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桐野夏生『抱く女』(新潮社)
 本書は、一九七二年九月から十二月までの四か月の間の出来事が第一章から第四章の各章にわけて綴られている。
 
| 作品について  第一章 | 第二章 | 第三章 | 第四章 |
        
 第一章 一九七二年九月
 主人公は、三浦直子というS大学の学生。実家は荻窪にあり、五日市街道沿いで酒屋を営んでいる。祖母と両親と三人兄弟の六人家族。直子は末っ子である。
 直子は、大学三年生となっていたが、最近は授業にはほとんど出席せず、吉祥寺駅近くにある「スカラ」という雀荘出入りしたり、たまに親友の宮脇泉がバイトしているCHETというジャズ喫茶に顔を出したりしてなんとなく怠惰な日々を送っている。
 九月も半ば近くになったその日も、三浦直子は授業に出る、と嘘をついて家を出た。荻窪から中央線に乗って吉祥寺駅で降りた。駅前のバス通りを渡って、不二家の横からハモニカ横丁の薄暗い路地に入り、狭い雑多な店が並ぶ路地を通って、寂れた映画館「スカラ」座へ向かった。その映画館の二階に「スカラ」という雀荘があり、そこが直子の麻雀仲間のたまり場だった。「スカラ」に行く前に、向かいの中華料理屋の「上海」を必ず覗くが、その日は誰もいなかった。
 雀荘には、麻雀仲間の中本が名前の知らないメンバーと打っていた。中本は横にガールフレンドを侍らせていた。中本はブントで、大阪の野球で有名な高校の出身だ。中本から隣のジャズ喫茶COOLにタカシがいると聞いて、直子はCOOLへ向かう。
 途中で、中本の女が洒落たドレスを着ていたことを思い出す。中本とどこでどうやって知り合ったのだろう。今日はなぜか中本のことが気になって仕方がない。惹かれているわけではないが、中本の男っぽさが嫌いじゃない癖に癪に障るのはどういうわけか。中本は、吾郎たちにはない性的な魅力がある。ということは、中本の女も自分にないものを持っているということか。敗北感のようなネガティブな感情が湧いてきて、今日の直子は自分を持て余す。
 タカシは、大音量のジャズが流れるなかで、本を読んでいた。彼は背も横幅も大きく太った男で色黒、天然パーマの黒髪が耳を覆っている。褐色のサングラスを掛けているせいで、ハワイかどこかの南方の男のようだった。タカシの父親はテレビ局の重役とかで、御殿山の邸宅に住んでいた。噂ではまったくタカシに似ていない美しい姉がいると聞いたこともある。
 「スカラ」に中本の彼女が来てた、というと、ああ、あの美容師の女か、とタカシが言った。
 美容師さんか、どうりでお洒落だと思った、というとタカシは年増じゃねえか、と言った。直子は、なんだかむかついて、どうしてCOOLで待っているのよ、麻雀する前に散財しちゃうじゃん、というと、お前は麻雀が下手だから、カモにされてるんだよ、だからおまえを面子にいれてるんだ、とタカシに言われた。不当な言われ方に腹がたった。
 しばらくすると、おい、行こうぜ、と声がした。いつの間にか、横に丈次が立っていた。 丈次は、吾郎の友達だ。二人は地元の三鷹の中学の同級生で、税理士の息子の吾郎は大学付属の高校を受験したのに、丈次は中卒で旋盤工になった。
 丈次は、背が百八十センチ以上もある美丈夫で、着ている物も金がかかっていた。麻雀が強くて金払いもよく、誰よりも大人びて頭もいいから、たちまち全共闘崩れの大学生の間で人気者になった。中本もよく丈次と卓を囲んでいる。
 一緒に遊ぶようになって一年以上経つが、近頃は頻繁に日中に姿を現すようになった。もしかすると、「どうでもいい」直子たちの気分が伝染して、仕事を辞めてしまったのかもしれない。
 三人揃ったので、「スカラ」に戻る。しばらくすると吾郎と新堀が現れた。五人になったためじゃんけんをした。直子が負けて二抜けとなったので、直子は、一時間くらい出てくるね、と言って、宮脇泉がバイトしている駅の東側にあるジャズ喫茶CHETに顔を出しに雀荘を出た。
 階段を降りようとすると、中本の彼女が下から上がって来ようとしていて、下で直子を待ってくれていた。先に降りて、礼を言い、彼女としばらく歩きながら話をする。川原旬子と名乗った。中本には新宿でナンパされたのだそうだ。麻雀はしないのと訊くと、祐司さんが嫌がるのでしない、と言った。付き合いはじめて三か月くらいだという。大久保で美容師として働いているらしい。
 今日は休みなのに呼び出されて来たら、麻雀でしょう、もう帰えちゃおうかと迷っていたところなんです、と彼女が言うので、帰えっちゃえば、と直子は言った。そうねえ、そうしようかな、と言っていた川原旬子は、直子としばらく話したあとで、じゃ、あたし新宿へ行くわ、祐司さんには用事があるので先に帰ったと言っておいて、といい駅に向かっていった。
