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青山透子『日航123便 墜落の新事実』

(河出書房新社 2017年7月30日刊)

序 章|第一章|第二章|第三章第四章|終 章

第三章 『小さな目は見た』というもう一つの記録

1.上野村小学校と中学校の文集が語る二百三十五名の目撃証言
 墜落現場となった上野村にある小学校と中学校では、墜落当日の様子を生徒たちはどのように見ていたのか。それを知る作文が残されていた。
 一冊は、群馬県上野村立上野小学校百四十人名の日航機墜落事故についての文集『小さな目は見た』(一九八五年九月三十日発行)、もう一冊は、群馬県上野村立上野中学校八十七名の日航123便上野村墜落事故特集『かんな川5』(一九八五年十月一日発行)である。
 上野村立上野小学校の当時の校長、神田箕守氏は文集の発行について次のように書き記している。
 「(略)子ども達は多くのものを見聞し、多くの事を知りました。多くの事を考えました。だがこの貴重な体験もそのまま放置するならば、やがて忘却の彼方に消え去る事は必至であります。体験が生々しい中に、考えが新鮮な中に、それを深め、まとめておくことが、子ども達の長い人生に役立つことであり、尊い犠牲者の皆様の御供養に通ずるものと考え、『日航機事故について』の文集を作ることを計画いたしました。((略)」(原文ママ)



「小さな目は見た」 「かんな川5」

(本書より)

 未来を担う子どもたちのために、実際に見聞きした体験談を忘れ去ることがなきよう、墜落事件発生後一か月以内に書かせたというその姿勢に教育者としての信念を感じた著者は、神田元校長に連絡を取った。
 二〇一四年年六月のことである。その時八十四歳という年齢で、手紙での簡単なインタビューという形になった。
 この『小さな目は見た』というタイトルについては、神田元校長がお考えになって決めたということであった。当時、黒澤村長から特別に何の指示も依頼もなく、小学校独自の判断で文集を作った、ということであった。また文集の作成についても中学校と相談して決めたということもないということである。
 そして、神田校長のあの日についてお聞きすると次のようなことであった。
 「八月十二日は当地区ではお盆の前日で、すでに盆迎えの準備をしていました。準備を終えた日暮れの頃、集落の上を自衛隊のジェット機二機が二回ほど旋回したことを家の中から、音で知りました」
 かなり具体的であるが、見たというよりも、どちらかというと音で知った、という内容であった。自衛隊機二機が何時の時点であったのかは明確ではないが、日暮れの頃というと、公式発表で飛んだ時間とは異なり、非番の自衛隊員と藤枝市で目撃された非公表のファントム二機ではないかと思われる。
 それでは実際に子どもたちは何を見たのか。
 まずは小学校全校生徒百四十八名全員の見たものについて分析をしてみた。それが次頁の表である。



(本書より)

