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桐野夏生『抱く女』(新潮社)
 本書は、一九七二年九月から十二月までの四か月の間の出来事が第一章から第四章の各章にわけて綴られている。
        
| 作品について  第一章  第二章 | 第三章 | 第四章 |
        
 第二章 一九七二年十月
 三浦直子がCHETの遅番に入った時、客はたった一人しかいなかった。
 何度か見かけたことがある中年男だ。首までファスナーを上げた灰色のジャンパーの下は白いシャツで、黒い蝶ネクタイを締めているのが見える。くたびれた黒いズボンに黒靴。この界隈の水商売関係の男らしかった。
 いつもスピーカーの前の席で腕を組み、苦行僧のごとく眉根を寄せて音に聞き入っている。
 時折、タバコをくわえては、虚ろな眼差しで水を少しだけ飲むことを繰り返している。
 曽根によると、男は近くのおさわりバーの支配人だという。店が始まる少し前にCHETに寄り、ジャズを聞いてから出勤するのだそうだ。
 直子は、男のリクエストが気に入っている。大概がマイルス・デイビスなのだ。今日は、「カインド・オブ・ブルー」のA面だ。
 いいね、これ。ドリップコーヒーのネルを洗っている曽根に、浮き浮きと囁く。
 だけどさ、マスターは嫌いなんだよ、マイルスもコルトレーンも。前もさあ。
 曽根が顔を上げずに気安く答えた。声は面白そうに弾んでいるが、口許は歪んでいた。曽根と桑原はあまり仲がよくないのだ。
 店中に轟く、コルトレーンの甲高いテナーサックスに遮られて、曽根の言葉の後半が聞き取れなかった。
 前も、何なの?
 直子はカウンターの中に身を乗り出して尋ねた。
 いや、マイルスとかのリクエストが来るとさ。わざとリクエストの順番を後ろにして、なかなかかけないんだ。
 リクエストは一曲だけではなく、そのLPレコードのA面やB面が対象になる。面を全部聞かせるのだから、後回しにされたら果たしていつになるか、わからない。そのうち、客は疲れて帰ってしまう。
 それで、ようやく、この店は自分のリクエストが気に入らないんだ、と悟るわけだよ。
 へえ、マスター意地悪ね。そういうことして客に悟らせるなんて。
 曽根は同意するかのように、にやりと笑った。
 前髪がはらりと目の上にかかっているので、どんな顔立ちをしているのか、よくわからない。だが、目つきは鋭く、怜倒そうにも見える。
 宮脇泉とは、曽根のことを陰でこっそり、「キタロー」と呼んでいるのだが、本人はもちろんそんなことは知らない。
 どうしてマイルスとかコルトレーンが嫌いなのかしら。カッコいいじゃんねえ一。
 ジャズの素人である直子は首を傾げる。直子にとってジャズは、蘊蓄など語れない。いや、語りたくもない。ただ好悪しかなかった。
 だからさ、あの人はマスターがいない時を見計らって来るんだよ。
 曽根は、まるで共犯者のように声を潜めて男の方を見遣った。
 男は没我の境地らしく、目を閉じたまま細かく両足を揺らし、首を振っている。
 直子ちゃんも何か聞く?
 曽根はレコード棚を指差した。数千枚はあるレコードがぎっしりと背を並べている。この半分は、店を開く前から桑原が持っていたコレクションなのだそうだ。
 じゃ、マル・ウォルドロンの「レフト・アローン」。
 好きなピアノの曲を頼んだ。マスターの桑原が来て曽根と交代するまで、まだ時間がある。客が少なければ、勝手に好きな曲が聞けた。
 曽根がレコード棚からマルのレコードを出して、ターンテーブルに載せた。
 マイルスが終わり、マルがかかったのと同時に男が席を立った。無表情に金を払って出て行く。
 ありがとうございました。
 直子が大きな声で礼を言ったが、男は無言で釣り銭をひっつかむようにして、紫色のガラスドアを押し開けて出て行く。
 店には誰もいなくなった。直子は、吸い殻でいっぱいになった灰皿と、コーヒーの碗皿を下げて、カウンターの上に置いた。
 ねえ、直子ちゃんはさ、泉ちゃんと仲いいの?同じ大学なんだろう?
 いきなり曽根が尋ねた。照れ臭いあまりか、怒っているかのような口ぶりだった。
 うん、仲いいよ。友達の中では一番好き。そもそもここに来たのも、泉が縁だもの。
 そうだよな、と曽根が大きく頷いた。
 泉は頭いいし、はっきりしてるし、凄くカッコいいと思うよ。
 うん、彼女、もてそうだね。
 実際、もてるわよ。
 付き合っている人いるのかな、と曽根が恐る恐る尋ねる。
 それはわかんないな、と誤魔化した。余計なことをうっかり喋って、トラブルの種になるのは嫌だ。
 しかし、こんなに素直にその魅力を肯定できるのも、女友達では泉だけかもしれない。また、自分の違和感が通じるのも泉だけだった。泉と会って、またいろいろなことを話したかった。
 おい、誰だ。こんなのかけてるの。
 いきなりドアが開いて、桑原がマル・ウォルドロンのレコードジャケットを指差して怒鳴った。不機嫌そうに眉根を寄せている。
 あたしです。すみません。
 直子が手を挙げると、顔を顰めながら、口の中で、何だよ、仕方ねえなあ、と呟いたように聞こえた。
 カウンターの中で、曽根が黒いエプロンを外して丁寧に畳んだ。長い髪を掻き上げて、緊張した様子で桑原を待つ。
 今日は何人来た?
 桑原は挨拶もせずに、素早く店の中を確かめながら曽根に訊いた。
 直子は夕方五時からの出勤なので、客はおさわりバーの支配人しか会っていない。だから、昼間はいったい何人の客がCHETに来たのかは知らない。
 十五人ですかね。
 曽根が伝票を数え上げて答える。白いシャツの下に、首にかけた銀色の鎖が光った。
 少ねえなあ。それからさ、泉は、ちゃんと時間通りに来たのかよ?
