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青山透子『日航123便 墜落の新事実』

(河出書房新社 2017年7月30日刊)

序 章|第一章|第二章|第三章|第四章|終 章

第二章 新たに浮かび上がるあの日の証言

 二〇一一年八月二十六日(金)に、著者の青山透子氏は、遺族の一人である吉備素子さん(当時 七十四歳)と神田神保町の出版社の会議室で初めて会おうことになった。
 吉備さんの夫吉備雅男さん(当時四十五歳)は塩野義製薬次長として出張中に事故に遭遇していた。遺族となった吉備さんは青山氏の最初の著書「天空の星たちへ」を読んで、その中で記述された学生が持つ疑問と自分のいくつかの疑問が一致し、すっきりと解消されたということで、即に出版社に連絡を入れてくれたのだった。
 著者は、早速事故原因について、世話役と何か話をしたかと聞いてみた。事故後、遺族の方たちには日航の職員などが世話役として付き、苦情や相談事、さまざまな手続きへの対応をしてくれていた。
 吉備さんは、「最初の世話役のKさんは責任感がすごかった。整備の人だったけど、事故原因についてはまったく話をしていない。一番しんどかった時やしね。あえて私もその話はしなかったし、これだけ一生懸命してくれた人に対して、聞きづらかった。若い世話役ももう一人ついていたが、こっちは何言うてもあかんわ、という感じの人だった。その後、次から次に世話役が変わったけど、現場を知らん人ばかりだから、いろいろと傷つくことばかりだった。それよりも他の遺族から聞いた話だけど。あのバスの中での出来事が、とても腹が立ったと言っている」
 さらに聞くと。
 「私ら遺族用のバスでいろいろ送り迎えを日航がしてくれたんやけど。あれは事故後の十一月頃、大阪の若い世話役の人たちと一緒にそのバスに数十人で乗っていた。遺族の皆さんが降りた後、ご主人を亡くした女性がちょっと気分が悪くて、一緒に降りずに一人だけ後ろの席に寝てはった。車内に遺族が寝て残っていることを日航の世話役の人が知らなくて、全員降りたと勘違いしてね。『未亡人のあの女はどうやろこうやろ』とか、『あの若い未亡人はどうのこうの』って、遺族の女性の名前を出して品評会を始めたんです。ひどいでしょう。泣きたくなるでしょう」
 未亡人の品評会とは一体どういうことなのか……。あまりの驚きに、隣に座っていた編集者と顔を見合わせた。その時の若手だった世話役は三十二年後の今、日航の倒産後に会社に残っていたとしても、すでに定年退職を迎えた年齢となっているだろう。自分たちがした恥ずべき言動をいまだに覚えている人がいることを肝に銘じてもらわなければならない。
 吉備さんは、遺体安置所で部分遺体となった夫の身元確認をしながら、その一部を茶毘に付して夫の社葬、日航の合同葬と日々過ぎてゆく。九月二十八日に大阪にて四十九日の法要、九月二十九日に藤岡市光徳寺でも同じく四十九日の法要が行われた。
 そして十月五日、藤岡市民体育館にて施主を黒澤丈夫村長として、身元不明者のご遺体出棺式、十月二十二日、大阪城ホールにて大阪地区追悼慰霊祭、十月二十四日、日比谷公会堂にて東京地区追悼慰霊祭が行われた。
 そんな慌ただしい日々の中、吉備さんは日航本社(建て替え前の東京ビル、千代田区丸の内2・7・3)に一人で高木養根社長を訪ねている。そのいきさつについて話をしてもらった。
 半官半民の日本航空では、歴代の社長はすべて経済界や運輸省からの天下りであった。その中、高木氏は日航生え抜きの社長である。
 「九月頃に遺族に対して日航のほうから、身元不明の部分遺体や炭化が著しいもの、骨粉など十月中にすべてを茶毘に付すとの連絡があってね。検視の困難さも見ていたから、それもしかたがない、やむを得んなあと思っていたけど。十月四日に群馬入りしたら、血液検査を頼んでいた主人の足と思われる右大腿部の大きなものまで、茶毘に付されていて、アッ無くなっているって驚いたんです。事前の連絡とちがう。ひどいって、私は警察ともめだした。世話役が間に入って、警察と掛け合ってくれたけど、日航は警察の検視現場に入るなと言われていたのを見てたしね。現場責任者の日航重役の人も『僕らは何もできない』と、私らと一緒に泣いて、泣いて……。でも、泣いていたって、こんな状態で十月中に全部茶毘に付すのはいかん、あんたらができんのならば、直接、高木社長に会いに行きましょう、本社に行きましょう、と言って東京に行ったんです」
