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桐野夏生『抱く女』(新潮社)
 本書は、一九七二年九月から十二月までの四か月の間の出来事が第一章から第四章の各章にわけて綴られている。
         
| 作品について | 第一章 | 第二章 | 第三章 | 第四章 |
        
 第三章 一九七二年十一月
 十一月も半ばを過ぎようとしている。直子は久しぶりにゼミに出た。直子の取っているゼミは国際関係論。中国共産党史が主なテーマだ。
 長々とお顔を見ませんでしたね、三浦さん。何か質問はありませんか。あなたなら、きっとあるでしょう。
 あからさまに単位を取るためだけに出席している直子は、中年の教授に嫌味を言われた。
 男子学生たちが苦笑する。長い欠席には、怠惰以外の意味が生まれてしまうのだろう。
 休憩時間、雑談になっても、二十人ほどいるゼミ生たちは誰一人として、直子に話しかけてこようとはしなかった。
 直子は、初冬の太陽が西の校舎の向こうに落ちるところを眺めている。セクトに入ってはいないものの、全共闘運動の周辺にいる小うるさい女、と思われているのだろう。
 ゼミが終わった後、退屈しのぎに図書館に寄ってみることにした。開架をうろついた後、雑誌類を読み耽って、ようやく外に出る。とうに陽は落ちて、真っ暗になっていた。樺の乾いた落葉が北風に飛ばされて、植え込みや、ベンチの下にうずたかく溜まっている。
 急に寒くなったのに、学園祭の準備のために、学生たちはまだ居残っていた。あちこちの教室に明かりが灯り、枯葉を踏む足音や、女子学生の甲高い笑い声が響く。
 直子は、そのざわめきに背を向けて、キャンパスを足早に抜けた。
 桑原と口喧嘩のような別れ方をして、CHETのバイトを辞めてしまったから、時間はたくさんあったが、以前のように「スカラ」で麻雀をしたり、男たちと遊ぶ気にはならない。
 高橋隆雄が泉を嘲るように自殺して以来、彼の死の毒が体の中に残っているような気がした。笑いながら泉の部屋を去って行った隆雄の横顔を思い出すと、彼は女たちを憎んでいたような気すらしてくる。元の恋人には救いのない手紙を残し、今の恋人である青野には何も言わずに死んでいった男。
 死は最強。
 青野の言葉が、いつまでも消えない苦みのように舌に残っていた。血糊で固まった遺書を開いた指の感触。それらが、直子を憂鬱にしている。
 家に帰ると、宮脇泉から電話があった。
 意気込んで出ると、泉が笑った。
 珍しいね。直子、うちにいるんだ。
 そうなのよ。最近、あまり「スカラ」に行ってないの。
 知ってる。直子がいるかなと思って、さっき行ってみたんだよ。そしたら、近頃、全然来てないよって、ゴロウが言ってた。タカシも、直子には学校でも会わないけど、どうしてるんだろうって心配してた。
 タカシなんかに会いたくないから避けているのに。どうして気付かないのだろう、と可笑しかった。
 それと丈次もいたよ。丈次、すごく痩せてた。それといつもの人たち。名前は知らないけど、顔は知ってる連中。そういえば、中本がまた例の彼女といたよ。
 例の彼女って、美容師の子?
 そう、体格のいい人。すごく仲良さそうで、いちゃいちゃしてた。
 ヨリが戻ったのか。中本に騙されたような気がしたが、それも遥か昔のことのように遠い。
 新堀はいた?
 うん、そういや、それらしき顔も見た。何かさ、バンドの女の子と待ち合わせしてたみたいだった。
 吉祥寺駅で見た「カルメン・マキ」か。新堀のことは、もう平気だ。
 泉、それで、あれからどうしてたの? 少し元気になった?
 高橋隆雄が自殺してから、ひと月近くが経とうとしている。
 うん、元気だよ。ただね、あたしも先週CHET辞めたのよ。
 直子は驚いて素っ頓狂な声を上げた。
 初耳。どうして辞めたの?
 キタローがしつこいから、冷たくしたら、今度はすごく意地悪くなってさ。あたしに挨拶もしないし、口利かなかったり、注文をわざと聞き逃したり、すごい意地悪するのよ。だから、面倒になって辞めることにした。あいつ性格悪いよ。あんなの断って大正解だった。最低の男だよ。
 マスター、何か言ってた?