 当日なんらかのものを見た子どもたちは全体の五十一%である。その内容を詳細に見ていくと、実際の報道とは別の視点でものごとが見えてくる。
 まず、墜落前に見た子どもは何を見たのだろうか。
 墜落前は、稲光やゴーという音、ドドドーンという音である。
 墜落前後は圧倒的にヘリコプターが複数、飛行機も複数飛んでいたことが目撃されている。
 それも全部『明かりをつけながら飛んでいる』『ライトをつけて飛んでいる』『いっぱい飛んでいる』という記述が多い。自衛隊や機動隊の車も多数山に登ってきている。
 注意すべき点は、墜落前の大きい飛行機と小さな二機のジェット機という記述である。この子どもは具体的に目撃した時刻を書いている。これが一体何なのか、非番の自衛隊員が見た時刻から割り出すと大きい飛行機が日航機、二機のファントム機とすると筋が通る。それを見たのは小学校五年生のH・H君である。
 『八月十二日の夕方、六時四十五分ごろ南の空の方からジェット機二機ともう一機大きい飛行機が飛んで来たから、あわてて外へ出て見た。そうしたら神社のある山の上を何回もまわっているからおじさんと「どうしたんだんべ。」と言って見ていた。おじさんは「きっとあの飛行機が降りられなくなったからガソリンを減らしているんだんべ。」と言った。ぼくは「そうかなあ。」と思った。それからまた見ていたら、ジェット機二機は埼玉県の方へ行ってしまいました。』(原文ママ、以下略)
 六時四十五分という時間が具体的である。
 その後しばらくテレビを見ていたらニュースで墜落の報道があったということである。時間的に見ると、墜落前であることからやはり大きい飛行機は日航機、小型ジェット機二機は公には発表されていないファントム機だと考えると他の目撃情報と辻棲が合う。いずれもくるくると何回もまわって見えていた、ということだ。ただ、ドカンという墜落音は聞かれずキノコ雲なども見ていない。埼玉県の方へ行ったという記述からは、日航機墜落前に、百里基地へ戻っていったのだと推定される。
 その他にも、小学五年生のS・M君は、ニュースでジャンボ機墜落報道があった時に、外で飛行機が追いかけっこしているぞ、と父親に言われて見たら、電気のついた飛行機が二機飛んでいた、と書いている。こちらはニュース速報後であるから、これは公式発表のファントム二機の可能性が考えられる。当日、少なくとも墜落前に二機、墜落後に二機、合計四機のファントム機が飛んでいたということになるのではないか。
 墜落場所については父母と具体的な話をしている子どもが多い。例えば、小学校六年生のE・Kさんは七時三十分頃、「自分の家の上が何かうるさくなったため、外に出て見るとヘリコプターが何機も飛んでいた。夏期講習に行っている兄からの電話で、飛行機が長野県北相木村に墜落したと聞き、びっくりした。夜中一時頃に姉がNHKに電話をして『絶対に日航123便は上野村に墜落していますよ』と伝えたところ、NHKの人が『はい、ありがとうございました』と言った」とまで記述している。これは大変重要なことである。「次の日、姉はやっぱり私の言ったとおりに上野村だったじゃないと言いました」とも書いている。
 他の地元民も報道機関に電話をしているが、テレビでは別の地名を報道し続けていた。小学校三年生でも、大人と地図を見ながら、「スゲノ沢に落っこちた」と書いている。
 当日、ドカーンという音が聞こえるほどの距離で、その前後に飛行機や自衛隊機を目撃し、さらに五機以上の多数のヘリコプターも目撃している。ぐるぐる回り、右から左へいったりきたり、という表現も多数ある。墜落した場所はお父さんが二十年前に植林した場所だ、という子どももいて、その日のうちに上野村だとわかって現地に行く用意をしている。これでなぜ上野村という地名が墜落現場として挙がらなかったのだろうか。子どもたちの目はしっかりと見ていたのである。
 さて、中学校の生徒八十七名はどんな目撃情報を記しているのだろうか。



(本書より)

