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青山透子『日航123便 墜落の新事実』

(河出書房新社 2017年7月30日刊)

序 章|第一章|第二章|第三章|第四章|終 章

 本書は、次のような構成となっている。

序 章 あの日に何が見えたのか
  • 日航123便墜落事故に関する略年表
第一章 一九八五年八月十二日の記録
  1. スチュワーデスの視点から
  2. 政治家の視点から
    • 中曽根康弘総理大臣の場合
    • 山下徳夫運輸大臣の場合
  3. 日本航空の視点から
第二章 新たに浮かび上がるあの日の証言
  1. 遺族となった吉備素子氏の体験と記憶
  2. 山下徳夫運輸大臣の記憶
  3. 目撃者たちの証言
    • ファントム二機と赤い物体の目撃者
第三章 『小さな目は見た』というもう一つの記録
  1. 上野村小学校、中学校の文集が語る二百三十五名の目撃証言
  2. 横田基地への取材ノートから
  3. ガソリンとタールの臭いが物語る炭化遺体と遺品
    • 検死に関わった医師たちの証言
    • 山口悠介検事正による異例の説明会
    • 上野村に眠る遺骨と尾根に残る残骸から見えでくるもの
第四章 三十三回忌に見えてきた新たな事実
  〜目撃証言からの検証〜
  1. 事故原因を意図的に漏洩したのは米国政府という記事
    • ガソリンとタールの異臭について
    • 墜落現場不明という誤報とファントム二機の追尾
    • 人命救助よりも大切だったのは赤い物体か?
  2. 未来に向けて私たちができること
終 章 未来の目は見た
  • 事実関係時系列表
謝辞


 それでは、内容の概略について以下にまとめておきたい。なお、図・写真については本書に掲載されたもののほか、WEBサイトからのものも含めている。

 序 章 あの日に何が見えたのか

 ガーガーガーンと強い衝撃の後、様々な固形物や砂が次々と頭にぶつかり、体が宙に投げ出された。左目は砂にまみれて目が飛び出したように痛い。口は乾き、砂でいっぱいだ。シートベルトが体に食い込んでお腹がちぎれそうに苦しい。
 「はあ、はあはあ」と荒い息遣いをしながら、つい先ほどまでの身の毛もよだつ恐怖がよみがえる。
 「ああ、墜落したのだ。大変な事故を起こしたのだ」
 周辺からも、はあはあと、荒い息遣いが聞こえてくる。
 「おかあさん」「早くきて」「ようし、僕は頑張るぞ」そんな声も聞こえてくる。
 すると、闇の中からヘリコブターの音が近づいてきた。夏山特有の湿り気のあるもったりとした空気が、一瞬にしてかき乱される。バリバリバリと爆音をたてて、木々の葉を大きく揺らしながらゴーゴー、バババーとホバリングを始めた。辺り一面、埃や砂、機械の臭いが舞い上がる。
 「ああ、私は生きている、これで助かる」
 全身の痛みをこらえ、かろうじて動くほうの右手を必死に空に向かって伸ばした。
 「助けてください、私は…ここに…」と、夢中で手を振る。
 「助けて」「帰っちゃいや」「誰か来て」
 そのような何人もの声をかき消すように、ヘリコプターは爆音と共に段々と遠くへ去っていった。周りでは、はあはあと何人もの荒い息遣いだけが聞こえてきた。
 
 一九八五年八月十二日(月)。日航ジャンボ機123便(ボーイング747、登録機体番号JA8119)が、東京羽田空港を離陸して、大阪伊丹空港へ向かう途中、突発的非常事態に陥り、「群馬県上野村の御巣鷹の尾根」と後に命名された高天原山系無名の地に墜落した。



墜落した日航123便(WEBサイトより)