 男一人くらい、どうってことないだろうって引き留められたけど、何言ってるんだって腹が立った。マスターは頭が固いから、男に付きまとわれる女の憂鬱がわからないんだよ。勝手に女を蔑視して生きていけばいい。
 元気そうでよかった。心配してたんだよ。
 あたしだって、心配してたよ。直子、全然連絡くれないからさ。
 ごめん。家でずっと本読んだりしておとなしくしてた。何かね、高橋隆雄にやられた感じがする。
 わかる。あたしもそうよ。直子は関係ないのに悪かったよね。あんな血糊の付いた遺書に触ったりして気持ち悪かったでしょ。
 でも、あたしがいたから、あなたは後を追っていけなかったんだよ。
 それもあいつの運命だよ。そういう時は文化事業がいいよ。あたしもずっとジャズ聞きまくってる。それでね、あたし次のバイト見付けたのよ。それがCOOLなの。だから、「スカラ」に寄ったんだよ。すぐそばだもん。
 泉の行動の大胆さに息を呑んだ。CHETを辞めてすぐに、ライバル店でバイトするなんて、自分は思い付きもしない。
 そしたら、常連のお客さんがこっちにも来ててさ、桑原さんに話しちゃったらしいの。マスター、すごく怒ってたって聞いた。
 当たり前よ。でも、いい気味。
 一緒になって笑っていると、勝手口を外からノックする音が聞こえた。微かな音だったので、聞き逃しそうだ。
 ごめんください。低い男の声がする。控えめでありながら、どこか高圧的な声音だ。嫌な予感がした。母も祖母も夕飯の支度に夢中で、来客には気付いていない。
 直子は、ごめん、今人が来たの。また電話するね、と言って電話を切った。
 訪ねて来たのは、高井戸署の刑事だった。父と母が応対に出た。
 刑事は、和樹のことを聞きに来たのだ。
 和樹は夏以来一度も家には帰って来ていません、と父が答えている。
 直子は、階段に腰掛けて両親と刑事の話を盗み聞きしていた。
 夏って、いつ?
 いつだったかしら? 確か七月二十五日くらいじゃなかったかな、と思います。土曜日だったわね。
 その時は、どのくらいいたんですか?
 泊まりもしませんでした。夏服を取りに帰っただけだ、と言ってました、と母親が答える。
 最近、ここの息子さんを見かけたっていう近所の人がいますよ。一カ月前くらいに、この辺りで見たって。
 何かの間違いだと思いますよ。夏以来、姿は見ていませんから。ねえ、帰って来てないよね?
 不安そうな母の声。再び、父親に同意を求めているようだ。
 帰って来てません。どこの誰が見たのか知らないけど、親が否定しているんだから信用してくださいよ。
 刑事が笑ったようだった。
 あんたら、よくそんな息子に高い学費を払ってるね。悪いけど、そんなに儲かってないでしょう?
 厭味を言われた父親が、むっとした様子で言い返している。
 それはうちの勝手でしょ。人様にとやかく言われることじゃない。
 とやかくって言うけど、お父さん、あんたの息子さん、人殺しかもしれないんですよ。ただのノンポリ学生をね、ちょっとした言葉尻捉えて、中核のシンパじゃないかって、どこかに連れ込んでさ。皆で殴り殺したんですよ。可哀相に、その学生がどんな死に方したか知ってますか?全身青アザだらけで、粉砕骨折数カ所。一部は骨が見えていたほどの重傷を負っていたんですよ。あんた、棒で殴られて死ぬって、どんなに辛いかわかりますか。
 母親の悲鳴が聞こえた。
 やめてください。まだ和樹だと決まったわけじゃないでしょう。あの子はそんな子じゃないですよ。
 もちろん、決まったわけじゃない。現場にいたかどうかもわからないですよ。でも、あんたの息子さんは、指導的立場なんですよ。その時どこにいて、どんなことをしていたか。手を下したのか、下してないのか。下してないのなら、命令したのは誰で、どこのどいつが実行部隊か。我々、あんたの息子さんが言うところの『国家権力』に説明する義務があるんですよ。もうちょっと聞き込みしたら、おそらく逮捕状出ますんで、わかってることは何でも正直に言ってください。よろしくお願いします。
 もう一人の刑事らしい声がした。
 殺された学生はね、ただ批判的なこと言っただけなんだよ。完全なノンポリで、ケルンパでも何でもない。それだけでどこか連れて行かれて、嬲り殺されて、東大病院前にポイ棄てですよ。殺したり殺されたり、いい加減にしたらどうです。