 その日の目撃者は六十三%とこちらも多い。墜落場所については、中学校一年生のT・N君が、「お父さんが営林署の山に落ちたのかなと言いながらテレビを見ると、三国山とかぶどう峠とか言っているので実際に行ってみた。『どうもあの辺は本谷だなあ』と言っていた」と記している。そして「車のラジオでは長野県北相木村付近だと言っていたので、あまりラジオもあてにならない」と書いている。ヘリコプターが山の陰に消えたりしているので、「もうこの時は上野村だと思った。一刻も早く見つかって、生存者を確認してもらいたいとずっと思っていた」と、墜落地不明の報道にもどかしさを感じている。さらに「学校が始まって千羽鶴を作り、航空史上最大ということがとてもショックだ」と書いている。
 中学校の文集には、ヘリコプターの数も、三機、十機と、見た数を具体的に記述している。場所も本谷、時計山、御巣鷹山のほう、といった地名が出てくる。親戚や近所の人たちの会話、さらに場所について電話をしているという記述もある。
 墜落前に見たものとして小学校でも記述があったが、大きい飛行機と二機のジェット機が目撃されている。中学校三年生のY・K君である。
 「その日は、やたら飛行機の音がしていた。父ちゃんがおかしく思って外に出ていって、『おい、Y、飛行機が飛んでいるぞ。来てみろ。』と言ったので行ってみた。飛行機は大きいような飛行機と小型のジェット機が2機飛んでいた。五分以上もたっているのに、さっきから、ぐるぐる回ってばかりいた。外にいると蚊にさされるので家の中にはいった。そしてテレビを見ていたら『キロリン、キロリン』と音がして、なおいっそうテレビに注目した。ニュース速報で、大阪行き日航ジャンボジェット機123便が、レーダーから消えました。と書いてあった」とある。
 これも大きい飛行機と二機の小型ジェット機である。二機はファントム機に間違いないだろう。二機のファントムと日航機による追いかけっこ状態だと推定される。
 他にも、中学三年生のY・Oさんは「楢原山の辺りに2つか3つ、灯台のように定期的に光っている光があった。」と書いている。
 つまりすでに場所は特定され、光もあり、その上空を何機ものヘリコブターが西から東へひっきりなしに飛んでいる様子が手に取るようにわかる。さらに家の前を機動隊や自衛隊、パトカーが何十台も通っている。
 さて、ここで不思議なものとして、「真っ赤な飛行機」が出てくる。中学校一年生のY・K君の記述によると、「午後七時少し前、蚕にくわをくれていたら雷のような音がしました。ぼくの家の下の人は、真っ赤な飛行機を見たと言いました。ぼくはその時、どうして飛行機がこんな方に飛んで来たのかと思いました。それも真っ赤な飛行機。ぼくはその時、いやなことがおこらなければよいと思いました」(原文ママ)と、家族や近所の人が見たという真っ赤な飛行機について書いている。
 真っ赤な飛行機、これは何であろうか。
 もし、この真っ赤な飛行機によって墜落が引き起こされたというのであれば、私たちは今、冷静にこの事実を解明していかなければならない。これについては第四章で論じたい。
 墜落現場となった村でしっかりと目撃されていた事実が書いてあるこの文集を残した意義は大変大きい。しかもどこか遠い国の出来事ではない。ましてや戦争でもなく、平時のこの日本において、群馬県の山中にある農村の子どもたちが見たものである。
 目撃情報の重要な点を整理してみると次のようになる。
  1. 墜落前に大きい飛行機と小さいジェット機二機が追いかけっこ状態にあった。
  2. 真っ赤な飛行機が飛んでいた。
  3. 墜落前後、稲光のような閃光と大きな音を見聞きした。
  4. 墜落場所は上野村と特定できて報告したにもかかわらず、テレビやラジオでは場所不明または他の地名を放送し続けていた。
  5. 墜落後、多数のヘリコブター、自衛隊の飛行機、自衛隊や機動隊の車などを目撃した。
  6. ヘリコプターは墜落場所をサーチライトのような強い明かりで照らしながら、多数行き来していた。
  7. 煙と炎の上がった山頂付近をぐるぐると回りながら何かをしている何機ものヘリコプターがブンブンと飛んでいた。
 これで墜落場所が不明だった、当時はしかたがなかったとメディアも政府も言い張ることができるのだろうか。逆になんらかの作為があったと思われてもしかたがない。
 なお、文集に一番多く名前が出てきたのは、生存者の川上慶子さんで「助かって本当に良かった、お父さんもお母さんも妹も死んじゃって悲しいだろうが、頑張って生きてほしい」と、自分と同じくらいの年齢の子どもたちにとって、最も身近に感じたようであった。
 私たちは、誠実で嘘偽りのない子どもたちの文章を読みながら深く、深く考えなければならない。三十二年後の今は、彼らが思い描いた未来と言えるのだろうかと自問自答しなければならない。特に長い間、為すべきことを為してこなかった関係者は心の底から詫びなければならない。
 あの日あの時の記憶。それは地元の子どもたちのみならず、この事故に関わった人々の記憶に残り、受け継がれていくのである。
 