 前述は、乗客乗員五百二十四名のうち、四名の生存者の一人、非番で乗客として乗り合わせた客室乗務員の落合由美さん(二十六歳)が発表した「落合証言」に基づく記述である。
 当時、墜落後に遺体を検死した医師によると、落合さんが救出された場所の周辺には、つい先ほどまで生きていた痕跡のある生温かい遺体があり、早急に救助がなされていれば命が助かっていたのではないだろうかと思われる遺体が百体ぐらいはあった、ということであった。
 墜落現場が不明のまま夜が明け、翌日の十三日、落合さんは地元の消防団員によって十時五十四分に発見されたが、それから灼熱の夏山の山頂で放置状態となった。生存者発見の通知をうけた日赤の医師二名と看護婦二名は、警視庁のヘリコプターで十二時十三分に現場上空に到着し、救命用綱で降下した。医師と看護婦による応急処置をしたのだが、その後まったく救護のヘリが来なかった。山頂で生存者を見守る地元の消防団からも、「せっかく救助したのだから早く搬送してくれ、自衛隊のヘリに連絡してくれ」という声が次々上がる。医師も声を荒げながら「物資や自衛隊員の降下よりも、救助された生存者を搬送することを優先させてくれ」とその場にいた自衛隊員に詰め寄り、直接交渉をした。
 やっと救護用ヘリが到着し、十三時五分にようやく生存者のヘリへの収容が始まり、子どもから先にヘリコプターで機体に吊り上げられた。落合さんは最後に担架ごとクルクルと回転しながら十三時二十八分に収容された。しかし、生存者四名を収容した自衛隊ヘリのパイロットは十五分で到着するはずの上野村の本部の場所がわからず、同乗していた医師が必死に地図や地上の風景を見ながら場所を指示し、十三時五十分にようやく到着した。結局、「生存者発見から猛暑の炎天下で三時間以上もかかってしまった」と述べていたのは、四名を救出した前橋赤十字病院外科部長の饗場庄一医師である。



自衛隊の救助ヘリに収容される川上慶子さん
(WEBサイトより)

 さらに上野村役場から救急車で二時間近くも揺れるのは危険だと判断をした饗場医師は子ども二名を再度別のヘリに乗せた。最終的に生存者四名が藤岡の多野病院に着いたのは十四時二十分と記録されている。前日の十八時五十六分二十八秒に墜落してから、すでに二十時間が経過していた。なお、生存者は川上慶子さん(十二歳)、吉崎美紀子さん(八歳)、吉崎博子さん(三十五歳)、落合由美さん(二十六歳)の四名である。
 
