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青山透子『日航123便 墜落の新事実』

(河出書房新社 2017年7月30日刊)

序 章|第一章第二章|第三章|第四章|終 章

第一章 一九八五年八月十二日の記録

 この章では、1.スチュワーデスの視点から、2.政治家の視点から、3.日本航空の視点から、という三つのそれぞれ視点から当日の事故状況を資料をもとに再現・検証している。
 1.スチュワーデスの視点から
 一九八五年当時、スチュワーデスは憧れの職業として常に就職希望職種の上位を占めていた。まだ一般企業に勤める女性の多くが嫁入り前の腰掛け仕事と言われ、正社員でも男性による業務の補佐的な存在であった時代である。そのような社会的認識の中、女性でもチーフパーサーとして管理職になれるこの仕事は、自分の生き方を貫きたい女性たちにとってやりがいのある仕事であった。そのせいか、一本筋の通った姉御的存在の先輩たちが多かったと記憶する。
 著者も初めて日本航空の制服を身につけた日を鮮明に覚えている。鶴丸を正面につけたこんもりとした型の帽子を目深にかぶり、金ボタンの付いた紺色のニットのワンピースに紺、赤、自のスカーフをさらりと巻く。JALとロゴの入った真っ赤な革のベルトを締め、濃紺のストッキングとヒールのある革靴を履くと、そこにはスチュワーデスに変身した自分の姿があった。
 しかし、華やかに見える職業であったが、保安要員としての仕事は表向きの旅客サービスとは異なり、緊急脱出や突発的事故に対する訓練は真剣そのものでもあった。
 そして、国内線の東京発大阪行きは、新幹線の時刻との兼ね合いで、東京で仕事を終えて飛行機で帰る大阪在住の芸能人が多く、123便や次の125便(最終便)は芸能フライトと呼ばれていた。あの日の123便にも国民的スター歌手の坂本九氏が搭乗していたことは周知のことである。当時は半官半民の日本航空は幹線(札幌、東京、大阪、福岡、沖縄)のみの国内線とすべての国際線、全日空は国内幹線とローカル線及びチャーター機による一部国際線、東亜国内航空は地方ローカル線と、それぞれが路線を分担して運航していた。
 著者が日本航空で大空を飛んでいた八〇年代はこのような時代であった。
 事故の前年に著者は国際線に移行していたが、もし国内線にそのまま勤務していたらおそらく123便で墜落事故に遭遇していた可能性は高い。
 事故機のJA8119号機にも何度か乗務した記録がフライトブックや手書きのアロケーションチャートの青焼き印刷用紙で、今も著者の手元に残っている。
 墜落機がまだ活躍していた頃、8119という機体番号がくつきりと焼き付いている下の写真(ネガフィルムプリント・無修正)は、やっとOJT(実機実務訓練)が終わって一人前となった頃のもので、まだ制服があまり板についていないような印象である。左側最後尾L5ドアの機外に接続された搬入用タラップに立ち、L5でアナウンスを担当していた対馬祐三子アシスタントパーサーに撮ってもらった写真である。同じグループに所属していた著者は、初フライトでアナウンスの基本を彼女に教えてもらった。彼女は、123便の事故で最後のアナウンスをして亡くなった。
 レンズの向こう側に亡くなった対馬さんの笑顔が浮かぶ。なお、著者の初フライトの便名は123便であったが、これ以降、永久欠番となってしまった。
 三十三回忌の今年――。昔の制服姿の写真と向き合いながら、最期まで乗客を救うべく努力した若い彼女たちの無念さをどうしたら多くの人たちに伝えられるかを考え続けた。



(本書より)



対馬さんに撮ってもらった著者
(本書より)


 一九八五年八月十二日(月)、晴天で最高気温三十一・五度、湿度七十パーセントの蒸し暑い一日だった。航空会社にとっては、明日からお盆という夏の繁忙期突入前夜のこの時期は、東京発のすべての便が満席となり、地方から東京行きの便はガラガラという、非常に偏った乗客数であった。
 当日、119Aグループの客室乗務月のスケジュールは、福岡ステイ(福岡西鉄グランドホテル宿泊)から始まり、福岡から東京、そして大阪ステイで、ホテル日航大阪に泊まる予定だった。福岡発東京行き366便(十五時三十分福岡発十七時羽田着)には山下徳夫運輸大臣が乗っていた。
 二階席に座った山下運輸大臣は、そのコンパートメントを担当している木原幸代アシスタントパーサー(以後AS)の顔をしっかりと覚えている。木原さんから「お孫さんにどうぞ」と、飛行機のプラモデルをもらったからである。
 123便の乗客数は五百九名(日本人四百八十七名、外国人二十二名)、なおそのうち日本人は大人が四百三十二名、子どもが四十三名、幼児が十二名でビジネスマンやお盆の帰省客でほぼ満席状態である。
 運航乗務員は高浜雅己機長(四十九歳)、佐々木祐副操縦士(三十九歳)、福田博航空機開士(四十六歳)の三名、客室乗務員は、国内客室乗員部119Aグループの波多野純チーフパーサー(三十九歳)をはじめ、木原幸代(三十歳)、赤田真理子(三十一歳)、藤田香(二十八歳)、宮道令子(三十歳)、対馬祐三子(二十九歳)、吉田雅代(二十七歳)、海老名光代(二十八歳)の各アシスタントパーサー、白拍子由美子(二十五歳)、大野美紀子(二十六歳)、大野聖子(二十四歳)、波多野京子(二十四歳)の各スチュワーデスが乗務となり、乗員の十五名を足すとこの便の合計は五百二十四名となった。搭 載の貨物量は四千四百六十三キログラムと、犬が一頭カーゴ扱いで乗っていると地上係員から報告があった。



