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青山透子『日航123便 墜落の新事実』

(河出書房新社 2017年7月30日刊)

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終章 未来の目は見た

 最後に未来の目に伝えておきたいことがある。
 雫石事故の翌々日に『パイロット衝撃の証言仮想敵で追跡された″ 162人は告発する』(一九七一年八月一日付読売新聞)という記事があった。この162人というのは雫石事故で亡くなった乗客乗員の人数である。
 各航空会社の現役機長が語る事実として、フライト中、かなりの頻度で自衛隊機に仮想敵にされて追跡された経験を持つという衝撃の証言であった。また同紙面には、『過去にも民間機を仮想敵に見なす。といった内容が書かれた訓練用の教令のような紙が、自衛隊の演習場近くの農場で発見されたこともある』という記事もあった。これらについて、当時の空幕副監査官・稲葉由郎二佐は『そんなことは絶対ありません。私どもは相互に直接連絡のとれない相手を目標にすることを厳重に禁止しています』と同記事内で述べている。
 この時代は日本万国博覧会(一九七〇年)の翌年で、民間航空機も増加し、米軍や自衛隊との飛行空域の過密が指摘されていた。しかし、仮想敵にされていると感じるようなニアミスも多発しているという機長たちからの証言から考えるとこれは一体どういうことなのだろうか。
 墜落した123便の高浜機長もそうだったが、民間航空機のパイロットは自衛隊出身者も多い。自衛隊から民間航空会社に転職する際、精神的な面として常に心がけなければならないことがあるという。それは、お客様を第一に考えてフライトをする、という当たり前の意識である。これはもうお亡くなりになったが、元日本航空機長の信太正道氏から聞いた言葉である。
 一九二六年生まれの信太氏は、海軍兵学校、特攻隊貞、海上保安庁、海上警備隊、航空自衛隊を経て日本航空の機長になった経歴を持ち、123便の事故時は香港にフライトで滞在中だったとのことだ。その知らせを聞いて驚いて一晩中クルーたちと語り合いながら過ごしたそうである。その翌年に定年退職をされた。そして二〇一五年に亡くなる直前まで「厭戦庶民の会」の代表として平和活動を行っていた。現場を知り尽くした人だからこそ自衛隊の海外派遣に反対し、語る言葉は重い。
 信太氏は、民間航空機のパイロットに必要とされる要件は『@人命優先、A原点に引き返す勇気を持つこと、H目的地の着陸に失敗し、代替空港に目的地を変更する場合、最終目的地における飛行状態がイメージできること、C計器に引きずられないこと』と、著書『最後の特攻隊・二度目の「遺書」(一九九八年・高文研)に書かれている。特に自衛隊出身者は、人命優先という当たり前のことをよほど意識しないと難しく、武器を持つ場合はこういう意識が必要ないから、ここに大きな違いがあると語っていた。
 信太氏によれば、民間航空機のパイロットはその職業を好きで選んだ人が多く、自衛隊の場合、好きというよりは生活の糧として選ぶ人が多いのも事実である。そうなると飛行機は武器の一つであり、ミサイルを搭載して運ぶ物体という認識が先に立つそうだ。従って、飛行機を愛機と呼ぶほどではなく、機械として扱ってしまうことで大切にしない人も多いと語っていた。
 つまり、相手を殺す手段として航空機を操縦する気持ちと、国と国を結ぶ役割を持って自由に飛び回る民間航空機のパイロットでは、その意識に大きな差がある、ということだろう。