 当時、スチュワーデスと呼ばれていた客室乗務員だった著者は、日本航空株式会社客室乗務員女子寮、通称スカイハウス(品川区港南)に住んでおり、生存者の一人、落合由美さんとは同じフロアに部屋があった。著者の同期と落合さんが同じグループで親しかったこともあって、仲間と部屋で開く鍋パーティーにひょっこり顔を出してくれたこともあった。陽気でカラカラと明るい声で笑う親しみやすい先輩であった。
 著者は一九八五年八月十二日のこの日、翌日からのヨーロッパフライトに備えて寮の食堂で夕食を取っていた。食堂のテレビでは、NHKの七時のニュースが流れていたが、突然、緊急放送が入った。日航羽田発大阪行きの飛行機が行方不明という報道であった。その時、食事をしていた全員の箸が一斉に止まった。そのままテレビを見つめていた直後、スカイハウスのすべての部屋にひかれていた三百三十六台のダイヤル式黒電話のベルの音が一斉に響き渡った。それぞれの家族や友人、知人たちが心配して電話をかけてきたのである。
 ジリリリリーン、ジリリリリーン……。
 怒りにも聞こえるものすごい音で、外を歩く人々が建物を見上げるほどであった。一晩中電話が鳴り止まない部屋は、落合さんの部屋であった。そして事故機に乗っていた客室乗務員は、著者が新人時代に仕事を教えてもらった同じグループの先輩たちだった。
 二十五年経った二〇一〇年四月、著者は、乗客を励ましながら最後までプロとして行動をした先輩方のこと、当時の新聞報道や資料を読み込むうちに湧き出てきた事故原因への疑問をまとめて『天空の星たちへ 日航123便あの日の記憶』(マガジンランド)を出版した。
 圧力隔壁修理ミスが事故原因だと公式発表されているが、現場でこの事故に関わった人たちの中には、腑に落ちない出来事が多数あり、それが今なお心の奥底に大きな疑問となって渦巻いていることにも気付かされた。
 事故原因については一部の過激な陰謀説、根拠の薄い憶測も多々あり、それがかえつて再調査への道を妨げていることもある。著者自身も自衛隊の誤射やミサイルという言葉すら不愉快で違和感を覚えていた。しかしながら、現場を知る人たちへのインタビューや膨大な新聞等の資料を読み込み、目撃情報や現場の証言をもとに考察を深めるにつれ、公式発表に対して違和感を覚えるようになっていった。そして、それを語るとすぐに陰謀説と烙印を押されかねない状況を感じた。もっとも、一般の人々には圧力隔壁修理ミス説が事故原因という報道しか届いていないこともあってしかたがないが、三十二年前の事故時の情報や状況にいまだに疑問を持ち続けている人たちがいることを知った以上、自分の果たすべき役割は何かを考えてきた、と著者は言う。
 逆に事実を一つずつ積み重ねていけば、新たな真実が見えてくるのではないだろうか。そう思い、墜落現場となった上野村へ行き、当時の村長や消防団の方から話を聞いた。
 当時の上野村の村長・黒澤丈夫氏には、取材時にあの日の記憶を語っていただいたが、十二日の晩にすぐ墜落現場は自分たちの村だとわかり、村民にも村内放送をして情報提供を呼び掛けていたという。上野村に落ちたと政府関係者や県に連絡してもまったくテレビに反映されず、長野県やら小倉山やら偽の情報が流れていたことに怒っておられた。
 また、川上慶子さんら生存者を最初に発見して救出した地元消防団の方や、歯型から遺体の身元を確定して検死を行った群馬県警察医の大國勉氏にもお会いして、たくさんの資料を見せていただき、話を聞かせていただいた。大國氏も遺体の状況に大きな疑問をお持ちだった。このように詳細に調べていくと、ますます事故調査委員会発表の事故原因は違うのかもしれないと大きな疑念を抱いた。
 ちょうどその頃、日本航空が経営破たんし、負債総額二兆三千二百二十一億円というとてつもない金額で、会社更生法を申請したのである。
 