(本書より)

 機内外の整備確認、清掃担当者による清掃、おしぼりやジュース、スープ等を搭載するカートの搬入が急いで行われた。クルーミーと呼ばれる和食、洋食のBOX弁当も乗員の人数分搭載され、R2(機首に向かい右側二つ目ドア担当者)の大野聖子スチュワーデス(以後SS)が確認する。このR2担当はギャレー業務となり、その便の乗務員の中で新人が担当する場合が多い。乗客数に合わせて搭載品の確認が済むと、機内にて機長、副挽縦士、航空機関士と客室乗務員全員が飛行ルートや乗客の情報などを確認するブリーフィングが行われる。それぞれが担当するコンパートメントごとに自己紹介をしてエマージェンシー担当区域の確認をする。
 「ボーディング五分前です。セキュリティチェックを開始してください」
 チーフパーサーのその声によって、地上で仕事をする人たちは一斉にさっと降りていく。運命共同体の乗務員だけで、担当コンパートメントのあらゆる場所をチェックする。異常はないか、緊急脱出を想定して不備はないか、不審物がないか、爆弾は仕掛けられていないか、客室のみならず、トイレやギャレー(台所)など、収納場所をすべて開けて自分の目で確認をする作業だ。これには先輩も後輩もなく、安全に飛行できるように自分の責任で行われる。
 安全チェックが終わると、波多野CFのボーディングアナウンスの後、各コンパートメント担当者がドア付近で乗客の前に立ち、緊急時の注意事項、非常口の場所、ライフベストの着用についてデモンストレーションを行い、終了後に深々と礼をする。その後足早に担当区域の乗客の安全を確認するため、ハットラック(荷物収納場所)の確認や離陸に備えてシートベルトチェックを行う。前方ギャレー担当の大野聖子SSと後方ギャレー担当の波多野京子SSは、カートの固定状況やラックのストッパー(飛び出し防止用具)を確認してASに報告をする。それぞれのドアモードをオートの位置に変えて全員がチーフに報告すると客室内の出発準備が整う。
 123便は定刻よりも十二分遅れて、十八時十二分に羽田空港を飛び立った。
 最後尾の左側ドアL5を担当する対馬祐三子ASは、機内アナウンスの担当者である。
 いつも離陸のアナウンスをした後、腕時計で離陸時刻を確認してメモを取る。クリティカルイレブンミニッツの離陸直後三分が過ぎ、気流も安定していることから禁煙のサインはすぐ消えたと思われる。
 相模湾上空で徐々に水平飛行に入り、シートベルトサインが早めにオフとなったと推定する。生存者の川上慶子さんの証言と著者の経験を合わせると、客室担当が、お子様向けの飛行機のおもちゃやぬいぐるみ、人形などを配っていたのが十八時二十分頃だと推測される。
 その最中、乗客で最後尾Eコンパートメントの座席番号56Gに座っていた小川哲さん (四十一歳)と、そのご家族は、離陸直後から窓の外の写真を何枚か撮っていた。まず離陸直後の羽田空港沖の風景写真、次に斜めになった窓からの風景が数枚あって、次に新聞や雑誌にも公表されている窓枠が水平になった写真(おそらく通路にて撮影)が一枚ある。遠くに富士山のシルエットと、下に相模湾の曲線がくつきりと見えて美しい風景写真に見えるが、黒点が入り込んでいる。その写真は拙著『天空の星たちへ』のカラー口絵に掲載している。
 なお、この小川さんの撮った写真10枚がその後遺族の方により公開されている。その中には酸素マスクが降りた機内状況の写真もある。



機内の様子(小川さん提供)
(WEBサイトより)