 日航本社の社長室に通されて、高木社長と実際に会って話をすると、山中の墜落現場にも行っていない、黒焦げの遺体も見ていない、彼はまったく現場を見ていない様子だった。
 そこで「あのような状態で、遺体を茶毘に付しては五百二十名が浮かばれない。私と一緒に中曽根首相のところに行って直訴しましょう。あんたの命をかけても首相官邸に行ってください。そう言ったんです。そしたら、急に高木さんはブルブルと震えだして『そうしたら私は殺される』そない言うて殺されるってね。本当に怯えていた。殺されるって、命かけての意味がわからんのか、おかしい、これはもうどうしようもない状態だった」と語る。
 高木社長が首相官邸に行ったら殺されると怯えていたということは、一体どういうことなのだろうか。この時はすでに後部圧力隔壁の修理ミスということで九月七日にボーイング社より手落ちがあったと報道されている。日航だけのせいではないと事故原因もはっきりしたはずである。それなのに中曽根氏の所に行ったら殺されるとは穏やかではない言動だ。ましてや日航の社長として事故についてまず詫びるのが先ではないか。この振る舞いは、遺族を前にして恥ずかしい失態だと片付けるだけではあまりにもお粗末である。
 普通に話ができないほど怯えている高木社長を目の当たりにして、吉備さんは気丈に言った。
 「そんなら私が一人で行きます、って、そう言ったら、二人とも、え?って顔を見合わせて。そしたらしかたがないから、政府に対して口が利ける人、日航の社員の中で、公家さんかなんか出身の人がついていくからって。その公家さんは私を先導して一緒にタクシーに乗って行ったんです。だけど、私は首相官邸に行くって言っているのに、知らない間に着いたのが運輸省だった。東京の地理に不案内だったから、結局運輸省に連れて行かれた。会議室のようなところに通されて、そこではある程度権限を持った人が出てきたと思う。
 その男の人に 『あんな遺体の扱い方ではいけない。遺族は納得しませんよ。身元を確認していない人も多いのに、すぐ茶毘に付すとは、裁判でも何でもしますよ』って言ったら、その人は『僕は東大の法科を出ている。法学部出身者です』と、やれるものならやってみろ、といった顔つきで言い返してきた。そこで『ほんなら話は早い、わかっているならなおさら』と、私も言った。逆にぎょっとしたような呆れた顔してはったね。『何か問題あるの?法的に問題ありませんよ、まったく問題ない』って、すぐに答えた」
 日航の大株主で監督責任もある運輸省の官僚であるならば、東大云々といった話を出すよりも、まずは遺族の気持ちを汲み、哀悼の意を持って誠心誠意接するのが当たり前ではないか。
 なぜすぐに自分たちの身を守ることを前面に出して防御姿勢をとるのだろうか。事故原因に関しても十月の時点ではすべてが明らかになっていないし、事故調査報告書もまだまとまっていない。「まだ今は詳細に調査中ですが、全力を挙げて対処します」というように当たり前の受け答えがまったくできていないではないか。
 さらに吉備さんは、運輸省の官僚にまだ身元確認が終わっていない遺体をさっさと茶毘に付そうとしている姿勢について意見を述べたという。
 「それじゃ、今の遺体の管理はどうですか?私の夫のように保存して検査を依頼していてもさっさと茶毘に付されたり、遺体を取り違えたりしている。そんな警察の失態を話し始めたら、『それはいかん、わかりました』と青い顔して。『そういうことでしたら、善処します』と。今から私が群馬に帰ると言うと、『急いで何とかする』という話でした」
 この遺体取り違えに対しては、極めてまともな判断がなされたといえる。
 群馬に戻ると、急に命令があったのか、警察は突如全部の遺体を写真に撮っていたそうである。茶毘に付す日は延期されることになり、十二月まで冷凍保存をすることになった。
 十二月二十日、施主を上野村とする身元不明ご遺体出棺式が群馬県スポーツセンターで行われ、十二月二十一日には群馬会館にて収骨供養、光徳寺の仮安置御遺骨とともに上野村役場に仮安置された。吉備さんは、十二月に入っても連日夫の部分遺体を探し続け、最後にようやく足首を見つけ出した。
 保存されていた身元不明の遺体を茶毘に付すという日の前日、警察の中にも吉備さんの行動をわかってくれている人もいて、真夜中まで待っていてくれたそうである。吉備さんは全部の遺体を両手でさわって、「見つけてあげることができなくてごめんなさい」と、おわびをしながら、最後のお別れをしたという。