 泉の勤務態度を、直子の前で平気でチェックする。当然のように、直子の顔もじろりと睨んだ。
 ちゃんと来てましたよ。俺が来たら、もう店の前で待ってましたから。
 曽根がうんざりしたように答えた。
 桑原という大人の男に苛ついていた。自分のリクエストを貶されたことだけではなく、誰よりもジャズを知っている、という自信が鼻に付く。この場を統べている、という態度が気に入らない。
 なら、いいけどさ。
 あの、あたしもちゃんと来ましたから。
 余計なことだと知りつつ、直子も付け加える。
 しかし、ジャズとは、そういう世界らしかった。大量のレコードを聞いて、大勢のミユージシャンを知っていて、誰といつ、どこで行われたセッションなのかを知悉し、名盤を語り、それらの知識を豊富に持っている者がまず勝つのだった。
 桑原は、その世界ではジャズ喫茶を堂々と開けるほどの勝者なのだ。彼がどんな趣味を持って、どのように店を運営しようと、ここが桑原の店である以上、誰も文句は言えない。それが直子の息を詰まらせる原因なのかもしれない。
 あんたは真面目そうだから、ちゃんと来てんだろうな。
 桑原はどうでもよさそうに言い、茶色のカーディガンの袖をまくった。下はウールのチェックシャツ。灰色のスラックスに尖った茶の紐靴。相変わらず中年男の趣味だ。
 おまえはもういいよ。
 店に置いてある自分のエプロンを腰に巻いて、傍らに立つ曽根に言う。
 じゃ、お先に失礼します、と曽根が一礼した。
 曽根が出て行く前に、ドアが開いて、桑原と趣味を同じくする客が続々と入って来る。話の合う桑原が来る時間帯を狙ってやって来るのだ。
 そして皆、同じことを大きな声で言う。
 誰だよ、マルなんかかけてるの?
 桑原は苦笑して答えない。直子は居たたまれなくなって、思わず曽根の方を見遣った。曽根も困った顔をしている。
 どうやら、おさわりバーの支配人が突然出て行ったのも、直子のリクエストのせいらしい。
 それほど嫌いなレコードなら置かなければいいのに、と思うが、それでも揃えて見せるのがジャズ喫茶というものなのだろう。それにしても、特定のミユージシャンをそこまで軽侮したり、毛嫌いしたり、崇めたり。何と不思議な世界なのだろうか。
 直子がCHETでバイトを始めて一カ月。何となくジャズ喫茶の文化が見えてきたような気がする。
 じゃ、俺はこれで。
 曽根が出て行った途端、勤め帰りらしい客が現れて、小さな店はあっという間に満席になった。直子は腰掛ける暇もなく、コーヒーを運んだり、水を注ぎ足したり、灰皿を変えたりして目まぐるしく働いた。
 文学部の中本祐司がふらりと入って来たのは、午後十時少し前だった。いつも取り巻きに囲まれているのに珍しく一人で、しかも少し酔っていた。
 直子は中本がジャズを聞くとは予想もしていなかったので、意外な思いで水を差しだした。
 ビールください。
 中本は、黒いビニール張りのシートに倒れるように座り込んだまま、直子の顔を見ずに注文した。どうやら、直子の存在に気付いていないようだ。
 こんばんは。
 大きな声で話しかけると、驚いた風に顔を上げる。
 直子か。ここでバイトしてんの?
 うん、と、銀盆を胸の前に抱えて頷く。中本が何か言ったが、喧ましいエルヴィン・ジョーンズのドラムソロに邪魔されて聞こえなかった。
 今、何て言ったの?
 耳許に手を当てて尋ねると、リクエスト用紙の裏に何か書いて寄越した。
 何時に終わる?とある。
 十一時、と、腕時計の針を示す。中本は、わかった、という風に手を挙げた。私を誘う気なのか。密かに胸が騒ぐ。
 カウンターに戻って、桑原に中本の注文を告げた。
 ビールだそうです。
 桑原は、冷蔵庫から中瓶を出して勢いよく栓を抜いた。直子の顔を真っ向から見て、尋ねる。
 あいつ、知り合いかい?
 同じ大学の友達です。
 初めての顔だな、と呟いて、不審そうに直子を見る。ここで待ち合わせでもしたのか?
 まさか。偶然ですよ。
 直子は笑って否定したが、偶然にしても、なぜ中本がここに現れたのだろうと不思議に思う。
 中本と二人きりで話したり、飲みに行ったことは一度もなかった。もし、店の終了後、自分とどこかに行くつもりなら、彼は何を話すというのだろう。彼女がいるのに。
 時折、中本を盗み見るが、相変わらず沈んだ様子で店の暗がりを見つめながら、ビールを飲んでいる。
 閉店時間になり、客は金を払ってさっさと帰って行った。直子が他の客と話している間に、中本は姿を消した。外で待っているのかどうか、気になる。
 もう帰っていいよ。
 閉店後の店の片付けと掃除は、桑原がすることになっている。バイトの女の子は、客と同様、閉店と同時に帰ることができる。
 お先に失礼します。
 直子が頭を下げると、桑原が紙片を振って笑った。
 おい、帰り、気を付けろよ。
 見ると、中本が、何時に終わる?と書いたリクエスト用紙だった。
 ガラスドアを開けて、雑居ビルの踊り場に出る。目の前に、吉祥寺ピンク街の色とりどりのネオンが雨に滲んで広がっている。中本の姿はなかった。
 落胆している自分がいるのを認めたくなくて独りごちる。
 雨か、まいったな。
 すると、階段の下から声がした。
 直子。
 中本が軒下でタバコを吸っていた。オールバックに撫で付けた髪が、はらりと額にかかって子供っぽく見えた。
 あ、いたんだ。待った?
 声を弾ませて、階段を駆け下りた。
 いや、と、笑いながら首を振る。
 中本は、直子に雨がかからないように、コーデュロイのジャケットを脱いで、頭上に掲げてくれる。タバコとポマードの臭いがした。
 ありがとう。
 ちょっと飲まないか?
 二人して、路地奥にある赤提灯に駆け込んだ。昔ながらの曇りガラスの戸に囲まれたカウンターだけの店は、誰もいない。
 頬をピンク色に塗った老女が、意外に可愛い声を出した。いらっしゃい。
 そして、直子の顔をじろじろ観察している。何も知らない癖にこの街に来るんじゃないよ、この女学生風情が、と腹を立てているのかもしれない。風俗街に来ると、そんな女の視線によく出会って戸惑うことが多い。
 雨足が強くなって、急激に気温が下がってきていた。ブラウスの上に薄手のカーディガンを羽織っただけの直子は、寒くて震えている。
 熱爛二合、素早く直子の震えを感じた中本が注文して、優しく直子に囁いた。熱爛でええか?
 ええよ、と調子を合わせる。
 中本が向き直って機嫌よさそうに直子の顔を眺めた。
 直子がCHETでバイトしてるなんて知らんかったな。
 ひと月前からなのよ。あたしも、中本さんがジャズ好きだなんて知らなかった。
 タバコをくわえると、中本がマッチを擦って火を点けてくれた。タバコに火が点くと、指先で弾くようにしてマッチを消す。燐の燃える臭いがいつまでも鼻腔に残った。
 どうりで近頃「スカラ」に来ないと思った。
 そうだっけ?そうでもないんじゃない?だって、バイトは週二回だもの。直子は湯気の立った大きなヤカンを見ながら思い出している。確かに、ここ数週間は、「スカラ」の面々とも会っていない。
 吾郎と寝たからではなかった。新堀が女と歩いていたのを見たせいでもない。案外、丈次の困窮ぶりを見たくないだけなのかもしれない。
 みんな相変わらず麻雀やってるんでしょ?
