戻 る




                  
桐野夏生『抱く女』(新潮社)
 本書は、一九七二年九月から十二月までの四か月の間の出来事が第一章から第四章の各章にわけて綴られている。
          
| 作品について | 第一章 | 第二章 | 第三章 | 第四章 |
        
 第四章 一九七二年十二月
 深田の腕枕がそっと外されて、直子は目が醒めた。深田は、今日から一週間地方巡業に行かなければならないのだ。一週間も会えなくなんて寂しい、と直子が言うと、俺だって寂しいよ、と言う。深田が身をよじり覆いかぶさってキスした。
 行くまえにセックスしようよ、と直子は言い、深田の肩に両腕でぶら下がった。二人とも裸で寝ているので、すぐに抱き合える。深田の性器が固くなる。
 ダメだよ、時間がないもの。
 ちょっと入れるだけ。
 そんな露骨な会話をしている自分にビックリする。私は、抱かれているのではなく、好きな男を抱いているのだ、と大声で叫びたい気持になる。
 今、入れたら出ちゃうかもしれない。
 いいよ、出して。
 なんてことを口走っているんだろう。あまりに深田が好きで、頭がおかしくなっている。
 あ、もう濡れている。
 深田の指が一本、二本と入ってきた。指じゃいやだ、物足りない。あなたが欲しい。
 はじめて会ったのに、まるで生まれた時から知っていたかのように懐かしいのはなぜだろう。
 片や東京で育った酒屋の二十歳の娘と片や島根の公務員の次男、二十五歳。出会うはずもない男と女。
 深田は、東京の大学を中退し、ジャズ喫茶でバイトしながら音楽の専門学校に通いドラムを習い、今はジャズバンドのボーヤ、つまり小間使をしている。
 二人は、結局たっぷり時間をかけて交わった。直子は深田の胸に頭を乗せて、その激しい鼓動を聞いた。
 あたし、初めて男を好きになった気がする、と直子が言うと、俺も、直子ほど好きになった男はいないよ、と深田が言った。
 学芸大学駅近くにある深田の狭い部屋にとじこもって以来直子はもう三週間近く、ほとんど外出していない。出るのはライブハウスに行く時と、二人で食事に行く時くらいだ。そして部屋にいる時は、いつも裸で過ごし、深田とのセックスにのめり込んでいた。
 直子は、俺がいない間どうするの、と深田が聞く。ねえツアーについていっちやダメ、と直子が聞くと、駄目だよ、仕事だから女禁制なんだよ、と深田が言う。
 じゃあ、実家に帰って、親と話してくるよ。それと服とか取ってくる。
 そうしなよ、それがいいよ、と深田が言う。
 あたし、一緒に住んでもいい?
 もし、嫌な顔されたり、拒絶されたりしたら、直子はその場で死んでもいいほどショックを受けるだろう。
 もちろん、一緒に住みたいよ。だけど直子は学生だろう。どうするか、ちゃんとけじめをつけてから来いよ。それから、一緒に住むなら直子も働けよ。自分の食い扶持は自分自身で稼いでくれ、と深田は言った。
 分かった。そうする。
 じゃあ、一週間後にこの部屋に戻って来いよ。俺は七時には帰るから。一緒に飯食って寝よう。そう言って深田は作ったばかりの合鍵を渡してくれた。
 
 久しぶりに実家に戻ると、掃除は行き届いているものの、旧態依然とした古い店が頑張っているようで痛ましかった。
 裏口から入っていくとばったり母と出くわした。母はあんたは一体どういう生活していたの、まるでルンペンみたいな格好してるわよ、どこかのセクトに入ってるの、と聞かれた。
 母からセクトという言葉が発せられるとは思わなかった。
 入ってないよ、知ったようなこと言わないでよ。
 母の後ろに立っていた祖母が、直ちゃん三週間もいなくなったんだから、みんな心配してたんだよ、と言った。
 言ったじゃない、人の家にいるんだって、何度言ったらわかるのよ。しつこいんだよ、と言って、階段に足をかけたところで、フードを後ろから掴まれて直子はのけぞった。
 しつこいなんて偉そうに言うんじゃない。親に金出してもらって大学に行って、連絡もしないで、いったいどうするつもりなの、と母親に言われ、直子は、大学は辞める、と言った。
 辞めてどうする。
 働くよ。
 じゃ、そうしてもらうわね。確かに聞きました、と母はさばさばした表情で言った。
 そうするよ。そうしてこの家を出ていく。
 どこ行くの、誰か、男の人といるのね、と母が言ったあとで、同棲時代ってか、流行りだよな、と階上から声がかかった。
 長男の良樹だった。直子、あんまり騒ぐなよ。お母さん、大変なんだからさ。可哀相じゃないか。
 そのあと、大阪から戻ってきていた良樹から早稲田の革マル派に属していた次兄の和樹が、友人のアパートにいるところを中核派に狙われ、重症を負って入院したことを知らされる。
  そういえば、両親に店番を頼まれたことがあった。両親は、こそこそとどこかに出掛けて、直子の問いには答えてくれなかった。あれが病院に行った日なのだろう。自分はそんなことも知らずに、新宿にいたのだ。
 それで和ちゃんは大丈夫なの、と聞くと良樹は、危ないんだってさ、それで俺も呼ばれたんだよ、と言った。だから、おまえもやりたいことがあるかもしれないけど、この一週間はおとなしくしてろ、と言われた。
 そのあと父親が帰ってきて、家族みんなで病院に行くことになった。どうして、私たちはこんな時代に生まれてしまったのだろうか。互いが憎み合ったり、傷付け合ったり、殺し合ったりする時代に。
 それでも、直子は深田に会いたくて仕方がない。こんな時に、自分の欲望しか考えられない自分が嫌だった。
 和樹の入院している病院は、中野駅北口を出て、中野通りを歩いて十分のところにあった。良樹がこんな近いところにいたんですか、と言うと、父が、襲撃されたアパートが鷺宮にあったから、一番近い病院ってことで、救急車がここに運んできたらしい、と言った。
 そこはセクトのアジトではなく、部屋の主はノンポリの友達だったそうだ。和樹は案外用心深かったらしくて、普段はバイトしながら、山谷あたりのドヤ街や横浜の寿町あたりに泊まっていたらしいが、その日は新宿かどこかでばったりその友達に会い、誘われて飲みに行き、終電もなくなったのでその部屋に泊まったという。たまたまその友達の部屋は、早稲田の学生がたくさん住んでいる安アパートだったから、もともと中核派が出入りを監視して、狙われたのだった。
 そのノンポリの学生はやられなかったんですか、と良樹が父に聞くと、和樹がそいつは違う。ノンポリだからやめてくれ、と叫んだので助かったようだ、と父が言った。
 その病院の建物は古びていて、見るからに陰鬱だった。ワックス掛けされた木の廊下を歩いていると、みしみしと床が鳴った。
 今日、和樹が死んでしまったら一週間後に部屋で待ち合わせ、と決めた深田との約束を果たせなくなる。
 明日死んでも同じ。
 明後日死んでも同じ。
 一週間後に死んでも同じ。
 すぐに動けないという事態は変わらないのだ。
 一番仲のよい兄が死ぬのとても悲しいが、深田との約束を違えるのも耐えられないほど悲しかった。そう思った瞬間に、兄の死と、恋人に会えなくなることを同等に考えている自分が、ひどく冷酷で身勝手に感じられる。
 和樹は、廊下の突き当たりのナースステーションの隣にある集中治療室に入れられていた。
 母が先頭で、父、兄、祖母、直子の順で病室に入った。集中治療室とは名ばかりで、三畳ほどの狭い屋の真ん中にベッドが置いてあるだけだ。直子はまず部屋の貧弱さに衝撃を受けた。
 和樹は、頭と右目を包帯で覆われていた。顎も折れたのか、ギプスのようなもので固定されているから、顔はほとんど隠れている。左目の下は黄色味がかった痣になっていて、右の頬には擦過傷があった。右手にも包帯が巻き付けてある。直子は息を呑み、兄の姿を直視できなかった。
 和樹は、まだかろうじて自発呼吸をしているようだったが、医者からは人口呼吸器をつけることになる、と言われているようだった。そうなると、植物状態となって、生きているけど、意識が戻る見込みはなくなるらしい。
 しばらくして、医師に呼ばれて、両親と良樹は病室を出た。直子は、和樹の指の折れていない方の左手を摘んだ。温かくて血が通っている実感がある。ぎゅっと握り締めて、声を大きくして話しかけた。
 和ちゃん、あのボンレスハムどうした?あれが最後の会話だなんて、あたしは絶対に認めないからね。死なないでよね。嫌だからね。生きててね。
 微かに指を握り返されたような気がした。おばあちゃん、今、和ちゃんが握ってきたような気がする。
 祖母が顔色を変えて、和樹の左手を握った。
 和ちゃん、おばあちゃんだよ。聞こえるなら、握ってみて。
 何度も耳許で声をかけたが、反応はないようだ。しかし、直子の時は、確かに握り返された。直子はもう一度手を握った。
 和ちゃん、直子だよ。もう一回、握り返して。でないと、和ちゃん、気管に管入れられちゃうよ。喋れなくなっちゃうよ。だから、頑張ってやってよ。