 2 横田基地への取材ノートから
 手元に一冊の古びたノートがある。
 表紙に社名が入った縦二十一センチメートル、横十五センチメートルの取材ノートである。
 大手出版社で仕事をして、すでに引退した女性記者、H・H氏から「どうぞこれを活用してほしい」というメッセージとともに頂いたものだ。
 ノートの見出しには『日航機』と書いてあり、サブタイトルは『ドキュメント日航機の事故平時の有時に出動した自衛隊の15日戦争』とある。  それによると、一九八五年八月二十日から二十三日にかけて六本木にある米軍広報を訪れ、米海兵隊所属のエバンス氏へ取材した記録は次のとおりである。

8月12日
 6:45pm   米軍は横田基地への緊急着陸準備完了。 横田基地にて災害即応部隊結成。
 7:10pm   航空自衛隊に横田基地から同基地所属の米軍C130輸送機が埼玉県秩父市の西北30キロ山中で航空機らしきものが炎上中と連絡。
 9:00pm   座間基地より飛び立った救難用UH1ヘリが現場らしき上空にて日航機がクラッシュして炎が燃えているのを見た。

 さらに米軍へのインタビューとして日本語と対比した英語の質問、それに対して相手が答えた会話が英語と日本語で書かれている。最後のページには茶色の新聞記事一枚と米軍に提出して戻ってきた英語の質問表とその答えが用紙ごと糊付けされている。それが以下の写真である。



(本書より)

 次に女性記者による質問に対して米軍側が預かって後日返答した質問用紙と答えを訳してみる。(横田基地への取材ノートより)

 お手数をおかけしますが、お考えいただき、下記の質問にお答えくださればと存じます。

質問1 ヘリコプターは日航123便の墜落現場に向け、座間基地を何時に離陸しましたか。
 答え 午後八時十分。
質問2 ヘリコプターは何機でしたか?
 答え 一機飛んで、四機が待機。
質問3 それは当方、すなわち日本側の要請によるものでしたか?
 答え いいえ、われわれ独自の判断で。
質問4 ヘリコプターの搭乗はどういう人だったのでしょうか?
 答え パイロットと派遣医師一名。
質問5 それらのヘリコプターは災害対応か、そのような機関に所属するものですか?
 答え 空軍はヘリ一機を待機させておいて、陸軍は四機をそうしています。災害派遣隊はトラックでもって待機します。
質問6 ヘリコプターの種類は?
 答え UH1。
質問7 日航123便の正確な墜落場所は日本の自衛隊よりも早く、あなた方によって発見されたのですか?
 答え 山中の丘の上に火と煙は見えましたが、それ以外は暗くてわからなかったです。ですから、それがはっきり墜落現場かどうかは定かではありませんでした。
質問8 見つけた時間は正確にいつですか?
 答え 午後七時十分。
質問9 状況はいかようなものでしたか?
 答え 暗くて何も見えませんでした。
質問10 正確な場所・地点を特定することは可能でしたか? 可能との答えなら、それは何時にどこに報告されましたか?(どういう類のところでしょう)
 答え いいえ。
質問11 米軍はこういった場合、夜間に山岳地帯に着陸する機能を保持していますか?もしそうならば、それはどういった部隊でしょうか。
 答え いいえ。
質問12 海軍のヘリコプターは出発準備をしていましたか?
 答え いいえ。
質問13 陸軍はどうでしょうか?
 答え 質問2の答えを見てください。
質問14  日本側から米軍に対してなんらかの援助要請はありましたか?
 答え いいえ、横田への日航123便の緊急着陸以外は。
 