(本書より)

 そこで私はあえて「事故原因を追及したら戦争になる」という話について、聞いたことがあるかを尋ねた。
 「それはねえ、警察で河村さんと十月中に茶毘に付すという話をしていたら急に 『戦争になる』という言葉が飛び出てきた。え?なんで?おかしいでしょう。私の父も戦死しているから、私も幼い時に朝鮮半島から屍乗り越えてきた引揚者で、ようやく生きて帰国した。そういう話なのかなあと思ったけど」
 確かにボーイング社が修理ミスを認めているのだから、いまさら何も戦争にはならない。事故原因の話と戦争の話が一緒になるのは筋が通らない。
 河村一男氏といえば、群馬県警察本部長で日航機事故対策本部長を務め、十二月二十四日の事故対策本部の解散まで百三十五日間にもわたり前例のない過酷な状況の下、捜査の総指揮を執った方である。責任感が強い人らしいが、事故原因の圧力隔壁説以外の説を荒唐無稽と断言していた。その人が、圧力隔壁だと言いながら、事故原因を追及すると戦争になると言うのは、どういうことなのだろうか。米国ボーイング社も日航もすべて認めているではないか。戦争になる要素など一つもなく、まったく辻棲が合わないではないか。この河村氏は警察を退職し、再就職をして大阪に行き、その後神戸に住まいを構えた。その再就職先から吉備さんに電話がってきたという。その内容とは……。
 「私のこと、新聞や本とかに名前が出ると、電話がかかってきてね。私を監視するためにわざわざ大阪に来たんやっていうてね。ずっと見ているぞっていう感じの話しぶりでした。あれえ?まったく不思議なこと。事故はきちんと解明されていると信じ込んでるからね。監視はなんで?高木社長に会いに行ったり、運輸省に一人で乗り込んだりしたからやろうか?今思えば、そんな程度の問題とは違うやろ。きっと政府から何か言われていたんだろうなって。私らは国を信じきっているからね。でも、本当は違うんやなあって、そう思ったわ」
 警察を辞めたからといって、元群馬県警察本部長として立派な事故関連の本も書かれている人が、再就職したとはいえ監視をほのめかすとはどういうことか。まず、監視そのものが通常では考えられない行為である。平成二十二年前後の話というから、すでに事故原因が明確にわかっており、本人も他の説を荒唐無稽と否定しているにもかかわらず、アメリカと戦争になる、という話はまったく意味が通じない。それにしても時々電話がかかってきたというが、なぜ遺族である吉備さんを監視する必要があったのだろうか、元警察幹部だった人がとるべき態度ではない。実におかしな言動だ。吉備さんの話は続いた。
 「とにかく、おかしな話はたくさんあって。遺族もみんな連携しているわけではないのでね。日航の世話役の中でもOさんのように表向きはいい人なんやけど裏ではねえ、実際はあることないこと私らの悪口を言う人もいて……。それぞれが陰で何言われていたかわからない。遺族間で、相手と組まないように散々吹き込まれている。横のつながりがいまだに持てないんですよ。日航はいまだに私たちをご被災者と呼ぶし。主人は(山で)遭難者のままだから、何ぼ言っても直さない。私らは遺族でしょう。被災者やない。これも政府から日航が言われたのかなあ、わからへんけど」
 日航側の作為を感じるような動きであるが、確かに世話役の中にはOさんのように組合対策に慣れた人がいる。それはお互いが連携して会社に不利な条件を突きつけないように、社員同士をケンカさせる手段である。
 一九八五年頃は、客室乗務員間でも紅組、青組と異なる組合バッジを付けてステイ先で食事も別々に取るなど、お互いに避けていた人も多かった。しかし、遺族間が連携しないように組合対策と同じ方法で対応していたとするならば言語道断だ。
 それからいつまでも被災者と呼ばれるという点については、過去の社員名簿をチェックしてみたところ、担当部署は「ご被災者相談室」のままで毎年記載されていた。亡くなった方を遭難者、遺族を被災者としているままである。いつも曖昧な言葉ではぐらかして表現するのが日航の社風でもあったが、遺族は被災者ではないのは確かだ。その呼び方に抵抗があるのは当然である。
 最後に、「主人の戒名がですね。これなんです。妙響院釋了信。お坊さんに訊いたら、言いたいことがある、世界中に響かせよ。という意味らしいです。これは『事故原因をはっきりさせて』という主人の遺言や。そう思ってね。こうして頑張っているんです」 と話された。
 一つの使命感、それが彼女を一層強くし、積極的に行動を起こさせている。
 吉備さんも事故原因を究明したいと粘り強く思って生きてきた三十二年間だったといえよう。
 それにしても、遺族同士の連携が取れないようにあることないことを吹聴して分断させていたとは何ということだろう。それが世話役によって仕組まれたとすると、その目的は何なのだろうか……。事故原因から目をそらさせるような目的もあったのではないだろうか。
 一九八九年十一月二十二日、「事故の真の原因究明は法廷で」という国民二十六万人分の署名を集めた遺族の声もむなしく、米国ボーイング社、日航、運輸省関係者全員の不起訴処分という結果になった。
 遺族側はこれを不服として一九八九年十二月十九日に前橋検察審査会に申し立てをした。その後、遺族会は前橋検察審査会から「日航機事故不起訴不当」という議決を受け取った。当時はそれに法的拘束力がなく、検察側は淡々とその結果を受け取り、これでおしまい、と言い放った。
 また、吉備さんら数名の遺族は日本の弁護士数名と共に、事故原因の究明を求めて米国ボーイング社を相手に本社のあるワシントン州シアトル(当時)の裁判所に訴訟を起こした。しかし、結局は日本に差し戻し、さらに裁判長の自殺という噂が伝わった。吉備さんたちは「これで誰も信じられへん、司法権は独立と言いながらしっかり日本ともつながっている。アメリカにも裏切られた」という気持ちになったという。最後は和解してくれという結果になったが、本当はそういうことを求めているのではない。その気持ちが痛いほど伝わってきた。
 まだ心穏やかではない遺族がいることは確かである。あきらめがつかない遺族にとっては、いまだに疑問点を解明できていないことが一番つらいことである。
 それにしても高木養根日航社長の言動、戦争の話、遺族への監視、これらを考えるとこれは単なる事故ではない、複雑な様相を持つ事件であると確信した。
 