 ああ、でも、丈次はしばらく姿見てないな。
 中本が、大ぶりの猪口に熱い酒を注いでくれたので、軽く乾杯の真似をする。
 直子とサシで飲むの初めてやな、と中本。
 ほんまやね。
 関西弁を真似ると中本が笑った。
 発音ちゃう。
 丈次、どうしたのかしら。昼間っから吉祥寺うろうろしてるし、お金なみたいだし、仕事辞めちゃったのかな。
 学生と遊んでるから、どっかネジが飛んだんだろ。
 ネジが飛ぶって?
 中本の横顔を見上げる。
 あいつ、中学出てからずっと働いてきただろ。俺たちと一緒にいて、何か真面目に働くのがあほくさくなったんちゃうか。吾郎も同じこと言ってたわ。
 ゴロちゃん、丈次のこと心配してるもんね。
 同級生だから、自分が引き込んだっていう責任感もあるんだろう。
 客が来ないので退屈したのか、女主人が棚の上にあるポータブルテレビを点けた。スポーツニュースをじっと見つめてから、がっかりした様子で中本の方を見た。
 何だ、今日はやってないんだね。
 何がですか?
 日本シリーズ。あたし、巨人フアンだから、と女主人。
 巨人嫌いらしい中本が、不快そうにちらりとテレビに目を遣った。
 そうか、火曜日だから、移動日か、と女主人が言って、つまらなそうにテレビを消した。火曜日という連想で思い出した直子は、中本に尋ねた。
 そうそう、川原旬子さん、元気?最近見ないね。
 中本はなかなか答えずに、黙ってテレビの辺りを眺めている。
 お店が忙しいのかな。
 さあ、わからん。
 いきなり、中本が弱々しく呟くので驚いた。ぎょっとして聞き返す。
 わからんって、どういうこと?
 突然消えた。電話しても出ないから、旬子の部屋に行ったら違う名前になってた。店に電話したら、もう辞めたって言われた。
 あなたに連絡しないでいなくなったってこと?
 そう。
 何で。
 だからさ、直子、中本が直子の肩を叩いて苦笑いした。旬子に逃げられたんだよ。カッコ悪いこと言わせんなよ。
 吉祥寺駅で川原旬子と別れた時のことを思い出した。
 『祐司さんなんかも、ちょっと甘いなと思うことがある。あたしの休みなのに、呼び出されて、来てみれば麻雀でしょう』
 直子はこう返したのだ、『だったら、帰っちゃえば』と。
 それって、あの日以来?あなたが麻雀していて、彼女をほったらかした日から?
 うん、あの時電話したら、何でもなかったんやけどなあ。俺、そんなに酷いことしたかな。
 さあ。でも、川原さんはせっかくの休みなのに損したようなことを言ってた。
 直子は正直に言った。
 仕事してるから、俺が甘く見えんだろ。
 気が付けば、二人してずいぶん飲んでいた。二合徳利はとうに空になり、さらに一本追加して、それもほとんどなくなっていた。頬が熱い。
 もう行こか。
 中本が立ち上がったので、直子はぐらぐら揺れる高い椅子から降りた。足元がふらつくと、中本が支えてくれた。
 勘定は熱欄を四合飲んだのに、千円もしなかった。中本が払ってくれた。
 直子、雨宿りしよ。
 中本がすぐ目の前にあるラブホテルを指差す。
 ああ、CHETで中本を見た時から、こんなことになりそうな予感がしていたんだ。六時間も騒音に晒されて、熱爛を飲んで、頭がおかしくなっている。正気に戻れ。
 だってさ、あなたは川原さんと別れたばっかりなんでしょう。
 嫌か?直子は俺のこと好きじゃないのか?
 自信ありげに頭を固い胸に抱き寄せられると、抗えなかった。新しい料理の味を知りたくなるように、中本を知りたくてたまらなくなる。きっと男も同様なのだろう。
 新堀。吾郎。中本。今に、丈次やタカシとも寝るかもしれない自分。いったい男に何を求めているのだろう。自分が不思議で怖かった。
 直子はシャワーだけ浴びて、中本の待つベッドに向かった。中本は暗い顔付きでタバコを吸っていた。
 ここおいで。
 中本の横に滑り込むと、吾郎とは比べものにならない巧さで抱きすくめられて、キスされた。直子の髪に顔を埋めた中本が笑った。
 直子、髪がタバコ臭いぞ。
 泉と同じく、自分の髪もタバコと湿気の臭いを放つようになってしまったのか。ジャズ喫茶の臭い。好きじゃないのに。
 旬子さんはヘアスプレーの匂いをさせていたね。
 無神経なことを言っている。だが、中本は平然と直子の髪を摘んで仰向けにした。
 俺はタバコの臭いの方が好きだよ。
 中本となら溺れてもいい、と思った。セックスもうまいし、女を甘えさせる術も知っている。
 身支度をしていると、シャワーを浴びて戻って来た中本が背後から抱き締めて耳許で囁いた。
 直子、今日のことは誰にも言わんようにしよな。
 わかってるけど、どうして?
 中本は両手で直子の胸を揉みながら言う。
 おまえ、新掘と付き合ってるんやろ?俺、新堀とは友達だから。
 いや、新堀と付き合っているというほどではないよ、と言おうとしたが、その前に疑問が生じた。誰も知らないはずなのに、中本はどうして知っているのだろう。
 それ、新堀が言ったの?