 CHETは三階建ての雑居ビルの二階の奥にある。紫色のガラスドアの前で入るのを躊躇ってると、中からドアが開き、直子、と言って宮脇泉が出てきた。今日の泉は、ROPEの黒いミニスカートに、紫の長袖シャツを着ている。CHETの店主に、バイトの時はスカートをはくように言われたとかで、わざわざ買ったのだ。
 泉は胸が大きく、メリハリのある体をしているからミニスカートやぴったりしたTシャツは肉感的過ぎて、あまり似合わなかった。しかも、エラの張った四角い顔は愛嬌があるのに、目許に険がある。何となく全体にちぐはぐな印象があるので、泉に凝視されると怖く感じる時があった。
 泉は静岡市出身で一浪。だから、直子よりも一歳上だ。地方から出て来て一人暮らしをしているせいか、それとも一歳上だからか、直子よりも遥かにおとなびて落ち着いている。
 直子が、CHETに来る途中で酔っ払いにからまれたていやな思いをしたと愚痴をこぼすと、泉が、あたしも、ここから帰る時、結構声かけられる、と言った。
 怖くない?と訊くと、最初怖かったけど、もう慣れた、と泉はさばさば言う。
 それより、直子。皿回しのヤツ知ってる?曽根さんっていうんだけどさ。
 皿回しとは、ブースに入ってレコードをかけるバイトの人間を称して言うらしい。ジャズの知識も必要だし、レコードを扱うから丁寧さも必要で、結構難しい仕事なのだとか。
 その曽根が泉に気があるらしく、面倒くさい、と彼女は言った。いろいろな男と同時進行で付き合っている泉の交友関係は広く深いから、泉に惚れると痛い目に遭うのに。どうしてそれがわからないんだろう。曽根という男の胸倉を掴んで忠告したくなる。
 ガラスドアがそろそろと開いて、痩せ形の男が顔を出した。白シャツにジーンズ。黒いエプロンをしている。恥ずかしそうに顔を背けながら泉に言う。
 泉ちゃん、そろそろお願いします。
 長髪が顔半分を覆って、表情がよくわからない。だが、泉に手で合図する時に、その僅かに髪の隙間から覗く小さな目には、怯えと喜びの両方が感じられた。泉に懸想しているのは、どうやら間違いなさそうだった。
 あの人、ゲゲゲの鬼太郎みたい、と直子がいうと、そうか、これからあいつのことキタローって呼ぼう、と泉が言った。
 それから、直子は、タカシにさっき言われた、お前は麻雀が下手だから、カモにされてるんだよ、という失礼な言い草を愚痴った。
 あたしが女だから、あっちは言いたい放題言えるんでしょう。男同士だったら、そんな失礼なこと言わないと思うんだけど。
 でも、女だってそういう失礼なタイプいるじゃない。男でも女でも、悪意さえも持たないヤツっているじゃん。全然他人のことなんか気にしてない無神経なヤツ。だからさあ、やっぱ無神経には無神経なんだよ。
 でも、あたしはそういうことをすると、自分が嫌な気持ちになるんだよね。汚れた感じになる。
 わかるけどさ、何て言ったらいいんだろうなあ、焦れったそうに、泉が唾を呑み込んだ時、階段を下りて来る足音がした。はっと泉が硬直するのがわかった。
 さぼっちゃダメじゃないか。
 白地に茶のストライプが入った半袖シャツにグレイのズボン。黒の革ベルト。茶の革靴。まるで初老のサラリーマンのような格好をした、まだそう年は食っていない男が階段の途中で怒鳴った。サラリーマンと違うのは、金色に鈍く光る大きな楽器を手にしていることだった。
 すみません、休憩取ってなかったんで。泉がぺこりとお辞儀すると、男は語調を変えずに厳しく言った。
 吸い殻片付けておけよ。
 はい、すみません。
 男はじろりと直子を睨んで一階に下りて行った。それが、この店のオーナー桑原清明だった。屋上で、アルトサックスの練習をしていたらしい。
 桑原さんてどんな人、と訊くと、差別主義者、と泉はきっぱり言い捨てて、大きく嘆息した。目許にはまた険が戻ってきている。この分では、キタローも機嫌の悪い泉を持て余すだろう。
 じゃ、バイトに戻る。また会おうね。
 もっと話していたかったが、踵を返した泉は振り返らずに紫のドアの中に消えて行った。
 直子は泉を見送った後、二人の吸い殻やマッチの軸をティッシュペイパーにくるんで、バッグに仕舞った。
 日暮れて、歓楽街は一気に赤やピンクの灯りが点き始めた。路地の様相も一変して、男のそぞろ歩きが多くなっている。気を付けて帰ろうと階段を下りきった時、声がかかった。
 CHETのオーナーがまだアルトサックスを手にしたまま、暗がりに立っていた。並ぶと、そう背は高くない。
 あんた、泉の友達?