 その後離陸約十二分後、サインオフになっていたシートベルトが再びサインオンになったようだ。
 アナウンス担当の対馬ASが、シートベルトサインオンのアナウンスをしようとした時、急に座席から立ち上がり最後部のトイレを目指して歩いてくる乗客がいたと思われる。どうしてもトイレに行きたいということで、キャプテンに客室からインターフォンのコールで確認したのではないだろうか。当時、シートベルトサインオン時は速やかに座ることと教えられており、緊急時のトイレのみ乗客の使用許可を得ることを先輩から教わったからである。
 ボイスレコーダーには次のように記録されている。
 18時
 24分12秒   スチュワーデス「(……)たいとおっしゃる方がいらっしゃるんですが、よろしいでしょうか」
 24分15秒   副操縦士「気を付けて」(極度の緊張状態を記録)
 24分16秒   航空機関士「じゃ気を付けてお願いします」
 24分17秒   副操縦士「手早く」
 24分18秒   航空機闘士「気を付けてください」
 24分35秒   ドドーンドンという衝撃音
Eコンパートメントでは「パーン」という高めの音
 また18時24分35秒の「ドドーンドン」という衝撃音の直前に、コックピット内の会話で判読不明の言葉がある。それが「あぶない、まずい」という声が入っているとの報告もある。
 なお、後に公開されたボイスレコーダーの記録だが、雑音がひどい部分はクリアに聞き取れないとして空白のままであり、さらにプライバシーに関わる部分を除いたとして、一部のみ発表されている。ボイスレコーダーはそのすべてを公開することで事故防止につながるため、その前提で記録をしている。それでなければ本当の意味で事故原因を究明できず、すべてを公表しないと意味がない。当然、運航乗務員のプライバシーは考慮する必要がないのが常識である。ましてや平時ではなく事故時であり、そのために録音されているのだ。
 衝撃音後、六秒足らずで通常ではすぐに使用しない緊急コード「スコーク7700(緊急事態発生に信号)」を発信している。このコードを機長がなぜ選んだのかについても疑問が多く出ている。
 機体の最後尾Eコンパートメント56Cに座っていた非番の客室乗務員の落合由美AS(二十六歳)は、かなり大きなパーンという高めの音を聞いたと証言している。ピストルを撃ったように響く音だったという。自分の席の後ろの天井あたり(機首に向かって左側後部側面上部、最後尾トイレ付近の壁上部)から聞こえたように思ったが、振動は感じず、揺れもなかったと記憶している。酸素マスクが自動的に落ち、録音されたアナウンスが自動的に「ただ今緊急降下中」と流れたが、耳は多少詰まった感じで痛くなく、それほどの急降下は体に感じていなかった。一瞬白い霧が発生したが、まもなく消えた。ハットラックという頭上の荷物収納扉が開くこともなく、機体の揺れはほとんど感じなかったため、各スチュワーデスたちは持ち場のお客様の様子を確認し、酸素マスクをつける手伝いをしながら、通路を歩いていたことが遺族提供の写真からもわかる。落合さんの目には、前方スクリーン左横でL4担当の海老名光代ASが通路に立って酸素マスクの着用の仕方を乗客に教えている姿がうっすらと見えたが、その霧も数秒で消えたという。
 最後尾Eコンパートメントの右側R5ドア担当の大野美紀子SSは、落合さんの言うように後方トイレ上部の壁が外れ落ちているのを見つけたはずで、外れた向こうにはひらひらとした布が見えた程度で、気流の乱れもなかったと確認していると思われる。このR5のドア付近の状況を大野美紀子SSはコックピットヘコールしてみたが、あまりうまく伝わらなかったのかもしれないと思われる応答がボイスレコーダーから推定される。
 R3担当の白拍子由美子SSは乗客たちが何かを書いているのを見ていたのでないだろうか。20Hの松本圭市さん(二十九歳)が、水色のノートを取り出し、ボールペンで遺書のようなものを書いていた。
 
 『PM6・30 知子 哲也 (両親を) たのむ 圭市
 突然ドカンといってマスクがおりた
 ドカンとい(っ)て降下はじめる。しつかり生きろ
 哲也、立派になれ』 *( )は新聞報道による補足



遺書(WEBサイトより)

 さらに、その後ろ二人目22Hでも河口博次さん(五十二歳)が上着の内ポケットから社員手帳を取り出して七ページにわたって書き記した。隣の席221、22Kには、イタリアから来たモローニさん親子が座っていた。
 
 『マリコ 津慶 知代子 どうか仲良く がんばって ママをたすけて下さい
 パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分らない 今5分たった
 もう飛行機には乗りたくない どうか神様たすけて下さい
 きのうみんなと食事したのは 最后とは
 何か機内で爆発したような形で煙が出て
 降下しだした どこえ(へ)どうなるのか 津慶しっかりた(の)んだぞ
 ママ こんな事になるとは残念だ さようなら
 子供たちの事をよろしくたのむ 今6時半だ
 飛行はまわりながら急速に降下中だ 本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している』*( )は新聞報道による補足