 そうだよ、と、悪びれずに中本が頷いた。俺、直子と付き合ってるんだって言ってた。
 男同士がそんなことを喋り合っているとは知らなかった。特に、新堀は無口な男だと思っていただけに衝撃だった。
 新堀って、イメージが違うのね。
 ラブホテルの薄っペらなバススタオルを通して、中本が興奮しているのがわかった。中本の手が直子の服を脱がそうとする。されるがままになっていると、ベッドに僻せにされて貫かれた。
 直子、男は結構お喋りだから気を付けろよ。
 あなたも喋るの?と振り向いて尋ねる。
 まさか。だから、直子に言うなって言ってるんだ。
 いつの間にか、蜘妹の糸に引っかかった昆虫のよう気がしてきた。何も知らず、ふかふかのベッドだと思って寝ていると、そこから抜けられず、やがて食べられる哀れな虫。絶対にそうはなるまい、と歯を食いしばる。
 
 一九七二年の五月に、イスラエルのテルアビブのリッダ国際空港の国際線ターミナルで日本赤軍による銃乱射事件が起こり、二十六人が殺害され、犯人の赤軍派三人のうち奥平剛士と安田安之が亡くなり、岡本公三が身柄を拘束された。
 直子の親友宮脇泉がちょっと前に付き合っていた高橋隆雄は赤軍派のシンパで、このテルアビブ乱射事件の実行犯の一人である安田とは友人だったこともあり、事件に大きな衝撃を受け、その事件のあとから様子が少しおかしくなっていたらしい。そして、つい最近とうとう隆雄は、電車に飛び込んで亡くなってしまったのだ。宮脇泉には隆雄から遺書がのこされていたらしく、警察からそれを受け取りに来て欲しいと連絡があったが、泉は断っていた。 
 直子が、少し前に三鷹台の宮脇泉のアパートを訪ねた時、たまたま二階の部屋から出てきた高橋隆雄の横顔を階段下からちらと見たのだった。その直後に泉が部屋から飛び出してきて、タカオ、待って、と叫んだ。しかし隆雄は、そのまま走って去っていってしまった。
 話を聞くと、隆雄は泉に、もう死ぬからお別れに来たんだ、と言ったらしい。本気なの、って聞いたら、本気に決まってるだろ、と怒ったそうだ。別れの盃のつもりか酒を二杯飲んだら、話すこともないから帰るよ、と立ち上がったので、泉は、ああ、死ね死ね。勝手に死ね、と言ってやったそうだ。
 直子が来てくれてよかったよ。じゃないとさ、何か嫌な感じじゃない。ほんとにこういうのってやり切れない、と泉は言い、ウイスキーを呷った。直子は柿ピーを掴んだ。柿の種の表面が湿っている。
 泉、あの人、本当に死ぬと思う、と訊くと、泉は、思う、と目を合わせずに答える。
 死にたい人を止めることなんかできないものね。あたしの前を通った時、あの人笑ってたよ、さばさばして見えた、と直子が言うと、泉は衝撃を受けたようだった。
 じゃ、覚悟した方がいいね。泉が低い声で言って、グラスを空にした。
 でもさ、あの人が今死ななくて生き延びてさ。何十年か後に、この夜のこと思い出して、ああ俺って、あの時バカなこと考えていたな、泉に迷惑かけたなって思うのかね?
 直子の言葉に、泉がようやく笑った。タバコに火を点けて、天井に向けて煙を吐き出した。白い煙がひと筋上っていく。
 直子は変なこと考えるね。誰もそんな先のことなんか考えてないよ。みんな今しかないじゃん。
 そうか。だから、あたしも流されて生きてるんだね。
 泉は直子の顔をじろりと見た。
 あたしさ、いろんな男と寝ちゃったのよ。どうしてだろう。自分でも理由がわからないのよ。新掘と何度も泊まったでしょう。それから吾郎とも部屋に泊めて貰ってやっちゃった。昨日はCHETに中本が来たので、中本に誘われてホテルに行った。じゃ、彼らが好きかと言えば、嫌いじゃない、という程度なんだよね。特に、ゴロちゃんとは、完全に友達だから、自分でも変な感じがする。
 自分が泉の部屋にやって来て話したかったのはこのことだった、と思う。ようやく核心に辿り着いた気がした。
 変な感じって?
 何か損する感じかな。でも、何を損しているのかはわからない。
 損するってのは、男と寝たことでなの、と泉が訊く。
 そう。だって、そんなに好きじゃなくて、気持ちもよくなかったら、つまらないことをしてしまったと後悔するじゃない。なのに、次々と声をかけられたら寝てしまうあたしって、何なの。
 あたしもそうだよ、何かさ、女って男に欲せられていること自体に酔うんだよね。
 わかる。男が欲しているのって、好きというのとは違うのに、どうして勘違いするんだろう。男が自分を欲していることで、たぶん自分という女が成り立っているような錯覚を起こすんだよね。アイデンティティの確認してるのかしら。
 直子の言葉に、泉が頷いた。
 そうなのよ。本当に恋愛しているわけじゃないから、いくらでも遊びで寝れるのよね。あたしも田舎の高校生時代から数えたら、ざっと十人くらいとは寝てる。じゃ、楽しいかっていうと、そうでもないんだよね。セックスって緊張するしさ。下手な相手だと疲れるし、うまい相手だと何か傷付くじゃない。あれって何だろう。
 愛がないからだよ。ラブレスなんだ。ラブレス泉なんだよ。
 直子は早くも酔い始めている。それが証拠に、ウイスキーを生で飲んでも平気になっている。どぼどぼとグラスに注ぎ、ベッドに腰かける。
 
 そうやって話ながら、いつの間にか寝てしまったようだ。部屋の電話の音が鳴っているので目覚めた。泉が起き上がって電話を取っている。
 はい、そうですか。もしよろしければ、そちらで処分して頂けますか。ああ、そうですか。行けたら行きます。
 メモを取っている気配がする。起き上がって腕時計を見ると、午前九時過ぎだ。部屋は、アルコールとタバコの臭いが染み付いたような餞えた臭いが漂っていた。
 今の電話、隆雄の父親からだった。隆雄が西武池袋線の始発に飛び込んだんだってさ。早朝に警察から電話があって、駆け付けたんだけど、隆雄が私宛の遺書を持っていたんだって。それで、取りに来てくれないかと言われたの。親も読みたいけど、私信だから開きたくない。それで来てほしいんだって。ね、行きたくないよね?直子だって嫌だよね?
 それって警察に来いってことなの?
 泉は頷き、だから遺書をそっちで処分して欲しいと言ったらさ、隆雄の遺志だからって嫌そうだった。きっと開けて読むよ。嫌だな。取りに行くのも嫌だし、読まれるのも嫌だし。どうしたらいいんだろう。
 じゃ、あたし取って来てあげようか?あなた、読みたいでしょう?