 ご協力有難うございました。
 
 米軍側は、十九時十分の段階で墜落場所を目視して報告しており、内容はアントヌッチ証言と一致する。さらに救助ヘリも一機飛ばし、次もスタンバイ状態にあったことがわかる。
 ボイスレコーダーでは意図的に判読不明とされた部分かもしれないが、公表された飛行ルートで確認すると、日航123便は横田基地へ着陸しようとして横田の滑走路が見えるほど、まっすぐ向かっていたような動きがある。横田基地周辺でも低空飛行の日航機が目撃されている。
 高浜機長は横田基地に降りる予定であったとするならば、いつどのタイミングで横田空域侵入管制区へ飛行する許可をとったのだろうか。それとも横田基地のほうから先に緊急着陸OKと言ったのだろうか。
 質問14の答え、『No、except for possible emergency landing at Yokota by JAL123』のbyをどう解釈するかがポイントである。
 事故調査報告書(昭和六十二年六月十九日公表)の二十三ページに『2・10通信に関する情報』という項目があり、事故機がコンタクトを取ったのは『東京飛行場管制所、東京ターミナル管制所、東京コントロール、東京アプローチ及び日航東京空港支店航務部』とある。そこには実際に米軍側が質問に答えているように、高浜機長と横田基地の管制とのコンタクトについて書かれていない。
 ボイスレコーダーに「これはだめかもわからんね」という機長の言葉が出てくるが、もし横田基地に着陸を要請して許可が得られていたとするならば、なぜ横田を目の前にして、急に進路を左にとり、群馬県の山中へ方向を変えているのだろうか。横田基地への着陸を断念しなければならない何かがあったのだろうか。
 墜落した後の救助の遅れは周知のことだが、その取材メモ帳に貼ってあった古びた新聞記事を見てみると、そこには『自衛隊時間かかった到着』『空挺団投入遅れる』(朝日新聞、一九八五年八月二十三日)というタイトルがあった。
 『事故発生以来十日間、延べ出動人員2万8千人、車両4千140両、航空機260機(二十一日現在)、日航ジャンボ機墜落事故は三十年の自衛隊史上、最大級の”作戦”となった』と書いてある。ファントム戦闘機(F−4El)の発動は、国籍不明機ならば即時当直の管制官で対応できるが、日航機とわかっている以上、災害出動は司令部の命令がいる。だから司令部の当直幕僚から連絡を受けた中部航空方面隊司令官の松永貞昭空将は墜落から約四分後の午後七時一分に、迅速に発進を命令した、とその素早さをほめたたえている人たちがいると書いている。しかし三十二年後の今、一般人も小学生も非番の自衛隊員も目撃している日航機の墜落前に飛んでいたファントム二機の存在を知ったうえで、こういう記事を読むと対応している自衛隊幹部の言葉も滑稽に思えてくるのは誰もが同じであろう。
 ただし、日本で唯一の落下傘部隊である第一空挺団(習志野駐屯地)の投入決定が翌日になったことに対しては、疑問の余地がある、救助対応への批判が殺到した、とある。
 当初、陸上自衛隊は第十二師団部隊を翌朝空輸するつもりで、第一ヘリコプター団のVlO7大型ヘリ六機を夜間に相馬原に前進させていた。しかし、翌朝に現地を撮影したビデオを見て、この険しい山脈では普通の隊員では無理だと判断、それから第一空挺団に出動を要請したため、日の出もすっかり過ぎた午前九時以降になってしまったと弁解している。外国の地ならいざ知らず、群馬県の山々を翌朝になってからビデオで確認をして無理だと結論づけるとは、あまりにお粗末である。
 これをどのように読み取るかは別として、実際に取材の過程において、第一空挺団は十二日、十八時四十分に災害派遣待機命令が出ていた、という証言もある。著者の公式ブログを見て、前著の出版社に来られた元自衛官も同様の話をしていた。大型ヘリのバートルのエンジンがかかった状態で待機、隊員はすぐ乗り込み離陸する予定だったが、その数十分後に翌朝まで待機と命令が変更になって、無理やりエンジンを切らされたという。
 このエリート集団の中には、亡くなった人たちに対して申し訳ないという気持ちとともに、不可解な命令に疑問を持ち、事故原因にこだわり続けていた人もいるということである。おそらく当人にとっては、自分たちは十分な夜間訓練を受けていた、それなのに救助に向かわせてもらえなかった、という無念さがあるのだろう。プロとして、存分に力を発揮したかったと残念に思っていることだろう。
 プロ意識は墜落機の乗務員たちも同じだったに違いない。
 一つの仮説として、誰がエンジンを切らせて、翌朝まで待機という命令を出したのだろうか。
 もしそれが時間稼ぎだとすると、一晩中、あの山の中の墜落現場では救助ではない行動がとられていた、ということになる。十数機のヘリも目撃されている。
 山頂では何が起きていたのだろうか……。
 遺体が語りかけてくれる事実がある。
 それは、あの夜明けに現地に漂っていたガソリンとタールの臭いにつながるのである。
 