 頷くと、S大の学生か、うちでバイトしないか、と誘われ。
 時給三百円。早番なら十暗から五時。遅番なら五時から十一時。今ね、月曜と火曜が人がいなくて困ってるんだよ。
 親から貰う小遣いにも限度がある。本音を言えばバイトしたいのだが、歓楽街にある店の立地と、ジャズの大音量の中で仕事するのが憂鬱だった。
 迷って言ったのに、それまで不機嫌そうだった桑原は、急ににやりと笑った。
 助かるよ。うちは可愛い女の子しか雇わないからさ。じゃ、来週の月曜、十時に来てよ。ミニスカートはいて来て。持ってなかったらいいけどさ。なるべくなら買ってよ。あ、もちろん自費でね。
 あっという間にバタバタと決められて、呆然とした。サックスを手にしたまま、またビルの階段を上り始めた桑原が戻って来た。
 名前聞くの忘れた。何て名前。
 三浦直子です。
 三浦さん、じゃ、よろしくね。
 泉に相談する暇もなかった。が、どうせ桑原が喋るだろう。
 
 その足で「スカラ」に戻った。一時間半ほど留守にしていただけで、五卓が全部埋まっていた。地元の商店主たちらしいグループと、サラリーマンのグループ。あとはみんな男子学生である。
 丈次、タカシ、吾郎、新掘の卓に人数が増えて、二人がスツールに座って後ろから覗いている。長瀬という顔立ちの整った男と、その彼女のヒロコだ。ヒロコは新宿の食堂の娘で、長瀬はそこに婿入りする、という噂があった。
 直子、遅かったな。お前いなかったから、そのままタカシがやってるぞ。
 丈次が目だけ上げて言う。
 タカシが二位だったんだね、と直子は言い、先ほどの発言を思い出し、恨みがましく睨んでみる。だが、タカシは自分の理牌に夢中で、直子の方を見もしない。タカシに悪意があったら、何を言ったか覚えているはずだし、相手へのダメージを確かめたいだろう。
 泉の言うように、悪意もなく、相手が何を思おうと関係なく喋り散らす人間は、言ったことも覚えていないのだ。やはり、タカシのようなヤツとは、その場で言い合った方がいいのかと思い直す。
 泉、元気だった?
 タバコの煙が目に沌みたのか、目を細めながら吾郎が聞いた。
 うん、元気だったよ。ゴロちゃん、どう。勝ってる?
 吾郎が引き出しを開けて見せた。点棒でぎっしりと埋まっていた。
 トップ?うん、どトップ。
 吾郎は言い直して、牌を自撲って来た。盲牌したまま、河に捨てる。後ろに回って覗き込むと、白ドラ三を聴牌していた。待ちは三面だ。「タカシ振り込め、タカシ振り込め」と念じる。
 一索を捨てたタカシに、吾郎が牌を倒した。
 満貿、満貫。白、ドラ三。
 何だよー、とぼやくタカシがバラバラとだらしなく点棒を差し出すと、丈次が「二本場、八千六百」と、ドスの利いた声で注意した。
 ゴロちゃん、よくやった。
 吾郎の肩をぽんぽん叩くと、対面の新掘と目が合った。新堀はいつも黙々と麻雀を打つ。
 今日の新堀はあまりツイていないのか、首を捻っている。新掘に目で尋ねた。
 今日、どうする?と。
 新掘はさり気なく視線を落とした。実は、直子は新堀のアパートに何度か泊まっていた。今日も新堀が泊めてくれるのなら、このまま雀荘で遊んでいるし、新堀にその気がないなら、二抜けを待っていても仕方がない。どうしようかと一番奥の卓を眺める。
 まだ、中本たちのグループが打っていた。白熱している様子は相変わらずで、皆の顔に脂が浮いている。
 川原旬子が中本に伝えてくれと言っていた伝言を思い出し、直子は近くに行った。中本が顔を上げた。
 直子か、どうした。
 川原さん、用事があるんで帰るって。さっき駅で会ったら言ってた。
 中本が何度も頷いた。
 帰って来ないからさ。そんなこったと思ってた。
 旬子さん、明日仕事でしょう?