 
 2.山下徳夫運輸大臣の記憶
 事故当時に運輸大臣であり日航機事故対策本部長でもあった山下徳夫氏から突然担当編集者宛てに電話がかかってきて、著者は二〇一〇年十一月十日に、指定されたフランス料理のレストランで編集者とともに会っている。
 山下氏は当時九十一歳ということだったが、かくしやくとした雰囲気だった。
 「貴女ですか。怖い人かと思いましたが違いますね」そう言って、少し緊張した面持ちだったが、和らいだ表情になった。
 料理の合間に、編集者が持参した資料や写真をもとに当時の記憶を聞いてみたが、はじめに話に出てきたのは、二階席で接客したアシスタントパーサーの木原幸代さんのことで、「今でも忘れませんよ、あの人は本当にいい人だったなあ」と言ったあと、議員会館に訪ねてきた美容デザイナーにもご主人にもお会いした、と言った。そして、「乗務員の皆さんの顔も浮かんできますよ。本当にねえ……。あの時、飛行機に不備がなかったかって関係者にいろいろ聞かれたが、あの飛行機は別に変ったところはなかった。いつもと同じだったね」とも言った。
 メインの肉料理もペロリと召し上がって、なかなかお元気そうな話しぶりだった。
 「貴女の本でも私を批判していたけど、まだ全部読んでいないのでね。そのうち全部読んだら感想を述べます」と言われたが、もしかすると、墜落地点が一晩中見つからなかったことへの弁明として、山下氏が言った「自衛隊のヘリが夜間飛行できず、いろいろと危険性が伴うため夜間降下できなかった」という答弁の部分だろうかと思った。
 それについては「あれはねえ、そういうようになっていたからねえ。当時はそう思ったのですよ」というとても歯切れの悪い答えだった。
 いくらなんでも有事があるのは昼間だけとは限らないではないか、例えば、習志野駐屯地の第一空挺団は夜間投下やラペリング(ホバリング中のヘリコプターや急斜面の崖、ビルなどの高所から、ロープを使って懸垂降下すること)の訓練はしており、さらに航空自衛隊入間基地で輸送機(C−1)に乗り込んで夜間の落下傘で真っ暗闇の中、飛び込んでいくということを聞いたと話してみた。それに対しては、まあそうだねえ、という反応であった。
 「そうそう、これね。今でもこうやって川上慶子ちゃんの搭乗券のコピーをお守り代わりに持っているのですよ。貴女の分もコピーしてきたから。お隣の編集者さんにも差し上げます。これは日航に頼んで残りの半券をもらったのですよ」
 山下氏はそう言って、おもむろに財布から搭乗券のコピーを取り出した。川上慶子という名前と行き先、座席番号、搭乗口が書いてあり、当時の懐かしい搭乗券に一気に昔に帰った気分になった。



自衛隊ヘリに救助される川上慶子さん
(WEBサイトより)

 実は山下氏は事故機の直前の便に搭乗したことだけではなく、驚くべき経験をしている。
 一九七二年のインド、ボンベイ空港取り違え誤認着陸によるオーバーラン事故に遭遇し、その時、隣の席には123便の機長、高浜雅己氏が乗っていたのだそうだ。高浜機長が「このような事故を引き起こして迷惑をかけて申し訳ない」としきりに話していたことを思い出すとのことだった。
 ボンベイ事故とは、滑走路が短い別の空港に誤着陸してしまったためにオーバーランして、乗客九名、乗員二名が負傷した事故のことで、山下氏も全治一か月の怪我をされた。
 さらに、山下氏は一九八二年の日航機羽田沖墜落事故の際も、席を予約していたのに用事のために一便遅れて助かった、という経験も持つ。
 これほどまでに飛行機事故と関係が重なる人も珍しい。だから川上慶子ちゃんの搭乗券をお守りにするのだろうか、あの日を忘れないという気持ちも強いようであった。
 
 そこで、記憶が鮮明でいらっしゃるようなので、今度は編集者が持参した窓の外を映した写真を一枚ずつ取り出してお見せしながら山下氏に鋭い質問を投げかけてみた。バーンと音がした後の機内で、スチュワーデスが冷静に酸素マスクを口に当てて、通路に立ち、乗客に付け方を教えている写真である。乗客の皆さんの背中が写っているが、皆半袖姿で毛布もかけず、さほど寒そうには見えない。上部の荷物収納扉もそのままで、物も飛び散ってはいない。