 出版後、さらに新たな事実や目撃情報が読者などから多数提供された。
 本著をきっかけに出会った人も数多く、当時運輸大臣であった山下徳夫氏も遺族の吉備素子氏もその一人だ。
 公式に発表された事故原因(運輸安全委員会は『後部圧力隔壁破損によるもので起因は不適切修理と推定される』としている)は、他の類似する航空機事故の事故原因と比較検討をしても辻棲の合わない部分が多く、その点について専門家の間でも多くの疑問が生じている。
 墜落現場の御巣鷹の尾根に次のような文言の石碑がある。
 「日航123便で死亡した520人の犠牲者1人1人がどうして死ななければならなかったか、関係するあらゆる事実を解明し、将来の安全に役立てることこそ真の供養である(二〇〇四年八月十二日/航空安全国際ラリー組織委員会建立)」
 いまだに遺族や関係者の中で「後部圧力隔壁修理ミス」という事故原因に納得をしていない人がいることに、私たちは向き合わなければならない。そして日々操縦桿を握り世界中の空を飛んでいるパイロットたちによる日本乗員組合連絡会議(ALPA Japan)でも ホームページで、事故調査報告書と説明書の多くの矛盾点を指摘し、政治的決着を優先することに対して意見していることも忘れてはならない。
 下記をクリックすれば公開されているそのALPA Japanの意見書「事故調査報告書に物申す」の中にある日航機123便事故の「事故調査報告書」の問題点をした意見書を閲覧することができる。
 <JL123事故調査報告書の問題点>
 なお、この意見書は2011年11月2日に公開されている。この時点ではまだ「異常外力」の存在を認めた調査報告書の「付録」(2013年2月にネット上にアップされたもの)は存在しなかったので、意見書の中では「異常外力」には触れられていないが、「後部圧力隔壁修理ミス」という事故原因に対して、率直かつ明確な疑義が表明されている。
 特に「JL123事故調査報告書の問題点」の副題は「生存者証言と実験によって否定された虚構の報告書」となっていて、事故調査委員会の「調査報告書」を「虚偽の報告書」とまで断じているのである。
 さらに、その下の意見書は、「事故報告書」に関する運輸安全委員会の「解説」(2011年7月)に対してのもので、ここでも「私たちはこの『解説書』を読んで、JL123 便の事故調査に関して、より一層疑問や疑念が深まってきました。」と述べ、「すぐにでも再調査を開始するべきです」と訴えているのである。
 なお、二つの意見書の最終更新日時は2023年6月3日となっている。この問題の真相解明はまだ終わっていないのである。
 また、二〇一一年七月には、運輸安全委員会は数々の疑問に答えるということで、「日本航空123便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての解説」というものを出した。しかし、これも「圧力隔壁破壊がどうしたら起きるか」という結論から逆算をして導き出したともいえる専門家による「圧力隔壁説」の補強論のようなもので、とても遺族やその関係者・専門家たちを納得させることができるようなものではなかった。
 そこには、「**になるはずです」や、「(略)生存した方々が温度の低下に気付かなかったとしても不思議ではないのではないでしょうか」というような曖昧な表現が多数書かれていて、反論に関する記述や目撃情報、聞き取り調査はなく、生存者による証言の記述もほとんどなかった。政府から任命された人たちによる結論に沿って、都合のいいように書き換えている、と読み取られてもしかたがない部分が多い。
 この墜落原因に関して裁判が一切行われなかったこともあって、法的拘束力のない事故調査報告書や説明書は一方の主張する説を書いているにすぎないものである。事実、自衛隊機と衝突した全日空雫石事件の裁判においても事故調査報告書は、一つの資料にすぎず、事実認定では多数の目撃証言が採用されていた。
 さらに日航123便墜落事故では、重要な証拠物である、衝撃発生時に吹き飛んだ垂直尾翼の大半が、いまだ海の底に眠っている。この解説書では、当時、ほとんど引き揚げられていない垂直尾翼周辺の部品に対する海底捜索調査についても触れているが、その捜索の結果については五ページも使って記述している。つまり「これだけやっても見つからないぐらい困難な作業だ」というような言い訳とも取れる内容と共に、「当時の調査は、入手できたあらゆる情報から残骸が沈んでいる可能性のある海域を設定し(略)一般的に行われている方法での捜索でしたが、何も発見できませんでした」と早急に結論づけている。さらに捜索するには費用が莫大で時間もかかり、確実に残骸を発見できるという保証はない、原因究明の観点からもコストに見合うほどの残骸は期待できない、と主観的なコメントを述べている。このような調査方針では詳細な事故原因究明になるはずもない。
 この「解説」に対しても、ALPA Japanは、「事故調査報告書に物申す」の中で、下記の意見書を出して批判している。
 <日本航空123便 事故報告書についての解説に対する日乗連の考え方>
 意見書では、「事故調査報告書の解析を踏まえれば、垂直尾翼は客室後部圧力隔壁から噴出した空気によって破壊されたのではなく、別の原因で垂直尾翼またはAPU 取り付け部分が脱落し、その影響で後部圧力隔壁に亀裂が入った可能性の方が高いのではないでしょうか。圧力隔壁の本格的な破壊は、墜落時の衝撃によるものであったことも考えられることです。これらの疑問を解くカギは全て、脱落した垂直尾翼とAPUを含む後部胴体に隠されているはずです。当時の事故調査委員会の武田峻委員長は、『我々は技術的な判断で、垂直尾翼等は主原因ではないとして、海底捜索は打ち切った』と述べていますが、その言葉とは全く逆に、機体後部の残骸こそ真の原因究明につながる証拠品と言えます。」と述べたうえで、「今からでも海底捜索は遅くはないのです。海底捜索によって残骸を集めることは事故調査の基本であり、機体尾部の破壊過程を明らかにする上で非常に重要です」と訴えているのである。
 残念ながら、こうした声は無視され、再捜索は行われず時が過ぎていった。ところが二〇一五年八月十二日、テレビ朝日系ANNニュースにて、ANNが情報公開請求で得た資料から残骸が沈んでいる場所を特定して海底の調査を行った結果、相模湾の静岡県東伊豆町沖合二・五キロメートル、推定飛行ルートの真下、水深百六十メートルで日航機の残骸を発見したという報道が流れた。カメラが映し出したものは、一・五メートルから二メートルほどのAPU(機体後部の補助動力装置)周辺のコントロールボックスのようなものだと推定されている。まさに目撃者がバーンという音を聞き、同時刻にスコーク7700を出した地点である。ぜひ、下記の「映像を観る」をクリックして確認していただきたい。
 <ニュース映像を観る>
 あの説明書で必死に言い訳を書いていた委員たちは、どのような思いでこのニュースを見たのだろうか。
 ニュース番組では、当初からその場所に沈んでいたと思われるその物体の映像が映され、それを見た当時の事故調査官、斉藤孝一氏は航空機の部品である吋能性を指摘した。また、「仮に部品だとするとAPUのまわりに取り付いているコントロールボックスの可能性がある」ということで、「こういう残骸をさらに分析することで事故の詳細が明らかになる」と述べている。元事故調査官として当然であり、とても真撃なコメントである。
 それに対して、現在の運輸安全委員会は「すでに事故調査は終了しており、コメントは差し控えさせていただく」と述べた。元調査官が、さらに分析することが重要だと述べているにもかかわらず、現在の委員がこのような認識の下であるならば、二〇一一年に出された解説書もその程度だと思わざるを得ない。
 なぜならば、運輸安全委員会のこのコメントは、日本が批准している国際民間航空条約(シカゴ条約)第十三附属書の第五章「調査」の項目にある「調査実施国の責任として調査の再開」を無視していることになるからである。五章十三項目に「調査終了後に、新しくかつ重大な証拠を入手した場合には、調査実施国は、調査を再開しなければならない(略)」との一文がある。
 つまり事故調査に時効のようなものはない。それが意味する目的は再発防止であって、調査委員のメンバーは、いつまでも証拠発見に努力し、新たな証拠物を発見した場合は速やかに調査し、それが重要かどうかも含めて再度判断しなければならないのである。
 あの日に何が見えたのか
 これは一体誰のための何のための事故調査なのだろうか……。
 亡くなった人々に対して私たちは何をすべきなのだろうか。
 このままではいつの日か、私たちは一方的な情報を鵜呑みにしたまま、123便墜落そのものも永遠に葬り去られてしまいかねない。現在までの世相を顧みるに、ますますその傾向が強くなってきていると感じる。
 