 中本と親しい男が言い、中本は無言になった。いちゃつくところを見せ付けていたのに、面目が潰れたのだろうか。だから、嫌なんだよ、男は。
 直子が吾郎たちの卓に戻ろうとすると、中本が直子の腕を掴んだ。男に腕を掴まれるのは今日これで二度目だった。そう思いながら顔を上げて目で尋ねる。
 ちょっと代わりに打っててくれないか。俺、電話してすぐ戻って来るから。
 旬子に謝りの電話をするのだろう。
 でも、あたし下手だよ。
 振り込んでいいよ。
 中本と交代して、椅子に腰掛ける。どきどきしながら手牌を見た。平和でいけそうだった。
 動惇を抑えるためにタバコに火を点け、吸い殻でいっぱいになった灰皿にマッチの軸を押し込む。
 何だ、そっちで打ってるのかよ。
 吾郎が振り向いて笑った。
 代打ち。振り込んでもいいんだって。
 じゃ、振り込め、とタカシ。
 中本の面子は突然直子が入ったので、緊張した面持ちで理牌している。七巡目で聴牌した。
 ダマでそのまま親から当たった。
 平和、千点。
 あーあ、と振り込んだ相手がぼやき、皆でジャラジャラ洗牌しているところに、中本が戻って来た。
 直子、ごめん。
 平和で上がっておいた。
 おお、よくやった、おおきに。
 中本の手が直子の髪を撫でた。あたしを可愛いと思っていないか?川原旬子よりも可愛いと思っていないか?今、あたしはあなたを可愛いと思っているのに。
 そんな気持ちがどくどくと湧いてきて戸惑った。卓を離れて目を上げると、新掘がこちらを見ている。
 あとで。
 声に出さずに言い、新堀が微かに頷くのを確認する。今夜はずっと「スカラ」にいようと決心した。
 再び、吾郎の後ろに戻って配牌を覗き込む。
 ここが伸びないかな。
 吾郎が三元牌を指差した。白と発が対子で中が一枚だけある。
 ほんとだ、いいね。
 ね、次、あたしも打っていい、とヒロコのはしゃいだ声がした。
 次はあたしよ。タカシに一回抜かされたんだから、と直子がヒロコに言うと、黙って長瀬の横顔を見上げているが、知ったことではない。
 抜かしたって言うけどさ。いなかったんだから、しょうがないじゃん。
 タカシが憮然としたので、言い返した。
 あんたはカモだから、ずっと入ってるといいよ。
 丈次が抑えきれずに肩を揺らして笑っている。
 
 ガーッガーッ、ゴツンと繰り返す、耳障りを音が次第に近付いてくる。直子は半分眠りながら、騒音の正体を思い出そうとしていた。
 あれは電気掃除機だ。階段を一段ずつ、ゴミを吸い込みながら上がって来る音に違いない。
 機械が階段にぶつかる音。スリッパ履きのパタパタ軽い足取り。
 だが、母親が掃除しているにしては、がさつ過ぎる。直子の母親は口うるさいが、騒音を嫌う。きっと夢だ。直子は、両耳を手で塞いでもう一度寝ようとした。昨夜遅くまで飲んでいたせいでアルコールが残っていた。
 どのくらい時間が経ったのだろうか。いきなり、耳許で女の声がした。
 あら、まあ。驚いた。
 直子は反射的に目を開けた。見知らぬ中年女性が、直子を見下ろしていた。
 不自然に真っ黒な髪のせいで、生え際にひと房固まっている白髪がやけに目立つ。銀色の地味なメタルフレームの眼鏡。室内だというのに、真っ赤な口紅を付けている。
 彼女が憤激していることは、その鋭い眼差しからも充分に伝わってきた。
 おや、自分の部屋で寝ていたのではなかったのか。それとも、まだ夢の中か。何が何だかわからず、直子は必死に思い出そうとした。
 あなた、誰ですか。いつの間に入り込んだの?
