で医者向け雑誌の編集に従事したが、いずれも1、2年で退社して24歳で結婚。
 小説家としてのデビューは、1984年、第2回サンリオロマンス賞に佳作入選した『愛のゆくえ』で、その後1993年に、日本における女性ハードボイルドの先駆けになったとされる第39回江戸川乱歩賞受賞作『顔に降りかかる雨』で本格デビューを果たした。そして新宿歌舞伎町で活躍する女性探偵「村野ミロ」シリーズで独自の境地を切り開き、作家として不動の地位を確立した。代表作は1998年の日本推理作家協会賞受賞作『OUT』。『柔らかな頬』で直木賞、『グロテスク』で泉鏡花文学賞、『ナニカアル』で読売文学賞ほか受賞多数。
 2021年5月25日に日本ペンクラブ第18代会長に選出され、女性初の会長となった。
 
 桐野夏生へのインタビュー(『週刊現代』2015年8月1日号より)

――新作『抱く女』は、学生運動の嵐がようやく鎮静する'70年代初頭の吉祥寺での物語。ヒロインは時代の空虚さと、若者、とくに女性ならではの焦燥を抱えて街を彷徨う20歳の女子大生です。

 主人公の直子と私はほぼ同年齢。家も大学も近かったので、私も吉祥寺でよく遊んでいました。直子のように、ジャズ喫茶でアルバイトをしていたこともあります。
 当初は、その年代の街の様子を描く、ゆるい感じの風俗小説をイメージしていました。
 が、舞台となった1972年は、2月に連合赤軍のあさま山荘事件が起こり、その後、大量リンチ殺人が行われていたことが明るみに出た年。世間は騒然としましたが、学生たちにとっては、何かが終わったというか、白けたような気持ちを抱いていた時期だったんですよね。
 構想を練りながら、あのころ感じていた所在のなさや、世の中への違和感といったものが次々と思い出されて……。そうして、当初考えていた物語に記憶が融合し、私には珍しい、私小説的な作品になりました。
 何でもありの放埓さで、のちにバンドマン・深田との恋にのめり込む直子は私とは違う人物ですが、彼女や彼女の親友・泉など、キャラクターに私の心情を投影した部分はかなりあります。

――遊び仲間の男たちの独善性に毒づきつつ、「公衆便所」と揶揄されたことを知って深く傷つく。抱かれる女から抱く女へ、というウーマンリブ思想が勃興する中でも、若い直子は煩悶します。

 盛り場を歩く直子が酔客に絡まれる場面がありますが、繁華街には女子供が近寄れないような結界が存在していた。街は怖い場所でもありました。大学でも遊び慣れた男たちに引っかからないようにと、日常がちょっとした戦場でしたね。かといって、母親の世代の生き方には抵抗を感じていますから、結婚願望と結びつくような幻想はまったく持てなかったし。
 この小説を読んだ年上の友人から「あの頃の自分を思い出して泣いた」という感想をもらいました。私の娘の世代も、やはり同じように傷ついていると感じます。時代は違っても、女の生きづらさは、あまり変わっていないのかもしれません。

――思想に行き詰まり自死する泉の元彼氏。内ゲバに巻き込まれ、重傷を負う兄・和樹。物語には、常に死と暴力の気配がつきまといますが……。

 実際、激しい時代でしたから、常に何かに押しつぶされそうな感じはありました。私のひとつ上の'50年生まれは、安田講堂事件の影響で東大の入試を受けられなかった。
 ほんの1年生まれ年が変わるだけで希望の大学へ行けなかったり、そうでなくても学校をやめたり、闘争で怪我をしたりと、人生をねじ曲げられた人があの頃、たくさんいたのではないかと思います。
 言論での戦いも、今のように匿名のSNSでネチネチ、といったものではなく、表に出て直接論破するという、ちょっと肉体的な匂いのする言葉の暴力でしたから。