 読みたくない、泉が首を振った。絶対に読みたくない。だって、一度さよならした相手だし、あたしに特に話もない、と言ったのはあっちだよ。
 じゃ、どうしたらいい?と訊くと、泉は、今日、CHETの早番なんだけど、あなた代わりに行ってくれない、と言った。
 直子は、早番を代わってあげた。
 
 CHETの早番は、午前十時からだ。泉の代わりを引き受けたはいいが、顔も洗わずに、泉のアパートを出て来てしまったことに気が付く。酔ってそのまま寝たので、服も雛だらけだ。いくら何でも、このままではバイトに行けない。やむを得ず、いったん家に戻ることにした。
 直子の実家は、祖父の代から営む、五日市街道沿いにある酒屋だ。酒の他に味噌や醤油、調味料なども売っているので、家には味噌と醤油の臭いが染み付いている。
 中学生の頃は、その臭いが自分の体にも染み込んでいるのではないか、と劣等感に苛まれたこともあった。直子が家を出たい理由は、こんなところにもある。
 もうひとつの理由は、家業であるために、祖母や両親が常に家にいて、口うるさいことだ。祖父は五年前に亡くなったが、しつかり者の祖母がレジに立ち、父親は配達、母は家事全般を引き受けている。
 だから、どんなに寂しい思いをしようとも、階下の男に「うるさい」と文句を言われようとも、一人暮らしというものをしてみたいのだった。
 直子は、父親が軽トラで配達に行くのを電柱の陰で見送った。それから、裏口に回って、こっそり中に入る。
 足音を忍ばせて薄暗い階段を上り、二階の自室に入る。タータンチェックのミニスカートと、黒のタートルネックセーターに着替えた。
 どうやら、母親は一階の風呂掃除をしている様子だ。二階のトイレの手洗いで急ぎ顔を洗った。それからこつそり階下に行き、家の電話からCHETに連絡する。ちょうど午前十時。
 曽根がぶっきらぼうな声で電話に出た。
 さっき泉から連絡があったんですけど、彼女、風邪を引いたらしいので、私に代わってほしいそうなんです。でも、今聞いたばっかなんで急いで行くけど、一時間くらい遅刻しそうです。すみません。
 考えてあった嘘を告げる。
 仕方ないと思うけどさ。当日言われると、いろいろ困るんだよね。
 曽根は少し考えた後に、さも嫌そうに言い、いきなり電話は切られた。
 おい、直子。
 背後から声がかかった。振り向かなくても、相手はわかった。次兄の和樹だ。
 長兄は、大学から大阪に行き、そのままメーカーに就職してしまったから、直子は三歳上の和樹と仲がいい。
 うわ、珍しいじゃん。
 痩せた体をカーキ色のコンバットジャケットに包んだ和樹は、直子同様、裏口から入って来て、薄ら寒そうに身を縮めた。
 よう、久しぶり。
 和樹は、早稲田の草マル派で、逮捕歴もある。本来ならとっくに卒業している年齢だが、活動家として大学に在籍していた。そんな和樹は、両親の悩みの種だ。
 いったいどこで何をしているのか、ほとんど家には帰って来ないし、帰って来ても、すぐにまた出掛けてしまう。直子が会ったのも、二カ月ぶりだった。髪は胸まで届きそうなほどに長くなっているし、痩せ細って目付きが前より格段に鋭くなっていた。明らかに異様な風体だ。
 あちこち。友達のアパートに転がり込んだり、伝を頼って居候したり、大学の学館とかに泊まったり、いろんなところだよ。
 ああ、腹減ったな。何かないか。
 和樹はいきなり冷蔵庫を開けた。コカ・コーラの瓶を掴んで、手早く栓抜きで開ける。立ち飲みしながら、手を差し出した。
 ねえ、直ちゃん、金貸してよ。
 あまり持ってないけど、と言い、直子は財布から千円札を二枚出して渡した。
 助かった。サンキュー。
 和樹は薄汚いジーンズのポケットに、大事そうに紙幣を仕舞い込んだ。
 和ちゃん、無事に生きてたんだね。よかった。
 直子は本気で言う。早稲田大学は内ゲバが激しくなって、和樹は家にもアジトにも帰れず、逃げ回っているらしいのだ。
 和樹はそれには答えず、コーラを飲み干してから、保湿状態になっている電気炊飯器の蓋をかぱっと開けた。
 直ちゃん、これで握り飯作ってよ。
 あたし、バイト行かなきゃならないから、時間ないんだ。ごめん。
 和樹は、食器戸棚から高校時代に使っていたアルマイト製の弁当箱を見付けてきて、洗いもせずに、いきなり白飯をぎゅうぎゅう詰め始めた。
 さすがに見かねて直子は冷蔵庫を開けて探してやる。海苔の佃煮と梅干しを見付けて、白飯の上に載せてやった。和樹は、未練がましく冷蔵庫の中を検分している。引き出しから大きなハムを一本見付けて、丸ごとコンバットジャケットの懐に入れた。
 和樹もいつかは中核派のリンチに遭って、無惨な死体となるのかもしれない。七〇年安保が自動継続され、連合赤軍事件が起き、学生に吹き荒れた政治の嵐が過ぎ去ってからは、憎悪と虚脱だけが漂っていた。
 今朝さ、知り合いの人が自殺しちゃったんだよ。飛び込みだって。
 高橋隆雄は、知り合いなどではなかったが、直子はなぜか和樹にだけは告げたくなった。その薄い背中に向かって言葉を投げ付ける。
 弁当箱を抱えて出て行こうとした和樹が、振り向いた。
 そんなヤツ、腐るほどいるよ。おまえも気を付けろよ。
 和樹は痩せこけた顔をこちらに向けて笑った。何となく欠乏が感じられて痛々しかった。
 和ちゃんも殺されないでよ。
 殺し、殺される。思わず物騒な言葉が出るほど、やられたら、やり返す、という暴力の連鎖がどうにも止まらないのは、目的を失ったからだろう。
 学生は全面的に敗北したのだ。六〇年安保然り、七〇年安保然り。変えようと思っても、アメリカに追随し、服従している事態は何も変わらない。無力感だけが、身を苛む。潰されて、嗤われた悔しさは、大人には決してわかるまい、と直子は思う。
 じゃ、今おまえは何ができる。そう問われれば、高橋隆雄のように、不甲斐ない自分に絶望して、簡単に自死してしまうのかもしれない。
 店の方から、祖母と母親の話し声が聞こえてきた。直子も慌てて裏口から外に飛び出た。十月終わりの午前中の空気は冷えている。羽織る物が一枚欲しかったが、取りに戻る時間はない。また、母親に小言を言われるのも嫌だった。直子は剥き出しになった素足に鳥肌を立てながら、吉祥寺に向かった。
 
 十一時を七分過ぎて、CHETの紫色のガラスドアを押して中に入った。
 その日は、なぜか曽根の虫の居所は相当に悪そうだった。
 どうしてそんなに不機嫌なのか。理由を聞くこともなく、早番から解放されたのが午後五時だった。
 店を出て公衆電話から泉に電話をしてみた。数回のコールの後、すぐに本人が出た。
 寝ていたのか、物憂い様子だ。
 ごめんね、バイト代わって貰ったりして。
 それはいいよ。少しは元気になった?