 ですから、うちの息子が関与したという証拠はありません。あるなら、見せてください。私たちは息子を信じています。
 父親が必死に言い返したが、泣いているような声だった。母親も衝撃を受けたように沈黙している。
 あれか、と直子は思った。一週間ほど前、新聞に小さく内ゲバの犠牲者のことが載っていた。早稲田の学生が、草マル派に拉致されて殺されたと小さくあった。学生運動をしていたわけではなく、批判的なことを言っただけらしいと。和樹が関与してなきゃいいと密かに願っていたが、現実は甘くはない。
 ハムを丸ごと一本、コンバットジャケットに隠して、アルマイトの弁当箱に白飯を詰めて行った兄は、そんな惨たらしいことが平気でできるようになったのだろうか。
 死は最強。この命騒がまた現れ出て、直子を苦しめる。
 
 刑事が帰った後、早々に店を閉めて、食卓に着いた。両親が一緒に食事をする、ましてや、そこに直子が加わることはほとんどない。珍しく家にいる全員が揃った食卓だというのに、箸を取ろうとする者はいなかった。
 刑事にはああ言ったけど、和樹は関与してるかもしれないな。そしたら、俺はあいつと親子の緑を切るよ。勘当して二度とあいつの顔を見ないし、話さない。そうしないと、相手の親御さんに顔向けできない。
 父親が重苦しい面持ちで口火を切った。ただ一人、ビールを呷る。
 まだ決まったわけじゃないでしょ。決めつけないで。
 母がヒステリックに怒鳴った。
 そうだけどさ。関与してると言われても何の不思議もない。あいつの生活は異常だよ。家に寄り付かなくなったのはいつからだ。今年の始めからだろう。あいつらも、連合赤軍のリンチ事件みたいなことしてるんじゃないか。もし、そうだったら、俺たちは終わりだよ。
 終わりつてどういうこと、と直子が口を挟むと、父親がじろりと睨んだ。
 前掛けを外して、黒縁の眼鏡を掛けた父親は、酒屋のオヤジではなく、真面目な教師に見える。
 文字通り、終わりだよ。人間として終わった息子とは緑を切って、世間に謝り続けて暮らすんだ。酒屋も閉めて、どこかへ行ってひっそり暮らす。
 だから、決まったわけじゃないでしょうって言ってるのよ。
 母親が苛立った様子で叫んだ。祖母は黙って僻いている。
 決まったわけじゃないっておまえは言うけどさ。あいつは、そういう残酷なリンチを平気でする党派に属しているんだぞ。こんな事件、これまで何度あった?死なないまでも、重傷負わせたことだってあっただろう。刑事が来るくらいなんだ。あいつは、組織の中じゃ偉そうにしてるんだよ。
 つまり、あの子も逆に殺されることがあるってことよね?
 母が怯えたように両手で頬を挟んだ。
 あるだろうさ。殺し殺され、何をバカなことやってんだか。それで学生だっていうんだから、笑わせるんじゃないよ。だったら稼いでみろっていうんだ。政治ごっこの果ては殺し合いか。世も未だよ。
 いつになく能弁になった父親が吐き捨てた。
 直子もそんなことしちゃ駄目だよ。
 祖母に言われて、直子はカッとした。
 あたし、党派なんかに属してないよ。変なこと言わないでよ。だいたい、学生運動のヤツらって女性差別的だから嫌いなんだよ。
 ヤツらって、そういう言葉遣いするのやめなさいよ。
 母親に叱られて黙る。
 さっき、この辺で和樹の姿を見た人がいるって言ってたでしょう。あれはどういうことなんだろうね。
 祖母が不思議そうに言った。祖母はタバコを吸うし、酒も飲む。父親と一緒にビールグラスを干し、「いこい」の茶色い箱から一本抜き取って火を点けた。いがらっぽい臭いがした。
 近所の連中も適当なことを言うな。これで本当に和樹が関与していたなんてことになったら、不買運動も起きるかもしれない。
 大袈裟なこと言わないで。
 あいつ、俺たちが知らない間に、案外家に入っては何か持ち出したりしているのかもしれないな。顔くらい見せて行けばいいのに。
 父親が溜息混じりに言う。
 あたし、会ったよ。
 両親と祖母が仰天して直子を見遣った。
 いつ?
 三週間くらい前かな。
 あたしが朝帰りして、こっそり着替えて出て行こうとした時だよ。
 あの時は、高橋隆雄が飛び込み自殺をして、こちらも大変だったのだ、と言いたかったが、もちろんそんなことは言わなかった。
 和樹が帰って来たのか?