 詰問にうろたえて、直子は完全に覚醒した。両肘を突いて起き上がろうとするが、混乱していて、どうしたらいいかわからない。
 断りなしに入って来んなよ。
 横から男の怒鳴り声がしたので、直子は瞬時に思い出した。昨夜は、酔って吾郎の家に泊めて貰ったのだ。眼前の中年女性は、吾郎の母親に違いない。
 家族に見付からないように靴だけは持って上がってと言われ、コンパースをこつそり吾郎の部屋に持ち込んだのに、これでは何の意味もない。
 直子は身を竦めて、掛け布団を胸の上まで引っ張り上げた。Tシャツ一枚で、下はショーツしか穿いていない。裸でなかったのは、不幸中の幸いだった。
 何言ってるの。いつも掃除機かける時はあなたの部屋に入るじゃない。いつだって寝てるでしょう。      
 母親がぷりぷりしながら言い返した。
 うるさいな。出てけよ。
 吾郎が子供っぽく目をこすりながら、母親に抗議した。
 吾郎、女の子連れ込むなんて最低ね。お父さんに言うからね。
 勝手に言えば。
 母親は、直子をひと脱みしてから大きく嘆息した。
 どこの人だか知らないけど、あなた、結婚前でしょう。よくこんなことができるわね。恥を知りなさい。私、ほんとにあなたの親の顔が見たいわ。
 騒々しく部屋のドアを開けて出て行く際にも、厭味を言うのを忘れない。
 うちはラブホテルじゃないのよ。早く帰ってください。
 あーあ、参ったな。吾郎がうんざりした声を上げ、そのまま、大きな欠伸をする。
 あなたのお母さん、凄いね。いつもああなの?
 吾郎は寝癖の付いた髪を撫でながら、不機嫌そうに答える。
 女を連れ込んだことなんかないから知らねえよ。あっちも驚いただけだろう。
 優しい吾郎は、母親にも気を遣っている。
 やれやれ。
 直子はベッドの上で上半身を起こして、胡座をかいた。吾郎の母親に叱られたことが、衝撃だった。確かに、男の部屋に泊まりに来て親に見付かるなんてカッコ悪い。しかし、そんなに悪いことをしたのだろうか。二十歳を過ぎているのに、「親の顔が見たい」と言われるなんて。
 ごめん。気にすんなよ。
 悄気げた直子を気にして、さすが吾郎は詫びを入れた。そして、上半身を捻って、枕元にあるトランジスタラジオのスイッチを入れる。FEN。ちょうど「I Feed Free」が終わるところだった。
 クリームじゃん。嬉しそうに吾郎が呟く。たまたま点けたラジオでさ、気に入りの曲やってると嬉しいね。
 もう今の出来事など忘れている。
 そうね、直子は気のない返事をして、肩を揉みながら物憂く言った。ああ、何か冴えないな。頭痛いし、いやになっちゃう。
 吾郎の返事がないのでふて腐れて、バッグからセブンスターの箱を出して一本くわえた。吾郎もくしゃくしゃに潰れたハイライトの袋の中を覗いて、一本引っ張り出したが、大きく曲がっていた。曲がったタバコをくわえると間抜けに見える。
 直子は思わず笑って尋ねる。
 ゴロちゃん、二日酔いじゃないの?
 少し気持ち悪い。
 あたしは最悪な気分だな。
 吾郎がタバコに火を点けながら文句を言う。
 直子はさ、飲み過ぎなんだよ。正体なくして、サンロードに駐車している車、次々に蹴飛ばしたの覚えてる?俺、ヤクザでも来るんじゃないかと思って気が気じゃなかった。まったく、酔うと質悪いんだよ、おまえ。
 ごめん、覚えてない。
 謝りはしたが、胸の中にはなおもわだかまりがあって、昨夜の酔態などどうでもよかった。
 そのわだかまりは、昨夜から続いている何かだ。
 だけどさ、ゴロちゃんも飲んでたよ。相当に酔っぱらってたもん。
 小さな声で抗議する。
 まあな。でも、俺って陽気な酒でしょう?