 また、微かな力を感じた。ほんの少しだが、意志を感じる。
 間違いないよ。和ちゃん、聞こえてるんだよ。
 直子は祖母と手を取り合って喜んだ。
 病室のドアが開いて、両親と良樹が戻って来た。一様に暗い顔をしている。
 どうだった、と直子の問いに、良樹が軽く首を振った。希望はないということか。
 今、直子が手を握ったら、握り返してきたそうだよ、と祖母が言うと、母がそのままベッドの脇で泣きはじめた。父が重苦しく黙っているので、直子が母に言った。
 お母さん、ほんとだよ。和ちゃんが握り返したの。それも二度。
 ただの反射神経だと思うよ、と良樹が遮り、和樹の枕元に立った。和樹、お前、母さんを悲しませて。ほんとにしょうがないヤツだな、バカだなあ。
 母の鳴咽が大きくなった。待って、本当に握ったんだってば。直ちゃんにだけ反応するんだよ。
 祖母の言葉が虚しかった。
 もういいよ。おばあちゃん。
 直子は掌に残る和樹の力を思い起こしながら、病室を出て、廊下に置いてある椅子に腰を下ろした。そして、忙しく行き交う看護婦や医師、点滴のスタンドを自分で引いて歩く患者たちをぼんやり眺めた。廊下でじっとしていると、薬品とワックス剤の臭いが体に染みつきそうだ。病院から一刻も早く外に出て、冷たい空気を吸いたいと思う。しかし、たとえ外に出らたとしても、心は病院に閉じ込められている。
 深田と過した密度の濃い時間は幻だったのだろうか。あのアパートの部屋で過ごしたことは夢だったのか。今、次兄が死んでいこうとしているのに、自分は深田のことばかり考えている。何て罪深いのだろう、と直子は恥じ入った。
 
 その日は、母親が病院に残り、他の四人は家に帰ってきた。戻ってから、父と祖母が店を開けた。居間で前掛けを付けている父に、直子は単刀直入に聞いてみた。
 お父さん、和ちゃん、死ぬの?いや、と言ったきり、言葉が続かない。そのまま何も言わずに、店との墳の障子を開けて、店に下りて行ってしまった。
 自発呼吸が落ちてきてるから、このままなら危ないそうだ。二階から下りて来た良樹が代わりに答えた。
 人工呼吸器を付ければ、生きてはいるけど、植物状態になるんだ。お母さんはそれでもいいから、命がある方がいいという考え。お父さんは、自然に任せてそのままの方がいいという考え。お父さんの方法に決めたら、和樹はそんなに保たないんだって。
 嫌だよ、そんなの、直子は思わず叫んでいた。和ちゃんが死んじゃうのは嫌だ。
 何だ、子供みたいに。みんな嫌に決まってる。だから、苦しんでいるんじゃないか。
 良樹がばさっと音を立てて今広げたばかりの新聞を閉じ、乱雑に畳んだ。直子も立ち上がって、二階に駆け上がった。
 
 深田の声がどうしても聞きたい。秀島浩介トリオが演奏する予定のライブハウスに電話したら、深田に繋がらないだろうか。
 直子はトリオの予定が知りたくて、アキに電話することにした。番号のメモを持って、一階の廊下の隅にある電話の前に立つ。何度もコールを鳴らしたが、アキは部屋にいないようだ。直子は、夕食の支度をしている祖母を横目見て店に下りた薄暗い店で、サントリー角瓶を一本セーターの下に入れる。
 泉の部屋に行って、ジャズ雑誌を見せてもらおうと思う。秀島トリオの情報を得たついでに、借りた一万円を返すつもりだ。ウィスキーをバッグに突っ込み、裏口からこっそり外に出ようとすると、突然、目の前に人影が立った。
 これから出掛けるの?
 母親だ。意外に早い時間に帰って来たので驚いた。
 うん、泉に借りたお金、返しに行くの、と言うと、遅くならないよね、と母が言う。その目には、放っておくとまた家出するのではないか、という疑いの色がある。
 大丈夫だよ。必ず帰って来る。和ちゃんがあんな状態なんだから。
 和樹だけどね、今日、明日どうこう、という状態ではないみたいよ。だから、少しほっとして帰って来たの どうりで、母の表情が昼間より和らいでいると思う。
 お母さん、和ちゃんに人工呼吸器を付けるの?
 いざとなればそうしようと思う。あたしはどんな姿になってもいいから、生きていてほしいの。だって、自分の子供なんだよ。
 直子は黙っている。自分の兄であり、母と父の息子であり、良樹の弟であり、祖母の孫であり、誰かの彼氏であり、誰かの親友であり、誰かの敵である、和樹がじきに命をなくそうとしている。
 その事実の前に、深田と会いたいという自分の欲望が、いや自分自身がちっぽけに見える。
 直子が家に着いた時から悩んでいるのは、そのことだった。
 今日、和ちゃんに話しかけたら、和ちゃんがこうやってあたしの手を握り返したんだよ。
 直子は母の手を握ってやって見せた。母の日にみるみる涙が溢れたので、直子は目を背けた。背けていないと、自分も泣きそうだったからだ。
 行ってくるね。和樹がこんな状態の時に、大学を辞めて、深田というドラマーと一緒に暮らす、なんて、母にはとても打ち明けられないと思った。
 三鷹台行きのバスがうまい具合に来たので、飛び乗った。
 駅で降りて、泉のアパートに向かって歩く。途中、公衆電話から電話したら、幸い、泉は部屋にいるというので安堵した。
 部屋をノックすると、泉が笑いながらドアを開けた。ジーンズに、ぴったりした赤いセーターを着ている。豊満な胸が強調されて、同性でも眩しかった。
 ブーツを脱いで、泉の小さな部屋を見回した。ベッドとコタツ。玩具のキッチンセットのような流し台と冷蔵庫、食器棚。
 ここに桑原が来て泊まるのだろうか。
 そんな想像をすると、すべてが急に艶めかしく見える。
 深田と濃密な時間を過ごす前の自分だったら、桑原のような歳の離れた妻帯者と関係を持つ泉に、嫌悪感を持ったかもしれない。
 一万円札を入れた封筒を恭しく差し出し、ありがとう、本当に助かったのと言い、それからバッグから角瓶を取り出し、これは利子と言って渡した。いいね、酒屋の娘と知り合いだと、と泉が笑って言う。
 桑原さんにお礼を言っておいてくれないと言うと、泉は、じゃあこれから一緒にCHETへいこうよ、と誘われた。
 何か話したそうだね。
 泉が悟ったらしく、腕時計を見た。
 直子は、泉のところにジャズの雑誌ある?あるなら、ライブ情報見たいんだけど、と聞いたが、ないよ、読みたい記事があったら、マスターのとこで読む、と言われ、では、CHETに行かねばならないな、と直子は思う。
 泉がわけを知りたそうに直子の顔を見ているので、正直に答えた。
 あたしさ、秀島トリオの演奏予定を知りたいのよ。実は秀島トリオのボーヤやってる男と付き合ってるの。彼、ドラマー志望でまだボーヤなんだけど、才能あるってアキさんが言ってた。
 すごい。直子がさ、アキのライブにいたから、びっくりしたんだけど、そういう関係のところにはまってしまったんだね。
 直子は、泉の言い回しに笑った。
 そう、はまってしまったの。もう、あたし、学校の連中にうんざりしてたのよ。だから今はもうその深田にしか興味はないんだけど、それでね、秀島トリオが今ツアーに出ていて、一週間後に彼氏のアパートで会う約束したんだけど・・・。
 ちょっと待ってて。出かける用意している間、その話してほしいな。聞きたい、と泉がいうので、直子は、早稲田に行ってる次兄が早稲田の革マル派で、内ゲバでやられ、重体で、危篤に近い状態になっていること。脳挫傷でずっと意識がなく、自発呼吸ができなくなってることを話した。
 泉がアイシャドウを塗る手を止めた。泣きそうな顔をしている。
 直子、大変じゃない。
 そうなんだよ、そのまま自然に亡くなるのを待つか、人工呼吸器を付けて生きながらえさせるか、それとも、奇蹟の復活をするか。どうなるか誰にもわからないの。
 直子のすぐ上の兄さんて、優しい顔した人でしょぅ?あたし、あなたのうちで一回会ったことあるよ。それでそのボーヤと連絡取りたいんだね。
 泉はさすがに頭の回転が速い。でも、直子は正直に言った。
 それもあるけど、声が聴きたいの。でないと、不安なの。
 泉が無言で何度も額いた。
 
 三鷹台の泉の部屋から吉祥寺のCHETまで二人は歩いて行った。長く歩くには寒い夜だったが、ジャズ喫茶に足を踏み入れたら、音の洪水でお喋りなんかできっこないのだから、今のうちに泉と話しておきたい。
 あたしさ、家出してたから、父親に怒られるのを覚悟してたのよ。下手したら、殴られると思って。殴られでもしたら、すぐさま家飛び出してやるんだ、とむしろ受けて立つぐらいの気分で、勇ましく帰って来たの。でも、和ちゃんの危篤騒ぎ、みんなそれどころじゃなかったのよ。大阪の兄が呼ばれたほどだったんだから。あたしも、あれよあれよという間に意気消沈して、悲しくなって、我を失ってる状態だった。でもね、泉、あなたにだけ打ち明けるよ。あたし和ちゃんのことよりも、あの人に会えなくなることを怖れていたの。だから、自己嫌悪に陥ってるの。
 その人、何て名前なの?