遺書(WEBサイトより

 十八時三十分過ぎた頃から、徐々に降下してきた飛行機はゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きとなった。スローな動き方で左右に大きく傾く。右側に大きく傾いた時、R4担当の波多野京子SSと同じクルーシートに座る宮道令子ASは窓の外に高速道路や新幹線の線路が見えるほど、低い高度であることに気付いた。
 「まもなくどこかに着陸するのかもしれない」と、二人は顔を見合わせた。オールコール(急用の場合にコックピットと全乗務員席の電話が同時につながること)はないが、担当区域の乗客に対して、ライフベスト(救命胴衣)の着用を開始した。波多野京子SSは初フライトを一月に終えてOJT(実機訓練生)を無事に終了したばかりである。ギャレー担当だったが、宮道ASと一緒にキャビンにて、「座席下にある黄色い救命胴衣を取り出してください」と乗客に指示したと思われる。これらは落合さんの、前のコンパートメントからも救命胴衣着用の声が聞こえてきた、という証言による。
 中央部Cコンパートメントの29Bに乗っている白井まり子さん(二十六歳)は、結婚前は日航の成田貨物支店勤務の地上職員だった。日航の時刻表裏側に青いボールペンで殴り書きのように乱れた文字で、両親、夫、義姉、めいの名前の横に次のように書いた。
 
 『恐 恐 恐 (まりこ)死にたくない……気持ちが悪い 助けて』 *( )は新聞報道による補足
 
 十八時三十分に遺書を書いた人が多い。最後尾Eコンパートメント、48Cの谷口正勝さん(四十歳)もその一人だ。座席に備え付けの防水紙袋に鉛筆で、
 
 『まち子 子供よろしく 大阪みのお 谷口正勝 6・30』
 と書き、洋服のポケットにしまいこんだ。



遺書(WEBサイトより)

 その後ろ五人目53Cに座っていた吉村一男さん(四十三歳)は、社用の便箋らしい紙に、ボールペンにて次のように走り書きした‥
 
 『しっかり生きてくれ。(二人の子供を)よろしく頼む』*()は新聞報道による補足
 
 その紙を会社の茶封筒に入れた。このフライトには、福岡行きの直行便が取れずにしかたなく乗り、その後大阪から福岡行き二十時十五分発327便に乗り継ぐ予定だった。
 
 48Dの村上良平さん(四十三歳)は、工事関係の書類を入れた社名入りの茶封筒(縦三十センチ、横二十センチ)の表と裏にボールペンで書いた。
 
 『(紙袋表)機体が大きく左右にゆれている。18・30 急に降下中
 水平ヒコーしている 日本航空18・00 大阪行事故
 死ぬかもしれない 村上良平 みんな元気でくらして下さい
 さようなら 須美子 みき 恭子 賢太郎
 (紙袋裏)18・45機体は水平で安定して酸素が少ない気分が悪るい
 機内よりがんばろうの声がする 機体がどうなったのかわからない
 18・46着陸が心配だ スチュワーデスは冷せいだ』*()は新聞報道による補足



遺書(WEBサイトより)

 その担当区域の対馬ASや大野SSは、乗客からの「大丈夫か」「どうなるんだ」「助かるのか」といった質問に対して、「絶対大丈夫です。私たちはそれなりの訓練も受けています。絶対大丈夫です」と答えていた。
 その言葉のおかげでパニックにはならなかったが、彼女たちの顔も緊張して笑顔などはなかったと落合さんは語っている。
 救命胴衣を全員がつけている間、対馬ASは最後のアナウンスをしていた。
 「……もうすぐ……赤ちゃん連れの方、背に、頭を、座席の背に頭をささえて……
 赤ちゃんはしっかり抱いてください。ベルトはしていますかテーブルは戻してありますか?
 確認してください。……の際は、あの予告なしで着陸する場合が……
 管制塔からの交信はちゃんとつながっております。えー、その他……」
 そして対馬ASは最後尾の空席に座り、赤い布カバーの手帳を取り出すとメモをした。
 乗務の時にいつも持ち歩いていたその手帳は、横十センチ、縦二十センチほどで、脱出用スライドラフトの基本動作や酸素マスクの使い方、各空港や航空機の特徴などが書いてある。日航の訓練所で習った分厚いエマージェンシーマニュアルも表紙が赤であったが、それと同じように赤を選んでいた。三ページにわたり、ボールペンで避難誘導の要点を日本語と英語で乱れた文字で急いで書いた。一瞬、結婚したばかりの夫や両親の顔が浮かんだが、この手帳にプライベートなことを書くのはためらったのかもしれない。一切、私的な記述はなかった、という。
 きっと最後までプロとして仕事を成し遂げなければならないという思いだったのだろう。