 まあね。渋々同意する。つまり、あたしは違うってことね。
 吾郎は聞いていない。
 タカシんとこでブランデー飲んでから、一気に来たよな。それにしても、タカシのオヤジ、タカシにそっくりだったな。同じようにデブでさ、同じように偉そうで、ああ親子なんだな、と思った。
 吾郎は仰向けにごろりと横になって曲がったタバコを吹かした。天井を眺めながら思い出し笑いをしている。
 昨日はタカシのお父さんに怒られたし、今日はあんたのお母さんにも怒られたし、頭に来る。
 酔って帰宅したタカシの父親があんなに不機嫌になったのは、直子とヒロコという二人の女子大生が一緒になって騒いでいたからに違いなかった。あれが男子学生だけの飲み会だったら、違う反応をしたと思う。
 あんたら、いつまでうちにいるんだ。非常識だな。うちは飲み屋じゃないんだから、早く帰りなさい。
 うちはラブホテルじゃない。
 うちは飲み屋じゃない。
 共通点を見出したら、笑えてきた。少し気が楽になった。すべてを笑いのめして生きていきたいが、なかなかそうはいかない。男と比べて、女は何かひとつ余計に叱られるようにできているのはどうしてだろう。同じ学生の身分で同じ学費を払っているのに、損をしているような気がしてならない。
 昨夜は、「スカラ」で麻雀をした後、長瀬とヒロコのカップル、そしてタカシと吾郎とで、沖縄そば屋の「甚平」に行った。餃子でビールを飲んで、仕上げに沖縄そばを食べた。
 それでは飲み足りなくて、タカシの新築間もない豪邸にころがり込んで、応接間のガラス棚に飾ってある、父親のレミー・マルタンやジョニ黒を空にしたのだ。
 タカシの五歳上の姉が歓迎してくれて、カニサラダやちくわ胡瓜などのつまみを作ってくれたのも、調子に乗る原因だった。
 だが、夜中に帰って来たタカシの父親に怒鳴られて、タカシの家を出たのが午前一時過ぎ。
 泥酔した四人は、人気のないサンロードを何か叫びながら走り回った。直子が車を蹴ったのは、タカシの父親の言い草が癪に障ったからだ。
 長瀬とヒロコは、東伏見の長瀬のアパートに徒歩で帰り、酔ってまともに歩くこともできない直子は、吾郎に肩を借りながら、三鷹の吾郎の家に泊めて貰ったのだった。
 どうして、あまり仲のよくないヒロコたちと痛飲することになったのか。直子はタバコをくゆらせながら、「スカラ」での出来事を思い出す。
 九時過ぎまで、二抜けで交代しながら麻雀を打っていたが、そろそろ飽きて帰ろうということになった。いつもはスムースで何の問題もない精算時に、丈次と新掘の間でひと悶着が起きた。
 昨夜は、新掘の一人勝ちだった。全員が負けて、新堀に何校かの千円札を払った。しかも、一番負けたのは、珍しいことに丈次だった。丈次は負けた金、四千数百円を払おうとしないばかりか、場代も出さずに帰ろうとした。
 丈次、ちょっと待て。
 札を数えていた新堀が呼び止めた。新堀はジーンズの尻ポケットに勝ち分を突っ込むと、丈次の前につかつかと進み出た。新堀も背が高いので、二人は睨み合う形になる。
 借り。
 丈次が怒った顔で目を背けた。
 えっ、丈次、場代もないの、じゃ、誰が丈次の場代払うの、と無邪気に口にしたのはヒロコだ。長瀬が、黙ってろ、と、ヒロコのブラウスの裾を引っ張った。
 だったら、最初に言えばいいじゃないか。今日は場代も持ってないって。もし負けたら、場代も借りるぞって。
 新堀の言うのはもっともだ。最近の丈次は、ほとんど金を持たないで現れることが多かった。だが、滅多に負けないから、それでよかった。今日も、下手くそな学生相手に勝つ気で来たに違いない。勝てば、場代もラーメン代も払える。それに、最初から金がないと申告することなど、プライドの高い丈次にできるはずもない。
 だから、借りだ。丈次が、なぜわからないという顔で怒鳴った。
 俺が貸さないって言ったらどうすんだよ。
 直子は、新堀のしつこさに辟易する。
 新掘はほとんど学校に来ない学生の一人で、学外の連中とロックバンドをやっていた。音楽方面で食べていきたいらしく、直子が遊びに行っても、何も喋らずにずっとヘッドフォンで音楽を聴いていることがある。普段は無口なのに、今日に限ってキレたのは理由がありそうだ。