機内の様子(小川領一氏提供)
(WEBサイトより)


 「これは急減圧がないように見える機内の写真ですが、どうですか。事故原因の急減圧があったとは思えない風景だと思いますが、いかがでしょうか。しかし、事故調査委員会はこの写真を証拠としてはまったく取り上げませんでした。次はこの窓の外を写した写真ですが、ご存知でしたか。相模湾の向こうに富士山の影が見えて、飛行機の翼の先が写っています。おそらく窓から外の風景を写したのでしょうが、他の写真に比べて、一枚黒い点のあるものがあります。
 この黒い点に見えるものですが、その前後の同じような風景写真を見てみると、黒点がありません。つまり、窓のシミでもなければ、ごみでもないことがわかります。そこで、知り合いの研究者に頼みまして、画像専門の解析をする研究所で拡大分析をした結果、黒点をだんだん大きく拡大するとオレンジ色になることがわかりました。その写真がこれです」



機内から写した写真 中央付近に黒点が見える
(WEBサイトより)


 そういって、次の拡大写真を出した途端、ナイフとフォークを置き、両手を広げたオーバーなポーズで、山下氏はこう言った。
 「なんだ、これは!」
 広げた手も大げさだが、日も大きくして驚いて見せたその顔は、思わず編集者と顔を見合わせて噴き出すほどのポーズだった。それは、かなりわざとらしいリアクションであった。
 その拡大写真を目の前に置いて、「このようにオレンジ色っぽい物体です。この高度で飛ぶ鳥でオレンジ色のものなどいません。鳥ではないとすると、一体何でしょうか?」と話すと、「さあ、何だろうねえ」と、首をかしげながら画像を見ていた。
 「山下さん、当時これを知っていらっしゃいましたか?」
 その時、山下氏は、どうだったかなあ、という表情であった。
 「このオレンジ色の物体ですが、画像専門家によると、向こう側に熱の波動が見えることから、何らかの動力によって物体がこちら側、つまり飛行機側に向かって飛んできていると推定されるということでした。具体的に見ていくと、黒点に見えるものは中心から右への帯状、または扇状になってオレンジがかっているそうです。その形ですが、円錐か円筒状のもので、この写真は正面から、若干右斜めからとらえた、という感じでしょうか。また、このオレンジ色はシルバーの物体が夕日を浴びて輝いているかもしれない、そういう分析結果でした」
 「ほう、そうか、なるほど」そう答えながら目の前の料理を召し上がっていた。
 「自衛隊の無人標的機とか練習用ミサイルとか、そういうものがオレンジ色に塗られています」と、編集者が語った言葉に対しても動揺する様子もなく、むしろわかっていたという表情だったことは、編集者と私が同様に感じたことである。
 もしそうであれば、わかっていながらそれを無視したのか、それともそうせざるを得なかったのかわからないが、それ以外のことは明確には意思表示をされなかった。少なくとも当時の運輸大臣としてこの写真を見て、オレンジ色の物体を知っていた様子であったと推定する。
 他に、亡くなった木原さんに機内でもらったおもちゃを渡した当時のお孫さんの話などをしながら、防衛庁長官だった加藤紘一氏や宏池会の話、さらに私がフライトでお会いした政治家の話などをした。それにしても当時の運輸大臣とこうやってテーブルを挟み、あの日の話をすることなど想像していなかった。
 後日、また出版社に電話があったが、「すべてちゃんと読みました。貴女は本当に先輩たちのことをよく書いていますね。教科書にしたいくらいだね」という言葉を聞くとは思ってもいなかった。
 目の前に座っていた山下氏は、普通の人の好いおじいちゃん、という感じであった。
 ただ一つ、確実に言えることは、事故原因は違うのではないだろうかという話に対して、「とんでもない」とか「それは嘘だろう」「これ以上は調べないほうがよい」などというようなリアクションは一切なかったことである。著者が話すことを、さもありなん、という顔で聞いてくださったことはとても不思議であった。
 そこで湧いてきた疑問は、仮に事故原因は別にあるとして、それを山下氏はいつ知ったのだろうか、ということである。何か不穏なものをうすうすは感じていたかもしれないが、例えば運輸省の官僚、自衛隊、米軍、首相などを介するうちに、どこかで事実がゆがめられていたかもしれないという疑念もあっただろう。大臣という地位にあっても、すべてを正確に把握できる環境になかったのかもしれない、そう強く感じたのは、山下氏の別れ際の一言だった。
 「あのね、日本は何でもアメリカの言いなりだからね。遺族が再調査を望むのであれば、ぜひすべきだと思う」
 ここでもアメリカが出てきた。これがどういうことを意味するのかはわからないが、この言葉は山下氏の良心から出た五百二十名へのメッセージだったと確信する。
 ただ、事故原因にかかわらず、すべてを含めての意味かもしれないが、言いなりという言葉がちょっと引っかかった。
 中曽根氏が著書で語った『あの時は官邸から米軍に連絡は取らなかった。しかし、恐らく防衛庁と米軍でやり取りがあったのだろう』という言葉が本当のことだったとするならば、首相という存在を自ら否定していることになる。首相を飛び越えて勝手に防衛庁が米軍とやり取りをしていたのであれば、その結果もたらされた責任の所在はどこにあるのか。立場における責任というものを安易に逃れることばかり考えているとしか思えない。
 このような重大な局面においても、いざとなった時の責任の曖昧さに、上野村村長の黒澤丈夫氏は怒りがこみあげてきたのだろう。そして「これで彼は本当に海軍の軍人だったのだろうか」と、我慢がならなかったのだろう。
 もう一つの疑問は、実際のところ中曽根氏も、どこまで本当のことを知り得たのだろうかということである。首相のところにすべての情報がきていたのだろうか。
 一九八五年八月十四日のジャパンタイムズ紙の記事によると、事故発生の翌日、十三日に中曽根首相と加藤紘一防衛庁長官が、マンズフィールド大使同席のもとで、米軍のクラフ米太平洋軍司令官とティッシュ在日米軍司令官に会い、加藤紘一防衛庁長官からクラフ氏に勲章を渡している。その勲章は「The First Class Order of the Rising Sun」というものであったと記載されている。
 十二日に墜落事故が起きて、今まさに現場で遺体を収容している翌日に勲章を渡すとはどういうことなのだろうか。このようなおめでたい話には緊急性がなく、通常はお互いに配慮をして延期することも可能なはずである。
 アントヌッチ氏の証言によると「墜落上空でいち早く駆けつけた米海兵隊を帰還させて他言無用の指示を出した」在日米軍の最高責任者に、墜落現場にまだ行っていない首相が、何に対して勲章を授けてあげたのだろうか。
 