(本書より)

 全文は以下のとおりである。

 『おちついて下さい ベルトをはずし 身のまわりを用意して下さい 荷物は持たない 指示に従って下さい。
 →PAXへの第一声
 各DOORの使用可否 機外の火災C’K
 CREW間C’K→再度ベルトを外した頃
 
 ハイヒール 荷物は持たないで
 
 前の人2列 ジャンプして jump and sit
 機体から離れて下さい Go to safe area
 
 ハイヒールを脱いで下さい
 荷物・物は持たないで下さい
 年寄りや体の不自由な人に手を貸し
 Release Your seat belt Remove high(heel)
 Don’t take baggage follow our instruction
 火災 姿勢を低くしてタオルで口と鼻を覆って下さい
 前の人に続いてあっちへ移動して下さい
 Low position with a towel covering and mouth』
 *( )は新聞報道による補足
 
 次第に揺れが大きくなつて急降下する中、安全姿勢をとるようにスチュワーデスたちが次々と叫び始めた。
 「足首つかんで、頭を膝の中に入れる!
 全身緊張!頭を下げて衝撃に備える!
 頭を下げて、頭を下げて、全身緊張!」
 
 それぞれの客室乗務員が発する大声が、機内に響きわたる‥
 この時は通常では考えられないほどの大きな声を出して命令口調で叫ぶ。
 お願いする口調ではない。
 笑顔もない。
 サービス要員としての言葉が消えた瞬間であった。
 十八時五十六分二十六秒 墜落音 二十八秒 録音終了
 
 以上が当時の資料をもとに機内と客室乗務員の様子を再現したものである。
 きっと不時着した場合を想定しながら、自分の取るべき行動と役割を頭の中で繰り返しながら、安全姿勢を大声で叫びながら逝ってしまったのだろう……。
 最期まで重い操縦桿を握りしめ、飛行機を飛ばすこと、無事に不時着することだけを考えていた運航乗務員たちの心の奥底には何が浮かんだのだろうか。
 高浜雅己機長(四十九歳)は、海上自衛隊から東亜国内航空、その後昭和四十一年十二月に日本航空に入社。飛行時間が一万二千四百四時間のベテランで、B747操縦教官室の専任乗員数官だった。スチュワーデスだった妻の淑子さんとの間に一男二女がいる。
 淑子さんの母親の生家が、墜落現場となる群馬県上野村に近い万場町だったことから、偶然にも七年前に現場近辺のぶどう峠付近から上野村や周辺をドライブしたという。川上村のレタス畑も通った記憶があったに違いない。あそこに降りられるのではないだろうかと、緊急着陸とも思えるような、低空飛行する123便の姿が村民に目撃されている。
 佐々木祐副操縦士(三十九歳)は、この日が機長席実務訓練となっていた。
 毎日、訓練と座学の連続だったが、一男一女のお父さんとして、この前日に子どもを連れてプールに行った。はしゃぐ子どもたちと残された貴重な時間を過ごすことができたのがせめてもの救いだったのではないだろうか。
 福田博航空機闘士(四十六歳)にとって、この突発的事態は過去のマニュアルからもまったく考えられないものであった。油圧系続が不能になるという前代未聞の事態に、表向きは落ち着いていたが、本当は髪が真っ白になるほど地獄のような思いであったに違いないと同僚は語る。



(本書より)

 大阪に到着できなかった8119号機はどうなったのだろうか……。
 機首から尾根に激突した機体は、上に向かってひっくり返って四つに分断され、生存者がいた最後尾Eコンパートメントだけが、乗客の背中側から後ろ向きに山の斜面を滑落していった。
 ここは昭和二十八年頃に山火事があって新たに植林された木々だったため、ちょうど他よりも木の幹が細く、ヘアブラシをなぞるようなかたちで約二百メートル、四十度くらいの急勾配を後ろ向きジェットコースターのように滑り落ちていったのだろうということだった。そのおかげで衝撃が緩和されて損傷の少ない遺体が多く、助かった人はスゲノ沢と呼ばれる神流川の上流で発見されている。そこは山頂からは木々に囲まれてまったく見えない所であり、火災は発生していなかった。神流川沿いに歩き、スゲノ沢から入ってきた地元の消防団員によって真っ先に発見されたのであった。



墜落現場での救助活動(WEBサイトより)