 新掘がリッケンバッカーという輸入ギターを買うためにバイトをしているのは知っていた。新品は手が出ないから、中古を買いたいと言う。直子は楽器に興味がないから、そんな話をベッドでされてもほとんど覚えていなかったが。
 丈次は謝りもせずに、眉を顰めたまま負けん気の強い顔をして突っ立っていた。
 この間もそうだった、と新掘がうんざりしたように言う。
 いつだ、と丈次。
 忘れた。二週間ほど前かな。あの時も俺は勝った。丈次は払えなかった。そして、その前の週も踏み倒したよ。その時勝ったのは、吾郎だったな。吾郎は丈次の友達だから何も言わないかもしれないが、俺は言うぞ。だって、ルール違反だろ。
 必ず払うって言ってんだろ。
 丈次の言葉はいつも短い。下唇を噛んで、悔しそうに視線を落としている。
 必ずじゃねえだろ、丈次。
 新堀がやや猫背気味の肩を右手で掻きながら言った。灰色のTシャツの肩に、高校を卒業してから一度も切ったことがないという長髪がかかっている。
 俺は金が惜しくて言ってんじゃねえよ。謝れって言ってるんでもない。金がねえなら、麻雀する権利がねえだろってことだ。建前を言ってるんじゃないよ。俺ならしねえって思ってるだけだ。
 そこに、まあまあ、と舌打ちしながら割り込んで来たのは、とうにゲームを終えて仲間とビールを飲みながら雑談していた中本だった。
 新堀、今日は丈次は勝つ気で来たんだからさ。許してやれよ。いいじゃねえか、そういうことだってあるよ。
 中本が口髭のあたりをこすりながら言う。
 わかってるよ。いつも丈次が勝つんだよ。強いんだからさ。だけど、勝てない日だってあるだろう。そういう時は何か方策考えろってことだ。
 わかってる。
 中本が新堀の固い胸板を手でぽんぽん叩いた。そして、丈次の方に向き直る。
 丈次だってわかってるさ。
 丈次は何も言わずに頷いた。そして、ごめん、とひと言謝って、出て行ってしまった。
 バタンとドアが閉められる。
 収まらないのは、文句を言った新堀だ。
 何が『麻雀放浪記』だよ。元禄積み大失敗した坊や哲気取ってるんじゃねえよ。素寒貧で一発勝負って、小説の中の話だろうが。丈次はさ、麻雀やる資格ねえよ。
 丈次が、阿佐田哲也の「麻雀放浪記」をバイブルのようにして、何度も読み返しているのは有名な話だ。今日も、丈次の尻ポケットには、手擦れで表紙の反った文庫本が入っているはずだ。
 俺も帰るよ。
 新堀は場代の千円札を二枚置くと、後ろも見ずに出て行ってしまった。
 あっという間の出来事で、新掘の部屋に一緒に行こうと思っていた直子は、置き去りにされてしまった。中途半端な気分を誰にもぶつけられずに、ぶっつりとして立っている。
 直子、旬子がよろしくつて。
 中本が出て行きざま、直子の肩を叩いて囁いた。慰めが混じっていると感じたのは、直子と新堀が密かに付き合っているのを知っているのかもしれない。
 そのあと、吾郎とタカシやヒロコたちと四人で沖縄そば屋の「甚平」に繰り出し、飲んだのだ。
 
 昨夜さ、セックスした? あたしたち。
 直子の質問に、えっ?とFENのモノラルな音に聞き入っていた吾郎が、驚いたように振り向いた。
 あたしたち、あんな酔っぱらっていたのにセックスしたのって聞いたの。
 覚えてないの?
 吾郎が口を窄めて、煙をドーナツ型に吹き出して見せる。
 全然、覚えてない。
 直子はまったく記憶がなかった。真似をして口を窄めて煙を吐くが、肺活量が違うのか椅麗なドーナツができなかった。直子の作ったドーナツは、輪が切れていて、すぐに曖昧なただの煙になった。
 へえ、じや、もう一回やる?
 吾郎は意気込んで言う。
 この部屋、鍵かからないんでしょ?じゃ、いやだな。あんたのお母さんが入って来るかもしれない。
 吾郎はベッドを下りて、勉強机からキャスター付きの椅子を引っ張って来て、ドアの前に置いた。
 ドアを開けると転ぶ仕掛け。
 バカみたい、と、その子供っぽさを笑う。
 俺、直子とセックスするの三回目かな。
 そんなにしたっけ?