 そのような中で自衛隊に「民間航空機を仮想敵とする」といった考え方が出てきても不思議でないかもしれない。もし、これが本当であれば、自衛隊は誰を守るために存在し、何のための訓練かを深く考え直さなければならない。相手を武器で攻撃して敵に打ち勝つためには何が必要かを常に優先して考えてしまう。平時の訓練でいくら守るべきものは自国民だ、と思ったとしても、臨場感や緊張感を持つためや、訓練の効率性を上げるために民間航空機を仮想敵に見立ててしまう、ということの可能性がゼロとは言えまい。事実、そう思わざるを得ない経験をした民間航空機の機長も多い。
 さらに、何か失敗した場合、自分たちの都合の悪い情報は隠したいという心理も働き、その情報が開示されることの影響が多大であることへの恐怖心も強いだろう。特に雫石事故では、防衛庁長官、内閣防衛事務次官、自衛隊統合幕僚長、航空幕僚長らの首が飛び、関係する幹部の処分は広範囲にわたった。事故の約三週間前まで防衛庁長官であった中曽根民らが、雫石事故から学んだことは大きかったはずである。まさか隠蔽の仕方を学んだわけではあるまい。
 そして多くの疑問が残る日航123便墜落事故について、私たちが忘れてはならないことは次のことである。
  1. あの日、まだ日の明るいうち、墜落前の日航123便を追尾するファントム二機を目撃した人たちがいる事実。
  2. 日航123便のお腹付近に濃い赤色のだ円や円筒形のような物体が吸着しているように見えた事実。
  3. 墜落現場付近の人に目撃された真っ赤な飛行機の存在。
  4. 検死した医師たちが見た、凄惨な遺体状況や炭化した遺体への疑問。
  5. さらにいまだに引き揚げようとしない海底に沈んだままの機体の残骸。
 これらの点を繋ぎ合わせていくと見えてくるものがある。それが私たちに大きなメッセージを持って伝えようとしているのである。そしていまだに事故原因や救助活動に納得できない人たちがいるのだ。
 ご遺族で、息子さんが東京消防庁に勤務していたという方が書いた追悼文の一部を記す。
 『(略)息子が勤めている東京消防庁では、職員の家族や皆様のために、東京消防庁のプライドにかけて救助活動を申し出てくれたのに、政府は断ったというから言語道断もはなはだしい。いつ何時でも出動可能なように救助設備を完備して待機していたというのに、政府は何を根拠に断ったのか、認識不足も甚だしいと思う。』(原文ママ)8・12連絡会『茜雲 総集編』(二〇〇五年・本の泉社)
 東京消防庁がいつでも出動可能な状態だったのに「政府が断った」というのである。だとすると、政府にとってなんらかの不都合が生じるから断ったのだろうと推定される。
 日本航空の社内でも、事故の生のボイスレコーダーは社員に公開されているが、日航123便だけは何度、乗員側が申し出ても、遺族への配慮という理由で公開されない。遺族は真実が知りたいのであって、真実を知らせない(非公開)という「遺族への配慮」とは一体何に対する、誰のための配慮なのだろうか。
 あの日、それぞれの仕事のプロたちは自分の使命を全うしようと努力していた。
 コックピットでは舵の利かない重い操縦桿と格闘する、パイロットたちによる必死の操縦が行われていた。
 客室ではスチュワーデスたちが、乗客の安全を守ること、そして不時着のその先を考えることに専念していた。
 習志野駐屯地の第一空挺団では、墜落現場にいち早く救助に行くための準備を整えて出動を待機していた。
 東京消防庁では、すべての乗客、乗員、そして仲間を救うために、いつでも出動できるように救助の準備をしていた。
 非番の自衛隊員たちは休暇を返上して急いで職場に赴いた。
 最初に墜落現場の位置を把握した在日米軍のアントヌッチ氏はその情報を伝え、米海兵隊も実際に現地にヘリコプターで赴き、現場に降下しようとしていた。炎と煙の中、必死に生存者の救助を考えていた。
 上野村猟友会はいち早く墜落現場を把握し、上野村消防団が生存者を発見した。
 上野村ではいち早く墜落現場がここだ、とテレビ局にまで電話をして知らせていた。
 彼らの思いを一切、無視し、無にしたものは誰か。
 