 深田健一郎
 躊躇った末に口にした。泉にさえも、深田の名前を教えるのが惜しい気がする。口に出した途端に、二人の大事なものが減ってしまうようで、吝嗇にならざるを得ない。
 深田の健ちゃんかあ、と泉が笑って、マッチでタバコに火を点けた。
 直子は、マフラーに鼻先を埋めた。深田から借りた黒いウールのマフラーは、深田の吸うピースの臭いと、深田の体臭がする。若いオスの匂い。その匂いにいつまでも包まれていたかった。
 直子は夜空を見上げた。もしも今、和樹の命が尽きようとしていても、自分のできることなど何ひとつないのだ。
 絶対的に無力だとわかると逆に心は静まって、空にある月や星の位置を確かめたくなる。だが、今日の夜空には、月も星も浮かんでいなかった。
 泉、あたし、うちでじっとしているのが耐えられないんだよ。和ちゃんを失うのが怖い。でも、彼を失う方がもっと怖いの。冷たい妹でしょう?
 あたしが直子だったら、同じように感じるかもしれない。わかるような気がするよ。
 泉が低い声で同意した。慰めだとわかっていた。
 でもさ、和ちゃんが死んでしまうかもしれないと思うと、どうしたらいいかわからないほど、うろたえちゃうんだ。一番仲がよかったし、子供の時から優しくしてもらった。お兄さんというより、友達みたいだった。大学に入ったら、全然帰って来なくなって、たまに帰って来ても、棘々しくてろくに口も利かない、違う人間になったみたいだった。
 人って、何度も違う人になるのかもね。
 泉の言葉に苦笑する。
 あたし、和ちゃんが革マルに入ったって聞いて、すごく嫌だったんだよね、と直子は言った。ほら、いろいろ聞くじゃない。革マルが学内パトロールを徹底して、中核や解放派を見付けると個人テロをするとかさ。学内でそんなことやってるんだから、内向きで怖いことだよね。あたし、和ちゃんがそういうことをする人間になったんだと思うと、信じられなかった。和ちゃんを嫌いになろうと思ったことだってあるよ。何が革命だよ、仲間うちで人殺ししてるだけじゃんって思って。でも、十月に、突然家に帰って来た和ちゃんと話したら、ああ、やっぱ和ちゃんて大事な兄貴だな、と思ったりもしたんだよね。つまり、毎回違って、一貫してないの。複雑なんだよ。
 泉がミニスカートの裾を下に引っ張りながら言った。
 あたしの高校の時の友達で、教育大に行った子がいるの。中核派に入ったって言ってた。のんびりし子だったのに、今や、革マル派の安田講堂の際の逃亡がどうしたの、裏切りがどうしたのって、そればっか言ってる。お兄さんも、根は優しいんだろうけど、そんなことに日々奔走しているんだろうね。国家権力が相手じゃないんだよ。目先の憎しみ合いなんだから、嫌らしいよ。
 その通りだね。あたしはセクトが大嫌い。
 あたしもそう。だから、今も学生運動やってる連中、嫌いなのよ。みんなセクトに分かれてさ、最後は小さなことでいがみ合いだよ。いがみ合いが殺し合いになって、復讐心から、足を洗うことができなくなっている。あのね、桑原さんが、こう言ってたよ。案外、公安の連中とかが、それぞれのセクトの中にスパイで入っていて、お互いに殺し合いをするよう工作しているんじゃないかって。つまり、学生同士で潰し合いさせてるんじゃないかと言ってた。
 直子は苦笑した。
 桑原さん、すごいことを考えるね。でも、公安ならやりかねない感じがする。だから、そういうことを考え付く男って怖いと思わない?
 うん、女は考えたとしても実行に移さないじゃない。でも、男はやるんだよ。あたしたちは、そういう男を相手に闘っていかなきゃならない。
 直子は立ち止まって、泉の顔を見る。
 闘うって
 直子、恋愛も闘いだよね。あたし、そう思うんだ。
 なるほど。そうかもしれない。直子は、さっき浮かんだ深田への小さな疑念と言えないほどの疑念、を思い出した。
 今もし、深田が自分と離れたことで解放感を感じているのなら、とても辛い。いったん男を好きになったら、些細な、しかし心を傷付けることどもと闘っていかなければならないのか。
 直子は密かに溜息を吐いた。
 桑原さんが、女性ボーカルなんか邪道だって言ってた。泉が言った「差別主義者」って、そういうことでしょう?