 殉職した先輩たちはあの世でどういう思いでいるのだろうか。
 もし自分だったら、自分で選んだ道だからしかたがない、そういう言い方で済まされたくはない。
 当時、何十倍もの倍率から選ばれて心の底から憧れて就いた職業である。過酷な専門訓練を経て最終的に一人前として社内規定に合格し、希望どおりの道を歩んできたという自負心もある。しかしいくら仕事であっても、緊急時の訓練をしてきたからといっても、墜落するかもしれないという迫りくる恐怖心と戦いながら、乗客を救うべく気丈に振る舞うつらさは言葉にできないものだ。
 死を覚悟して逃げ場のない心境は壮絶なものだったに違いない。濃紺の制服の重みを感じながら、ありとあらゆる力を振り絞った人生である。
 自分にできることは、彼女たちを忘れずに後世に伝え続けること、そして自分自身の生き様を振り返ることではないだろうか。
 
 2.政治家の視点から
 中曽根康弘首相の場合

 中曽根康弘首相は、八月八日の夜から夏休みのため軽井沢の「ホテル鹿島の森」に滞在していた。十七時十一分発特急あさま22号に乗車して、十九時十五分に上野着となっている。日航123便が十八時五十六分に御巣鷹の尾根に墜落した時は、列車内にいたことになる。自衛隊の公式発表では、墜落後の十九時一分にファントム二機が茨城県の百里基地から飛び立ち、二十分経過後に墜落現場上空で燃えている炎を確認している。中曽根首相はどこで日航機の情報を得たのだろうか。なお、上野駅からパトカーの先導で、十五分ほどで到着するはずの首相公邸に十九時五十分到着(八月十三日付読売新聞) とある。どこかに寄り道をしていたのだろうか。公邸入口で記者団から墜落のニュースを聞き、「ほう、そうなのか」と答えて事故を知らなかったということだが、ご自身の本『中曽根康弘が語る一戦後日本外交』(二〇一二年・新潮社)では次のように書かれている。
 
 日航ジャンボ機墜落の報告が私に届いたのは、軽井沢から東京に戻る列車の中で午後七時過ぎでした。それで八時頃から首相官邸の執務室に入って、即時に色々な報告を受けたし、こちらから対策の指令も出した。国民に対して政府の正式見解を出すのは、事態の調査に遺漏のない状態で、万全を期してから発表しなくてはいかん。それまでは、私に留めて、私が合図するまでは公式に発表してはならんと指示しました。
 
 当然携帯電話がなかった時代であるから、列車内にある連絡電話を利用して知ったということだった。次に、事故現場の情報が二転三転したことについては次のようにある。
 
 実際、静岡に落ちたとか、群馬に落ちたとか、情報がずいぶん迷走していました。米軍もレーダーで監視していたから、当然事故については知っていました。あの時は官邸から米軍に連絡は取らなかった。しかし、恐らく防衛庁と米軍でやり取りがあったのだろう。
 
 この事態に直面して、勝手に防衛庁と米軍が連絡を取り合っていたという話だが、これは防衛庁と米軍が内閣総理大臣を飛び越えてやり取りをしたということで、大変重大なことである。それは「我が国の防衛組織図」を見ても一目瞭然で、すべて内閣の下に位置するのであるから、彼らが勝手に理由もなく行動を起こしたとすれば、即刻防衛庁長官のみならず、幕僚長もすべて首が飛ぶはずだ。この時の防衛大臣は加藤紘一氏(四十九歳)だが、米軍と自衛隊のやり取りをまったく知らなかったと言えるはずもなく、それが万が一、中曽根氏の言うとおりであれば、由々しき事態である。
 列車内で十九時過ぎに報告を聞いて、その後まったく現場の状況を知らされないままで対策本部を立ち上げたのならば、事態の調査に万全を期する、と指令を出すことすら無理である。さらに、それを合図するまで公式発表をしてはならん、という判断もおかしなことである。
 実はこの十日後の八月二十二日は、中曽根政権発足千日の記念すべき日であった。
 そしてこの夏は、健康優良児になるという宣言し、事故後はゴルフは自粛したが、一度も墜落現場には行かなかった。結局、自衛隊のヘリで墜落現場に行ったのは事故から約三か月を経た十月四日(月)であった。その時マスコミや世論の批判に対して「私もすぐ伺いたいと思ったが、群馬県警から猫の手も借りたいほど忙しいので、延ばしてほしいと言われ、慰霊祭、日航人事刷新も終わり、ひと段落した時期に改めて伺った」と語った。あくまでも自分のせいではなく、群馬県警の要望だということだ。同行したのは山下徳夫運輸大臣や自衛隊関係者で、河村一男群馬県警察本部長らから状況の説明を受けて墜落現場に手を合わせ、献花した。
 上野村役場で、初めて黒澤丈夫氏と対面したことになるが、その時の村長はおそらく険しい表情だったに違いない。中曽根氏は海軍主計出身であり、遠方の小さな村に、まさか自分より上の階級の元海軍少佐でゼロ式戦闘機搭乗員かつ教官がいるとは思わなかっただろう。
 以前黒澤氏に、中曽根氏の軽井沢での記事を見せたところ、「だいたい首相は最高責任者として厳粛に礼をつくし、可能な限り行動すべきなのに、こんな(ゴルフなんぞやって)失礼千万ですよ」と言い、これで本当に彼は軍人だったのだろうか、と首をかしげながら、実際のところ軍で何をしてきたのかと疑問を持ったようであった。
 
