第一章 一九八五年八月十二日の記録
この章では、1.スチュワーデスの視点から、2.政治家の視点から、3.日本航空の視点から、という三つのそれぞれ視点から当日の事故状況を資料をもとに再現・検証している。 1.スチュワーデスの視点から 一九八五年当時、スチュワーデスは憧れの職業として常に就職希望職種の上位を占めていた。まだ一般企業に勤める女性の多くが嫁入り前の腰掛け仕事と言われ、正社員でも男性による業務の補佐的な存在であった時代である。そのような社会的認識の中、女性でもチーフパーサーとして管理職になれるこの仕事は、自分の生き方を貫きたい女性たちにとってやりがいのある仕事であった。そのせいか、一本筋の通った姉御的存在の先輩たちが多かったと記憶する。 著者も初めて日本航空の制服を身につけた日を鮮明に覚えている。鶴丸を正面につけたこんもりとした型の帽子を目深にかぶり、金ボタンの付いた紺色のニットのワンピースに紺、赤、自のスカーフをさらりと巻く。JALとロゴの入った真っ赤な革のベルトを締め、濃紺のストッキングとヒールのある革靴を履くと、そこにはスチュワーデスに変身した自分の姿があった。 しかし、華やかに見える職業であったが、保安要員としての仕事は表向きの旅客サービスとは異なり、緊急脱出や突発的事故に対する訓練は真剣そのものでもあった。 そして、国内線の東京発大阪行きは、新幹線の時刻との兼ね合いで、東京で仕事を終えて飛行機で帰る大阪在住の芸能人が多く、123便や次の125便(最終便)は芸能フライトと呼ばれていた。あの日の123便にも国民的スター歌手の坂本九氏が搭乗していたことは周知のことである。当時は半官半民の日本航空は幹線(札幌、東京、大阪、福岡、沖縄)のみの国内線とすべての国際線、全日空は国内幹線とローカル線及びチャーター機による一部国際線、東亜国内航空は地方ローカル線と、それぞれが路線を分担して運航していた。 著者が日本航空で大空を飛んでいた八〇年代はこのような時代であった。 事故の前年に著者は国際線に移行していたが、もし国内線にそのまま勤務していたらおそらく123便で墜落事故に遭遇していた可能性は高い。 事故機のJA8119号機にも何度か乗務した記録がフライトブックや手書きのアロケーションチャートの青焼き印刷用紙で、今も著者の手元に残っている。 墜落機がまだ活躍していた頃、8119という機体番号がくつきりと焼き付いている下の写真(ネガフィルムプリント・無修正)は、やっとOJT(実機実務訓練)が終わって一人前となった頃のもので、まだ制服があまり板についていないような印象である。左側最後尾L5ドアの機外に接続された搬入用タラップに立ち、L5でアナウンスを担当していた対馬祐三子アシスタントパーサーに撮ってもらった写真である。同じグループに所属していた著者は、初フライトでアナウンスの基本を彼女に教えてもらった。彼女は、123便の事故で最後のアナウンスをして亡くなった。 レンズの向こう側に亡くなった対馬さんの笑顔が浮かぶ。なお、著者の初フライトの便名は123便であったが、これ以降、永久欠番となってしまった。 三十三回忌の今年――。昔の制服姿の写真と向き合いながら、最期まで乗客を救うべく努力した若い彼女たちの無念さをどうしたら多くの人たちに伝えられるかを考え続けた。
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