 そうだよ、泉が顔を上げずに答えた。だから、闘いだって言ってるじゃん。今でも大変よ。毎日が戦争。
 それでも好きなのね。
 からかいに聞こえたのか、泉が苦笑いをした。
 悔しいけどね。
 井の頭通りから、南町の薄暗い路地に入った。百坪以上はある大きな家が並ぶ南町の住宅街は静まり返っていた。新しく建った家の広い窓辺から、クリスマスツリーの電飾が光っているのが垣間見えた。
 もうじきクリスマスか、と、泉が独りごちたのが聞こえた。
 和ちゃんはクリスマスまで保つかなあ。
 この間、高橋隆雄が死んだと思ったら、今度は和樹さんの危機か。いやだね、そんな話ばっかりで。
 でもさ、あたしが手を握ったら、微かに握り返してきたんだよね。だから、あたしは何となく大丈夫なんじゃないかと思っているの。
 泉の顔が明るくなった。
 朗報じゃない。もしかすると耳だけは聞こえているのかもしれないね。希望は捨てない方がいいと思う。
 いつの間にか、CHETの近くまで来ていた。
 直子は、マスターの桑原にお礼の言葉を述べながら、一万円札の入った封筒を渡した。
 桑原が何も言わず、ポケットに無造作に突っ込む。
 直子、ここに載ってるから、早くメモりなよ、と泉が直子の目の前に分厚いジャズ雑誌をどさっと置いた。後ろのページにライブ情報が載っている。秀島浩介トリオの関東・東北ツアーの予定を探す。
 宇都宮。翌日は郡山。その翌日は福島。一日おいて仙台は二回のライブ。直子は、黄色いリクエスト用紙の真に、秀島浩介トリオのスケジュールを書き写した。今夜は、宇都宮のライブハウスだ。腕時計を見ると、ちょうど演奏が始まった頃だ。ライブが終わる頃にライブハウスに電話したら、深田が捕まるかもしれない。運がよければ。そう思うと心が躍った。
 急に食欲を感じて、泉を誘うが、カウンター越しに、桑原と話し込んでいた泉が振り返った。「悪い」と謝る仕種をする。店がはねた後、桑原と食事に行く約束をしているのだろう。
 じゃ、またね。
 ガラスドアを開けて外に出た。すると、泉が追って来た。
 お兄さんのこと、何かあったら電話くれないかな。気になる。
 わかってる、ありがとう、手を振って別れた。
 
 駅の東側はピンク街だ。直子は、騒々しい客引きや酔客の間を、久しぶりに歩いた。あからさまにからかう男もいれば、黙って品定めする男もいる。
 直子は、駅を通らず、そのまま真っすぐ繁華街を横切ってバス通りを渡り、西側にある雀荘「スカラ」の方に向かった。「スカラ」の向かい側にある小さなラーメン屋「上海」に行くつもりだ。
 「スカラ」にたむろする誰か会わないとも限らないが、誰と会おうと、どうでもよかった。もう一緒に遊ぶこともないし、何を言われても気にならない。
 深田と暮らすためには、大学を辞めて働くことが条件だった。だから、大学の友達は、泉一人いれば充分なのだ。
 ラーメン屋に入ると、顔見知りが一人いた。
 直子、久しぶりだな。こっちに来いよ。コの字になったカウンターのど真ん中で、丈次が餃子をつまみに、ビールを飲んでいた。丈次ならいい。直子は嬉しかった。でも、すぐに電話をかけに行かなくてはならないから、コートは脱がずに隣に座る。
 ほんと、久しぶりだね。
 タバコに火を点けようとすると、丈次がマッチを擦って、器用に大きな手で囲い、火を点けてくれた。
 一人か?と聞く。頷くと、こちらの要望を開かずにすぐに注文する。
 おじさん、こっちにキリンビールひとつ。
 中卒で旋盤工になった丈次は、学生と違って、男の振る舞い方をよく知っている。直子を気遣って、カウンターの端にあるグラス置き場から、自ら清潔なグラスを取って来た。
 さあ、直子、ビールがんがん飲もうぜ。
 はらはらする直子のグラスに、新しく運ばれてきたキリンビールを注いでくれ、グラスを合わせて乾杯する。
 おじさん、こっちに餃子もうひとつ。あと、野菜妙め。
 また丈次の大盤振る舞いが始まりそうだ。直子は壁に貼られたメニューを睨んでいる丈次を止めた。
 もういいよ。そんなに食べられないから。
 これから、「スカラ」に行くなら、一緒に行くか?
 丈次が、張り切った様子で尋ねる。
 いや、もうあそこには行かない、と断る。
 しばらくして腕時計を見ると、CHETを出てから四十分経っていた。怪訝な顔をする丈次を置いて、慌てて外に出た。
 ちょっとごめん。電話してくるから。
 平和通りのタバコ屋の前にある電話ボックスに入り、宇都宮のライブハウスに電話してみた。だが、「関係者への取り次ぎはできない」と、にべもなく断られた。
 食い下がって、宿泊しているホテルはわからないか、と聞いたが、教えられないと言う。どうやら、ファンからの問い合わせだと思われたらしい。
 明日は、あらかじめ郡山のライブハウスに電話してみようと思う。深田の声が聞けないと思うと、寂しさが募る。
 「上海」に戻ると、丈次が「もやしそばふたつ」と勝手に注文した。まだ手付かずの餃子がひと皿と野菜炒めがあるし、ビールもほとんど一本が残っているのに。
 直子は丈次の悪い癖が始まった、と気を揉んだ。丈次はいつも、食べきれないほどの量を注文して、そのほとんどを残す。そして、不満そうな店の人間に、「金を払ったんだ、何か文句あるか」と言わんばかりの態度を取るのだ。
 工場の先輩にそんな躾でも受けたのか、丈次は時折、学生からすると信じがたい振る舞いをすることが多々あった。極端な気遣いと倣慢さ。
 直子が戻ってからしばらく飲んでいると、あ、丈次がいた。直子もいる、と後ろから声がかかった。
 ガラスの引き戸を開けて顔を出したのは、吾郎だ。麻雀の面子を探しているのだろう。
 丈次、麻雀やろうぜ。
 丈次は、不機嫌な顔で返した。
 まだ、直子と飯食ってんだよ。
 じゃ、後で来てよ。
 他には誰だよ、と丈次が眉根を寄せた。
 タカシと新堀だ。吾郎が、直子に気を遣ってか、小さな声で答えた。
 新堀が来てるの?
 直子の問いに、吾郎が哀れなほど慌てている。
 新城だけで、連れはいないよ。
 バンドをやっているという恋人は連れて来ていない、という意味だろう。そういや、新掘に傷付けられたこともあったっけ。そんな傷など、どこにあったのかわからないほど遠くに霞んでしまった。
 ゴロちゃん、そんなこと全然気にしてないよ、と言いたかったが黙っていた。
 直子、久しぶりじゃない。どうしてたんだよ。
 吾郎が横にやって来て、気安く肩に触れた。吾郎とも寝たことがあったっけ。直子は吾郎の目をまじまじと見詰める。
 べつにどうもしないよ。
 言い方が剣呑だったのか、吾郎が少し戸惑った顔をする。
 もう麻雀しないのかい?
 しない。忙しいから。
 忙しいのはどうして。バイト? それとも勉強?
 直子は何と言おうかと、頭を巡らせて狭い店内を見回した。だが、答えは浮かばない。
 いろいろ。
 そう答えた途端、急に虚しくなってきた。
 和樹が死にかけているのに、ビールを飲んで餃子を食べている場合じゃない。深田が仕事しているのに、麻雀の面子がどうの、と話している場合じゃない。早く家に帰れ。いや、本当は深田のところに帰りたいのに帰れない。
 涙が溢れそうになって、直子は慌てて言った。
 丈次、用事があるんで帰るね。ご馳走さん。
 少し多いと思ったが、千円札を二枚、カウンターに置いた。
 丈次が、「要らない」と怒って返すに違いないと身構えていたら、意外にもそのままにしている。直子はバッグを掴んで立ち上がった。
 ゴロちゃん、またね。あたし、ゆっくりできないんだ。
 吾郎は呆気に取られた風に直子を見送り、丈次は傷付いたように両手をポケットに入れて俯いていた。
 直子は「上海」なんかに行かなきゃよかった、と後悔しながら街を走った。
 
 「親としては、人様の子供さんに大怪我させるより、なんぼか気が楽だよ」
 病院に向かった時に言った父親の台詞が蘇り、直子は咄嗟にその時、「欺瞞的じゃない」などと反発したのだが、なんであんなことを言ってしまったのだろう、と気が塞いだ。
 「内ゲバ」は、殺し合いだ。国家権力は故意に学生たちを放置して、互いを「完全激減」するまで、高見の見物をするつもりだ。ああ、嫌だ。歯噛みするほど、セクトが嫌いだ。学生たちに殺し合いをさせる国家権力が嫌いだ。この国が嫌いだ。
 帰宅後に知った和樹の事件は、効き目の遅い毒のように、次第に直子を傷付けていく。吉祥寺から帰って来た直子は、すぐにベッドに入ったが、ほとんど眠ることができなかった。
 いつしか、うとうとしていたらしい。階段を降りる重い足音に起こされた。古い家がみしみし揺れるはどの震動は、いったい誰のものか。
 和樹に何かあったのかもしれない。直子は、妙に冴え渡った気持ちで起き上がった。ベッド横のテーブルに置いた目覚まし時計を見ると、午前六時前だった。まだ陽も昇っておらず、外は真っ暗だ。
 直子は寒さに震えながら、ベッドから出た。カーディガンを羽織って、部屋のドアを開ける。
 階下を覗くと、薄暗い廊下の先にある居間に、照明が点っているのが見えた。
 何か不吉なことが起きたに違いない。直子は覚悟して部屋を出た。ちょうどその時、長兄の良樹が階段を上がって来た。
 騒がしいから、何かあったのかと思った。
 起こしてごめん。俺がこれから新幹線で大阪に帰るんだよ。
 なるほど。二人の兄がいなくなって久しいから、若い男の足音の勢いと重さを忘れていたのだろう。
 お兄ちゃん、帰ってしまって平気なの?和ちゃんは大丈夫かな。
 あいつはまだ大丈夫だよ。昨日見た感じでは、今日明日の問題じゃないと思う。だから、一度帰って、また週末に戻るよ。
 良樹の冷静な言い方に、ほっと安心する。
 わかった。じゃ、気を付けてね。
 踵を返した直子に、良樹が声をかけた。
 直子もあまり気にしないで普段通りにしてろよ。でないと、ばれるぞ。
 誰にどうばれるの?