 うん。あたしが朝着替えてバイトに行こうとしたら、和ちゃんがそっと入って来て、あたしにお金を貸してくれって言った。それで、バイトのお金を二千円貸してあげた。あと、お腹が減ったって言って、そこにあったお弁当箱にジャーからご飯を詰めて行ったの。あたしが、佃煮とか乗せてやったのよ。それで、動物性蛋白質が欲しいって言って、冷蔵庫の引き出しに入っていたハムを一本丸々持って行った。
 どうりで、と母が絶句した。変だと思ったわ。お昼ご飯を食べようと思ったら、ご飯がなくなってたから。お弁当箱は気付かなかったけど、あの子、来てたのね。
 まさか、食べる物にも困ってるんじゃないだろうね。
 祖母がしんみりと言う。父親は黙って腕組みしたまま、天井を睨んでいる。涙を堪えているらしい。
 死は最強。だけど、和ちゃん、生き延びてよ。直子は心の中で祈った。
 
 直子は、自室の壁に掛かった鏡の前で、左手を高く掲げてからゆっくり裏返して手の甲を映した。左手の薬指に、小さなオパールの嵌った古めかしい指輪をしている。
 初冬の朝陽に、色槌せた乳白色の石が鈍く輝いた。ちらちら光るオレンジ色の斑。高校生の頃、母親から貰った古い指輪だ。それを引き出しに見付けて、嵌めてみた。
 そういえば、その年の二月に起こった連合赤軍事件で、赤軍派の遠山美枝子は、指輪をしたまま山岳アジトの訓練に参加していることを、革命左派の永田洋子らに批判された。
 そして、その後に判明した総括という名の凄惨なリンチ殺人。しかもそれが永田洋子という女性リーダーによる嫉妬が原因ではないか、と報道されたこと、さらに加えてだから女性のリーダーでは駄目なんだ、との言説が巷間にあふれたことが直子には腹立たしかった。女の敗北だと思った。
 
 刑事の来訪以来、直子の家族は皆不安になって、居ても立ってもいられない様子だ。直子も、すべてが嫌で堪らない。内ゲバの応酬に終始している和樹のセクトも、和樹のセクトと対立しているセクトも、そんなセクトに入っている和樹も大嫌いだ。どうして男たちはすべてを嬢小化するのか。
 彼らの言う革命と名の付くものすべてが、嘘くさい。「政治ごっこ」とは、泉の言葉だが、遊びと揶揄される程度のことにしては度が過ぎないか。だったら本気でやれよ、と怒りが湧く。だが、この怒りを誰に向ければいいのか、それすらもわからない。だから、自分に腹を立てる。
 その日、両親揃ってなにかの会合に出るため、風邪で寝込んでいる祖母に代わって直子は店番を頼まれた。直子がレジに座っている時に、客としてあの青野が店を訪れた。青野も店にいる直子を見て驚いていた。たまたま近くで知り合いがコンミューンを開いたので、その開所式のために酒を買いにきたという。
 リブ運動のコンミューンだという。青野は、よかったら、あなたも来ない?と直子を誘った。五時からだから、ここに住所が書いてあるので、と言ってビラを渡された。
 「産む、産まないは、女の自由」とそのビラに書いてあった。それから青野の口からあのあとの?末を聞いた。高橋隆雄の葬式で、母親が棺にすがりついて、私も一緒に入る、一緒に入ると泣き叫んだそうだ。それを見て、青野もすっと醒めたという。ただ、彼は自分には肝心なことはなにも言ってくれなかったから、寂しいと思ったし、だからまだ未消化なところはあるけど、と言い、それから、宮脇さんに会ったら、押しかけて悪かったって、謝っておいてくれないかな、と言った。
 直子は、いいよ、言っとく、と答えた。祝酒の一升瓶を抱えて店を出て行く青野を見送ってから、直子はその開所式を覗いてみようと思った。
 コンミューンといっても、四人の母親が集まってみんなで六人の子供を分け隔てなく育てていこうというものらしい。
 四十代と思われるリーダーの挨拶のあと、挨拶に立ったのは、「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合連」(中ピ連)という団体の女性だった。
 産む産まないは女性の権利、中絶理由から「経済的理由を削除」しようとする厚生省の案を絶対に阻止しましょう。そして、「抱かれる女から抱く女へ」というリブのスローガンがありますが、それだけじゃ足りない。抱く女の主体的権利を、これから奪い取って、強めていく必要があります。
 直子は、ついこの前、麻雀仲間の中本の彼女川原旬子から、こないだ「スカラ」であの人たちがあなたの噂してたの。そしたら誰かが「公衆便所」って言ってた。酷いよね、と言われたのを思い出し、思わず、立ち上がって、叫ぶように話し出した。