 3.日撃者たちの証言
 あの日、日航123便の機影を見たという人は実に多い。
 当時の新聞報道にもいくつか列挙して書いてあるが、著者の公式サイトに寄せられた目撃情報の中で信憑性があるものとしては、練馬の高台にある公園での目撃、玉川学園前駅、横浜市こどもの国駅北側付近、西武球場で行われていたチェッカーズのコンサートオープニング時、埼玉県高麗川、相模湾上空、静岡県焼津高草山へ向かう途中、静岡県藤枝市、静岡県焼津付近東名高速道路上、相模原市、横田基地周辺、神奈川県相模原市線区佐野川の上岩付近、山梨県上野原付近、山梨県牧丘付近、群馬県長野原、長野県川上村の高原や野菜畑等々、目撃者の見た飛行機を点と点で結ぶと、本当の飛行ルートが明らかになっていく。
 さらに不可解なことは高度である。高度もそれぞれのチェックポイントの公式発表とは異なる部分も多く、事故調査委員会の発表で二万四千フィートと善かれた地点での目撃情報は実は超低空飛行状態だった。さらに飛行機の窓が目視できるほどの低空だったという証言もある。
 ●ファントム二機と赤い物体の目撃者
 二〇一五年九月、「青山さんに聞いてもらいたい目撃情報がある」ということで突然出版社を訪ねてきてくれた女性がいる。その人は一九八五年八月十二日に目の前を異常なほど低空で飛ぶ日本航空123便を見た、とのことだった。担当編集者が私の代わりに少し話を聞いて職場の名刺と連絡先を受け取り、そのままになってしまっていたが、今回の出版が決まって連絡をすると快く対応してくださり、改めて話を聞く機会を得た。
 現在は東京にて福祉関係の仕事をしていらっしゃる小林美保子さんは、一九八五年当時二十二歳で、実家から静岡県藤枝市にある運輸関係の会社まで車で通勤していた。八月十二日のあの日は、お盆前で仕事が忙しく、いつも十七時半で終わる予定が十八時三十分頃になってしまった。
 タイムカードに打刻をして階段を下りて外に出た瞬間、「キャーン、キャーン」と二度、すさまじい女性の金切り声のような音を聞いた。絶叫マシーンに乗った人の悲鳴のような凄い高音で、驚いて頭上を見上げると目の前を低く右斜めに傾きながら飛行しているジャンボジェット機が見えた。
 ちょうど会社の敷地内で前方に東名高速道路が見える位置だった。自分の背中側から飛んできたジャンボ機は白い塗装に日航のシンボルカラーである赤と紺色の線が入っていた。駿河湾の方向から富士山のある北の方角に向かって、ゆっくりと右旋回しながら飛行しており、はっきりと窓も見えるほど高度が低い状態だった。飛行そのものは安定している感じだった。それにしてもいつもの航空路ではないこの場所で低空飛行のジャンボ機を見るとは思ってもいなかった。
 そしてその時、あることに気付いたのである。
 「それはですね。機体の左下のお腹です。飛行機の後ろの少し上がり気味の部分、おしりの手前くらいでしょうか。貨物室のドアがあるような場所、そこが真っ赤に抜けたように見えたんです。一瞬火事かな、と思ったけど、煙が出ている様子もない。ちょうど垂直尾翼のあたりがグレー色でギザギザのしっぽみたいだったので、それが煙に見えたけど……、煙ならたなびくけど、それは動かなかった。今思うと、千切れたしっぽのギザギザが煙のように見えたんですね」
 真っ赤というと火事かと思いきや、そうではないという。
 「そのお腹の部分、つまり飛行機の左側のお腹の部分、四〜五メートルくらいになるのかなあ。貨物室ドア二枚分ぐらいの長さでしょうか。円筒形で真っ赤。だ円っぽい形でした。濃いオレンジ、赤という色です。夕日を浴びて赤い、という感じでもない。夕日は機体の背を照らしていたので、逆にお腹はうす暗く見えました。円筒形のべったりとした赤色がお腹に貼り付いているイメージ、言葉で伝えるのは難しいけど。絵に描くとこんな感じかなあ」
 次頁に飛行機の模型を使って、絵に描いてもらったものを再現してみる。