 著者は当時を知る客室乗務員として、また、単独機として世界長大の航空機事故を起こした日本航空の関係者として、不明な点を明らかにしなければいけない、という責任感にかられ、その思いから三十二年も経った今日まで、一つずつ丹念に目撃情報を集め、再度資料を読み返してまとめたものが本書である。前著に書ききれなかったものや出版後に知り得た新たな情報や目撃者による新証言を得、取材などを経て書き進めた。
 そのためには、「天空の星」となってしまった当事者に対して「真の供養」を行うためにも、つらい事実と向き合わなければならない。
 
 まず、墜落現場となった上野村で当時の様子を書き記してくれた小学生たちによる文集『小さな目は見た』(一九八五年)、中学生による文集『かんな川5』(一九八五年)に寄せられた、合計二百三十五名による様々な目撃情報を読み解く必要がある。子どもたちのみならず、現地に出向いて捜索活動を行った消防団のお父さん、自衛隊等の捜索関係者や遺族の皆さんに、冷たいおしぼりや麦茶をボランティアで提供し、手が腫れ上がるほどおにぎりを連日にぎり続けたお母さんの話も書かれている。そして、大きい飛行機と小さい二機のジェット機が追いかけっこをしているような状態であったことも目撃したと書かれている。
 実は、子どもたちと同じように、公式発表とは異なるまだ明るいうちに飛んでいる墜落前の日航機を追尾する航空自衛隊のファントム(F−4El)二機″を一般人のみならず、非番の自衛隊員も目撃していた。この存在にも言及しなければならない。超低空飛行していた日航機を追尾したそのファントム機を見なかったことにはできない。
 その低空飛行中の日航機の機体後部腹付近に、赤色で塗っただ円か円筒形に見えるものがあった、という目撃情報が寄せられた。本書ではその目撃者にインタビューをした内容を詳細に記す。群馬県の上野村では真っ赤な飛行機が飛んでいたとの目撃情報もある。その赤色の正体は何なのだろうか……。
 