 公衆便所って言葉があるじゃないですか。あたし最近そんなこと言われて頭にきてるんです。男は汚物ですか。じゃあ、あたしたちは汚物を入れる便壺ですかって思います。差別するにもほどがあります。絶対にそんな言葉許してはいけないと思います。
 直子の言葉に熱心に頷く者もいたが、苦笑しながら目を見合わせる者も数人いた。
 リーダーらしき女性から、確かに根は同じだと思いますが、そういう私怨的なことはまた別の機会にしませんか、とたしなめられた。
 直子は、それにひるまず食い下がったが、横から強烈なパンチが飛んできた。
 そうだ、連合赤軍のキャンプであの遠山美枝子が永田洋子から受けた追求と同じだ。
 あんたのようなミニスカートはいて、チャラチャラした格好して、男に媚びを売って歩くプチブルのお嬢さんなんかに、子供を抱えた生活がどれだけ大変なものかなんて分かるわけないよ。男に公衆便所って言われたんなら、バカ野郎、テメー、おまえはウンコだろって、殴り倒したらどうですか。 
 青野が、そこに割って入るように、あのう女同士で分断するのやめませんか。この人はまだ若いし、働いたり、出産の経験はないかもしれませんが、そういう経験の差だけで非難するのはやめませんか。それは経験の所有による差別です。それに、この人がプチブルだと決めつけるのはいくらなんでも失礼だと思います。
 直子は、青野に続いて口を開いた。
 あたしが学生で生活者の視点がないというのは分かりますが、若いというだけで問題を客観化できないというのはあまりに馬鹿にし過ぎです。それに、ウチは酒屋でプチブルでもなんでもないです。
 最後を捨て台詞のように言って、直子はその場をあとにした。苦い失望感だけが残った。
 
 大学で学祭が行われている時期、直子は新宿あたりを彷徨っていた。紀伊国屋書店や伊勢丹で時間をつぶしたあと、ジャズ喫茶「DUG」でコーヒーを飲みなからしばらくジャズを聴き、それから和樹の本棚から持ち出してきたドストエフスキーの「死の家の記録」を読みはじめた。
 しばらく経って脇から、それ面白い?と男に声を掛けられた。
 木原亘、二十八歳、音楽雑誌の編集者だという。食事に誘われ、ついて行く。「お多幸」というおでん屋に行き、そこで食事したあと、さらに「パワーズ」というバーに連れていかれた。そこで沢山酒を飲み、初めてマリファナを吸った。そして木原にディープキスされて、ホテルに行こうか、と誘われ、いいよ、と答えたようとしたら、どこからかまたマリファナが回されてきて、みんなでそれを回した飲みしはじめた。
 気が付いた時は、直子はトイレで倒れて、服は吐瀉物でひどく汚れていた。どうやらトイレで倒れたまま眠ってしまったらしく、時計を見ると午前四時だった。なんと店に入ってから六時間も経っていて、その半分はトイレで寝ていようだ。
 なんとか立ち上がって、手洗いで服の汚れを落とそうするが、臭いが酷くとても電車には乗れそうもない。木原も席の隅でぶっ倒れていたようだが、直子を置いて先に帰ってしまったようだ。
 その時、親切にも声を掛けてくれ、部屋に泊めてくれたのがジャズシンガーのアキという女性だった。お礼に直子は身につけていた母からもらったオパールの指輪をアキにあげた。その翌日はアキの出演するライブハウスについていって舞台袖から見ていた。
 客席を覗いていたら、なんとそこに宮脇泉が見えた。隣に男性が座って仲良さそうにしていたが、顔は陰になってよくわからなかった。ステージが終わって客席へと移動し、宮脇に声をかけた。直子は、宮脇にお金を借りたかったのだ。隣の男はいなかったが、彼女と話している間にその男がトイレから出てきて、直子に気づいて足を止めた。意外にもCHETのマスター桑原だった。さんざん直子の前では悪口を吐いていたのに。泉は妻子のあるあの男と付き合っているのか、なんだか納得できない気がした。
 とりあえず、直子は泉にお金貸して、と頼んだが、泉は、ちょっと待ってて、じゃあ桑原さんに借りてくるから、それでもいいでしょ、と言って、桑原のところへ小走りに駆けていって一万円札を持って戻って来た。直子は、必ず返すから、と言って別れた。
 アキとの縁で、直子はジャズドラマーの卵の深田という男と知り合い、その男のアパートに転がり込んだ。直子には、深田がそれまでの男とは明らかに違うように感じていた。
 
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