――そうした中で、自分のあり方を模索しなくてはならなかった。

 ノンポリにしても、セクトに入るにしても、あるいは安保賛成か反対か、右翼か左翼かと、とにかく常に旗幟鮮明にしなければ生きていけない時代だったと思います。
 そして、それを突き詰めていけばいくほど、内ゲバといった、どんどん過激な方面に向かっていく。あるいは、自己否定を重ねて死を選ぶ。悩んだ人は皆、肉体的、あるいは精神的に潰れていったのではないでしょうか。
 そうしたすべてのものに抗って生きていくことで自分を確認しようとしても、基本的にあまり勝てない。私自身、たいした度胸もないくせにどうやって道から外れるかということばかり考えていましたが、だからこそ、作中に書いたように〈死は最強〉だったんですよね。もっとも明らかに道から外れることができるわけですから。
 ただ、それでもやっぱり、死ぬことがいちばんの解決だと思うのは、何だか悔しい。生が最強なんだと肯定されたい気持ちも、どこかにありました。平たい言葉でいうと、それが青春というものだったのかもしれません。

――40年あまり経った今、あの時代をくぐり抜けたことをどのように捉えておられますか。

 総括ですか?(笑)痛い時期ではありましたが、やっぱりよかったんだと思っています。いろんな音楽や映画が登場して、カルチャーの面でも非常に面白い時代だったし。
 それに、世の中の潮流の中で自分が生きているという実感が、あの時代には確かにありました。今は皆、政治的なものをすごく嫌いますが、生きていれば毎日、日本でも世界でもいろんなことが起こる。集団的自衛権にしろ、IS(いわゆるイスラム国)にしろ、ギリシャ危機にしろ、政治的でないものなんてひとつもないんですから。

――最後に。若き日に傷つけられた同年代の男性たちに「今なら言ってやれるのに」と思うことも、あるのでは?

 いえいえ(笑)。当時もずいぶん喧嘩したし、男の人たちも、かなり女たちにやられていましたよ。今は一緒に、当時を懐かしんだりできるんじゃないでしょうか。
 そういえばこの作品にとりかかるとき、何十年かぶりに、アルバイトをしていたジャズ喫茶に行ったんです。直子が通う「CHET」の店主・桑原のモデルになった当時のマスターがまだ店にいて、思わずハグしたりして。懐かしかったですね。
 (取材・文/大谷道子)
 
 
 早大生リンチ殺人事件
 1972年(昭和47年)11月9日早朝、東京大学医学部附属病院前にパジャマ姿の若い男性の遺体が発見された。遺体は全身殴打され、アザだらけで骨折した腕から骨が出ていた。被害者は当時、早稲田大学第一文学部の学生である川口 大三郎(当時20歳)で、その後、革マル派によるリンチ殺人と判明した。
 前日の11月8日2時頃に革マル派活動家が川口を中核派のシンパとみなして、川口を早稲田大学文学部キャンパスの学生自治会室に拉致し、約8時間にわたるリンチを加えて殺害、その後、川口の遺体を東大構内・東大付属病院前に遺棄したのである。死亡した川口の死因は、「丸太や角材でめちゃくちゃに強打され、体全体が細胞破壊を起こしてショック死」したもので、「体の打撲傷の跡は四十カ所を超え、とくに背中と両腕は厚い皮下出血をしていた。外傷の一部は、先のとがったもので引っかかれた形跡もあり、両手首や腰、首にはヒモでしばったような跡もあった」という凄惨なものであった。
 被害者の川口大三郎は、1952年(昭和27年)静岡県伊東市生まれ。三人兄姉の次男で小学校五年生の時に父親が病死し、以後、母親に育てられた。川口は、伊東市立東小学校、同南中学校、静岡県立伊東高校を卒業。そして1971年(昭和46年)4月に早稲田大学第一文学部に入学する。川口は当時流行していた学生運動や部落解放運動などに参加していたが、早稲田の第一文学部自治会執行部を握る「革マル派」に失望し、1972年(昭和47年)頃、「中核派」に近づき同派の集会などに参加するようになるが、まもなく中核派にも失望し、その感想を級友や母親に語っていた。また、早稲田学生新聞(勝共連合系学内新聞、現在は廃刊)など右派系学生団体や早稲田精神昂揚会とも接触があったという。中核派は「全学連戦士・川口大三郎同志」などと述べたが、実際には中核派とはほとんど関係がなかった。(ウィキペディアより)
 