 次に、墜落後、ジェット機の燃料とは異なる成分のものが山中にばらまかれていた可能性についても認識しなければならない。灯油の一種であるジェット燃料のケロシンは引火点が37℃から60℃で、それが、湿度の高い夏山の広大な空間にばらまかれたとしても、遺体は炭のような状態にならない。筋肉や骨の中まで完全に炭化してポロポロと取れるほどの塊となってしまった遺体に向き合った医師たちの疑問にも答えなければならない。
 墜落現場にいち早く入り、生存者を発見した地元の消防団の方々は、朝まで燻って燃えている所があった状況を見ている。インタビューをした際に「ジェット燃料ってそんなにすごいのか?」と聞かれた著者は、安全第一のためにガソリンよりも引火点が高く、不純物も少なく、発火温度は220℃で灯油の一種だと答えた。すると、それはおかしいという返事だった。あの日あの時の臭いは、ガソリンとタールの混ざったような蒸した臭いだった、という。消防団の人々にとって、灯油とガソリンの臭いの区別は明確につく。カーゴ(貨物)でもジェット機にガソリンとタールの積荷はなく、そのような物質も当然のことながら機体に使用していない。
 なぜ、墜落現場一面にガソリンとタールが混ざり合う臭いがあったのだろうか。
 
 さらに大きな疑問として、重要な証拠物の圧力隔壁が現場でほぼそのままの状態で見つかったにもかかわらず、遺体収容や搬出困難といった理由で、日米合同調査の事故調査委員が来る前日の十五日に自衛隊が大型電動カッターで五分割にしてしまったのはなぜか。
 一九八五年八月十七日付の読売新聞記事では「この隔壁は、その後の遺体収容作業の折、遺体確認と運びだしの邪魔になるとして切断され、再度調査委員が訪れた時には、亀裂と放射状の骨組みにそって細かく切り刻まれたうえ、積み重ねられていた。」と書かれている。「隔壁の被壊が飛行中に起きたのか、墜落時の衝撃で亀裂が入ったのか不明」としている。
 また「事故調査委員のメンバーの一人は、墜落直後の十三日に機体後部が見つかった谷底で、おわん状の原型をほぼ完全に残した隔壁を発見。アルミ合金製の隔壁に放射状の亀裂が数か所入っていることを確認した。隔壁はその後捜索活動の中で、エンジンカッターで切断されバラバラになったらしい。この破片は救出現場で機体の他の部分と一緒に山積みにされており(略)」(朝日新聞同日付)と大原則である現場保存がないがしろにされていたことが明確になった。事故調査報告書が主張する圧力隔壁破壊説は、こうやって墜落後に切り刻んだ断面をレプリカで再生して調査したにすぎない。日本航空の安全啓発センターに置いてあるものは意図的に切断されてバラバラになったものを継ぎ合わせたものなのである。



墜落現場で見つかった圧力隔壁
(WEBサイトより)




日本航空 安全啓発センターに展示されている圧力隔壁(WEBサイトより)