 低い笑い声が聞こえた。
 ああ、どうかな。やっぱ元気じゃないな。何かね、時間が経てば経つほど、落ち込んできちゃって。とても嫌な気分だよ。
 わかるよ。あたしもそうだもん。
 高橋の笑った横顔が目に焼き付いていた。そして、その後を裸足で追って来た泉の焦った表情も。
 今日さ、一度家に帰ったんで、一時間遅刻したのよ。そのせいか知らないけど、キタローがえらく機嫌悪くて参った。
 あーあ、と泉が物憂げな声をあげる。
 あいつさ、昨日帰る時に、あたしに告白したのよ。好きだから付き合ってくれないかって。あたし、断ったのよ。
 それで機嫌が悪かったのか。直子は愕然とした。曽根は、直子もそのことを知っていて、自分が虚仮にされていると誤解したのかもしれない。
 あたし、関係ないじゃないね。キタロー、嫌なヤツ。心が狭いな。
 うん、狭いね、そう答えたきり、またも泉は沈黙してから、急に笑いこけた。ははは、あたしも狭いよ。
 あたし、行こうか、と訊くと、泉は、いいよ、直子。心配かけてごめんね。あたしは一人で大丈夫だから、来なくていいよ、と言った。
 泉がきっぱり言うので、直子は電話を切るしかなかった。
 
 十月終わりの午後五時過ぎ。秋の夕暮れはあっという間に終わって、冷たい夜になった。猥雑な街から逃げるように小走りに走って、吉祥寺駅北口まで来た。これから、「スカラ」に行けば、吾郎たちが麻雀を打っているかもしれない。あるいは、中本たちが。
 混ぜて貰おうかどうしようか、迷いながら歩いた。しかし、和樹に二千円も渡してしまったことを思い出した。財布の中は、千円札が一枚しかない。これでは遊べまい。
 街を彷裡っているうちに、直子は自分の行き場所がどこにもないことに気付いた。酒屋の実家には、確かに自分の部屋がある。が、その部屋は、自分が選んだ場所ではないのだった。家族は優しい。しかし、自分をまったく理解していない。
 学友でもなければ男でもなく、高校時代の女友達でもない。自分が今会って話したいのは、宮脇泉しかいないのだった。
 でも、泉が一人でいたいのなら、自分も一人でいなければならない。孤独に耐えられるほどの場所があるのならば。
 平和通りの地下にある「ロコ」に行って、ジンライムでも飲んで帰ろうと自分を宥める。
 「ロコ」は、R&Bの店だ。ジャズなんか聞きたくもないから、カウンターに座ってウィルソン・ピケットでも聞きながら一杯飲もうと心を決める。
 おい、三浦さん。直子。おい、何してんだ。
 声をかけられて振り向いた直子は驚いた。遅番で入っているはずの、CHETのオーナー、桑原が立っていた。
 マスター、曽根さんと交代しないんですか?
 桑原がにやりと笑った。
 あいつさ、昨日の夜、店に来て吐いたんだよ。俺に始末させやがってさ。頭に来たから、今日は一日ずっと店番してろと言ってやったんだ。
 そのこともあって、直子に当たっていたのかと得心する。そう言えば、直子が帰る時、珍しく桑原が現れないのが不思議だった。
 そうだよ。泉ちゃんにふられたとか言っちゃって、泥酔して店に現れてさ。早番終わってから、その辺で飲んで、またやって来やがったんだよ。俺、ヤバいぞと思ってたんだけど、やっぱ吐きやがってね。あいつも行くとこがないんだよ。
 平和通りの卵屋の前で、桑原は延々と曽根の悪口を言う。卵屋はちょうど店仕舞いらしく、年配の女性が籾殻の中に入った卵に、布の覆いをかけていた。
 そうだったんですか。どうりで今日は変だと思った。
 変だって、店に行ったの?
 はい、泉が風邪引いて熱があるので代わってくれ、と言うんで、あたしが行ったんです。
 泉が?
 桑原はぎろりと空を睨んだ。しようがないな。それ、曽根のせいじゃないか。あんなこと言われたら、誰だって来たくないよ。営業妨害だな、あいつ。
 桑原は息巻いた後、ふと気が付いたように直子を見遣った。
 おい、時間あるなら飲みに行くか、と誘われた。
 思いがけない展開に、直子は戸惑って返答できないでいる。桑原と飲みに行くなんて、「行くとこがない」曽根と同じではないか。桑原が嫌なのではなく、自分自身が嫌なのだった。
 いいよ、おごってやるよ、と言って、桑原が直子の肩の辺りを小突いた。たまには、マスターと付き合えよ。
 桑原が案内した店は小料理屋で、中央線沿いに三鷹方面に向かう路地にあった。直子は、あまり足を踏み入れない場所だ。
 桑原は奥の席に陣取って、ビールでいいか、と聞きながら、勝手にビールを頼んだ。直子がセブンスターに火を点けようとすると、ライターを差し出してくれた。意外だったので、驚いて礼を言う。
 いいんだよ、立派な女なんだからさ。
 桑原は年配の男のような服装をしているが、まだ三十五歳だ。二十歳の自分から見たら大人の男だが、さすがに五十歳近い自分の父親と比べるのは不当な気がした。
 昨夜、泉と話した、男に欲せられることに酔うのはどうしてだろう、という話を思い出す。桑原に誘われたら、自分はどうするのだろう。思ってもいなかった想像に、自分で驚いた。
 バイト先の店主で遠い存在だと思っていた男が、急に近くまで降りて来た気がして、居心地が悪かった。
 ところで、泉のことだけど、何かあったのか?
 桑原はいつも単刀直入だ。話したものかどうか、直子は迷った。
 泉はね、浪人の時からうちに来てジャズ聞いてたんだよ。俺、昔から知ってるから、気にかかっているんだ。あいつはね、ジャズボーカル志望で、俺が一蹴したことあるんだよ。女のボーカルなんか邪道だってね。それで恨んでるんだ。
 なるほど。泉が桑原のことを「差別主義者」だと怒っていたことがあったが、それはジャズに関することでもあったのだと思う。
 直子はビールに口を付けた。秋のビールはそんなに美味しいとは思えない。苦みと冷たさが口の中を痺れさせる。
 さり気なく観察していたらしい桑原がメニューを広げ、熱欄でも飲むか、と言った。
 はい、すみません。
 苦手意識が先に立つのか、自然と口数が少なくなる。
 直子は感じやすいから、生きづらいだろう。
 いきなり言われて絶句する。
 どういうことですか。
 どういうことって、考えればわかるよ。あんた、いつも何もかもが気に入らないって顔してるよ。今もそんな顔して歩いていた。
 三十五歳になると、そういうことがわかるようになるんですか?