 テルアビブ・ロッド空港乱射事件
 1972年5月30日、奥平剛士、安田安之、岡本公三らがイスラエルのテルアビブのロッド国際空港(現在のベン・グリオン国際空港)の旅客ターミナルをチェコ製の自動小銃Vz 58と手榴弾で攻撃。ターミナルに居合わせた民間人ら100人以上を殺傷(死者24人)し、民間人を狙った無慈悲な無差別テロ事件として国際的な非難を呼んだ。当時はパレスチナ人によるテロ行為への警戒が厳しく、そのためPFLPは日本人による攻撃なら警戒されないだろうと考えて日本赤軍に攻撃を依頼したとされる。岡本公三が逮捕され、残りの2人は死亡した(自殺説と射殺説がある)。なお、岡本公三は、2024年現在も健在で、ベイルートに暮らしているという。
 また、この事件の首謀者たちは「日本赤軍」とは名乗っておらず、日本赤軍としての意識もないので、厳密には日本赤軍の起こした事件ではなく、日本赤軍の前史に属する事件ともいえる。
 
 中ピ連(ちゅうピれん)
 正式名称は「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」。1972年(昭和47年)6月18日結成され、中ピ連(ちゅうピれん)の略称で知られた。代表は元薬事評論家の榎美沙子。
 当時日本では、経口避妊薬(ピル)が薬事法で規制され、厚生省の医療用医薬品に認められていなかったので、これを女性への抑圧と解釈することにより、ピルの販売自由化要求運動を展開した。
 『ネオリブ』というニューズレターを1972年7月より1973年9月まで発行していた。月2回程度発行されており、発行にあたって製薬会社からの支援があったのではないかという噂も立っていた。発行者の榎は薬学部出身であり、『ネオリブ』に掲載されていた薬学的な知識は極めて詳細なものであったという。初期の『ネオリブ』においては「性と生殖に関する権利」を女性が有する基本的人権ととらえる考え方が表明されており、中絶と女性の人権に関する論調は田中美津などが設立したリブ新宿センターなどとは大きく異なるものであった。『ネオリブ』においては「生む性」であることを拒む権利が強く訴えられていた一方、リブセンター系のグループの刊行物においては「生む権利」が強調されており、見解の大きな齟齬があった。リブ新宿センターを「新宿派」と読んで敵視する『ネオリブ』の論調に対しては反発も大きく、リブ新宿センターは1973年5月10日の『リブニュース この道ひとすじ』で『ネオリブ』をデマや中傷の温床であるとして批判していた。
 中ピ連のマスコミを利用する派手な活動形態や、政党・宗教団体の結成など実現可能性の低いアイディアを提案して、それがうまくいかないことに反発を覚える会員が増加し、だんだんと活動が下火になっていった。
 代表の榎はその後中ピ連を母体とし、中ピ連の活動精神を継承する形で「日本女性党」を結党。「内閣はすべて女性とする」「公務員はすべて女性とし、男性は臨時職員かアルバイトとする」など、女性主義的な政策を掲げた。
 そして1977年(昭和52年)6月の第11回参議院選挙で、地方区と全国区に10名の候補者を擁立して確認団体として国政の場への進出を図った。結果は全候補者が落選、それも全員が有効投票総数に対して一定の得票数に達せず、供託金没収となった。中ピ連と日本女性党は2日後に解散した。
 