 3 ガソリンとタールの臭いが物語る炭化遺体と遺品
 ●検死に関わった医師たちの証言

 乗員四名と乗客一名の司法解剖を担当した群馬大学医学部の古川研教授は、遺体の状況を衝撃的に記述している。
 『(機体)前部の遺体には損壊や焼損が目立ち、衝撃のすさまじさと主翼の燃料タンクの火災の影響を受け、焼損遺体の中には部位も判然としないものがあり、通常の家屋火災現場の焼死体をもう一度焼損したようにみえた(略)』(群馬県医師会活動記録『日航機事故に対する法医学の対応』昭和六十一年十月一日発行)
 通常の家屋火災現場の焼死体をもう一度焼損したという遺体…。
 「それほどまでにジェット燃料はすさまじいのか」
 取材の際、医師、歯科医師、消防団の人たちから逆にそういう質問を受けたことを思い出す。一度焼けた遺体がもう一度焼損することは、いずれにしてもジェット燃料だからという理由では説明がつかないのではないか。
 エンジンもそれぞれがバラバラの位置に落ちており、翼にある燃料タンクから漏れ出たとしても、それよりも遠いところまで燃焼した痕跡がある。
 この墜落現場の状況の地図(次頁参照)に関しては、上野村消防団や営林署、群馬県警も同様に確認していることからほぼ正確であると言える。
 下記の地図の破線で囲ってある部分が焼損区域である。確かに広範囲に燃えたことがわかる。




飛行機の残骸の位置と火災発生箇所
(事故調査報告書資料)
(本書より)

 生存者が発見されたスゲノ沢第三支流周辺に、No1エンジン(第一エンジン)、No2エンジン(第二エンジン)、後部胴体が沢を滑落して落ちている。左右の主翼内部が燃料タンクであるにもかかわらず、実際にはここだけまったく火災が生じていない。完全遺体が百体ほどあった場所である。この一帯は四十度近い急勾配で、沢も山頂からはまったく見えないところである。
 ところが、山頂の激突した周辺及び、左主翼もエンジンも何もないところがひどく焼けている。地図では前部胴体と書かれているところから機首部周辺である。左と右の主翼が落ちた部分ならまだわかるが、エンジンもないこの場所が著しく燃えていた。
 実際に医学的資料として撮った検死写真にも、ポロポロと崩れるほど炭化した遺体が写っている。これは消防団にも確認をしたことだが、雷や夕立の多い湿った夏山であることから、通常の火災はそれほどまで広範囲に広がらないという。ましてや重要なのは、ジェット燃料のケロシンは灯油とほぼ同じ成分ということだ。名古屋など他の航空機火災で真っ黒になった遺体もあったという報告書もあるが、これは煤の成分が付着した状態で黒くなったものである。
 一九八六年年にまとめられた群馬県医師会活動記録には『筋肉や骨の完全炭化が著明であった』という記述がある。
 完全炭化という言葉を使って医師たちが指摘しているように、歯や骨の中心まで炭化した状態であったのはこの事故が初めてといえる。
 これは歯型から検死を行った群馬県警察医で現在八十四歳の歯科医師である大國勉氏にも確認をした。
 その完全炭化というのは、「黒いコロコロとした塊があるだけで、人としての原型をとどめておらず、歯を含む骨まで完全に炭化した状態」ということであった。身元確認のためにそっと手で触ると、ポロポロと崩れてしまうので、どうしようかと思案しながら検死を行ったのだが、本当に大変な作業だったと語ってくださった。
 どうやったら緑多く、木々が茂る山中に放り出された生身の肉体が、炭化するほど焼けるのかが最大の疑問である。飛行機の燃料は灯油の一種だという話をしたところ、かつて灯油を何度もかぶって自殺をした遺体を検死したことがあるが、ここまで焼けていなかったという。医師たちはこの炭化状態になった遺体がジェット燃料によるもの、と思い込んでいたようだ。しかしながら、科学的にその成分から考えると、炭となった結果との整合性がつかないとのことであった。
 