 和樹がまだ死んでなかったとわかれば、また殺しに来るかもしれないし、もし、和樹が元気になったらなったで、オヤジは足を洗わせるつもりだから、今度は裏切り者と言われて、追われるかもしれないじゃないか。
 じゃ、両方から追われるの?
 わからないけど、そう簡単にはいかないよ。活動をやめないまでも、事件を政治的に利用されるかもしれないし。だから、おまえさ、和樹のこと、あまり他人に話すなよ。
 誰にも言ってないよ。
 すでに泉に話してしまったし、これから深田にも伝えるつもりだったが、憮然として否定した。
 じゃ、もう出るから。俺、七時の新幹線に乗らなきゃならないんだ。
 良樹はスーツの上からコートを羽織り、家全体をみしみしさせながら階段を駆け下りて行った。
 さいなら。
 直子は二階から兄を見送った。階下で、すでに起きていたらしい母親が、兄に声をかけている。
 良樹、また和樹に会いに来てやってね。
 玄関の引き戸を開ける音がする。
 わかってるよ。週末来るから。じゃあ。
 お母さんもきっと心細いんだ。直子は部屋に戻り、再びベッドに潜り込んで、必死に目を閉じた。
            
 悪い夢にうなされて目が醒めた。直子はカーテンを開けた。空はどんより曇っていて、いかにも底冷えしそうな色だった。夜が明けても、問題は何ひとつ解決していないことに、憂鬱になる。
 直子、直子。出掛けるから、早く下りて来て。
 階下で、母が呼んでいる。急いでジーンズを穿き、黒いタートルネックセーターを頭から被った。部屋を出て、人が上り下りする真ん中だけが黒光りする階段を下りた。
 居間に顔を出すと、母親が茶のウールコートを着ながら、壁に掛かった電気時計を見上げている。
 お母さん、病院に行くから、ここを片付けた後、お父さんを手伝ってあげてよ。
 祖母が身支度を整えて現れた。十時に店を開けるから、店番をするつもりなのだろう。
 おばあちゃん、店番、代わろうか?
 いいよ。何かしてないと、居ても立ってもいられないから。
 お母さん、もう出掛けたよ。
 知ってる。和ちゃん、頑張ってほしいね。
 祖母がそう言って遠くを見た。直子は遣り切れなくなって、顔を背けた。
 深田に連絡しなければならないことを思い出し、廊下の隅にある家の電話で、今夜演奏することになっているライブハウスに電話をしてみた。開店前らしく、誰も出ない。直子は落胆して、しばらくコール音を聞いていた。
 父親が店から廊下に顔を出して、直子を呼んだ。
 直子は受話器を置いて、父親のところに行く。
 配達に行くから、一緒においで。
 家出した自分と、話をしておきたいのだろう。
 いいよ。
 父親の軽トラの助手席に直子は乗り込んだ。軽トラは五日市街道を西に向かう。しばらく無言だったが、直子の大学を過ぎた辺りで、直子の方から話しかけた。
 こんな遠くに配達行くの、珍しいね。配達、何軒あるの?
 父親は、直子に話を聞きたかったのだろう。こんな時に何だけど、直子がふらふらとどこかに行ってしまいそうで、心配だからな、と言った。
 自分はそんな風に見えるのだろうか。
 ごめん。と謝ると、父親は軽トラを路肩に停めた。
 タバコ吸を勧められて、差し出されたハイライトの箱から一本取ってくわえる。父親もくわえて、マッチを擦った。火を点けて貰って、父親と同時に煙を吐く。
 何か話があるんだろう?
 父親の方から振って寄越した。
 うん、あたし、大学辞めて働こうと思ってる。
 働くって、何をするつもりなんだ。
 わからない。何ができるかもわからないけど、もう学校に行くのが嫌になったの。
 三週間もどこにいるか連絡もなくて、突然帰って来て、大学も辞めるって言うんだから、何かあったんだろう。
 父親が不快さを隠さない口調で言う。
 その、何かあったことを聞きたいわけ?
 直子もしぜん抗う言い方になった。
 話したくなければいいよ。どうせ、ろくなことはないだろう。和樹にしても、おまえにしても、自分勝手なことばかりしている。大学に行かせるのだって、うちにとっては大きな出費だよ。
 わかってるよ。
 おまえは、セクトには入ってないようだが、ろくに勉強もしないで、麻雀したり、ジャズ喫茶行ったり、一日寝ているだけだものな。大学って、そういう場所なのか。だったら、辞めるがいいよ。お父さんは止めない。
 勉強したかったけど。
 父親に正論を言われて、何も言えなくなった。好きな男が出来て、その男に、大学を辞めて働かなければ一緒に住むことはできない、と子供同然に扱われたから、なんてどうして言えようか。
 ともかく働きたくなったのよ。
 直子は唇を噛んだ。
 いいよ。うちは和樹のことで、これからものすごくお金がかかるだろうから、直子の学費がないだけでも助かる。そうしたいのなら、誰も止めないよ。
 頷くと、父親がエンジンをかけた。
 お父さん、和ちゃんのこと、どうするの?
 父親と目が合った。目の下にどす黒い隈が出来ている。
 どうするもこうするも、生きてて貰うように祈るしかないだろう。俺はお母さんの言う通りにするよ。
 ごめん、突然、こんな言葉が出た。ごめん、お父さん。親不孝で。
 直子は親不孝じゃないよ。一人で生きていくのなら、それでいい。和樹が甘ったれた親不孝者なんだ。
 父親が軽トラを路地に入れて、Uターンし、今走って来た道を戻る。
 ところで、直子は、いつ家を出て行くつもりなんだ?出て行くんだろう?
 はっきり聞かれて言葉に詰まった。深田との約束は五日後だが、和樹の容態次第だし、そのことを深田と相談していない。
 もう少しいる。和ちゃんが心配だから。
 和樹が落ち着いたら、出て行くということだね?学校を退学して。
 父親に言われた途端に、寂しくなった。しかし、自分は深田とともに暮らすことを決めたのだ。貧乏しようと苦労しようと、深田さえいればいい。
 そのつもりだけど。
 誰か、好きな人が出来たのか?
 思い切った風に、父親が聞いた。
 うん、と、正直に答える。
 直子のことだから、信用しているけど、騙されるなよ。
 騙す?メロドラマじゃあるまいし、何と俗なことを言うのだろうか。直子は内心、父親を、いや、父親が代表する「世間」を軽蔑した。
 父親とたった三十分のドライブをして、家に戻って来た。正面から店を覗くと、店番をしている祖母が、近所の主婦に醤油と味の素を売っていた。そのまましばらく、世間話をしているらしいので、店からは入らず、裏の勝手口に回った。
 すみません。
 女の声がして、驚いて振り向く。長い髪を真ん中分けにして灰色のコートを着た若い女と、黒いセーターにシャツの白い襟を出した男が立っていた。二人とも学生風で、青白い顔色をしている。女は山本、男は鈴木、と名乗った。揃って平凡な名前なのが異様だ。
 二人とも、直子よりも年上のようだ。二十五、六歳だろうか。
 すみません、私たち、救援対策センターの者なんです。
 つまり、セクトから来た連中だ。良樹の言葉が蘇る。
 「和樹がまだ死んでなかったとわかれば、また殺しに来るかもしれないし、もし、和樹が元気になったらなったで、オヤジは足を洗わせるつもりだから、今度は裏切り者と言われて、追われるかもしれないじゃないか」
 直子が固い表情で立っていると、女が心配そうに眉を寄せて聞いた。
 三浦君のことを、とても心配しています。私たちでできることがあれば、何でもしますので、容態を教えて頂きたいのですが。
 何も言うことはありません。
 直子の言葉に、「鈴木」が反応した。
 昨日、皆さんでお出かけになりましたよね。僕ら、三浦君の容態に何か変化が起きたのではないか、と心配しています。
 お話しすることはありませんので、失礼します。
 二人を押しのけて家に入ろうとすると、「山本」が縋るように、直子の前に回った。
 すみません、待ってください。
 「山本」は痩せていて、直子よりも五センチほど背が高い。細い目がやや離れて付いているのが眠そうで、おっとりした魅力的な顔だった。
 あなたは、S大に行っている妹さんですよね?