 これで四回目か。
 吾郎が唇にキスした。下手くそなキスで、ちっとも燃えない。直子はそのまま体を投げ出して、吾郎がデスクの引き出しからコンドームを出して装着し、それからやっと覆い被さるのを待った。
 挿入されても、一緒に体を動かしただけで吾郎が果てるのを待った。
 俺、直子好きだよ。
 あたしも好きだよ。
 礼儀で言い合ってるような感じで、二人ともあまり気がない。互いに熱烈に恋する相手が出てくれば、見向きもしなくなりそうだった。
 しかし、新掘はカッコいいけど、自分勝手で、どこか根本で合わない気がする。音楽をやりたい男なんて、ろくでなしばかりだ。
 麻雀の後、新堀に誘われて、西荻のアパートに行ったのが付き合いの始めだった。しかし、セックスが終われば、早く帰ってほしいような素振りを露骨にする。
 むかついて帰っても、また時間が経つと新掘と寝たいと思うのはなぜだろう。新堀と寝れば、違う世界が開けるかもしれないという幻想があるのか。
 吾郎と一緒にいれば気は張らない。ときめくものはなくても、女友達と同じく遠慮もせずにだらだらと永遠に話すことができる。
 喉が渇いたな。おしっこもしたいし。
 こんなことは気軽に新掘には言えなかった。見栄を張って昨日のタカシのように小難しい本を鞄に入れ、こっそりとビューラーで睫を上げてから行く。入念に髪を洗って可愛い下着を付ける。
 待って。俺も腹減ったから様子見てくる。
 吾郎がベッドから下りて、素早くジーパンを穿き、Tシャツを頭から被った。ドアの前に置いた椅子をごろごろと動かしてドアを開け、階下を覗いている。
 直子は、吾郎の部屋を見るとはなしに眺めた。天井まである作りつけの本棚はきちんと整理されて乱れていない。三島由紀夫、吉本隆明、埴谷雄高、大江健三郎、ドストエフスキー、澁澤龍彦、写真集、句集、マンガ。ずらりと背表紙を並べていた。
 ゴロちゃん、これ全部読んだの?
 うん、読んだ。
 誰が好き?
 三島かな。
 三島由紀夫は、二年前の十一月、市ヶ谷の自衛隊で自決していた。衝撃的な出来事だったが、直子にとっては、この春露わになった連合赤軍事件の方が萎えた。
 女が敗北した気がする。以来、何ごとにも力が入らず、無気力になった
 直子は?
 うん、三島も好きだけど。
 だけど?
 男だもんね。
 男だと駄目なの?呆れた風に笑う。いい作家は、みんな男じゃん。
 そうだけど、何か違うんだよ。ピンと来ない。
 ふうん、と吾郎が肩を竦めて部屋を出て行った。
 直子は机の上に置いてあった「漫画アクション」を取って、ぺージを開いた。上村一夫の「同棲時代」の次郎と今日子。どうして二人はいつも涙を流しているのだろう。雑誌を閉じる。
 オフタロ、出掛けたみたい。
 吾郎が麦茶の入った容器と握り飯の載った皿を運んで来た。吾郎の母親は、わざわざ握り飯を作って、席を外したとみえる。
 じゃ、トイレ貸してね。
 二階のトイレに案内された。父親の税理士事務所に勤めて税理士を狙っているという四歳違いの兄の部屋と、中学三年の弟の部屋が並んでいる。他の家族はもうみな家を出ているようだ。
 直子は吾郎と一緒に握り飯を食べた。中身は全部酸っぱい梅干しだ。三個しかないのは、直子のためではないと宣言されているような気がするが、口にはしない。
 顔だけ洗って、吾郎と一緒に家を出る。晴れているが、今日は少し肌寒い。Tシャツ一枚では寒いから、家に帰ろうと思う。
 今日はどうすんの?
 吾郎が両手をポケットに入れたまま、直子に尋ねた。吾郎は濃紺のシャツに黒いジーンズだ。
 うちに帰って、着替える。
 それから?
 夕方になったら考える。
 「スカラ」に来る?直子が来るなら行くよ。
 多分行くけどわかんない。
 真剣に答えない直子にがっかりしたらしいが、吾郎は喫茶店にでも寄るつもりらしく、手にした文庫本を丸めて手を振った。
 吉祥寺駅に着いて、ロンロンの二階にある本屋に入った。立ち読みしてから帰ろうと思う。
 ふと気配を感じて顔を上げる。
 ギターケースを持った新堀が通路を歩いて来るのが見えた。声をかけようと思ったが、隣に女がいるのに気付いて息を呑む。
 ストレートの髪を真ん中分けにした痩せた女だ。ジーンズにひらひらした黄色いブラウスを着ている。馬の蹄のようなプラットホーム型のサンダル。不機嫌そうに分厚い唇を引き結び、暗い目で遠くを眺めている。カルメン・マキみたい。バンド関係の女はカッコいい。直子は、開いていた雑誌で顔を隠した。
 
   
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