 山下徳夫運輸大臣の場合
 十二日夜、政府は緊急持ち回り閣議で、総理府内に運輸大臣の山下徳夫氏を本部長とする日航機事故対策本部を設置して二十三時に第一回対策会議を開いた。その山下徳夫氏はというと、事故直前に同じ飛行機による福岡発東京行き366便に偶然乗り合わせていた。午後三時半福岡出発で午後五時羽田着のこの便は、墜落した123便と同じ客室乗務員が乗務していた。山下氏が座った二階席を担当したのは木原ASで、三光汽船会社更生法申請問題で疲れ果てていた山下大臣を温かくもてなした。「お孫さんにどうぞ」と、機内搭載のジャンボ機のおもちゃ三個を茶色の機内用袋に入れてプレゼントした。
 空港から官邸に入り、その紙袋を持ったままの山下氏は「本当に何があったんだろうね。あんなにやさしい気立てのよいスチュワーデスがこんな事故にあうなんて」と、思わず涙ぐんでいた。
 会議の後の会見で、山下氏は「現段階では機体の発見と救出に全力を挙げたい」とし、「これまでにキャッチした情報では、パイロットミスなどの人災ではないようだ。後部ドアが原因と見ている。まったく予想できないことで唖然としている」と述べた。
 十三日には、山下運輸大臣が遺族の待機場所となっている群馬県藤岡市内の小、中学校を回り、陳謝の言葉を述べた。藤岡市立北中では、十三日の午後五時を過ぎてようやく日航責任者からの説明があり、引き続き山下氏が「担当大臣として責任を痛感している。生存者救出、遺体の早期収容に全力を挙げたい。現在、作業を進めるためのヘリポートを現場付近に建設中です」と話をしている。また、自衛隊のヘリで上空から墜落現場の様子を視察した。
 上空から現場を見て、その下に自分が直前まで乗っていた飛行機がバラバラの状態である事実に、山下氏は自分の運命を感じたに違いない。二階席を担当した木原アシスタントパーサーの笑顔が生々しく浮かんだことだろう。その日の記憶について二〇一〇年十一月十日にお会いしてお話を伺ったが、それは第二章にて詳細に記述する。
 