 薄気味悪いものの、「山本」の表情が必死なので、何を言うのか知りたくもあった。
 すみません、私、和樹さんの同志ですけど、プライベートな恋愛関係もあるんです。だから、心配しています。お願いだから、教えてください。
 和樹の恋人だと言うのか。一瞬、心が動いた。が、奇蹟が起きて和樹が元気になり、「裏切り者」になった時はどうなるのかと思うと、決心が付かない。
 ごめんなさい、言えないんです。
 直子は強引に「山本」を押しのけて、家に入った。引き戸をぴしゃりと閉めて、鍵を掛ける。
 恋人だったら、さぞかし知りたいだろう。「山本」に教えてやりたい気持ちが募るのを、懸命に堪えた。
 
 直子は午後までじりじりして待ち、ライブハウスに電話をしてみた。楽屋入りは午後四時過ぎだというので、その頃に電話をくれるよう言付ける。
 こちらも出入りするので、確約はできませんが、と言われてがっかりする。やはり、熱心なファンと思われているらしい。泊まるホテル名も聞いてみたが、わからない、とにべもない返事だった。
 辛さに耐えかねて、アキに電話してみた。数回のコールで、掠れた声が聞こえた。
 アキさん、直子です。お元気ですか?
 あら、ナオコか。久しぶりじゃない。あんた、元気だった?
 ええ、元気です。アキさん、すっかりご無沙汰してすみません。
 謝ると、アキが笑いながら言う。
 知ってるよ。あんた、ケンちゃんと出来ちゃったんだよね。びっくりしたけど、お似合いかも。あの子もすっかりあんたに入れ込んじゃって、二人で暮らしているっていうじゃない。でも、今ドサ回りでしょう?あんた、付いて行かなかったの?
 駄目だって、言われました。女禁制だって。
 ウソ。よく言うよ。
 アキの言い方に不安になる。
 ケンちゃんがウソ吐いたんですか?
 少なくとも秀島ちゃんは違うよ。
 ほっとすると、すかさずアキにからかわれた。
 あ、ケンちゃんがウソを吐いたのかと思って、焦ったんでしょう?可愛いなあ、ナオコは。まだ初なんだね。二十歳じゃ、若いもんな。
 永遠にからかわれそうなので、直子は慌てて遮った。
 それで、アキさんにお電話したのは、ちょっと聞きたいことがあるからなんです。ケンちゃんに連絡を取りたいんだけど、ライブハウスが取り次いでくれないんです。どうしたらいいですか?
 ボーヤだから、取り次いでくれないのよ。秀島ちゃん経由で頼めばいいんだよ。でも、ナオコからは言いにくいよね。じゃ、あたしが秀島ちゃんに電話して、ケンちゃんがあんたに電話するよう、頼んであげる。
 ありがとうございます。
 直子は、自宅の電話番号を伝えると、これでようやく深田と話せる。直子は気が抜けて、受話器を持ったまま、廊下にへたり込んだ。
 
 深夜、ようやくかかってきた深田の電話を取ったのは、直子の母山親だった。いったん病院から戻って来たものの、電話が鳴ると和樹の容態が急変したのではないかと、真っ先に受話器を取るのだ。二階の自室にいる直子は、到底間に合わない。
 おそるおそる電話を取った母親は、直子が階段を駆け下りて来たのを見て、怪訝な顔をした。
 深田さんという人からだけど、人のうちに電話をするには遅いんじゃないかしら。
 直子は無言で、引ったくるようにして受話器を奪った。
 もしもし、直子です、と、勢い込んで話す。
 俺です、深田。どうしたの?ここに電話かけろって、突然、秀島さんに言われてさ。何ごとかと驚いたよ。
 深田は少し不機嫌だった。アキ経由で秀島に伝えて貰ったために、事情を知らないのは無理もなかった。
 ごめん。あなたに連絡したかったんだけど、なかなか取り次いで貰えなかったから。アキさんにお願いしてみたの。
 なるほど、それでか。で、どうした?何かあったの。
 すぐ隣の居間で、母親が聞き耳を立てているのがわかる。三週間も連絡をしなかった娘の相手からだと、すぐに気が付いたのだろう。
 ちょっと家でいろいろあってね。約束した時間には、行けないかもしれないの。
 直子は暗い声で告げた。
 いつならいい?
 たちまち、深田の声が心配そうに翳った。
 まだわからない。
 何だよ。反対されたのか、と、尖る。
 違う、そうじゃない。
 ボーヤやってる男となんか付き合うなって、言われたか?
 深田が自嘲的に言ったが、直子は逆に子供扱いされてむっとする。
 違うって言ってるでしょう。事情があるのよ。
 母親がすぐ横で聞いているのだから、次兄が内ゲバで危篤状態にあって出られない、なんて告げられるわけがなかった。どう説明したら、深田は納得してくれるだろうか。
 直子は薄暗い天井を見上げて考えている。
 事情って何だよ。話せよ。せっかく電話したんだから。
 深田が促すので、直子は電話口を手で覆って囁くように言った。
 ごめん。電話では言えないのよ。
 だいたいわかるよ。直子は大事な一人娘だからな。
 違うんだってば。
 深田は誤解している。直子は焦ったが、良樹に「他人に話すな」と口止めされたこともあり、正直に言うのは憚られた。迷っていると、深田が聞いた。
 さっきのは、お母さん?
 そう。
 直子と声が似てるね、と懐かしそうに言う。すごく会いたくなった。
 あたしも。
 まだ別れて二日しか経ってないのに、すぐに会いたくなって困るよ。俺が帰って来る頃は、どうしても出られないんだね?
 うん。家で問題が起きていて、一週間後は無理だと思う。
 俺たちのことか?
 そうじゃない。家族の一人が具合が悪いの。
 深田はようやく納得したらしい。
 分かった。どのくらいかかりそう?
 二週間経ったら、行けるかもしれないけど、約束はできないの。どうにも動くことのできない状態なのよ。
 じゃあ、来られる時に部屋に入って待っててくれないか。その頃、またツアーに出ると思うけど、流動的なんだ。
 そうする。いつとは約束できないけど、必ず行くから。
 深田が心配そうな声を出した。
 いつになったら、直子と会えるのかな。
 だったらツアーの間じゅう、ケンちゃんあたしのうちに電話してよ。
 いつ電話すればいい?
 明日も、明後日も。その次の日もずっと。
 努力するけど、公衆電話に辿り着くのも難しい夜もあるから、毎晩できるかどうかはわからないな。
 深田が言うには、秀島さんの酒乱が原因で、トリオの人間関係がごたついているらしい。秀島さんの酒乱ぶりを聞いて直子が笑っていたら、母親が来て、長電話はいい加減にして。病院から電話がかかって来るかもしれないでしょう。それに、きゃっきゃ笑ってると癇に障るの、と言った。
 今の叱責が深田に聞こえたかもしれない。直子は怒りで肩をそびやかした。受話器を手で押さえて文句を言う。
 やめて、聞こえるでしょう。
 もしもし、どうした?
 話が途切れたので、深田の低い声が薄暗い廊下に響いた。
 何でもない。もっと話していたいけど、駄目なの。お母さんに怒られちゃった。だから、また明日、電話ちょうだい。
 わざと明るい声で言うと、深田はすぐさま諦めたようだ。
 じゃ、また電話する。おやすみ。
 電話を切った後、直子は母親と話すのが嫌で、しばらく電話の前から動かなかった。すると、母親の方から切りだした。
 ねえ、二週間経ったら、行けるかもしれないって、何のこと?その頃には和樹が死んで、すべて片付いているつてこと?
 そんなこと言ってないよ。脚色するのやめて。
 直子はむかっ腹を立てた。
 あんたは今、彼氏と会う約束してたんでしょう。今は和樹が危篤だから動けないけど、もうじき死んだら動けるって、そう言いたかったんでしょう?
 それは真実に近い。しかし、近いだけで正確ではない。なぜなら、直子は和樹の死を望んでいないのだから。だから、どうにも動けないのに、どうして母は自分を責めるのだろうか。
 あまりにも感情的になっている母親を正視できずに、直子は顔を背けた。
 酷い妹ね。さんざん心配かけて、やっと帰って来たと思ったら、和樹が死ぬのを待って、また出て行こうとするんだから。
 母親が涙をぼろぼろ流して言った。哀れに思いながらも、つい残酷になる自分もいる。
 そんなこと思ってもいないのに、どうして決め付けるの。お母さん、看病で疲れたのなら許してあげるけど、本心から言ってるのなら、絶対に許さないよ。
 でも、直子は今の状態が嫌なんでしょう?死ぬのか、死なないのか、延命装置付けるのか、付けないのか。どっちつかずの状態が嫌なんでしょう?