(本書より)

 機体に穴が開いているのでもなく、腹部にべっとりと貼り付いているように見える赤色とはなんだろうか。ずっと気になって疑問に思っていたという。
 その機体を見た後、いつもどおりの道を単に乗って帰宅途中、今度は目の前を飛ぶ二機のファントム(F−4El)を見た。時間は先ほどのジャンボジェット機を見て五分くらい過ぎてからだという。田舎なので高い建物はなく、突然視界に入ってきた。浜松の方向、西の位置から飛んできたと思われるファントム二機はジャンボジェットが飛び去った方向に向かい、それを追うようにして、今では新東名(第二東名)高速道路の方向、山の稜線ギリギリの低空飛行で飛び去っていった。時間は十八時三十五分頃である。まだこの時点で日航機は墜落していない。しかも公式発表で十九時五分に出動となっているファントムが、すでに実際に飛んでいたことになる。
 小林さんは子どもの頃から近くにある航空自衛隊第十一飛行教育団静浜基地のこどもの日イベントや航空祭で、よくブルーインパルスなどを見ていたという。航空祭の前日にはいつもいろいろな飛行機が飛んできていたし、ファントムの展示もあったのですぐわかった。ファントム二機は少し斜めぎみに頭をあげた状態で飛んでいった。
 「場所は大洲中学校あたりの道路を西に向かって走行中に見えてきました。ずいぶんと低い高度で北の方向に稜線ギリギリで飛んでいった。日航機の飛び去った方向でした。その後、家に着いたのが十八時五十分より前だったので三十五分頃に見たのは間違いない。きっとニュースで放送されるから見なくっちゃって思いながら帰りました。そして家に着いたらまだ七時のNHKニュースが始まっていなかったので、時間はよく覚えています」
 それではNHKの臨時ニュースで「あ、この飛行機を見た」と思い、びっくりしたでしょうと話すと、
 「いいえ、違う飛行機のことだと思っていました」という。その理由について尋ねると、「だって、私が見たジャンボジェットのほうはすぐにファントム二機が追いかけていったから。大きなトラブルではなかったからニュースにならなかったんだ、と思っていました。それよりも今日はとても大きな事故があったんだと思った」そうである。
 なるほど、ファントム二機がすぐ後を追っていったので助かったと思い込んでいた、ということだった。つまり、さっき自分が見た飛行機はまだ明るいうちにファントムが追尾してくれたので、当然のことながら何が起きたかわかるし、着陸地点もわかるので、報道された行方不明機ではないと思い込んだそうである。その後、いろいろな本や報道で特集されたものを見ているうちに、もしかして自分が見たものは日航123便ではないかと気付いたが、何か見てはいけないものを見たような気がして、恐怖心が出てきたこともあり、記憶から遠ざけていたということであった。
 その後、何年か経って東京で暮らすようになり、「青山さんの本を手に取ってみて、身近な同僚を亡くされたということに、読んでいて同じ気持ちになって……。これはぜひ私が目撃したことを青山さんに聞いて頂きたいと思いました。それに女性だと話がしやすいし、勇気を振り絞って、いつか話に行かなきゃって、思い切って会社に行ったのです」ということだった。
 それにしてもべっとりと貼り付いたように見えた真っ赤な火事のように見えるオレンジ色のものとはなんだろうか……。
 だ円や円筒形のような形で、まるで絆創膏を貼っているように見えたそうだ。そうなると、五分後に追尾していったファントム機の乗務員もその物体をしっかり見たであろう。そしてそれをどのように理解し、どのような報告をし、どのような命令を受けたのだろうか。
 ファントム機が追尾したならば、それによって墜落地点が早急にわかり、すぐに生存者を救出することが可能となろうが、小林さんが子どもの頃から身近に感じて信頼してきた自衛隊のお手柄。という結果にはつながらなかった。
 目撃者にとっては救助をしてくれたと思って安堵した存在であったファントム機が、なぜ公式記録には出てこないのかもいまだに不思議な話である。
 小林さんにとって、何年経ってもあの時の飛行機が発した悲鳴にも近い高音が忘れられないという。
 「キャーン、キャーン」と女性の悲鳴にも似た甲高い音は、おそらく機体の音ではなく、機内の人たちの悲鳴だったのではないだろうかという思いが胸に残る。その時、123便からの「助けてほしい」という心の声を聞いた気がする、そう語っていた。
 心の悲鳴が聞こえた……。機内の人たちはこの声を誰かに聞いてほしかったのだ。
 十八時三十分頃というと遺書を書いた人も多かった時刻である。
 まだあの時点では、飛行にも支障がないように安定して見えたとのことで、着陸を予定して徐々に高度を下げて低空飛行をしていたのだろう。
 その時、垂直尾翼の部分がギザギザに壊れた状態であったことが目視できたということだが、事故調査で発表された静岡県焼津付近の高度は二万四千九百フィート(七千四百七十メートル)である。その高度では、お腹も垂直尾翼も地上からはあまりに遠すぎてクリアに見えない。
 しかし、現実には、他にも東名高速道路や新幹線の駅でも超低空飛行するジャンボ機が目撃されている。一九八五年八月十五日付毎日新聞には、当日、新幹線広島発東京行きひかり252号に乗っていた埼玉県大宮市の主婦S・Tさん(三十七歳)の証言として、 
 「午後六時半ごろにジャンボ機が超低空で山側へ向けて飛んで行った。やや右下がりの飛行であんな場所でジャンボ機を見たのは初めて」という記事がある。
 目撃者たちの見た高度は、群馬の山々の稜線から見て千メートルちょっとの低さであろう。
 小林さんにはっきりと見えた超低空飛行中のジャンボ機、その左腹部にあった赤色の正体は何か。彼女が抱えてきた長年の疑問として、とにかくこれを誰かに解明してほしいというのが切実な願いであった。
 それが「心の悲鳴」を聞いてしまった人としての役割だということで話に来られたのだろう。
 一体何がそこにあったのだろうか……。
 考えられる仮説を第四章で提示したい。
 