 直子の問いに、桑原は真剣な面持ちで、なる、と自信たっぷりに答える。
 泉の男友達が、今朝自殺したんです。それで泉はちょっと参って、今日来られなかった。
 とうとう言ってしまった。でも、泉と桑原がそれほど長い付き合いなら、言ってもよかろうと思った。
 あーあ、そんなこったろうと思った。泉のことだから、自分のせいだとか思って責めてるんだろうな。あいつ、意外にナーバスだからな。その点、直子の方がクールかもしれないね。
 そんな風に比較されて腹がたった。
 ついていけない。直子の目から涙がこぼれた。自分でもその理由はわからなかった。桑原が笑い、運ばれてきた熱欄を、大きな猪口に注ぎながら言った。
 何で泣くの。飲みなさいよ。人間、死んだら終わりだよ。
 桑原は直子を誘っておきながら、早くも持て余したらしい。二合徳利を空にしたところで、もう帰ろうか、と言いだした。
 確かに、カウンター席に居並ぶ中年男たちが好奇心丸出しで、始終こちらを窺っているのが鬱陶しかった。それも自分が泣いてしまったせいだろう。
 すみませんでした、と直子が謝ると、桑原は逆に苦い顔をした。
 謝らなくてもいいよ、だけど、理屈っぽいんだよね、直子は、
 桑原は苛立った様子で、ハイライトに火を点けながら呟く。
 人間死んだら終わりだって。これさ、泉にも言っとけよ。
 言っとけ、なんて偉そうだな。自分で言えばいいんじゃないですか、と思わず文句を言うと、桑原は直子の目を見て苦笑した。
 偉そうってか。言うね、直子も。
 すみません、と口にしてから気付き、ああ、また謝っちゃった、と小さな声で呟く。
 すると、何もかもが腹立たしくなってきた。年長で物を知っているというだけで支配的な桑原にも、自分たちを巻き込んで死んでいった高橋隆雄にも、腹が立った。
 そんなに死にたいのなら、誰にも告げずにひっそり死ねばいいじゃないか。
 泉も自分も、隆雄の死の迫力に負けて、いつ浮き上がれるかわからないほど、気持ちが沈み込んでいる。死んでしまった隆雄には怒りのぶつけようがないから、直子はさらに桑原を攻撃する。
 偉そうです。年上だからって、そんな高みから物を言うのは不公平だと思います。
 面倒臭いねえ。今度は不公平ときたか。ああ言えば、こう言う。直子はうるさいんだよ。
 桑原が、懐から長財布を取り出して独りごちた。指に唾を付けて千円札を数える姿はじじむさい。
 店を出ると、桑原は寒風にぶるっと震えたように見えた。
 ご馳走様でした、と直子が頭を下げると、いいんだ、俺が誘ったんだから、と手を振って吉祥寺の繁葦街の方を振り返る。
 桑原は、吉祥寺と三鷹の間にある小さな建売住宅に、同年の妻と幼い娘二人と住んでいる、と泉から聞いたことがあった。桑原が娘を膝に乗せている姿など、想像もできない。
 お店に行かなくていいんですか?片付けとかトイレ掃除とか、どうするんですか?
 最後の仕舞いは、いつも桑原自身がやることになっていたから意外だった。
 曽根にやらせるよ。明日、一番で行って点検してやる。
 桑原は怒りを抑えられない強い調子で言った。最後は自分でやらなければ気が済まない人間だと思っていたから、少し驚く。
 みんな怒ってるんだ。
 思わず呟くと、桑原は不機嫌そうに夜空を仰いだ。
 俺?怒ってないよ。他人のことなんか、どうでもいいんだ。
 どうでもいいって、どうやったら、そんな風に思えるようになるんですか?
 たまには、自分で考えたら。
 嘲るように言われて、直子はまたしても桑原に怒りを覚える。
 マスター、あたし、バイト辞めますから。
 おお、いいよ、いいよ。今週で終わりね。はい、じゃ。
 桑原は驚いた様子もなく、さばさば言って踵を返した。これも桑原にとってはどうでもいいことなのか。
 直子は、捨て鉢とも言える切り札が、少しも相手に衝撃を与えないことに落胆した。自分もあらゆることがどうでもいい、と思えるようになりたかった。
 直子は酒で火照った頬を両手で押さえながら、駅に向かって歩いた。風は冷たく、より強くなっていた。暗い夜空の遥か上の方で、ごうごうと風の唸る音がした。
 途中で、ばったり長髪をなびかせ、黒い長袖シャツにべルボトム・ジーンズをはいた新堀に出くわした。新堀のアパートは南町にあるから方向が違うはずだ。だが、直子は詮索する気も起きなかった。
 あれ、直子じゃない。久しぶりだな。こんなところで何してるの。
 新堀は驚いた顔で立ち止まった。一瞬、長髪から、新堀の体臭がにおった。強い風が吹いてきて、それはすぐに消えてしまったが急に懐かしくなる。
 ちょっと知り合いと飲んでたの。
 知り合いと?へえ、どこで飲んでたの。
 新堀は、そっちの方に学生たちが行くような店があったか、という風に振り向いた。誰と飲んでいたかというより、店に興味があるような口振りだった。
 この近く、と曖昧に答えて説明はしなかった。逆に新堀に問い返す。
 あなたはどこに行くところなの。
 アパートと方角が違う、と言いたいのだが、そこまで追及するつもりもない。ただ、桑原にうら寂しい気分にさせられた状態を、自分ではどうにもできなくて立ち竦んでいる。
 新掘は笑っただけで答えなかった。タバコを道に投げ捨てて、スニーカーの足裏で潰す。ベルボトムの裾がはつれて汚れていた。
 どこに行くか、言えないんだね。
 ああ、余計なことを言っている。直子は、自分の負けを意識したが、どうにも止められなかった。
 友達んち、と、新堀は言葉を濁した後、話を変えた。
 直子、最近「スカラ」に来ないね。どうしたの。
 うん、バイトが忙しいし、面子にもちょっと飽きてるかな。
 飽きたのは麻雀ではなく、新掘や仲間の男たちだ、と聞こえるように言う。新堀がはっとしたように直子の目を見遣った後、背後の空気をぼんやりと眺めた。お互いに傷付け合っていると感じる。
 今日、寒いね。
 足踏みしながら言うと、新掘も慌てて頷いた。
 うん、寒いな。
 じゃ、またね。
 またな。
 駅へと歩きだす。「待って」と、新掘が止めるかもしれない。そしたら、どうしようか。何と答えよう、と心の中で考えている。だが、新掘は何も言わなかった。思い切って振り返ると、去って行く後ろ姿があった。
 駅前にある電話ボックスから泉に電話すると、意外に素早く受話器が取られた。しかも、電話を待っていたのか、意気込んでいる様子だ。
 もしもし、宮脇です。
 よかった、元気になったんだ。もしかすると、死んでいるんじゃないかという不安があっただけに、思わず声が弾んだ。
 あたし、直子。心配して電話したのよ。少しは元気になった?
 ふっと空気の緩む気配が伝わってきた。
 直子か。元気じゃないけど、もう大丈夫だと思う。直子、電話くれてよかったわ。これから、うちに来てくれないかな? もう帰っちゃう?
 いいよ。あたしも話したいことがあるから行くよ。でも、どうして?