 いかなる理由があろうとも、未来のためにすべてが公開されることを訴え続けなければならない。そして、私たちは情報が公開された時のそれに対する心構えと答えを用意しておかなければならない。
 私たちは未来のためにも、それぞれの道でプロとして考えなおす時がきている。
 この事件で命を落とした人々への供養は、まだ生きている関係者が「真実を語ること」、それだけである。そして私たちに出来ることは、長い歴史の中で一時的な政権に惑わされることなく、それぞれの場でゆがみのない事実を後世に残す努力をし続けることではないだろうか。
 
 
 謝辞 
 
 三十二年前の墜落発生時まで遡って新聞報道や関係資料を読み込み、現場を体験した人たちの声にこだわり続け、信憑性のある目撃情報をもとにして科学的な思考を進めて出てきた答えは、これは事故ではなく五百二十名が亡くなるという事件であった可能性が非常に高い、ということであった。
 ここまでたどり着くのに膨大な時間を費やしたが、一般の方々が納得することを心がけて書き進めてきた。それを支えてくれたのは、『小さな目は見た』と『かんな川5』という上野村立上野小学校と上野村立上野中学校の文集の存在であった。これを読んだ時の衝撃は忘れられない。図書館の片隅に置かれたままならば、せっかく残してくれた人たちに申し訳がないような気がした。今こそ、ここに光を当てなければ、いずれ風化してしまうという危機感から、前著『天空の星たちへ――日航123便あの日の記憶』からさらに取材と考察を進め、この本を書く決意をした。
 この文集の存在や、多くの情報を与えてくれた皆様に心から感謝したい。
 丁寧な手書きのお手紙や、何年もかけて詳細に調べたファイルの提供、御巣鷹の尾根に今もなお残る機体の破片などを送ってくださる方もいた。作家の故・山崎豊子氏にも生前、前著に対して『スチュワーデスだった方が書いた本ということで読ませていただきました』という内容のお葉書を頂いた。
 故・山下徳夫元運輸大臣にお会いした時の率直な話は大変貴重であったと確信する。
 遺族の吉備素子様にも実体験に基づく驚くべき話を聞かせていただいたことに心から感謝申し上げる。その臨場感溢れる話には、今後の日本航空が本当の意味で再建し、世の中に必要とされる会社となるための手がかりがいくつも含まれていると考える。経営陣というものがどうあるべきかについても、ぜひ謙虚に読んでほしいと願っている。
 再生した日本航空は機長経験者が社長となり、スチュワーデスが代表取締役専務となっているが、これは当時ではまったく考えられなかったことである。その新鮮な目で、あの日の墜落の事実を正面からきちんと見つめてほしい。その時はじめて、真に再生した会社として生まれ変わるだろう。
 勇気を振り絞って目撃証言を提供してくれた小林美保子様に感謝申し上げる。きっと天空の星たちも小林さんに心から感謝しているに違いない。その後、前から行かなければと思っていた日本航空安全啓発センターを見学したとの報告を受けた。あの日に飛んでいた飛行機の無残な姿にきっと言葉を失ったことだろう。担当者は当時を知らない人であったようで、当時を知る語り部のような人にいろいろと解説をしてほしかったとのことであった。「語り部」の存在は大変重要であり、こういった意見も参考にしてほしい。
 なお二年前に首相公邸にて、再調査を願って吉備素子氏と群馬県警察医の歯科医師大國勉氏が現場の遺体状況や遺族として経験したことを話す機会を得た。こうやって公の人たちが知ることで再認識され、その先に真実が見えてくることを心から願う。
 サポートをしてくださった有識者の皆様、宮城県及び群馬県の弁護士の皆様、大学の研究者の皆様にもお礼を述べたい。特に早稲田大学法学学術院教授の水島朝穂氏には大変お世話になり、書く勇気を与えていただいた。早稲田大学の学生の皆様にも感謝申し上げる。
 また、日本大学名誉教授の押田茂實氏にも大変お世話になった。先生のビデオについては、その後群馬県警から連絡があったとのことで、近いうちに返却されるはずである。学生たちのためにも研究材料として活用されることだろう。日本の法医学の未来に期待したい。
 三十三回忌というこの年に出版の機会を与えていただいた河出書房新社の西口徹氏にも心から感謝の意を表したい。
 温かく見守ってくれた家族、体重六十キロの超大型犬の愛犬に感謝する。なお、犬による不思議なご縁で、オバマ前大統領夫妻の愛犬ボーとサニーを描いた絵皿の企画をボランティアで手伝った。オバマ氏の広島での講演と被爆者との交流は静かな感動を呼んだ。
 日米友好のために製作した絵皿の裏には愛犬のマークが入っており、今はホワイトハウスから引っ越し、ワシントンDCのカロラマ近郊に飾ってあるそうだ。いつの日かその絵皿と再会してみたい。
 あの日墜落した飛行機の貨物室にも犬が一頭乗っていた。飼い主と離れてゲージに入れられたその犬は、あの異常な機体の動きにきっと怖くて泣いていただろう。天国の虹の橋でご主人とやっと会えたことを祈る。
 最後になったが、三十三回忌の弔い上げとして、天空の星たちにこの本を捧げたい。
 
 二〇一七年六月一日  青山透子
 
 追記(二〇二四年七月――二〇二四年九月三〇日第19刷版)
 二〇二一年三月二六日、遺族・吉備素子さんと、日航123便の佐々木祐副操縦士の実姉・市原和子さんが原告となり、JALを被告として、ボイスレコーダー等の情報開示請求裁判をおこなった。再調査が必要な「異常外力の着力点」については拙著『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』、情報開示請求裁判については 『日航123便墜落事件 JAL裁判』を参照のこと。
 
 (参考――筆者)
 なお、上記の情報開示請求裁判は2024年3月28日に最高裁で上告棄却となり敗訴が確定したが、原告の吉備素子さんはその後5月23日に記者会見を開き、引き続き真相の究明を求めていく決意を明らかにしている。
 そして、2024年9月5日に開かれた「ガーベラの風 国会イベント」において青山透子さん(音声のみ)に続いて吉備素子さんが登壇し、国会議員を前に日航123便の墜落の真相究明を訴えられている。その様子を下記「ガーベラの風 国会イベント」(ユーチューブ)をクリックして観ることができる。番組開始から25分頃より青山さん、それに続いて吉備さんが登壇する。

 ⇒ 「ガーベラの風 国会イベント」

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