 自分で言いながら、母親の顔が蒼白になっていく。
 どっちつかずだなんて思ったことない。和ちゃんが生きていて嬉しいよ。
 でも、あんたは深田さんとやらと約束したから困ってる。そうでしょう?
 母親がやけに絡むので、直子も腹立ちが収まらない。
 和ちゃんのことで、みんなが悩んで困っているのは事実じゃないの?そうでしょう?
 直子は腕組みしながら、自分の口を手で抑えた。このままだと、言ってはいけないことを口走りそうで怖かった。
 悩んで困ってなんかいないわ。あたしは、心の底から心配している。息子が死んだらどうしょうって。直子だって、そうじゃないの?そうでしょう?
 そうだよ。心配しているよ。だけど、和ちゃんがセクトに入って殺し合いしてきたのは事実じゃない。自業自得だとは言わないよ。本当に可哀相だし、死んでほしくないよ。でも、覚悟はあったよ。いつか、そんなことが起きるかもしれないって。本人だってそう思っていたと思う。それに、あたしだって、いろんな人間関係があるんだから、「二週間」がどうこうって、電話を盗み聞きした挙げ句に、揚げ足取らないでよ。
 直子は自己嫌悪に陥りながら叫んだ。
 最早、この家に留まることに、耐えられなくなっている。それがどうして母親にわからないのか。家族だから、皆で一緒の行動をしなければならないと思っているのか。家族だから、同じ量の悲しみを持たなければならないのか。ぞろぞろと隊列を作って、病院に向かった時のことを思い出す。
 盗み聞きして揚げ足取るですって?そんな風に人を貶めて、あんたは楽しいの。
 母も激昂して怒鳴った。
 お母さんは、あたしの揚げ足を取ったよ。あたしだって、和ちゃんに死んでほしくなんかない。だけど、そんな事態になっていることを知らなくて、してしまった約束だってあるんだから、今後の予定を話したっていいでしょう。あたしにとっては、大事な用件なのよ。みんな、それぞれの事情があるんだからさ。
 それぞれの事情って何よ。
 母親がくたびれたように呟いた。
 簡単じゃないの。お父さんとお母さんはお店があって、三人の子供がいる。良樹兄ちゃんには会社がある。あたしは学生だけど、大事な約束がある。そして、和ちゃんは危篤。これが、それぞれの事情ってもんじゃないの。違う?何で良樹兄ちゃんの事情は許して、あたしの事情は許せないの?
 母親が急に肩を落とした。
 直子、和樹が一人で遠いところに旅立って行こうとしているんだから、そんな時くらい、ずっと側にいてあげてよ。
 ああ、この人はとうに諦めていたんだ。涙が溢れそうになったが、必死に我慢した。
 わかってるよ。だから、こうやって少しでも長く保ってほしいと思いながら、待ってるんじゃない。
 何を待ってるの。
 母親の方が顔を背けた。
 傷付けたらごめん。でも、ある種の決着でしょう。
 母親が力無く首を横に振った。誰もが、和樹が少しでも安らかに召されるのを待っている。
 本当は待ちたくないのに、待たざるを得ないから、苦しくて堪らないのだ。
 ごめん、あたしはもう待てない。あたしが一番弱いんだと思う。お母さん、許してね。
 直子はそう言い捨てて、二階への階段を上った。
 何を許してって言うの。待てないって、どういう意味?
 母親が声をかけたが、直子は答えずに、みしみしと音がする階段を上り続けた。
 階下にいるはずの父親も祖母も、二人の口喧嘩が聞こえていたはずなのに、どちらも出て来ようとはしなかった。
 ねえ、直子、どういう意味なの?
 もう一度、母親が聞いたので、階段を上りきった直子は振り向いた。
 お母さん、あたしは明日、この家を出て行く。でも、和ちゃんにはさよならを言ってから行くね。
 わかった。
 母親は異様なほど静かな表情で頷いた。
 その夜、直子はまんじりともせずに過ごした。ようやく夜が明けたが、師走の早朝は真っ暗で寒い。待つから、怖いんだ。だったら、自分から行くしかない、と独り言を言ってみたが、それが強がりだということは百も承知だった。
 素早く身支度をして、七時前に家を出た。明け切らない道を駅まで急ぐ。和樹に別れを告げに行くところだ。早朝に家を出たのは、母が病院に到着する午前九時まで、和樹と二人きりで話したかったからだ。
 和樹の病室の前に着いたのは、病院内にまだ朝食の味噌汁の匂いが満ちているような時間だった。ナースステーションでミーティングをしていた看護婦が、驚いたように直子を見た。
 あら、早い。三浦さんの妹さんですよね?今日はお母さんじゃないの?
 直子はコートを脱ぎながら、頭を下げた。
 妹です。今、いいですか? これから出掛けるので。
 看護婦は「どうぞ」という風に微笑んだので、直子は病室のドアを小さくノックしてから、そっと開けた。
 和樹は、同じ姿で横たわっていた。点滴の針が刺さった腕は細くなり、蛍光灯の青白い光の下で、顔色がひどく悪く見えた。口を半開きにしたままで、微動だにしない。
 しかし、開いたカーテンから、冬の太陽が斜めに射し込んで来ている。直子は救いのように感じて冬の陽を見た。
 和ちゃん、おはよう。直子だよ。
 直子は話しかけて、骨折していない方の左手の指を握った。血が通いにくくなっているのか、指先は冷たかった。
 こないだみたいに、握り返して。ねえ、和ちゃん。
 何度も力を籠めてみたが、握り返してくる力はまったくと言っていいほど、感じられなかった。がっかりして、無精髭の生えかけた兄の頬をそっと撫でてみた。痩せこけていて、頬も冷たい。
 たったの二日間で、生気が失われてしまったのが悲しかった。しかし、直子が何度か頬を撫でると、少し表情が和らいだような気がする。
 和ちゃんの顔なんか触ったことないのに、触っちゃってる。可哀相だね、包帯でぐるぐる巻きにされて。痛かったでしょう。そうそう、昨日、救対の山本さんて人が来たよ。和ちゃんの恋人だって名乗ってたけど、容態は教えてあげなかった。もし、会いたかったのなら、ごめんね。でも、誰に教えていいのか、いけないのか、わからないの。良樹兄ちゃんが、誰にも喋るなって言うから。でも、あたしは山本さんには教えてあげたかったと後悔している。それから、お母さんと、ゆうべ大喧嘩しちゃったよ。お互い言い過ぎてるのはわかってるんだけど、どうにもできないの。お母さんとあたし、似てるのかもしれないね。ともかく、みんな、和ちゃんのことで大混乱してるの。何が正しい道なのか、みんなわからなくなっているんだもん。
 ふと、閉じられた左目の瞼が少し開いて、半眼になったように見えた。
 今、目を開けた?
 直子はどきどきして、そっと瞼の隙間から覗いて見た。だが、目は見えなかった。思い切って開いてしまいたいが、そうはできないので、指でそっと唇に触ってみた。
 半開きになっているので、白い歯が見えている。健康な若い歯だ。大きな二枚の前歯を見ていると、兄のいろいろな表情が思い出されて涙が溢れた。子供の頃から仲のよかった兄の命は、終わろうとしているのだろうか。
 和ちゃん、あたし、好きな人ができたんだ。今まで、恋愛ってしてるんだかしてないんだか、全然わからなかったけど、やっとわかった気がする。幸せなんだけど、一番大事で好きな人がいるって怖いことだなと思ったよ。あの人がいなくなったら、あたし、死んでしまうかもしれない。人を好きになるって、怖ろしいことなんだね。だからさ、お母さんとお父さんの悲しみが、実はすごくよくわかるようになった。お母さんはね、和ちゃんが死ぬんじゃないかと思って、恐怖に怯えているの。それなのに、あたしは親を捨てて出て行っちゃうんだよ。たった一人のために、みんなを捨てて行くんだよ。それでもいいのかな?ねえ、どう思う?和ちゃん。
 もう一度、左手の指を握ってみた。力が籠もっていないので、するりと直子の手から滑り落ちていく。
 不意に、和樹の首の角度が、来た時と変わっているような気がした。少し垂れている。まるで夢で見た、穴の中の人型の白い枠とそっくりではないか。直子は死の影を見たような気がして息を呑んだ。
 和樹はじきに死ぬだろう。いや、もしかすると今、この瞬間に死にかけているのかもしれない。では、和樹の魂はどこにいる。まだ和樹の体の中か。それとも、部屋の中を彷裡っているのか。直子は天井を見上げた。
 死の確信が怖くて、直子はおろおろと立ち上がった。看護婦を呼びに行こうかと、迷いながら動き回る。しかし、吐息が微かに聞こえたような気がして、掌を口許に当ててみた。
 和ちゃん、苦しいの? 大丈夫?