 このように不審な点が多すぎるこの事故が、実は「事件」だったのではないかと疑念を抱いている方は非常に多い。
 それはなぜなのだろうか……。
 何十年経っても、それぞれの人たちがそれぞれの場で見たあの日の光景が目に浮かぶからだ。
 そしてその無念さを心から感じるからである。 「あの夜、上空を飛んだ飛行機の中には、事故機がこの下で燃えていると視認した者もいる。方法も技術もある。なのになぜ10時間も墜落位置を特定しなかったのか。そこに公的な責任感による位置を追究する動きや、そこが何処と特定する公的意思がまったく働いていなかった!そう断言せざるを得ない」
 村長は元海軍少佐でゼロ式戦闘機搭乗員かつ教官であったがゆえ、特に飛行機乗りとして腑に落ちない点が多かったという。
 当時の中曽根康弘首相は、群馬県上野村が自分の選挙区であるにもかかわらず、静養中と称して上野村とほど近い軽井沢で水泳やゴルフなどを楽しみ、事故発生時は現場に来なかった。
 それに比べて黒澤村長は、現場で陣頭指揮を執り、常に遺族側に立って親身になって対応していた。黒澤氏が亡くなる前に、著者が出版後に知り得たことをまとめて、墜落前に撮られた写真や新たな証言などをお伝えして、ご本人から返事を頂いている。今頃、あの世で「五百二十名の皆さんにご報告ができたよ」そう喜んでくださっていると確信している、と著者は言う。
 今年は亡くなられた方々の三十三回忌――。
 遺族の方のみならず、あの飛行機に偶然乗って人生を強制的に終わらせられた乗客にとって最も知りたいことは、どうして自分たちが死ななければならなかったのか、ということではないだろうか。
 そして、乗客を救うべく、経験したこともない突発的事態の中、自らの死を覚悟しながらも最後まで望みを捨てずに不時着を想定して冷静に行動した乗務員たちにとって、曖昧な結論では納得いくはずがない。若い女性たちが、憧れの制服に身を包み、はつらつと仕事をしていたあの頃が目に浮かぶ。
 関係したすべての人間がそれぞれの言葉で真実を語り、納得のいく結論にたどりつくことが、天空の星となった乗客乗員への三十三回忌の本当の供養なのではないだろうか。
 毎日、おびただしい数の飛行機が世界中の空を飛んでいる。過去の重大な事故を分析してあらゆる場面を想定し、未然に防ぐ努力をし続けてこそ安心して飛行機に乗れるのである。
 そう思いながら、茶色に古びた当時の新聞をもう一度めくると、そこに私たちが忘れてはならない五百二十名の人生があった。
 
●日航123便墜落事故に関する略年表(すべて当時の新聞記事等資料による)
1978年
6月 2日  日本航空115便(後に墜落した123便となる機体。機体登録JA8119号機)しりもち事故(事故調査委員会が墜落の遠因とする事故発生)。
1985年
8月12日   日航123便(JA8119号機)群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。
8月13日  朝、墜落現場特定。上野村消防団が生存者4名を発見。救出活動。ボーイング社から調査員5名、米政府、国家運輸安全委員会から調査員2名派遣される。
8月14日  現場から連体搬出作業開始。15時55分、中曽根首相と日航側の高木養根(やすもと)社長が首相官邸で面談。
8月15日  墜落現場から、機体搬出作業。自衛隊が山頂にて後部圧力隔壁をカッターで五分割にする。まだ未調査にもかかわらず、搬出しやすくするためだ、とコメント。中曽根首相戦後初の靖国公式参拝。その後16時20分、東京女子医大に夫人を伴い人間ドック入り。同時刻、ボーイング社、NTSB(注9)の調査団が横浜港に引き上げられた垂直尾翼を詳細に調査検証するため、横浜市金沢区の神奈川県第一機動隊を訪問。
8月16日  毎日新聞朝刊が「圧力隔壁の修理ミスが事故原因として有力」と報道。9時20分NTSB、米国航空局、ボーイング社の調査団が米軍ヘリに て上野村の墜落現場入り。日米双方合同の初調査が開始された。相模湾、神奈川県などから機体破片31片を回収。ボーイング社が圧力隔壁破壊説を否定。
8月17日  ボイスレコーダーの録音の一部が公表され始める。13時43分中曽根首相、人間ドック退院。その後軽井沢町に移動して軽井沢別荘で静養。同日午後、日米合同調査で、墜落現場で報道陣をシャットアウトして 後部圧力隔壁部分を検証。
8月19日  日航がコンピュータ解析結果を発表し、河野宏明整備部長が会見。「突風など、何らかの外からの力で垂直尾翼が折れ、それに伴い隔壁に傷がついたとも推測できる」と外的要因を強調した。
8月20日  運輸省の大島航空局技術部長が「圧力隔壁が事故に重大な絡みがある」と発言。
8月23日  現場調査を実際に行っていた運輸省の調査官は「隔壁に大穴はなかった」と発言。
8月27日  事故調査委員会が第一次中間報告を出す。
9月 6日  ニューヨーク・タイムズ紙が、同機がしりもち事故発生後に、ボーイング社による修理ミスがあったというNTSBの見解を報道した。それ以降、日本国内の報道も一斉に修理ミスによる隔壁破壊説に傾く。
9月14日  事故調査委員会が第二次中間報告を出す。日航の河野宏明整備部長がボーイング社の修理ミスを否定。
9月17日  事故現場にて、圧力隔壁部分の梱包作業。さらに細かく隔壁を切断する。
10月2日  ボーイング社が修理ミスを認めるような発言をする。
10月9日  事故調査委具合委員長、八田種三氏(東大名誉教授)が辞任理由は縁者に日航社員関係者がいたためという。後任に武田峻氏(元航空宇宙技術研究所所長)。
1986年
3月28日  事実調査に関する報告審査が出る。隔壁に付着したタバコのヤニを指摘。
1987年
6月19日    ボーイング社の修理ミスが原因で後部圧力隔壁に疲労亀裂が生じて破壊、それに伴う急減圧が生じたことで垂直尾翼の中を突風が吹いて吹き飛ばされたことが墜落の原因と推定される、と結論。(最終事故調査報告書)
1988年
12月1日    群馬県警が、日本航空12名、運輸省4名、ボーイング社4名(氏名不詳)の合計20名を書類送検した。
1989年
1月23日  前橋地検と東京地検が合同捜査開始。東京地検が米司法省を通じボーイング社への事情聴取を求めたが、拒否される。
9月15日  前橋地検、20名全員を不起訴にする方針を固める。
11月22日   不起訴処分決定。
1990年
7月17日  この事件担当の前橋地検検事正・山口悠介氏は遺族に対して異例の説明会を実施。
8月12日   公訴時効成立。
10月13日   遺族が事故発生時の機内写真、謎の物体が写りこんだ機外写真を公表。
1995年
8月27日    米国の星条旗新聞「パシフィックスターズ・アンド・ストライプにス」当時の米軍による救出について、マイケル・アントヌッチ元中尉の証言(注:参照)が掲載された。
1999年
11月     2000年8月7日付報道によると、この時期に航空機事故調査委員会が日航事故関連のおよそ1トンもの重要書類を断裁して破棄、焼却したことがわかった。
2010年
7月10日   今なお日航機の其の一部が御巣鷹の尾根にあるとの報道。1メートル超の破片等数十点が御巣鷹の尾根から見つかった。
2015年
7月25日   米国政府が1985年の事故原因について意図的に米国有力紙に漏らしていたと、NTSB元幹部が証首した。