 あさま山荘事件
 1972年(昭和47年)2月19日から2月28日にかけて長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器製作所(本社・静岡県浜松市)の保養所「浅間山荘」に日本の新左翼組織である「連合赤軍」の残党が山荘の管理人の妻を人質にとって立てこもった事件である。
 2月19日、「連合赤軍」の残党メンバー5人(坂口弘・坂東國男・吉野雅邦・加藤倫教・加藤元久)は、管理人の妻(当時31歳)を人質に浅間山荘に立てこもり、警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が山荘を包囲するなか徹底抗戦の構えをみせた。警察側は、慎重に人質救出作戦を行うも激しい抵抗にあい難航した。銃撃などにより、死者3名(機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。人質は219時間(約9日)監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。
 事件を起こした「連合赤軍」は1971年7月に、日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(通称「京浜安保共闘」)および共産主義者同盟赤軍派の両派が合体して結成された。赤軍派はM作戦(金融機関強盗)により資金力はあったが、武器がないのが弱点であった。一方の革命左派は真岡銃砲店襲撃事件などで猟銃を手に入れていたため武器はあったが、資金力がなかった。それぞれの利害が一致したことから、両派の軍事組織を統合したかたちで「連合赤軍」が生まれたのである。
 しかし、警察による厳しい捜査包囲網が引かれ、両派のメンバーは群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるため「山岳ベース」を構え、潜伏して逃避行を続けていたが、やがて警察の山狩りが開始されたうえ、外部からの援助なども絶たれたため、組織の疲弊が進んでいた。
 そうした中で、1971年の年末から、山岳ベースにおいては「銃による殲滅戦」を行う「共産主義化された革命戦士」になるための「総括」の必要性が最高幹部の森恒夫や永田洋子によって提示され、仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ自己批判と相互批判が次第にエスカレートしていき、「総括」に集中させるためとして暴行・極寒の屋外での束縛・絶食の強要などをされた結果、約2ヶ月の間に12名にも及ぶ犠牲者を出し(山岳ベース事件)、内部崩壊が進んでいた。
 群馬県警察は追い打ちをかけるように350名を動員して大規模な山狩りを行ったため、県内の山岳ベースで息を潜めていた「連合赤軍」メンバーは次第に追い詰められていった。
 1972年2月15日に、直前に引き払った榛名山ベース跡が警察に発見され、やむなく彼らは群馬県内の他の山岳ベース(妙義山、迦葉山ベース)も引き払い、山越えをして長野県方面へ移動する決断した。その移動の過程で、9名いたメンバーのうち、食糧の買い出しに出た4名が警察に逮捕され、結局残った5名があさま山荘へたどり着き、管理人を人質に立て籠もったのである。
 山岳ベースに当初29名いた連合赤軍メンバーは、あさま山荘に至るまでに12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名が逮捕された結果、事件発生直前には坂口弘・坂東國男・吉野雅邦・加藤倫教・加藤元久(倫教と元久はともに未成年で兄弟、なお長男の能敬もメンバーだったが、山岳ベースの「総括」で殺害されている)の5名を残すのみとなっていた。
 なお、「連合赤軍」の最高幹部だった森恒夫と永田洋子は、事件の直前に資金調達のため一旦山岳ベースを離れ、再び戻る途中で警察に逮捕されている。
 
 事件の終結後、森恒夫は拘置所で自ら命を絶った。また永田洋子は裁判により1993年2月に死刑が確定。その後脳腫瘍を患い、2011年2月に東京拘置所で獄死している。
 なお、立て籠もったメンバーの中でリーダー格の坂口弘は、永田洋子とともに死刑判決を受けたが、現在も拘置所に収監中である。坂口の死刑が執行されないのは、統一公判中の坂東國夫が1975年8月に日本赤軍が起こしたクアラルンプール事件によって超法規的措置で釈放され、現在も国外にいて国際手配中で、まだ公判が完全に終わっていないためだと言われている。なおこの時、坂口弘も釈放要求の対象とされていたが、彼は釈放を拒否し、国内に残留している。
 吉野雅邦は、1983年2月に無期懲役が確定。千葉刑務所に服役していたが、2021年10月に体調を崩し、2024年10月現在東京都昭島市にある東日本成人矯正医療センターで療養中とのことである。吉野は、山岳ベースで妊婦であった妻の金子みちよを「総括」で目の前で死なせている。
 加藤倫教は1983年2月に懲役13年の刑が確定し、1987年に仮釈放となっている。獄中で転向し、出所後は実家の農業を継ぐかたわら、野生動物・自然環境保護団体の役員などを努め、また自民党員となり地元でも活躍しているという。弟元久は少年院送致となり、退院後の消息については不明。
 
 
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