 3.日本航空の視点から
 十八時三十三分に航空管制当局より異常事態の連絡が入り、十八時四十一分に日航の航務部から東京空港事務所に通報がいった。同時にスケジュール統制部と航務部から、社内の関係部署、社外関係先等に一斉に通報を開始した。二十時二十分、羽田空港に対策本部、二十時三十分、羽田東急ホテルに乗客の家族控室を設置した。そのホテルで、乗客の家族に詰め寄られた町田直副社長(運輸省からの天下りで元運輸事務次官)は、思わず「北朝鮮からのミサイルに撃たれたのだ」と叫ぶ。その数日後、町田氏は社長候補だったにもかかわらず『遺体安置所にて扇子で仰ぐ姿』を写真に振られて失脚する。
 日本航空は二十一時二十五分、第一次現地派遣団を結成して羽田を出発した。団長は藤野昇取締役他、医師、看護婦、社員など百八十名であった。二十一時三十五分に、渡会信二広報部長が搭載燃料切れの時間を見計らって記者会見を行った。『日航123便墜落を確認した。炎上中』という内容だった。二十二時五十分に、高木養根社長が、羽田東急ホテルにて乗客のご家族に陳謝した。
 次の日の十三目早朝には、関西地区のご家族五百三十六名搭乗の臨時便を運航した。臨時便は七時三十分大阪伊丹発八時三十分東京羽田着で、他の定期便でもご家族二百五十二名を乗せた。八時十五分にトラック三台で第一陣救援物資輸送を行い、九時四十八分に、日航現地対策本部を藤岡公民館に設置した。十三時四十分に、高木社長が藤岡公民館にて陳謝した。遺族に対して二名の世話役(後に一名)が担当して様々なサポートを行った。なお、高木社長の振る舞いについては、第二章にて遺族の吉備素子氏の証言に基づいて記してみたい。
 日本航空の社内報『おおぞら』にある「世話役が語る」という手記においては、家族の置かれた状況と遺体のあまりにも悲惨な状態を目の当たりにし、もし、自分の家族や子どもだったらと、仕事とはいえ言葉を超える衝撃と遺族の無念さに直面し、航空会社としての社会的責任を痛感せざるを得なかったという声が多数記されていた。
 スチュワーデスから地上職へ移り、東京支店旅客販売課にて女性課長の先駆者として頑張っていたM・Tさん(五十四歳)も世話役になり、一か月間遺体安置所で遺族との交渉や遺体の確認を行った。当時十九歳の娘さんに「大変な業務なの」と電話をかけていたが、十月十一日、突然くも膜下出血で死亡した。事故直後に世話役をした社員の中には体調をくずした者も多く、その様子を見た外国人記者は、日本の航空会社の社員はここまでするのか、と驚き、欧米で同じような事故があったとしてもその対応はまったく異なり、常識では考えられないという様子だった。
 それにしても、お客様を救うことを第一に考えて、自分の職務を成し遂げて亡くなった客室乗務員を想うとあまりにつらくて悲しい日々だった。墜落の瞬間まで不時着を信じていたとするならば、制服を着た重みによって自分自身のことなど考える隙間もなかったのだろうか。
 事故の次の日も仕事でアンカレッジに飛んだ著者は、日々のフライトで自問自答しながら、あの日を忘れないことが、先輩たちへのせめてもの供養だと信じてきた、という。
 その後、世界長大の犠牲者を出した日航123便墜落事故の風化を防ごうと、講師をしていた専門学校や大学の教え子たちと一緒に新聞記事などの資料を現在からあの日までさかのぼって読み直した時、事故原因が違う可能性があるのではないかと感じた。そして今まで何も知らなかった自分を悔やんだ。
 そして人間は、世間の常識とは別の不可思議なことや思いもかけないことを知った時、二とおりの反応があることも学んだ。
 一つは、多くの疑問を追究しようとする精神を持つ人間で、研究者的な視点で情報収集や分析に取り組むタイプだ。しかしながら一般的に見ると、公の発表とは異なることを言う偏屈な人、荒唐無稽な話をする人、とレッテルを貼られやすくなる。中には趣味の延長で面白がって調べる人もいるが、重要なのは真撃な心で原因を究明しようとすることである。
 もう一つは、事実を聞いた瞬間に、自分は関係ないと知らないふりをする人間で、その振る舞いは実に滑稽だ。例えば、ある新聞記者に知り得た事実を話したところ、自分だけの胸に収めておくからと言い、「明日からは電車の乗り降りに気を付けたほうがよい、ホームは端っこを歩かないで」と逆に脅されたような気になった。さらに別の記者は調査報道が日本は遅れているので米国並みにしなければならない、と熱く語っていたわりには、事実を知るとメールも無視され「原発事故で忙しいから無理」という返事がやっと送られてきた。他にも、「そもそもあなたは大した情報を持っていないし、決定打がなければやめたほうがよい」と言った後ろ向きな報道関係者もいた。
 別の元テレビプロデューサーは「誰も後部圧力隔壁が事故原因だなんて、いまさら信じている人はいない、ただし、決定的証拠がなければテレビ局全員の首が飛ぶ。日米戦争になるという人もいる。戦争になってもいいのですか?」と、いきなり戦争の話が出てきたりもした。
 戦争って一体何なのだろう。たとえ何が明らかになろうとも、三十二年も前のことで時効もとっくに過ぎている。誰もが知りたい真の事実を報道するという職業としての使命感は、一体どこにあるのだろうか。勿論、そんなことはわかっているが自分一人じゃ無理、というのが本音なのだろうか。そこに日本人特有の、お上に逆らってもいいことはないといった自己保身の姿勢が潜んでいるのではないだろうか。
 それ以外にも、様々な人間の反応がある。事故原因を追究しようとする相手に対して自分の過去や職業は明らかにせずに匿名で、「何をいまさら、そっとしておけ」と言いながら、なんらかの弱点をここぞとばかりに攻撃して誹誇中傷をする。しかし、考えてみると普通の人は、傍観者であってもそこまではしない。つまり警戒心が強い人はこの事件に何らかの関わりがあり、自分たちに都合の悪い真実を出されると困る、という組織や過去にそういう背景を持つ人間である可能性が高い。
 誰も真実を追究しようとする人々の努力を、ましてや当事者や遺族の知る権利を妨げる資格はない。
 高齢になった遺族たちの中で今なお事故原因に納得できない人は「事実を知る人が勝手にあの世に持っていかれても困る」と口々に言う。
 そして、遺族だけではなく、亡くなった当事者の無念さは一体誰がその気持ちを汲んであげられようか。皆、いつまでも人任せではないか。それでは本当の供養にはならない。
 そのような悶々とした気持ちでいた著者に、数ある事故関連の書籍の中から著者の『天空の星たちへ』を読んで感動したとの連絡があり、わざわざ大阪から東京の出版社に来てくださったご遺族とお会いする機会を得た。

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