 これから人が来ることになったの。一人じゃ嫌だから来てよ。
 急に泉にしては気弱な声を出す。直子は怪訝に思って訊いた。
 誰が来るの、こんな時間に、と腕時計を覗いた。午後九時を回っている。
 何かよくわからないんだよね。あたしに話があるっていう女の人。多分、隆雄関係だと思う。でも、嫌な感じでもないの。
 何だか、不気味だね。
 そうなんだよ。で、直子の話って何よ。
 会ってから話す。
 桑原と酒を飲んで、バイトを辞めると言ってしまったことを報告するつもりだった。泉の関係で始めた仕事だし、泉は桑原と長い付き合いらしい、という遠慮がある。
 わかった。後でね。
 来客のせいで慌てているらしい泉は、ガチャツと激しい音を立てて電話を切った。
 泉の部屋の前に立った頃には、直子の体は冷え切って酔いも醒めていた。薄いベニヤのドアを通して、ぼそぼそと女の話し声が聞こえたかと思うと、すぐ途切れる。沈黙が重苦しそうだった。
 こんばんは。直子です。
 ノックをせずに、外から声をかける。
 直子?ちょっと待ってね、とほっとしたような泉の声がして、ドアが開けられた。
 部屋にいたのはY女子大の四年生の青野という女性がいた。直子が部屋に着くと、その女性は泉以外の者の同席を渋っていたが、泉が強引に認めさせた。
 そして、泉が、あなたは隆雄とどういう関係なんですか、と訊くと、彼女は一気に喋り出した。
 去年の終わり頃から高橋隆雄と付き合っていました。去年の暮れに、友達の紹介で会って意気投合したんです。隆雄があたしの部屋に転がり込んでいた時期もあったし、あたしが隆雄の実家に泊まったこともあります。でも、隆雄は死にたいなんて、あたしにひと言も言わなかった。一昨日会って別れた時もいつも通りだった。またね、とか軽く言って。それなのに、前に付き合っていたあなたには最期に会いに来て、しかも詰もして、遺書まで残したんですよね。この差はいったい何だろうと思って、めちゃくちゃに混乱しているんです。だから、悲しいとか、苦しいとか、そういうところまではいってないのが正直なところです。
 あたしはいったいあんたの何だったの、教えてよ、という感じ。でも、そんなの誰も正解を答えてくれないし、肝腎の隆雄は死んじゃったし、最後の最後に虚仮にされた感じですね。でも、死って最強じゃないですか?この世で最強。だから、誰も文句も言えないし、この理不尽に耐えるしかないわけですよね。後でじわじわとショックを受けるんだろうなと思うと、してやられた感じがして、何かやり切れないんですよね。
 泉が静かに同意した。わかる。最期に会った人間だって、同じようなものよ。結局、死なれてしまって、無力感と罪悪感とで、あたしもめためたになっている。
 だが、青野がきつい眼差しを泉に向けた。
 いや、ちょっと違うんじゃないですか。宮脇さんとはもう付き合っていないはずなのに、隆雄はわざわざ会いに来た。それは、あなたが一番好きだってことじゃないですか?あたしは隆雄の恋人のはずなのに、避けて通られたんですよ。これって、あまりに不公平じゃないかと思ったんです。宮脇さんだって、内心では優越感持っているでしょう?違いますか。あと、隆雄のお母さんに聞いたけど、あなたは遺書も要らないから、そっちで処分してくれって言ったんですってね。みんな困って怒ってますよ。処分してくれって言ったって、一応、隆雄の私信じゃないですか。あなた宛に住所と名前書いて、糊で封までしているんだから、それを、はいそうですかって、鋏で切って開けますか?あなた宛の遺書なんだから。
 だから、あたしが今日手渡そうと思って持って来たんです。宮脇さんに今読んで貰って、要らないのなら、あたしが持って帰って、どうするかをお母さんと相談します。宮脇さんが読んだ後に手元に置いておきたいのなら、置いて帰りますし。どうせあなたは隆雄のお葬式にも来ないつもりなんでしょう?だから、それが一番いいと思って電話したんです。
 わかったわ。じゃ、遺書を見せてください。読ませて頂きます。
 泉は、一旦その手紙を受け取ったが、青野が差し出した血だらけの封書を見て、気が変わり、悪いけど、私は読みたくない、そちらで始末してください、と言った。
 青野は、読みなさいよ。せっかく隆雄があなた宛に書いたんだから、と怒鳴った。
 それから一悶着あったが、結局直子が取りなす形で、お節介かもしれないけど、あたしが開けるから、泉が読んで、それで誰にも内容を言いたくないなら、あなたの胸に仕舞っておけばいいし、青野さんに言ってもいいなら言えばいいじゃない、と言うと、青野は首を傾げて少し考えた後、その提案にやっと同意した。
 直子は封書の入ったビニール袋を受け取った。血だまりの中に漬かっていたのか、封書は茶色く変色していた。気持ちが悪いのを我慢して思い切って取り出した。すでに乾いているが、血糊でどわどわした感触だ。
 直子は泉が差し出した鉄で封を切り、中身を注意深く取り出した。便箋二枚にミミズのような読みにくい字がのたくっていた。
 泉は直子からその便箋を受け取ると、そっと目を走らせた。何が書いてあるんですか、差し支えなかったら教えてください、青野が言うと、泉は、いいわよ、どうぞ読んでと便箋を差し出した。青野は、躊躇いながらそれを手に取り、声を出して読み始めた。
 
 宮脇泉様、
 さっきは失礼しました。きみが焦って追いかけて来たのは知ってたから、申し訳ないと思ったよ。だって、僕はもうじき本当に死んでしまうのだから。
 きみはそのことをきっと気に病むだろうと思ったので、手紙を書いている。
 でも、投函しないかもしれないし、捨ててしまうかもしれない。ただ、書いておきたいだけなんだ。
 僕の死後に、きみがこれを読むことになったら、僕のことなど気にしないでくれれば嬉しいし、僕の気も休まるよ。
 今日は最期の日だから、店をハシゴしたんだ。新宿の「ピットイン」や「DUG」、それから吉祥寺の「COOL」と「ぐわらん堂」にも行った。
 きみがバイトしている「CHET」だけは何だか疲れてしまって行けなかった。なぜだろうか。それで、きみの部屋が吉祥寺から近いことを思い出して寄ったんだ。
 友達をみんな回ってきみが一番最後だ、と言ったのは嘘だ。
 昔よく行った店をただ回っただけだった。誰にも別れを告げていないし、友達のことなんか何にも考えていない。
 でも、最期にきみと会えてよかったと思った。だって、きみは死を怖がっていたから。そう思ったら、何だか哀れになったよ。きみを哀れに思って死んでいけるのは幸せだ。
 死は生の対語じゃないよ。何もなくなることだから。
 生の対語は、思考停止。
 僕は完全に消滅して空無になる。万歳だ。
 さようなら。高橋隆雄。
 
 高橋隆雄はそれで笑っていたのか、と直子は思った。完全に自由になる喜びに満ちていたんだ。
 でも、何だかがっかりしちゃいました。死のうと思う人って、残った人のことなんか何も考えてないんですね、と青野が言った。
 手紙は、青野が預かって、高橋の両親に渡すことになった。帰り際に、ちなみに葬儀は明日の夜がお通夜で、明後日が葬儀です。お別れしませんか、と青野が訊いたが、泉は、したからいい、と断った。
   
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