 もう一つの疑問、ファントム二機についてであるが、これも墜落前の時刻に自衛隊員によって明確に記述された目撃情報がある。
 群馬県警察本部発行の昭和六十年十月号『上毛警友』という冊子は日航機墜落事故特集号として、警察関係者のみならず救助や捜索に関係した、医師、日赤、報道、地元消防団、ボランティアなどあらゆる部署、現場の人々の手記が掲載されている。表紙は生々しい煙が立つ上野村の墜落現場の写真である。それぞれが経験した「あの日」のことが書いてあり、仕事や役割とはいえ、これほどまでに大変な思いをして任務にあたったのかと本当に頭が下がる思いで読んだ。
 その一二二ページに『日航機大惨事災害派遣に参加して』というタイトルで、自衛隊第十二偵察隊(相馬原)の一等陸曹、M・K氏の手記がある。その出だしを読んだ時、これは確実な目撃情報だと確信した。
 「八月十二日私は、実家に不幸があり吾妻郡東村に帰省していた。午後六時四十分頃、突如として、実家の上空を航空自衛隊のファントム二機が低空飛行していった。その飛行が通常とは違う感じがした。『何か事故でもあったのだろうか』と兄と話をした。午後七時二十分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明を知った。これは出動になると直感し、私は部隊に電話をしたが回線がパンク状態で連絡がつかない」(原文ママ、以下略)
 この後タクシーで向かったが、所属部隊はすでに二十時半に第一陣偵察隊として先遣されていたという。
 自衛隊員がファントム機を見た、ということで見間違いはあり得ない。警察の編集する冊子に、当日自分が経験したままを書いたのであろう。この記述によって、群馬県吾妻郡上空を十八時四十分頃ファントム二機が飛行していたことが明らかになった。そうなるとやはり、小林さんが語ってくれた静岡県藤枝市上空を十八時三十五分頃にファントム二機が通過したという目撃情報と一致する。したがって、明確にしておかなければいけないことは、まだ明るい墜落前に航空自衛隊では日航機を追尾して飛行状況を確認した。さらに墜落するその時までしっかりと見ていた、という事実である。もはや墜落場所が一晩中特定できなかったという言い訳は当然のことながら通用しない。
 問題なのは、なぜ墜落前に飛んでいたファントム二機の存在を隠し続けているのか、ということである。どうしてもそうしなければいけない理由があったとしか考えられず、それがこの事故を事件ではないかと感じた理由である。
 さらに目撃者は続く。墜落現場となった上野村では多くの人たちがあの日の晩、いろいろなものを目撃している。
 特に注目すべきは子どもたちの目である。子どもたちはその小さな目で真実を見たのである。

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