 (注)マイケル・アントヌッチ元中尉の証言は、一九九五年八月二十七日付パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス(星条旗新聞)に大きく掲載された。あの日、撤退命令が出ていなければ日航123便事故の二時間後に米海兵隊は生存者を救出できただろう、という衝撃的な内容であった。
 アントヌッチ元中尉が語った証言内容は次のようなものである。
 「123便がレーダーから消えた後、自分たちはまだ二時間は飛べる燃料があったため、いち早く現場上空に行き、十九時十五分にはすでに墜落場所を発見してその位置情報を横田基地に伝えた。私たちは米海兵隊のヘリコプターに墜落地点まで無線で誘導した。米海兵隊の救援ヘリが二十時五十分に地上の様子を偵察するために降下中なのを視認した。二十一時五分、墜落地上空から乗員を降下させようとしていたが煙と炎がひどく着陸できないと連絡してきた。そこで位置を移動して、乗員を地上に降下させようとしたその時、日本側の救難機が来たからという理由で即刻基地に帰還せよという命令があり、しかたなくヘリは引き揚げた。アントヌッチ氏が日本の救援機を最初に見たのは二十一時二十分、安心してその場を引き揚げて横田基地に帰還して報告をした。ジョエル・シルズ大佐から『ご苦労だった。このことについてマスコミには一切他言無用』と命ぜられた。そして翌日、一晩中墜落場所不明という報道に愕然とした」
 アントヌッチ氏は正確な位置を出して、米海兵隊のヘリコブターを誘導し、日本の救援機も確認して帰還したにもかかわらず、一日中墜落場所不明ということになり、あの事故機発見がそれほど困難であっただろうか、と大きな疑問を投げかけた記事である。

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