 返事はない。しかし、目許が和らいだようだ。朝の光の中に横たわっている和樹は、幸せそうに見える。
 死ぬのってどんな気分なんだろうか。あたしはまだわからないけど、結局、早いか遅いかの違いだけで、人は必ず死ぬんだものね。みんな運命は同じなんだと思うと、別れが来るのは仕方がないような気もする。あたし、和ちゃんにお別れに来たんだよ。今日、家を出るんだ。そして、好きな人のところに行くの。大学も辞めて、働くことにした。でもね、その人とも、ずっと仲良くやっていけるかどうかなんて、全然自信がない。不安はすごくあるよ。我が儘な人だって、わかっているから。あたしもそうだしさ。だけど、もう決めたから、これでさよならだよ。和ちゃんと暮らしたのは、二十年くらいだったね。兄弟が一緒に暮らせるのも短いんだね。わかっていたら、もっと仲良くしてればよかったね。もう遅いかもしれないけど。でも、みんな和ちゃんのことを忘れないからね。
 やはり、和樹は息をしていないようだ。亡くなったのだ。直子はゆっくり病室を出て、ナースステーションに向かった。
 報せを聞いて、両親と祖母がタクシーで駆け付けて来た。直子は病院の廊下で、母親と擦れ違った。
 和ちゃん、死んじゃったよ。
 不思議と涙は出なかった。兄の臨終に自分が立ち会った、ということが救いになっているのかもしれないが、そんなことは自己満足に過ぎない、とよくわかっていた。母親も青白い顔をしていたが、泣いてはいない。
 直子がそばにいてくれてよかったわ。
 それだけ言って、病室に入って行った。直子は、一人で病院を出た。
 家に戻って、和樹の部屋を覗いてみた。本を一冊貰おうかと思ったがやめにして、代わりに、ナイロン製のスポーツバッグに目を留めた。適当なバッグがないから、形見代わりに貰って行こうと思う。
 気が変わって、本棚から『「ギンズバーグ詩集」を抜いてバッグに突っ込んだ。詩集なんか一度も読んだことがないから、読んでみようと思う。
 服や下着を、和樹のスポーツバッグに詰め込んで、コートを羽織り、深田の黒いマフラーを首に巻いた。まだ誰も帰って来ていないので、店に下りてレジを開けてみた。良心の呵責を感じながら、一万円札を三枚抜いて財布に納める。
 裏口から出て行こうとした時、家の電話が鳴った。もしや、深田ではないかと、履いた靴を脱いで、息せき切って電話に出た。
 もしもし、私、宮脇といいますが、直子さん、いらっしゃいますか?
 泉からだった。
 泉、あたしよ。どうしたの?
 腕時計を見ると、まだ十一時過ぎだ。両親の帰りが遅いことに気付く。警察が検視をすると言っていたから、遺体が戻るまで時間がかかっているのかもしれない。
 いや、お兄さん、どうしたかなと思って。
 泉はいい勘をしている。直子は大きく息を吸い込んだ。
 今朝、亡くなったの。
 今朝か、と、さすがに驚いた様子で息を呑む気配がした。そうか。やっぱり駄目だったんだね。お母さんたち、お気の毒ね。
 そうなのよ。あたしがたまたま今朝行ってて、様子が変だと思ったの。だから、和ちゃんを看取ったのはあたしなのよ。
 それが、直子にとっていいことなのか悪いことなのか、私にはわからない。
 泉に正直に言われて、直子は苦笑する。
 いいことだったよ。
 はっきり言うと、泉が嘆息した。
 強いね、直子。あたしなんかびびっちゃうよ。
 そういう意味じゃないの。自分がよくわかるってこと。あたしね、最後にいろんなことを和ちゃんの耳許で喋ったんだ。でも、そういうのって自己満足だなと、逆に嫌な気分になりかかってるの。
 そうかな。お兄さん、最期に直子の声を聴けたのは、嬉しかったんじゃないかな。あまりに楽観的かしら。
 ありがとう。今、気持ちが少し楽になったよ。
 直子の肩から力が抜けた。すると、急に悲しくなって涙が溢れた。
 あ、今、ちょっと泣いちゃった。
 涙声で言うと、泉が遠慮がちに聞いた。
 お葬式はいつなの?
 さあ、と、直子はしんと静まり返った家を眺め回した。
 黒ずんだ天井と、少し傾いだ古い家。酒と醤油と味噌の臭いの染み付いた、どの町にも一軒はある酒屋だ。
 何も聞いていない。内ゲバで死んだんだから、これから警察が来るとか言って騒いでいたし、大袈裟にはしないと思う。どこか小さな斎場でひっそりとやるんじゃないかな。
 行けたら、行きたいけど。
 いいよ、来なくて。だって、あたしもいないもん。それに内ゲバだから、公安が来たり、セクト関係が見張っていたり、結構大変だと思う。
 いないってのは?
 小さな声で聞いた泉に告げる。
 あたしさ、今日これから福島に行こうと思ってるの。ケンちゃんに会いに行く。待ってるとろくなことがないから、自分から行くんだ。だから、お葬式にも出ないし、うちにはもう戻らないつもり。
 学校も辞めるんだね。
 そう、ごめんね。しばらく会えないかもしれないね。
 いいよ、二度と会えないわけじゃないんだから。
 だよね、と笑い合う。
 ところで、電話したわけはさ、と、泉が話を変えた。もうひとつあるんだよ。
 昨日、丈次が大怪我をしたんだって。今日、英語の授業に行ったら、ゴロちゃんに会ったの。それでゴロちゃんから、直子に伝えてって言われたのよ。
 昨日の夕方、吾郎とタカシと三人でパチンコしてたら、隣のチンピラみたいな男と、肘が当たったとか当たってないとかそんな些細なことから喧嘩になり、丈次はそのまま打ち続けていたらしいのだが、そのあとでそのチンピラに呼び出され、マンションの一室に連れて行かれて、そこで待ってたヤクザみたいな男に木刀で前歯を全部折られたというのだ。
 直子は、丈次の倣慢に見える振る舞いを思い出した。食べ切れない料理を注文して、はとんど残し、不満そうな店の人間に高圧的な態度を取る。自分をヤクザのような存在に見せたいとしか思えない、危うい振る舞いを。
 前歯を折られるって怖ろしいね、と直子は言う。
 ごめんね、お兄さんのことがあるのに。
 いいよ。丈次にも会えないけど、会ったら、お大事にって言っておいてくれる?
 残念だけど、あたしは彼に会うことはないと思うよ。
 泉ははっきりしている。
 そうだね。じゃ、桑原さんによろしく言っておいて。
 泉が笑った。
 ああ、それなら言えるから、言っておくよ。
 あたしはちょっくら行って来るから。
 ちょっくら行って、帰って来ないんでしょう、と泉が言う。寂しいな。
 うん、でも生きているから大丈夫だよ。またいつか会えるんじゃない。
 そうだね、という声を聞きながら、直子は電話を切った。
 和樹のスポーツバッグを持って裏口から表に出た。五日市街道の先の信号に、白い救急車のような串が停まっているのが見えた。助手席に座っているのは、父親だ。家の場所を運転手に告げているらしく、右手を挙げていた。
 和樹が家に帰って来たのだ。直子は電信柱の除から、僅かの間、その事を眺めていた。信号が変わったのを見届けて、五日市街道と反対の方角に向かって歩きだす。
 いずれ自分も、和樹のようにこの家に戻って来るのかもしれない。死んではいなくても、傷付いて、失意のどん底で。あるいは、もう二度と戻らないかもしれない。今の自分は、どちらでもよかった。
 
第三章へ          トップへ