 ●山口悠介検事正による異例の説明会
 当時この事件を担当した山口悠介前橋地検検事正が中野寛司三席検事とともに、一九九〇年七月十七日に、8・12連絡会事務局長ら二十一名の遺族と二名の弁護士に対して、異例の説明会を開いている。そこで山口氏は手持ちの資料を開示している。
 五時問にも及ぶ説明会の中で山口氏は次のように語ったという。
 「捜査の結果、わかったことは修理ミスかどうか相当疑わしいということだ。事故原因にはいろいろな説がある。(略)圧力隔壁破壊がいっペんに起きたかどうかも疑わしい」と率直な意見を述べている。さらに事故調査報告書もあいまいだと断言し、ボーイング社も修理ミスとしたほうが簡単だから受け入れたと思えると示唆している。目の前の膨大な資料を指さして、「これを見ても真の事故原因はわからない、本当に原因は不明なのです」とし、捜査書類の入ったキャビネット二十本以上を開示した。
 さらに特筆すべきことは、山口検事正が調査過程で様々な資料を精査した結果、多くの矛盾があることに気が付いたということだ。例えば、ボーイング社で修理を担当した人の写真が別人であったり、ボーイング社の技術担当者による作業指示書に関する写真も(圧力隔壁の)接続部分ではなく隔壁、外板を取り付ける写真であったということだ。また、修理者の氏名が不詳という点や、ボーイング社が「修理ミスだと思っていない」ということも指摘していた。こういった点から『不起訴にせざるを得ない』としている。この説明会の内容からも、あまりに不透明な事件だということがわかる。
 
 ●上野村に眠る遺骨と尾根に残る残骸から見えてくるもの
 上野村には、墜落から一年後の昭和六十一年八月三日に完工した慰霊塔と納骨堂がある。
 合掌した手の形をイメージした慰霊塔の先端方向は約八キロメートル先の事故現場、御巣鷹の尾根を指すという。納骨堂の石造りの扉は、永遠の眠りを妨げないようにと『開かずの扉』に設計されている。これについて遺族の中にも将来、DNA型鑑定の進歩で身元が判明する場合もあると反対する意見があったそうだ。以前その点について確認をしたところ、黒澤丈夫村長は、「私もそう思っている。ただ設計者の主張があってどうにもならなかった」とおっしゃっていた。
 その納骨堂には身元不明ご遺骨や骨粉の入った123の骨壷を納めるはずだったが、本納骨後に発見されたご遺体もあったという。黒澤村長も、戦争中の命令でもあるまいし、開かずの扉といっても絶対開けられないわけではない、という雰囲気であった。
 群馬県医師会の救急担当であった佐藤秀理事も『焼けて炭化した部分遺体の個人的識別は法医学の進歩を待つ』と活動記録にも書かれている。遺品をそのまま保管している遺族や山からいろいろなものを毎年の慰霊登山のたびに拾ってきている関係者もいる。



(本書より)

 二〇一〇年七月十日付読売新聞によると『日航機の翼 今も御巣鷹に』という見出しで、一メートル超の翼の破片や、長さ80〜90センチの『HAZARDOUS(危険な)』と赤文字で書かれた翼の一部、『HYDRAULIC PRESSURE(油圧)』と記されている金属製パイプなど、大きなものが数十点発見されたという。機体に異常が発生し、「油圧が全部だめになった」というあのパイプの残骸だとすると、何とも言えない気持ちになった、著者は書いている。

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